第4話 - 3
走り始めてわかった。どうやら、かなり疲れている。すぐに自分の呼吸しか聞こえなくなった。足元もかなり滑りやすい。
しかし、どんなことがあっても転ばないような気がした。
あっちゃんの背中、力強さ、何よりも「気持ち」が、前からグイグイ引っ張るのだ。
間に合わなくてもいいと思った。二人とも全力でやってくれている、このことが嬉しい、大きな力になる。
もう逃げたりしない。目の前の背中とどっかにある背中に誓った。
だけじゃいけんだろう。
「あ、あっちゃん、ちょ、ちょっと待ってくれ」
「なんだ、よほどの用がない限り止まれんぞ」
な、な、なんとしても、やっておきたいことなんだけど。
「ジュ、ジュンに、祭りのみ、みんなに、一言、言いたいことが、あ、あるんだけど」
自分の呼吸だけじゃなく、あっちゃんの息遣いもかなり激しい。ちょっと考えて。
「のんびりやってる暇はねんだぞ」
「た、頼む、ひ、ひとこ、一言だけ、言わせて、くれ」
あっちゃんがスマホを手にして。
「ゲコ、そうか、もうすぐか、ちょっと予定変更だ、打ち上げ会場、『あうど村』に寄って、そっからバス通り向かうから、うん、わがままな神さんがよ、おう、頼むぜ」
ただ走るだけなら、あっちゃんにだってゲコにだって負けない、自信はある。
これほど疲れ方が違うのは、この足元のせいだ。雪さえなけりゃ、あっちゃんの背中がこんなに憎らしくみえることだって、なかっただろうに。
「ついたぞ、一言だかんな。ビシッと決めろ」
あっちゃんと店内に入ると、わっと拍手と歓声。
「みんなお疲れさん! 今日はほんとお疲れさん! 理由は後で話すけどよ、俺はこれからハルを送ってかなきゃならん、でよ、時間がねんでアレだけど、ハルが一言、言いたいことがあるってよ。ハル!」
あっちゃんにかわって一歩前に出る。一際大きな歓声。涙が出でそうだ。ありがとう。静まるのを待つなどせん。
負けるかよ! 大きく息を吸い込んだ。
「俺は! 芸人の頂点に立つおとこだぁぁぁぁ!」
うおぉぉぉ! さいこうだぁぁ! 渦巻く熱気、絶叫。ハール! ハール! ハール! ハール!
上がったハルコールに両手を挙げて答えた。確かに、目頭は熱くなっていた。
「いくべ、あっちゃん。またな! みんな、ありがとー!」
大きな拍手に押されるように店から出た。
「また走るぞ。たぶんもうその辺まできてるだろ」
再び走り出した。またまた漫画をぱくってしまったが、主人公と同じように叫べるときがくるなんて、なんとも気持ちよかった。
あのセリフでもよかったかな、あっちのセリフもいつか言ってみたいな。
喉がくっついた。自分の音しか聞こえない。
苦しい体で、空を見上げた。まるであっちゃんの背中に星が映るようだ。
こんなに必死に走っても、天空の星はまるで動かない。全く近づくことはない。
当たり前のことだ。星空を切り取る黒い陰、町を包囲する壁のような山並み。どこにいっても、空は切り取られてしまう。
道路と同じように切り取ってくれたほうがわかりやすい、進みやすいだろう、というのは、勘違いだ。それは、迷路のようなものだ。
山が大きくざっくりと空を切るこの町の人間は、みな、自分達のやるべきことに真っ直ぐ進んでいるんじゃないか。
眩しい。ヘッドライトが近づいてくる。
はやい!
走りを止めた二人の横に、ゲコの車がついた。運転席からゲコが降りてきた。
「いくけ」
ゲコが乗ってきた車は、奇妙だ。
「これ、クラウンか」
しかもけっこう前の。
「んだ、クラウン、九十一年式」
ホワイト、親父たちが乗ってた懐かしい車。ボンネットには楷書体で。
「松風。まつかぜ?」
「松風。まあ、いいから乗れや。聞きてぇことは中で聞けってばよ」
キャッチセールスに引っかかったかのような感覚で後部座席に乗る。ロールゲージの邪魔な後ろに。
あっちゃんがナビシート、時計は、九時二五分。
「余裕だべ。十時には改札抜けてる」
「ほんとかよ」
「スノーでのベストが三十三分。東京行きの最終が十時十二分、それより後では馬越の駅に新幹線は止まらん」
現実感がない。ほんとうに着くのか。
というか、ほんとうに着かせようとしていることが不思議だった。恐怖さえ覚える。
「今日は三十分切ってみせるべ。あんな舞見せられて、こっちまで燃えてくる。神様も乗ってることだし」
ゲコが後ろを見て笑った。その瞬間、背筋が凍った。
神様!
