~唐沢依織~天宮香恋についての噂
~唐沢依織~
唐沢依織はパイプ椅子に腰かけていた。煙草を吸おうと鞄から取り出したが、最近この建物内が禁煙になったことを思い出し、ため息を漏らしながらそれをスーツに戻す。
カップ麺が出来上がる間、暇である依織は部屋を見渡していた。
給湯室として使われているこの部屋には所属しているタレントや俳優が出演した番組や映画のポスターが飾られている。依織が懐かしいと思える様なポスターもあったり、まったく見たことのない番組のポスターもある。
そんな時ギシギシうるさい扉が開いた。入ってきた人物に気がついた依織は慌てて立ち上がりその人物に礼をする。
「お疲れ様です、社長」
依織が働いている会社の社長、亀岡明新である。昔は俳優であったこともあり、50代であるが今でも顔は二枚目風で、なにより目力がある。
普段顔を合わせる立場ではない依織はまだ彼に慣れていなかった。
「唐沢さんお疲れ様、座ったままでいいよ」
さっそうと給湯室に現れた彼は、冷蔵庫からペットボトルを取り出して空いている椅子に腰かける。
「社長もそういうの飲むんですね、意外です」
亀岡が取り出したのは、子供がよく飲むような炭酸入りのグレープジュースで、依織を驚かせた。
「煙草辞めると、甘いものが欲しくなるんだよ。体に悪いのは分かっているけど、これが美味しくてやめられないんだよね」
ペットボトルのフタを開けて三分の一程飲むと、彫りの深い顔が少年のような笑顔に変わっていた。
「まあ、私も体に悪そうな物ばっかり食べています」
依織はテーブルに置いてあるカップ麺と、体に対して申し訳程度に気を使ったミニサラダを見つめていた。
「ごめんね、仕事忙しくてコンビニのご飯しか食べさせてあげられなくて……」
しゅんとした社長は依織から見て可愛らしかった。
「別に……この食生活には慣れていますから」
依織はテレビ局での仕事を辞めて、芸人のマネージャーを始めてから一年が過ぎた。スケジュール管理や仕事の段取りも分かるようになり、事務所や担当している芸人からの信頼は厚い。現在夜の9時を過ぎているが、この休憩の後は秋に行われるトークライブの打ち合わせをする予定だ。
「私にも唐沢さんと同じくらいの娘がいてね……心配してしまうんだよ」
社長の左手薬指を注目してみるが指輪ははめられていないためすぐに事情を察した。
娘がいる事や、結婚をしていることは初耳であった。
「社長って結婚もしていて、娘様がいたんですか……知りませんでした」
「まあ、離婚して娘とも疎遠になってしまったけどね」
悲しみを打ち消すかのように笑い始める。
この生活には満足していても、もう少し面白いことがあればと常に期待している依織は、社長と話せるこの機会は貴重だと、頭の中でネタを探していた。
「亀岡社長、ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「もちろん、私に答えられることならなんでも聞いてくれ」
嫌な顔を一切しない社長は、依織の前の空いている席に移動した。
「エビステレビの殿塚プロデューサーってご存じですか? 知っていることがあれば私に教えて欲しいのですが」
天宮香恋が引退するきっかけを作った番組のプロデューサー、それが殿塚真太郎である。
主にバラエティー番組を手掛けているが、ドラマ制作にも関わったり、毎年夏に行われるテレビ局での大型イベントを手掛けたりと幅広いプロデュース業に手をかけているその男は、まさにエビステレビの看板プロデューサーである。
以前、藤丸に天宮香恋引退について依織は話そうとはしなかったが、その発端となった人物が殿塚であること、彼が天宮香恋に対してエビステレビの出入り禁止を事務所に命じたことは彼女の耳にも届いていた。しかし、2人の間になにが起きたのかまでは知らない。
エビステレビの知り合いからは、枕営業の話を香恋に持ち掛けたという根拠のない噂が出回っているという風に聞かされた。
そんな噂を依織は信じてはいないし、藤丸に言えるはずもなかった。
そして数日前、藤丸からおかしなメールが来た。
『彩色マーメイドの番組を手掛けていた殿塚Pについて調べて欲しい』
なぜ、藤丸が殿塚プロデューサーの事を気にしているのか、まさか自分が聞いた噂がネットの掲示板などで藤丸にも伝わり、怒り狂っているのかと思い『まずは落ち着け』と一旦は返したが『大丈夫、本人から直接真相を聞いた。どうしても調べて欲しい』と連絡が来た。
あまりに言葉足らずな説明で依織は困惑した。確かに以前、気になるなら直接聞いてみろと言ったが、本当に聞けたとは流石に信じることができない。しかし、自分も気になっていたことなので、藤丸に詳しく話を聞く前に情報は集めてやろうと思った。
亀岡社長は腕を組みながら、天井を見上げている。依織に返す言葉を探している様であった。
「殿塚さんはエビステレビの顔だよね、あの人がいなければ5年連続視聴率1位の局になっていないだろうし、実際彼の手掛ける番組は面白いからね」
依織はカップ麺のフタをはがし、啜りながら聞いていた。
「すいません、私はだれでも知っている情報じゃなくて、亀岡さんのキャリアを汲んでの意見が聞きたいです」
亀岡は困ったような顔をしながら、髪を撫でおろす。
「そうは言っても私は俳優として飯を食ってきた身であるし、一方彼はバラエティー一本の制作側、だからあまり知らないぞ。でも、来年殿塚さん映画撮るんでしょ、そっちまで手を出すかと驚いたけど、まあ業界の顔の幅はかなり広いから当然凄いものを作ってくるよな」
「そうらしいですね、海外のコンクールで賞をもらった脚本家とタッグを組むってネットニュースに出ていました」
「よく知っているね、じゃあ私の知っていることはこれくらいかな、そもそも唐沢さんはどうしてそんなことが気になるんだ」
話に夢中になって、なかなか箸が進まない依織は苦笑いをしながら答えた。
「私にはいとこがいまして、天宮香恋というアイドルのファンだったんです。彼女は引退したんですけど、その真相をずっといとこは知りたがっていました。私はそのアイドルが引退したのはどうやら殿塚プロデューサーが発端であるというのは聞いたことがあるのですが、そのことを伝えていません。それなのにいとこは殿塚プロデューサーについて、私に聞いてきたんですよ——まったくどこから嗅ぎつけたのか」
「なんだそれ、面白い奴がいるんだな」
亀岡は高らかに笑っていた。藤丸の事を痛快に思い、気になっているようでもあった。
「藤丸って言います。私にはどうしてそんなことをするのかは分かりません。昔から……突っ込み事案なところがあるんですよ。例えば幼い頃、親せきグループの食事会も人見知りなく話したり、駅で眼を離した時、電車を待っている知らないおじさんと当たり前のように話していることもありました」
そんなエピソードがたくさんあったような気がするが、依織はなんとなくその話をした。
「いいじゃないか、気に入った。今度私にその男を見せてくれ」
「見世物じゃないですけど、でも藤丸はいずれやってくる気がします」
大学に入ってからはあまり遊んでいないことに気がつく。先月電話では遊びにきてよと社交辞令のように言ってしまったが、社長にそう言われて、親せきの一人を紹介したいと思えた。
「そういえば、さっき唐沢さんが言っていた天宮香恋という少女について私も知っているころがあるんだけど——」
先ほどまで愉快な顔をしていた社長の顔が曇った。
「なにか知っているのですか?」
伸び切ったカップ麺を啜りながらその続きを聞いてみる。
依織は社長から言われた天宮香恋に関する一つの事実を聞くと、芸能界が少し嫌いになった。
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