第4話 - 2

 辺りがすっかり闇に包まれ、舞殿の前の大松明に火が灯る。出囃子が鳴り響き、いよいよ、夜の祭りが始まる。

「おう! おかえり!」

 全身から白い湯気を発散する姿に、みなの顔も充実する。みなの声、表情が力になる。力を蓄えろ。逃がすな。

「ハル、お疲れ。体を拭いて着替えるぜ」

 あっちゃんがタオルを手渡してくれた。それで体をきれいに拭き、千早緋袴に着替える。このごわごわ感が、「これまで」と「これから」を切り替える。

「準備はいいか」

「ああ」

「よし」

 拝殿を出て、両脇を幔幕で仕切られた通路を通って舞殿へと向かう。先導するあっちゃんの後に、黙ってついていく。

 囃子が鳴っている。今は三人舞の太平楽だ。囃子の音を聞き、雰囲気を感じながら、あっちゃんに続いて舞殿の控えの間に入った。

「出るときに俺が声をかける。それまではここで待っててくれ」

 言いながら、あっちゃんがお面を手渡した。

「寒くねぇか?」

「うん。あっちゃん」

「ん?」

「これって、あんときと同じもんか?」

「ああ。ほこりまみれだったぜ。一応洗ったけどな。小五の自分と間接キスだ」

 あのときの自分は、まさか十八年後の自分と間接キスするなんて、考えてもいなかっただろう。「奇跡」という言葉が浮かんだ。すぐに否定した。

 ――これは、あっちゃんを始めとするみんなの努力の結果だ。そして俺も……。

 人々の意志だ。みんなの意志が、すぐ先、その舞台の上で一点集中する、しようとしている。

「よし」

 ポンと腕を軽く叩いて、あっちゃんは控えの間を舞台の方に出ていった。

 お囃子が近い。甲高い横笛の音に、背筋が伸びた。目を閉じる。舞殿の前に焚かれた二本の大松明が、舞台を黒く照らす。

 ――あのときもここでこうやって待っていた。

 呼吸を整え、静かに腰を下して床に正座した。敷物は敷いてあるが、板の冷たさは脛に伝わってくる。まぶたの裏の闇に、やがて白く光が生また。

 ――雪、雪が降ってる……。

 かさかさ、かさかさ。

 耳元か、それとも足の下からか。聞こえる、伝わる。拝殿に、もう一人。

 十八年前は雪だった。今ここに、十八年前の雪が降る。小学校五年生の、祭り始まって以来の出来事、神童と言われた……。

 小学生の小さな体。今より二周り小さい体で、なんとも寂しげで。

 しかし、実際にそんなことはなかった。孤独や不安など全くなかった。

 お面を手に持っていたか、既につけていたか、定かではないが、あのときは「無心」だった。近くにいる「俺」を、感じる隙間はなかっただろう。

 ――歳をとったな。

 静かに目を開けた。お囃子が鳴り止んでいる。太平楽の三人が捌けてきた。

「いくぞ」

 あっちゃんが囁くように声をかけた。あのときは誰だった、左官のシンさんだっけか。脇に置いてあった利剣と縛り縄を手にして返事もせずに立ち上がった。

 足裏の冷たさ、心地よし。鼻から静かに吐き出し、全部出したところで面を被った。

 小さな穴からのぞく視界の狭さ。なるほど、ちょっとかび臭い。次は誰が被るのか、そんなことを考えた。

 雑念を、もう一度口から吐き出す。右手に剣、左手に縄。舞台袖、そこは闇の中。そう、この「闇」だ。

「さぁ、いこうか」

 はっきり呼びかけた。声にはなっていないだろう。なんせ口は開かないのだから。

 舞台の上手から、滑るように登場。中央に立つ。拍手も歓声もなく、静寂。微かなざわめきは、風の音、雪の音に似たり。間合いがつまった。

 時間いっぱい、待ったなし。

 出だしはすんなり入れた。昼間の神憑り感はなかったが、体は音に合わせてスムーズに流れた。

 気持ちはよかった。高まりすぎず、落ち着きすぎず。恐らく、面の下で笑っていただろう。

 狭い視界、流れる観客の中に何かを見つけた。光を放つモノ。あれは。

 ――観音様!

 どっと、脳裡に膨れ上がる記憶の束。音を外した。

 違和感。まずい!