「よし、いくでよ」
「ちょ、ちょっと、荷物、荷物取りに、実家によってくれ」
「荷物なんか後で送ってやるぜ」
「いや。仕事でもなんでも、いつも一緒のリュックだ。ねぇと逆に不安なんだよ」
げん担ぎみたいなもんだ。相方に加えて「アイツ」もないんじゃ、例え間に合ったとしても、力は半分もでない。
「な、わがままな神さんだろ」
「わがままで気のよえぇ神様だ」
「松風」が動き出す。
少し動くと、実家に向かってくれているようだった。
前で二人がなにか話している。本当に疲れていると思った。後部座席のシートに深く体を預けると、ふっと、眠りに落ちていた。
「着いたぜ、ハル。時間がねんだ、なるべく早めにな」
「おう」
五分と寝ていないだろうが、体はすっきりしていた。
玄関へ向かう。足元の雪が鳴る。自分が「帰ってきた」ことを、足音が実感させてくれる。この夜は、なんだか懐かしい。
懐かしがっている暇はない。実家の玄関を開けるこの緊張感、まだ抜けないな。
「ただいま」
「あ、おかえり。どうだった祭りは。うまくできたかい?」
「うん。ていうか、すぐ帰らなくちゃいけなくなった。外であっちゃんとゲコが待ってるんだ。荷物だけ持ってすぐいかんくちゃならん」
二階にいってリュックを持つ。ぐるっと部屋を見回し、忘れ物がないかどうか。
リュックをしみじみと眺めた。体の奥に、熱い火種が上がった。
――やってやる。やるしかねぇぞ。
階段を降りながら、デジャヴ。母親がいることに、なんだかほっとした。
「親父とじいちゃんは?」
祭りの寄り合いにいったよ。まだ帰ってこないだろう。母親の声は聞こえるが、玄関近くに姿は見えなかった。
靴を履くのに少々時間がかかる。
「じゃあ、いくから。またそのうち帰ってくるからさ」
「ちょっと待ちな。ほら、これ持っていきな」
漸く出てきた母親が、ほらと出したのは、アルミホイルにくるまったおにぎり、恐らく三つ。
「お前とお父さんたちの夜食にと思って作っといたんだよ。お父さんとおじいちゃんの分はあるから、これ持っていきな」
「うん」
もらって手に取った。温かい。もう冷たくなっちゃったけどね。母親のそんな言葉が追いかけてきた。しかしそれは、充分に温かかった。
「じゃあ、いかぁ」
「気ぃつけて、またいつでも帰っておいで」
ドアを開けて外に出る。寒さの先に、二人の待つ「松風」が鈍く光っていた、ドアを閉める直前。
「ありがとう」
母親に、ちゃんと聞こえたかな。これでもう本当にこっちに残したものはない。
「いいのか」
「おう。わりぃな。じゃあ、今度こそ、頼む」
松風が、二度三度大きくいななき、ググンと力強く、走り出した。
「なぁ、このエンジンて」
「ああ、いいべ! 水平対向エンジン、ボクサー」
「それってインプレッサの」
「おう。インプレッサ。軽量コンパクトで低重心、縦置き左右対称だから走りのバランスもいい。アンド、シンメトリカルAWDで、トランスミッション、サス、LSD、基本的にはインプのを使っちょうよ。要は、クラウンの皮かぶったインプってことだべ」
言っていることはいまいちわからなかったが、ゲコの運転は思っていたより静かだ。
「しかも市販車のじゃねくて、WRCで使われてたもんを使ってる。まぁ、何年か前の型落ちだけどよ」
「そんなもんどうやって手に入れたんだ」
「ん?」
「ハル、秘密基地おぼえてっか?」
あっちゃんが質問を引き取った。しかし、暢気にこんな話をしていて大丈夫なのか。
「秘密基地……、ああ、あったな、そういやあ」
小学生の頃、町からちょっと離れた森の中に、やたら車の部品が集められた場所があって、そこを「秘密基地」とか言って三人でよく遊んでた。
大人たちからは、あそこにいってはいけないと言われていたが、素直に聞くような子どもじゃない。
「あそこが?」
「某自動車メーカーのゴミ捨て場だったんだ。実際捨ててたのはメーカーの下請けだが。いわゆる不法投棄ってやつだ」
「ほう」
「でさ、そう、こいつひでんだぜ。その会社と取引したんだよ、レース用の部品を流してくれ、不法投棄を黙ってやっからって」
「へぇ。そもそもあの土地、おまえんちと関係あるんだっけ?」
「金は払った」
「あるわけねぇだんべ。で、今言ったエンジンだのサスだの、部品手に入れたらとっとと告発してうやむやにしちまった」
「おい!」
「しかも、そんなもん流してるのがばれたらあんたもヤバイだろとかなんとか言って、書類にしてないから足もつかない」
「人を犯罪者みてぇにいうな」
「立派な犯罪だろ。しかも金も払ってねんだろ」
「金は払った!」
「半分だろ」
「いや、二割」
「ブハッ!」
まさかゲコがそこまでやるヤツだとは思ってなかった。
「まぁ、いいべ、おかげで今みんなの役に立ってんだから。峠に入った。こっから本気でいく、二人とも、つかまってろ!」
松風のエンジンがひときわ唸りを上げる。グン、と体がシートに押さえつけられる。
車は一気に加速し、スピードアップ。そして……。
「え?」
体が、いや、車が横向きになった。前じゃなく、横に滑ってる! ドリフト!
