~染川有紗~転校生の香恋さん

~染川有紗~

 有紗はこの鴻巣に引っ越してくる人なんて人生史上あまりない経験で転校生がくることに素直に驚く。

「だから、有紗の後ろに机があるんだよ。気が付かなかった?」


 真由が有紗の机の後ろにある机を指さした。その机は新品なのか、サビやへこみは見つからない。

「あ、なるほどね、綺麗な机で羨ましいな」

 一番後ろだったはずの有紗の席にもう一つ席ができていることは登校した時は気付いていたが、元気のない藤丸を気にするあまり、机が一個増えたことなんて些細な問題であった。

「朝に廊下で、溝口に会ったらね『転校生がくることを休み前に言うのを忘れたから、騒がしくならない程度に、でもクラスの生徒が期待できるようにそれとなく周知しておいて』と私に頼まれたんだよ」

「なるほどね」

 溝口は2年2組の担任をしている先生で、教員になってから3年目のまだまだ新任のため、学校の運営には慣れていない。だから今日までみんなに伝えたのを忘れたのだろう。


「なかなか難しい要望を出すね、男子か女子どっちだろう……」

 何気なく有紗は真由に聞いてみたが、彼女は悪戯にちょっかいを出す。

「そこまでは知らないけど、かっこいい王子様みたいな男子が来てくれるといいね」

「そういう事じゃなくて……」

 有紗は困った顔でしながら、窓際にいる有紗にとっての王子である藤丸をちらりと見つめた。この感情は揺らぐことはないが、少しだけ新たな日常が訪れる予感がすると期待してしまい、口元が緩んだ。

「まあ、結果はすぐわかるでしょ——」

 リストバンドをポーチに戻すと、真由は引き続き転校生が来るという臨時ニュースを教室内に伝え回った。


 朝のチャイムが鳴ると同時に担任の溝口が忙しなく教室に入っていった。

「おはようございます。皆さんもしかしたらご存じかもしれませんが、このクラスに新たな生徒が加わります。手続きの都合で入学が今日になりましたが、皆さん温かく迎えてあげてください」


 溝口先生はいつもより活気に満ち溢れた声で話している。どうやら彼も教師としてこのイベントを楽しんでいる様であった。

「じゃあ早速入ってきて」溝口が廊下の方へ声をかけると、転校生が教室に足を踏み入れた。入口から教壇にあがるところまでクラスの誰もが息を呑んで見つめていた。

 転校生は女の子だった。


 有紗は王子様みたいな人がきて人生を変えられたらどうしようと、少しだけ期待を膨らませていたが美少女が現れて小さな希望は潰えることになった。

「今日からこちらの高校で学ばせてもらうことになりました。皆さんよろしくお願いします」

 その少女は首元がはっきりと見えるくらいの爽やかなボブヘアーで綺麗な黒髪だ。素朴な顔であったが、彼女がかけている赤いフチの眼鏡との相性が良く、清純さと知的さを備ええている印象を有紗は持つ。


 その印象は彼女だけでなくクラス全体に抱かせていただろう。

 実際恥じらいながら笑顔で挨拶をした時、教室の中にいる男子は思わず声を唸らせており、先制攻撃としては十分な破壊力を秘めていた。

 教室にいるクラスメイトは転校生に釘付けになった。そして、有紗はその転校生をじっと見た時、妙な胸騒ぎを覚える。


 どこかで見たことがある気がする——

 なにか彼女を見ていると引っかかるものを感じる有紗は藤丸がどんな表情で、転校生を見ているのかを気になってしまい窓際の方へ顔を向けた。


 藤丸は椅子を後ろに引いていて硬直している。有紗の席からは彼の表情を見ることは出来ないが口をぽかんと開けている横顔は見ることができた。

 藤丸の仰天している表情を見て、有紗の胸が騒ぐ。もう一度転校生の顔を確認するとその胸騒ぎの意味を理解した。

 そして、藤丸があんな表情をしていた理由も転校生の正体も理解した。しかし、簡単には受け入れることが出来なかった。


 いなくなったはずの天敵が有紗の目の前に現れてしまった。その驚きが彼女には悟られてはいけないととっさに落ち着こうとする。

「そうだ都地さん、自己紹介もしてよ。あ、苗字言っちゃった……」

 うっかりした表情で溝口は呟くと、転校生は苦笑いを浮かべる。


「都地香恋と申します」


 黒板に置いてあったチョークを手に取り綺麗な字で名前を書きあげた。

 都地香恋と名乗る転校生はこのあとどうすればよいのか分からず、困ったような顔で一礼をして挨拶を締めくくった。

 そんな彼女の謙虚な振る舞いに、クラスの生徒は優しい拍手を送っていた。ただ、2人藤丸と有紗だけは固まったままであった。

「授業も始まっちゃうから、じゃあこんなところで。都地さんはあそこの空いている席に座って。染川あとはよろしく」

 驚いている中、急に名前を呼ばれた有紗だったが「任せてください——」と溝口先生のお願いを快く受け入れる。


 香恋は先生に言われる通り、中央の一番後ろの席に座ろうと教室を縦断した。彼女は足早であったが、紹介があった有紗の席に近づくと一瞬目を合わせて会釈する。


 引退したアイドルの天宮香恋が転校してきた——

 彼女が引退した今なら小鴨藤丸にアタック出来ると思っていた、今しかないとさえ思っていたが天敵が目の前に現れる。

 有紗はスカートの上からももをつねってみたが悪夢ではなかった。

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