 この場に「神」はいなくとも、奏者とはリンクしている。「まずい」という言葉が瞼の裏を流れた、瞬間。

 体が入れ替わった。そうとしか言い表せない。

 ――ハル。お前……。

 小学生のハルが、舞台の上で舞っていた。

 視界が流れる。同時に、その様を外から見ている。

 ハルが舞っている。体の小さな小五のハルが舞っている。

 間違いない! ならば!

 ――俺も、一緒に。


 泣いている――。

 あっちゃんは「ハル」が泣いていると思った。面の下で涙が流れていると。ともに舞台にいる奏者たちも感じていたかもしれない。


 控えめな拍手だった。観客の不満足をあらわす「控えめ」ではもちろんない。

 舞っているものが「神」であるなら、拍手を送ることは妥当ではない……。彼らの目にこそ、神が映っていたかもしれない。

 舞台の上、入ってきたときと全く同じリズムで「神」は捌けていった。舞台袖の闇を潜った瞬間、笑みを交わした。

 ――サンキュー、ハル。

 そこで別れるわけじゃない。普段は姿見せないけど、あいつはいつでも近くにいる。

 面を外すと、真っ先に見たのはあっちゃんだった。おいおい、また泣いてんのかい。目の前で、迎えてくれたなり抱きついてきた。

「おかえり」

「たでぇま」

 ぐっと体を絞られた。

「ありがとう、ほんとありがとう、ハル」

「おう」

 汗だくだったので、抱き返すことはしなかった。「俺じゃない」と、思わず言いそうになった。

 無事帰ってこれたのは、自分の力ではなかった。

 ――小五でも、ハルはハルか。

 こちらから礼は言わない。「神」は傲岸だ。面を差し出したのは自然だった。あっちゃんもそれを受け取った。

「八十点かな」

「次は百点目指せよ」

「芸に百点はねんだよ」

 最後に笑みを交わしてすれ違い、舞殿を出た。子供たちの歓声が背中を襲う。昼間、お練のときに子ども達が集めたお菓子を、舞台の上からまいているのだろう。

 少し休憩を挟んで、もうじき祭りは終わる。

 拝殿に戻って着替えると。

「ちょっと、休んでくる」

 と言って、また拝殿を出て、幕を潜って社務所に向かった。

 社務所は祭り関係者の詰め所になっている。今は誰もいない。畳の一室に入り、仰向けに横になった。

 部屋の隅でストーブががんがん灯油を燃やし、その上で薬缶が口から湯気を吐いていた。

 上手くいったろうか。

 あっちゃんやゲコ、みんな喜んでくれたかな。お客さんも、楽しんでくれただろうか。見にきてよかったと、思ってくれただろうか。

 自分の存在意義を、証明できたろうか……。

 ――さきんこも、喜んでくれたかな……。

 そうか、あの光は、観音様じゃなくてさきんこだったか……。

 十年以上会ってないさきんこの名前が突然出てきたことに、なぜか驚きはなく、それよりも嬉しかった。

 目に腕を当てて、仰向けに、閉じた両目から涙が流れた。

 今、この日この夜この瞬間、この場にいれたことに感謝。

「ここにいる」ことが目的だったわけではない。

 しかし、ここが「目的地」だった。なぜならここは「原点」だから。

 二人の親友の顔があった。忘れたもの、捨てたもの、己の利のために消したのに、みんな暖かく迎えてくれた。そんな故郷を持つ自分が幸せだった。

 先輩芸人の死、相方の失踪、将来がかかったオーディション……。諸々投げ出してここにきた。

 より強くなるための選択と、自分に言い聞かせてはいたが、東京にいたくなかったのは事実。未来を消して身を賭すことは、さして難しいとは思われない。

 そう、逃げてきた。

 ――帰らなきゃ!