――ちょっと待てよ、ここ雪の峠道だろうが!
「ちょ、ま! ウオォォー!」
GTカーには番組で乗ったことがある。プロのドライバーの助手席でサーキットを回った。
「こえー!」なんて派手に叫んでいたが、確かに未体験に速かったのは速かったが、安心感はあった。
こういう「恐さ」はなかった。死ぬかも知れない、いや、たぶん死ぬ。
限界的に恐怖を感じたときは声も出ない。新しい発見だ。トーク番組では使えないが……。
偶然見えたゲコの横顔が、半笑いになっていた。「チーン」と音がした。なんか、お経が聞こえるような。
お父さんお母さん、先立つ不幸を、お許しください……。
車は無事に峠道を抜けたようだ。今は幾らか平坦な道を走っている。
助手席のあっちゃんとゲコが普通に話をしていた。ちょっと、嫉妬した。嫉妬……。バカか。
「でも、今日は速かったな。気合が入ったか」
「それもあるけどよ、後ろにハルが乗ってて、トラクションもかかるし重量バランスもいいと思ったから、いつもより攻めたんだべ。最高のドライビングだったずら」
途中の記憶ははっきりしない。「ずら」じゃねぇよ。
後部座席に乗ってたおかげで運転しやすかったということだが、だからといってもう二度と乗りたくはない。
「今、何時だ」
「十時ちょうど。まあ、あと五分もしねぇでつくだべ。心配すんな」
確かに心配している。しかしゲコの口から「心配」などと聞くと、なんだか別の言葉に聞こえる。かえって心配が募る。一旦置落ち着く意味でも、煙草を吸いたくなった。
「ゲコ、煙草吸っていい?」
言いながらリュックの中を漁る。
「ちょっと待て」
「ん? 禁煙か?」
「いや」
ゲコがカーステレオの音量を大きくした。車内に流れる音声。なんだこれ? ラジオ?
「警察無線」
「警察無線!」
スピードメーターを覗くと。七十キロ。
「おい、そんなに出さなくてもいいんじゃねぇか」
「煙草は待ってくれ。見つかったみてぇだ」
「おい!」
「大丈夫、駅はすぐそこだべ。降りたらすぐ駅に飛び込め。最後まで見送ることできねぇけんど、がんばれや」
「がんばれよ、ハル」
返事のしようがなかった。
その言葉通り、駅には二、三分で着いていてしまった。こんな別れかたって……。
「いけ、ハル!」
「お、おう。ありがと。じゃな」
車を降りてドアを閉めると、車はまた慌しく走り出した。最後に見た二人、笑ってたな。確かにパトカーのサイレンが聞こえる。
あいつら、大丈夫かな。心配しても始まらない。
――俺は俺のやるべきことをやれ!
