推しのアイドルがいる日常は静かな嵐

~染川有紗~何度でも

 ~染川有紗~

 まっさらな青空が広がる朝、染川有紗と小鴨藤丸はいつものように学校の校門をくぐる。


 ここは埼玉県鴻巣市。

 埼玉県の東部中央に位置する鴻巣市の事を埼玉県人が抱くイメージはただ一つ「免許センターがある所」である。

 埼玉県人が免許を取得する時には必ずそこへ行かなければならない。そして訪れた人は何故こんなところにあるのか考えてはみるが、これは誰も分からない。しかし、免許を取得するために、更新するためにはそこ行かなければならないのである。だから、埼玉県人は皆この市を知っている、お世話になっている。

 そんな鴻巣市であるが、もちろん住んでいる人もたくさんいる。学校もある。鴻巣駅から徒歩15分『鴻巣西高校』それが有紗と藤丸の通う高校である。


「おい染川、もうちょっと髪の毛を暗くしてこいと何度言えばわかる」

 校門を通る生徒に毎朝挨拶をしている学年主任の高本は、有紗に声をかけた。

「おはようございます先生、気をつけまーす」

 反省の色を一切見せない有紗の態度は、どこか清々しささえあった。先生に軽く手を振ると、何事もなかったかのように藤丸と昇降口へと向かって行く。


 高校から有紗のチャームポイントの一つになったオレンジブラウンを束ねたポニーテールの髪は校則には反しているとだれしも思っている。しかし、誰にも表裏のないような笑顔を振りまく彼女の眩しくて、温かみがある性格ゆえに、それを本気で咎めようとする者はいない。

 実際このやり取りも、高校入学からずっと行われているので高本の方も髪の毛を暗くさせる目的はほとんど無く、生徒とコミュニケーションを図るためのモーニングルーティンのようなものであった。


 そんな有紗にも高校に入学してから、いやそれよりもずっと前から行っているモーニングルーティンがある。

 隣にいる小鴨藤丸と学校に行くことである。毎日藤丸の通学路に待ち伏せをして、一緒に学校まで登校する。小学校から続いているこの習慣は今年でなんと6年目に突入した。

 そんなことをしている理由は、藤丸の事が好きであるからだ。


 有紗はある出来事からずっと藤丸に恋をしている。有紗の人生をおとぎ話に例えると藤丸は王子様である。藤丸は外国人でも、貴族でもないが有紗はずっと彼の近くにいるための努力を惜しまない。

 そんな一方的な思いは藤丸にも届いている。中学の頃一度付き合おうと考えてくれた時期もあった。しかし、アイドルの天宮香恋が週刊誌デビューを果たし藤丸を魅了したことにより、有紗の人生を狂わせたのである。香恋は今年の2月に芸能界から引退して、再び有紗にもチャンスが訪れるかと思っていたが、その関係を幼馴染以上に変えることはまだ出来ていない。


 高校2年生の5月になっても藤丸は天宮香恋引退の悲しみ暮れていた。

「ねえ、藤丸、今日の放課後ヒマ?」

 有紗は藤丸に放課後デートを誘おうと、髪を揺らしながら前に出た。

「行かない——」素っ気ない態度でそれだけを言う。有紗がこの後何を言うのか藤丸には分かるような態度であった。


「まだ何も言ってないんだけど——」

 有紗は大きな瞳を細めてムスッとしながら呟いた。

「ゴールデンウィーク前も、その前もずっと有紗は僕に同じことを言っているから分かるよ。でも今の僕は学校に行って、帰るだけで精一杯なの」


 昇降口へ上がると藤丸は無表情なまま自分の上履きがあるところに向かった。2人は同じクラスだが、個人ロッカーや下駄箱が男女で別れているため、有紗は藤丸からそれを聞かされるととぼとぼと自分の下駄箱へと向かった。


 今日はゴールデンウィーク直後の登校日であった。有紗は連休中今度こそ藤丸とデートをしたいと考えていたが、彼にはそんな心の余裕はない。それを何となく分かっていても有紗は諦めることなく藤丸を誘っている。

 有紗は下駄箱を開けてかかとがつぶれた上履きを見つめながらため息をついた。


「藤丸だってずっと前から、そんな事を言っているのに……」

 自分がデートを誘うたびに断られる、だから、そのたびに同じ会話が生まれている。

 上履きを履き終えた有紗は廊下へ出ると、藤丸が先に教室へ向かっているのが見えてため息を吐いた。


 有紗は一人で2階にある2年2組の教室に着く。いつものように自分の席がある教室の中央最後尾に座ろうとするが、今日は何故か有紗の後ろにもう一つ机が用意されていて、不思議な顔でその机の意味を考えようとしたが、窓の外の景色を力のない表情で眺めている藤丸が目に入ると、そちらに気がいってしまった。


 少しでも前に戻って欲しい。少しくらい笑っていて欲しい——

 藤丸は以前まではゲームやテレビの趣味が合う同性の友達に朝から囲まれて賑やかに話していた。

 それに藤丸は何かと頼れる男子だった。体育祭や文化祭の練習や準備にも率先して取り組む生徒で、打ち上げまで参加をしていたため、女子生徒ともそこそこ交流があり、彼なりに高校生活を楽しんでいたと有紗の目にも映っていた。


 しかし、天宮香恋が引退してからは、藤丸はすべてを投げ出した。

 4月に行われたクラスの交流会も参加せずに、クラスからは浮くようになった。そうなってしまうほど彼にとっては天宮香恋の引退は衝撃的で、絶望的な出来事であったと有紗は認識している。


「おはよう、ゴールデンウィーク終わっちゃったね」

 有紗は椅子に腰かけると、彼女と同じクラスの友達である船見真由が有紗の元へ近寄る。

 艶のある長い黒髪がクールさを漂わせているが、彼女の肩にはいつもピンクのポーチがかかっているちょっと変わった女の子である。有紗はその中に裁縫セットが入っているのを見たことがあるが、他に何が入っているのかは分からない。

「本当にあっという間だったね……真由はライブどうだったの?」

 真由がゴールデンウィーク前に東京でとあるバンドのライブに行くと張り切っていたので、有紗はそのことを思い出した。


 すると真由はポーチからゴム製のリストバンドを取り出して有紗に見せた。ライブで演奏したバンドグループの名前が書かれている。

「盛り上がったよ! やっぱりライブは良いよね、渋谷の小さなライブハウスで演奏していたけど、その時間だけは果てしない別の世界にいる気分になれる」

「そうなんだ、生のライブって凄いんだね」

 そう微笑んで有紗は言ったが、実際はそのバンドグループに興味がないので、自分で振ったにもかかわらず話をこれ以上掘り出すのを辞めてしまう。


 ゴールデンウィークの思い出話が早々に終わると真由がはっと思い出したような顔を浮かべた。

「そういえば、今日転校生がうちのクラスにくるって知ってた?」

「え——」有紗は突然のニュースを聞いて素直に驚いた。

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