~都地香恋~アイドルをやめた日
~都地香恋~
鴻巣市には川幅日本一と認定されている場所がある。鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川のある区間が、日本で最も川幅が広いとされている。実際、川幅すべてに水が流れ、河川として活用されているのではなく、そのほとんどが河川敷として市民に利用されている。
香恋と藤丸はその場所の大きな橋が見える河川敷に腰を掛けていた。ちょうど坂になって、芝生が生えているので座り心地は良かった。
香恋の住んでいる家がここから近くて散歩をするときはよくこの川沿いを歩く。そこから見える風景が好きで、犬でも飼って散歩をしてみたいと考えることもあった。
香恋がここまで藤丸を連れて来たのは、そのお礼が言いたくて、代わりにこの好きな景色を見せたかったから。
夏が近くなるにつれて、日が昇っている時間は長くなり、5時半を過ぎても日が落ちそうにない。
「都地さん。これ返すね」
藤丸はリュックから紐を取り出して、香恋に渡した。
「ありがとう……どこにあったのか聞いてもいい?」
「廊下側についている窓の外、その真下に植えてある低木の花壇に落ちていたよ。ずっと窓が開けっ放しだったから教室に落ちていてもそこまで風で飛ばされたんじゃないかな」
藤丸は澄ました顔で大きく背伸びをした。
「私はすっかり探すのを諦めていた。アイドルを諦めたのだから、もうこれは必要ないと思っていたけど、それでもこれは大切な人から貰ったものだから……本当にありがとう」
指先でつるつるした表面の紐を触ると天河かぐやから貰った日を思い出す。
そんな香恋が紐を握りしめているのを藤丸は横眼で見ていた。
「僕が昼休みに言おうとしたことは、紐を探すのも、アイドルをやるのを辞めたっていい。でも、自分からアイドルだった時の思い出とか、ずっと大切にしていたものを投げやりになって、否定して欲しくなかった。僕は天宮香恋がアイドルをやっている姿が今でも大好きだから、まだ忘れられないし、忘れる気はないよ……」
香恋がアイドルだった思い出を否定するということは、自分の夢や憧れを否定すること、それだけではなく、その時応援してくれたファンの気持ちも否定することになる。香恋はやっとその事に気がついた。
自分がまたステージ立ちたいと諦められないように、彼もまたアイドルをやっている香恋が見たい、そして再び見られるための希望がこの紐であると藤丸は感じたのだろうと。
しかし、天宮香恋を見たいという気持ちは諦めてもらうしかない。香恋はステージに立ちたいと思っても、簡単には戻れない理由を藤丸に話しておくべきだと決心した。
「小鴨君聞いて欲しい、私がどうしてアイドルを辞めたのか、そして一緒にもうステージには戻れないと諦めて欲しい」
藤丸は香恋の真剣な表情を見た。
「なんでも受け止めるよ」
頭に思い出したくない記憶が滝のように流れ込んだ香恋は、溺れないように落ち着いて話を始める。
「去年の12月深夜にやっていた例の『彩色マーメイド』の番組で、メンバー全員と不登校の生徒が通うフリースクールというところに訪れて、学校にまた行ってもらえるように背中を押す企画が始動したの。最初は社会貢献ができるみたいで、大義みたいなのを感じてフリースクールに通っている生徒と交流をした。私達は話を聞いていく中で生徒はみんな楽しそうにそのフリースクールでの生活に満足していることに気がついたの。それに学校に行かない、行けない理由も様々だったから、フリースクールという選択もありなんじゃないかって思った」
「難しい企画だね……」
毎週見ていたアイドル番組の裏事情を藤丸は川辺を見ながら呟いた。
「そう……でもね。制作側もその事を分かっていた様な態度で、カメラを構えていた。番組としてはアイドルが一生懸命不登校の人たちを説得して、感銘を受けた生徒は元気に学校に行く感動的な物語を作り出したかった。向こうの事情なんて関係ない、私達の意見なんて関係ない。視覚的にアイドルが元気を与えていることを視聴者に分かってもらえればいい。だから視聴率を取るために、私達を奮い立たせて、生徒側にも演出家が考えた悲しいエピソードを吹き込ませようとしていたの……」
藤丸の顔が引きつっているのが分かった。
香恋自身も当時こういう現場で仕事をするとは思ってもなかった。
そして、本当につらいのはここからである。
「番組都合の事情に不満があったけど、私達は制作側には歯向かえない。だけどとうとう私は我慢できなくなって、メンバーに相談した。先陣を切ってプロデューサーに直接企画の方針を見直して欲しいと意見を言うから、みんなは続いて欲しいと頼んだ。メンバーもそう思っている人は多かったみたいで私の考えに賛同してくれた。だから、勇気を出してプロデューサーに異を唱えた。そしたらね、激怒されちゃった『お前は演者だ、しかも半人前の。番組を作っている者に文句を言うのか、嫌なら出るな』とメンバーの前で私だけが怒られた。それでも安心していたのかな、メンバーが後に続いてくれるって……だけどね——」
香恋は膝に顔を沈めて泣いた。その先を思い出してしまい、膝にぽたぽたと涙が落ちていく。その悲しみは藤丸にも伝わって体を震わせている。
「——見捨てられてしまった……」
藤丸は気付いてしまった、メンバーが約束通り後には続かずに、香恋だけが捨て犬にされたことを。
「その件は事務所の耳に入って、私は『彩色マーメイド』の番組にしばらく出るなと言われた。だけど、番組を作っていたプロデューサーはそれでも怒りが収まらなかったのか、私に対してそのテレビ局の出入りを禁止にする制裁を与えたの。私はもう番組には出られない、これ以上事務所にもメンバーにも迷惑はかけられないと思って引退を決意した」
こうして番組をきっかけに、香恋はメンバーから裏切られ、事務所から見放されて、アイドルになる夢を諦めた。
一番つらかったのはメンバーに裏切られた時だった。いままで一緒に歩んできた仲間と結託して番組に反旗を翻すつもりだったが、結局は私が怒られているのを見たメンバーは誰も続くことはしなかった。
今でもあの時の場面を夢で見る。そのたびに自分はどうすればよかったのかと、後悔するしかなかった。
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