最後、もうひとっ走り。切符を買って、階段を駆け上がり、「上り」のホームに立つ。
十時八分。新幹線は、十時十二分。本当に、間に合った。
自販機でホットコーヒー。椅子に座って一服つけると、漸く落ち着いた。
シャツが汗でべったり、肌にくっついて気持ち悪い。
背もたれに体重をかけると、そこでまた体の電池が切れかけた。
朝東京を出て、夜の十時には東京行きの新幹線をホームで待つ。なんて、思ってもみなかった。
――なんだか夢のような一日だった……。
あるいはドラマか映画でも見たよう。
しかし、体に残る疲労感、「今日」という現実の証として、勲章として東京に持ち帰るものは、これだけ。
いや、あと、ポケットの中にも。ムニュムニュ。あっちゃんからもらった、さきんこからだという小さなぬいぐるみ。
三回四回感触を楽しんで、ポケットではなく、リュックに入れた。あ、そうか、これもか。
閑散としたホームにけたたましいジングル。新幹線が入ってくる。夢の終わりを告げる、目覚まし時計のアナウンス。
現実へと戻る新幹線が、入ってくる。目の前を新幹線が流れていく。徐々にスピードを落とし、ゆっくり止まる。
新幹線は、混んでいた。東京行き各駅停車の最終なら、さもありなん。これを見越していたわけではないが、席は指定席を買っておいた。
それが奏功した。かなり疲れてもいた。
窓際の席に座る。ほどなく車内にアナウンスが流れる。ゆっくりゆっくり、動き出した。
この新幹線が、過去から未来へと運んでいく。あるいは、夢から現実へ……。
これ以上、「夢」に逃げるな!
「夢」すなわち「過去」と、向き合えよ。
――いや、もしかしたら、峠で事故って、ここが昏睡状態の中か……。
あいつらがどう思ってたかはわからない。どれほど自信があったのかしれない。しかし、危険であることにかわりはなかろう。
窓の外をじっと見ていた。窓ガラスに映る自分の顔、その向こうの闇。
祭りの舞台で踊ることが目的であり、それを果たした今、充足感と達成感で心が満たされていてもおかしくない。
しかし、心はひどく軽かった。金メダリストやチャンピオンが言うように、実感が湧いてくるのはもう少し後なのか。
それとも本当に、それは大したことではないのかもしれない。
もし、踊れていなかったら……。
あっちゃんが言っていた、「これでよかったのか」と。
ジュンは、いいやつだった。ほとんど話しもしてないけど、爽やかで男気のあるいい男だ。
あいつから夢を奪った。
――東京で舞台に立つことから逃げた俺が、故郷では舞台に上がることが当然であると考えていた。
俺しかいない、なんて思っていた。
最上級の愚か者だ。お~ろ~か~ものよ、お前の流した涙を受けよお。
マッチになってる場合じゃない。はっきりと「後悔」の二文字が心に浮かんだ。
そう、ならば、自分を納得させる答えはこれしかない。
――東京で、舞台に立つこと。当たり前のように主役をはってみせろ!
俺しかいねぇだろ!
て感じで、威風堂々、ジャイアンよろしく、
――おまえのだろうが俺のだろうが、全部、俺のもんだ!
自分にも故郷にも文句を言わせないようにするには、これしかない。
二人には感謝してもしきれない。この新幹線に乗っていなかったら、きっとこの「答え」は得られなかった。
あいつら、無事逃げたかな……。
峠の山道、静かに滑る車があった。
「おぉぉぉぉ!」
「おいおいおいおいおい!」
ドン。車は助手席側の頭から雪の壁にぶつかって、止まった。
「あたたた。あっちゃん、無事か」
「いててて、なんとかな。おまえも大丈夫か」
「うん、平気みてぇだ」
運転席から一人出てきて、その後からもう一人出てきた。
「あっちゃー、やっちまってぃ」
「ダメか?」
ゲコが車の周りを見ながら。
「どうだべ。怪我は大したことなさそうだから、動くのは動くと思うけど、左の前足が、ひょっとしたら吹き溜まりに入っちまったかもしんね。人間二人じゃ、ちょっと無理だべ」
あっちゃんが、やれやれ、と首を左右に振った。
「星がきれいだな。久しぶりに見た気がすらぁ」
これほどの星空はなかなか見れない。曇りが多いということもあるが、それよりもこの季節、夜外に出ることは稀だった。
冬の夜は早い。外に出るときは、酒を飲むときだ。星空は、酒の肴にはならないから。
「どうすんだ、これから」
「歩くしかねぇべな。朝までには着くべ」
二人の男は、雪道をとぼとぼと歩き始めた。
「しっかし、夢みてぇな一日だったな」
「だべな」
「祭りだけで手一杯だったのに、ハルが突然現れて、御雪舞踊って、最後に三人で車ん乗ってよ。なんか、現実味がねぇぜ」
「この寒さは夢じゃねぇべな」
「だからよ、夢から醒めたみてぇでよ。なんか、切ねぇ」
「仕方ね、夢は醒めるもんだ」