「逃げてきた」ことを認めたことで、引きずり出された顔がある。

 横顔があり、あるいは背中があった。帰らなければ。

 人々の歓声が上がっている。祭りの最後を飾るのは獅子舞だ。

 獅子舞は舞台の上ではなく、舞台の下で、観客の輪の中で踊る。舞台の上に意識を集めていた観客の間に、割り込むように入ってくる。

 集まった人たちの真ん中に動けるスペースを作ることは、なかなかの技術だ。人々の中に入ってこそ、獅子の口は災厄を払える。

 突然身近に現れた獅子に驚き逃げる叫びが上がり、笑い声が上がり、オーと低く歓声が上がり、拍手が沸いた。

 そして、外が静かになる。再び沸き起こる拍手。禰宜さんが祭りの終わりを宣言したのだろう。喧騒が移動を始める。見物の人たちが三々五々神社を後にした。


 見物人がいなくなったその神社の庭で、祭りの運営に携わった青年団を中心とする男たちが、祭りの片付けを始めていた。

 大きな笑い声、話し声が聞こえてくる。どの声にも、喜びと充実感、達成感が溢れていた。

 ――終わったか……。

 煤けた天井がやけに黒い。今になって胸がドキドキしてきた。よくやったと、自分で自分を褒めてもいいんじゃないか、なあ、ハル。

「お疲れさん!」

「お疲れちゃん!」

 あっちゃんとゲコがきてくれた。弾けるような声だ。

「大丈夫か」

「ああ」

 慌てて目をこすって上半身を起こし座り直した。二人の顔を交互に見て。

 ありがとう。

 音にはできなかった。

「ふー」とか言いながら背中を曲げて頭を下げ、すぐに上体を起こして、「あぁー」と両手を頭の上に伸ばして背伸びをした。再び向かい合うのを待って。

「ありがとう、ハル」

「ありがと、ハルオ」

 ゲコ、おまえずりぃぞ。お礼を言いたいのはこっちだっつうのに。素直に言えないのは、なぜだろう。

 立ち上がり、もう一度腰を伸ばす。目をこすって、向かい合った。

「いくか」

 社務所から寒い寒い外に出て、賑やかな声のするほうに、三人で歩いていった。


 時刻は九時に近い。祭りは成功に終わったと言っていいだろう。打ち上げ会場である町の居酒屋までの道程を、三人、とぼとぼと歩いていた。

 満天の星空には天の川が見える。数日前の東京の夜空を思い出した。

 この星空の素晴らしさは、東京と比べて際立っている。

 そういうことがわかるという点で、一度は東京に出てみることも大事な経験であるかもしれない。

 寒さも疲れも気にならなかった。

 こうして三人でいること、昔のように三人で一緒に肩を並べて、昔のように話をするということが、ただ純粋に楽しかった。

 三人の笑い声が降り積もる雪の間に響きあった。いつ以来だろう。

「あ、そうだ、これ」

 あっちゃんが差し出したものを掌で受け取った。小さなぬいぐるみのキーホルダー。

 握ると、柔らかくて弾力があって、気持ちいい。

「さきんこが、お前に渡してくれって。なんとかグマとか言ってたかな」

「へぇ、そうなんだ。気持ちいいなこれ」

「知ってたのか、きてたこと」

 誤魔化すとこだったことに、そこで気が付いた。

「実は、ちらっと見たんだ。目立ってかわいい子がいたからさ」

 正直に話す。

「さすが変態だべ。舞いながらそんなこと考えてたとは。せっかくちょっとだけ感動したんにな」

 これだ。「光っていた」なんて言ったら、何言われていたか。

「さきんこ、帰省してんのか。確か大阪だろ」

「帰省っつうかな。なんか、あの子もいろいろ大変みたいだぜ」

 大変の意味はわからなかったが、それ以上深く聞ける雰囲気ではないようだ。

 ゲコもだんまり。こいつは、空気を読むのが抜群にうまい。

「ところでさ、いつ帰るんだ」

「ん?」

 すぐに言葉が出てこなかった。

「今日は冴えてる。やっぱり、なんかあったんだな。いっくらなんだって急すぎだ」

 いつ帰るか、その質問には直接答えず。

「実は、逃げてきたんさ。正月っからよ、先輩芸人が自殺しちまうし、チョー大事なオーティション前に相方はいなくなっちまうし。もうどうしたらいいかわからなくて、逃げてきたんだ」

 ザクザクと足元が鳴る。でこぼこの氷道、さっきから何度こけそうになったかわからない。

 帰るつもりはある。いや、必ず帰る。

 だが、いつ帰るか、はっきり決めてはこなかった。まだ決めかねている。そこまでは口にできない。

「オーディションてのは、いつなんだ?」

「え?」

「その大事なオーディションてのは、いつなんだ?」

「オーディションは」

 明日だとは、言えない。

「正直、今日のことは感謝してる。感謝してもしきれねぇ。お前がいなかったら、すんなり打ち上げなんてやれなかったかもしれん。実際、お前の顔を見た瞬間、助かった、と思っちまった、不覚にも。ほんとに神様みたいに見えた」

「俺は、そんなんじゃ」

「ハル」

「ん?」

「なめてなめてんじゃねぇぞ。てめぇの仕事投げ出しといて地元で神様面か、冗談じゃねぇ」

「いや……」

 別になめてるわけじゃない。そんなつもりはさらさらない、ただ……。

「俺だっていっぱいいっぱいなんだよ。どうしていいかわからねんだって。そういうときはさ」

「うるっせぇよ! まず俺の質問にちゃんと答えろ。いつだ?」

 言ったからどうなる?