夢は醒める。その言葉が、残酷なほど身に沁みる。
夜の峠道に、二人の足音が響く。山が鼾をかいている。暫しの沈黙に、各々の夢を思う。
「ゲコ、おまえさぁ……、やっぱいいや、なんでもね」
「なんだべ。気色わりぃ。すまんけど、あっちゃん、俺にそっちの気はねぇべ。いくら彼女いねぇからって」
「んなんじゃねぇって! なんだろう、なんつうか」
夢。自分の夢が一つ叶った。
叶ったのか、醒めたのか。
この寒さが、むしろ暖かいほどに、寒々しくて。事実、だいぶ体は温まってはきたが。
「なんつうか……、ハル、今どこら辺かな」
「あっちゃん、おらにはわかってる。さきんこのこと考えてたんだべ」
「は?」
言われるまで全く意識していなかった。
しかし、言われてみれば確かに聞こえる空耳……、じゃない、確かにそれは近くにあって、そう、いつでも……。
「こんどいい子紹介してやっから。三十すぎて童貞はねぇべ、いっくらなんだって」
「童貞じゃねっつってんだろうが! 二十二の時に捨てたって! しつこいぞ!」
「相手は二倍も年上の、おめぇんちにパートにきてたおばちゃんだべや。酒飲まされて、目が覚めたら裸で寝てたって」
「ちゃんと記憶はある」
「それが唯一の体験て、胸張って言えんのけ? 入れてから一分ももたずにいっちまったって、それでいいんけ? おばちゃんの熟れたので一分もたなかったなんて」
「お、おまえな! そんなこと、い、言い触らしてんじゃねぇだろうな」
「今度、昔の彼女紹介してやっから」
「誰だよ」
「高校の同級生の好美ちゃん」
「あの巨乳……、いや、お前、あの子と付き合ってたのか!」
「高校ニ年のときな」
何度、何度彼女をおかずにしたことか。いったいどれほど、エロ本と彼女の顔写真をコラージュしたことか……。
「おめぇってやつは……」
拳が震えた。怒りとは言うまい。自分の青春を汚された、口惜しさ……。鬼め!
「やめとくけ?」
「いや……、お願いします」
再び訪れた沈黙に、男達はなにを思う。雪の峠に、優しく抱かれて。
二人は静かに、空を見上げた。帰るべき場所は、まだ遠い。
オーディションが行われるテレビ局の前に立つと、緊張で足が震えるようだった。
都会の雑踏に、溶けて消えてしまいそう。局に入ってすぐのところにマツケンがいるのを見て、逃げ出したくなった。
マイナスの思考に反発するように、足が前に出ていた。
「マネージャー、おはよう」
一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。むしろ普段よりも落ち着いた足取りで近づいてきた。
「おはようハルちゃん。ゆっくり寝れた?」
昨日の夜、アパートに戻ってきてすぐマツケンに電話した。会話らしい会話はなかったが、これほど内容のある電話は、きっと人生で初めてだったろう。
北村と、ちゃんと話ができているのかいないのか、わからない。しかし、いずれにしても前向きな方向ではないんだろう。
笑顔は普段通り。その心中は、一お笑い芸人には量り得ない。
「マネージャー、任しといてよ」
ぐっと親指を立ててみせた。空元気以外の何ものでもない。
しかし、さっきの震えが、今は武者震いに変わっていた。
マツケンの口が開いた。なにかを言うのだと思った。
しかし、なにも言わず、口を結んで、親指を立てて見せた。
――マツケン、人が好すぎるぜ。
マツケンをそうさせたのは、「自分たち」だ。
しかし、その「責任」を持ち込んだら、ここにきたのは単なる「記念」になってしまう。そんなものを背負っていたら、舞など踊れはしない。
楽屋は大部屋。一人でじっと座っている「はるまげどん」に声をかけてくる芸人は、幸いにもいなかった。
舞台に立てば所詮は一人。
しかし、そこにいくまでに多くの人たちの助けがいる。
「偶然」という「必然」の重なりが、一人の人間を「そこ」まで運んでくる。
それが「運命」の「運」。「命」は自分、己の意志。二つが合わさって、自分は漸く自分の「舞台」に立ち、舞うことができるのだ。
――おにぎりだ。
昨日の夜、マツケンに電話した後、おにぎりを食べた。一口、口に入れた瞬間、思いが迸った。
大きなおにぎりに包まれたシャケフレーク、そこに母親がいて、父親がいて、あっちゃん、ゲコ、故郷の顔がたくさん、さきんこ、まさおと家族、ささみち、晴彦、早苗ちゃん、あるさんに、えるさんに、見たことないえるさんの奥さんに、それに……。
涙が溢れた。おにぎりが喉を通らないほどしゃくりあげ、嗚咽を漏らして泣いた。
「ありがとう、ありがとう、ございます」
お笑い芸人が、おかしくて、泣きながら、笑っていた。
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