 今さらなにができるってんだ。言わないほうがいい、みんなのために、いや、自分のために……。

「明日、明日だよ」

「みろ、やっぱり今日の俺は冴えてるぜ。明日の午後か、午前か」

「午前。だからってよ、もう」

「どうすんだ?」

「え?」

「どうすんだよ、そのオーディション。このまま逃げんのか、ここに隠れたまま、やり過ごすんか」

「いつまでもここにいるつもりなんざねぇよ。だけど、まだわかんねんだって」

 わからない。いつ帰るのか。なんでここまで、親友に責められなきゃならないのか。

「おめぇさ、そっから逃げて、またそこまで戻れると思ってんのか? 辛くなったらこっち帰ってきて、神様面でちやほやされて、そんなんでまた東京で頑張れんのかよ」

 あっちゃんの言ってることはわかる、だけど、受け入れて欲しい、そういうときだって、あるだろう。

「まだ答えられんてか。このふにゃちん野郎が」

 足元を激しく鳴らして、あっちゃんがこっちに向き直り、胸倉をつかんだ。

「歯を食いしばれ。そんな大人、修正してやる!」

 あっちゃんの握り拳、目を、つむるな!

「ぐっ!」

 鈍い音とともに、振り上げられた拳は、力の限りボディにめり込んでいた。

「てめぇ、腹かよ……」

「芸能人だからな、顔はやめてやったぜ。あー、すっきりした」

 本気で苦しかった。崩れ落ちそうになったのをさり気なく支えてくれた。ゲコ、うめぇやつだ。

「すっきりした」と言ったが、あっちゃんが実際どれほどすっきりしているかくらいは、わかるつもりだ。静かなトーンで話し始めた。

「お前がくるまで、もともと面を被る予定だったジュン、憶えてっか? 二つ下の野球部だ。祭りを復活させるってなったとき、御雪舞に真っ先に手上げたのがあいつだった。こっちが聞きもしねぇのに、嬉しそうに言いやがったぜ、十八年前、お前の舞を見てめちゃめちゃ感動したって。俺もあんな風に舞ってみたいって」

 ……。

「嫌な言い方をすれば、お前はジュンの夢を一つ奪ったんだ」

 まだ腹に力が入らない。こいつ、マジで本気だったな。

 わかってるさ、俺は、奪い取りにきたんだ。恨まれんのは、はなから覚悟の上よ。

「筋は悪くなかった。あいつがやってても無難にこなしてただろ。でも、お前はあっさり超えちまった。お前が十八年前、ガンダムの面被って、そりゃ身沁みてやってたのを俺は知ってる。だから、俺は別に驚きゃしねぇ。だけどよ、ジュンはショックだったろうぜ。一ヶ月前から稽古してきて、周りにもやっと認められて、自信だってあったろう。それを、十八年間なにもしてなかったやつに、いきなり、あっさり超えられちまったんだからな」

 漸く痛みが引いてきた。やっとこ背中を伸ばすことができる。前屈みというのは、話を聞きづらい。しかし……。

「時間が経てば経つほど、これでよかったのか、て思ってくる。成功だったと言えるのかって。いや、こっちの自己満足なんか、きてくれた人には関係ねぇさ、盛り上がり方見りゃ、間違いなく成功だった。だけど、なんか、すっきりしねんだよな」

 一人で立てるまでに回復した。しかし、ゲコの肩を外そうとはしない。苦しそうに顔を歪める。見えるかどうか、どんなアピールになるかはわからないけど。

「誰もお前の悪口言うやつなんかいねぇだろう。お前がこのままいなくなって、お前の陰口たたくやつなんか、たぶんここには、少なくとも祭りにかかわった人間には、いない。うん、なにが言いてぇのか、自分でもわかんなくなってきちまったけどよ、なんだ」

 いや、わかってる、あっちゃんが言わんとしていること、伝わっている。

 要するに、中途半端じゃ困るってことだろう、仕事の片手間で、気分転換でやられたんじゃ、ジュンだって立つ瀬がねぇよ。

 結局やらなきゃいけねぇってことさ。そう、それだけだ。

 こっちでやったからには、東京でできないなんて、許されない。

 確かになめていた。それは「祭り」ではなく、「芸人」のほうを、なめていた。

 芸人として強くなるための「力」なんか、こっちにだって落ちちゃいない。

 じゃなくて、人間として、ほんのちょっとでも強くなった。練習と本番と、奇跡のような舞を二度、踊った。

 自信にもなったし、懐が大きくなったような気がする。芸人として、ちょこっとだけど階段を上った。それを、向こうで証明してみせる!

「そう、お前ならわかんじゃねぇか、ジュンの気持ち、一番わかるの、ハル、お前なんじゃねぇのか」

 ――!

 衝撃だった。先のボディブローより何倍も大きな衝撃。

 そうだ、その通りだ。だからジュン本人から目を逸らしていた。ジュンの存在を、ずっと考えないようにしていた。

 かわいそうだからじゃない、哀れんだからでもない。

 恐かったから。それまで積み上げたものをあっさり否定される。笑顔で場所を譲ってしまう。惨めな自分を笑ってごまかす。

 自分で自分を笑いものにすることによって、それ以上低く見られないように。

 いつだ? それはいつの自分だ?

 いつの「ハル」だ?

 ジュンは、そんなにひねくれた人間じゃないだろう。恨んだりすることはないんじゃないか。今回のことにめげることなく、むしろより強いチャレンジ精神が芽生えるかもしれない。

 もしトラウマになってしまったなら、手を上げなければいい。避けて通ったって、なんの問題もない。舞なんか踊らなくたっていい。胸張って仕事を続ければ。

 ――俺はそうじゃない。

 漸くここまできた。十年以上かかって、やっと「舞台」の中心で踊るチャンスを手にしかけている。

 棚から落ちてきたわけじゃない。必至に頑張って、自分の腕でつかみかけてるんだ。

 なにを考えてたんだ。絶対にひけない!

 当たり前じゃないか!

 奇しくもあっちゃんが言った通りだ、ここで引いたら、二度と戻ってはこれないんだ! 

 また腹が痛くなった。膝の力が抜ける。

 持ちこたえたが、ゲコはちょっと大変になっただろう。

 答えは決まった。その「言葉」を言うより、自分の生きる道はなし。

「帰らなきゃ」

「んん?」

「帰る。帰る! 戻らなきゃ」

 見つけた。自分に必要だったのは、自分を支える「二分の一」でも、自分を大きくする「力」でもなかった。

 自分が手にしなきゃならなかったのは「自分」だったんだ。

「聞こえんなぁ。なんだって!」

「帰る! 帰るって!」

 歯痒い、あっちゃんの言葉遣い。その新しいキャラ、うざってぇぜ。あっちゃんが透かすように腕時計を見た。

「ゲコ、どうだろう」

「微妙だべな。あとは」

 なにを言っている。時間? 微妙だって?

「今からじゃ在来線は無理だろう。東京まではいけねぇと思うぞ」

「在来線じゃ無理だ。ここの駅からじゃあ」

 意味がわからない。在来線じゃ無理って? 当たり前だ、ここの駅には在来線しか通ってない。じゃあ無理だ。

「どうする? あとはハル、おめ次第だべ」

「すぐに帰るか帰らねぇか、決めろ、ハル。自分で決めろ」

「いや、すぐに帰りたい、けど」

 早く帰りたい。帰れるものなら。

 しかし、だから、お前らも言ってるけど、無理だって。

「よし、決まりだ。ゲコ、大丈夫か」

「任せろわ」

 いかにも邪魔くさそうに、肩から重荷を外した。そして氷の上を走り出した。

 いったい、どんなワンシーンだ? ゲコの背中が頼もしくみえるのはなぜだ?

「なんだ? どういうことだ?」

 走りながら話すと、あっちゃんに引っ張られるように走り出した。

「馬越駅っていう、新幹線専用の駅があるの知ってんだろ。そこから新幹線に乗れば今日中に東京にいける」

「うん、ん?」

 馬越駅は知ってる。その通り、新幹線専用の駅だ、知ってる。知ってるけど……。

 なんだかよくわからないうちに、サイが振られたようだ。しかも振ったのも自分のようじゃないか。

 正直、間に合うとは思われない。ここから馬越の駅まで、雪がない時季なら三十分から四十分。この時季だったら何分でいくのか……。というか、いけるのか?

 今現在、雪は降ってないとはいえ、ここからその駅まで最短でいくには峠を越えていかなければならない。国道を回れば、さらに時間がかかるだろう。

「このままバス通りまでいって、そこでゲコに拾ってもらう。それまでに、死ぬなよ」

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