第3話 - 3

 キタさん、一つだけ、言っておきたいことがある。俺より先に、寝てはいけない、俺より先に……。

 最悪中の「最悪」を予想させないでくれ。大丈夫だよな? あんた、それを恐れてえるさんの葬儀にいかなかったくらいだから。俺はそれを、考えには入れんぜ。頼む、これだけは。だから早く、誰にでもいい、連絡をしてくれ……。


 晴彦と夕飯を食べて帰ってきた。地下鉄の駅構内を風が吹き抜ける。

 階段を上がり出口が近づくと、風の運ぶ空気が一層冷たくなった。道路に出た途端、思わず声が漏れた。

「さぶっ」

 ほっぺたに冷気が突き刺さる。どっかでなにかが風に軋んで音を立てる。ギシギシ。こういう風の強い日は……。

「やっぱり」

 風が、東京の空気をきれいにしてくれる。星がきれいに瞬いていた。

 コンビニでピザマンを買った。コートのポケットに入れると、ホッカイロのようにそこだけ温まった。

 星空を見上げて故郷を想い、相方を思う。まさかこの寒空にどこぞで野宿などしてはいないだろうな。

 マツケンが、夜相方のアパートを訪れたとき部屋にはいなかった。大家さんに頼んで鍵を開けてもらい、中を調べた。

 散らかりっぱなしの部屋を想像したが、予想外にすっきり片付いていた。

 それが逆に心配になって、少し部屋の中を捜索したという。目に入りやすいテーブルの付近やベッドの周りに「封書」のようなものは見当たらなかったという。

 てことを後になって聞いた。北村は、顔に似ずきれい好きなのだ。

 散らかり放題の部屋を呆然と見下ろす。自分の部屋に、北村はあまりきたがらなかった。

 そんな部屋でも外よりは幾らか暖かい。郵便物を炬燵の上に放り投げ、スウェットに着替えつつ冷蔵庫から缶ビールを一本取り、それから炬燵に潜り込んだ。

 テレビをつける。この時間帯はお笑い芸人の天下だ。

 ゴールデンタイムでひな壇に座る芸人たちが主役としてMCをしたり、コンビで、あるいはピンでテレビ画面を独占する。

 くわえ煙草で郵便物を物色すると、ダイレクトメールやなんかの請求書に紛れて、

「年賀状?」

 差出人は同じ事務所の後輩。ちょっとした面白話にしたいんだろうが。

「このことにはずっと触れずにおこう」

 テレビを見て笑えたのはほんの僅かだった。

 アルコールが入ると、体の力がさらに抜ける。吸殻で溢れた灰皿に煙草を埋めて、そのまま炬燵で横になり、目を瞑った。このまま眠ってしまえばいい、と思った。

 が、眠気はむしろ遠ざかる。

 耳鳴りがしてきた。耳鳴りは、霊が近くにいる証だと、怪奇心霊番組の再現ドラマでやっていた。

 鳥肌が立たないように我慢していたが、耳鳴りはやがて囁きになり、そして。はっきりとした「声」になった。

 話しかけられているわけではない。会話の内容など聞き取ろうとはしないが、脈絡のある言葉ではなかった。

 テレビから笑い声が聞こえてきた。瞬間、

「ああ」

 呻き声が漏れた。耐え難い恐怖だった。

 一人、一人ぼっち。

 仕事どうする?

 明日はコンビでクイズ番組だ。別にピンでもやれるだろう。

 しかし、ピンで、一人で、できるのか?

 この先、一人でやっていけるのか?

 オーディションは?

 炬燵の中で横になり、体をくの字に折り曲げて丸くなる。自分を暖めるのは炬燵と、自分の体だけ。

「大丈夫、大丈夫だ! 帰ってくる! できる!」

 強く目を閉じる。

 うるさい! どっかにいってくれ! 一人にしてくれ!

 誰か俺を包んでくれ!

 俺を一人に、しないでくれ……。

 涙が流れた。横向きの顔を横切る冷たい感触、くすぐったい。眼を開くことはできない。

 今の俺には誰もいない。相方も、仲間も、彼女も、故郷も……。戦え、逃げるな。思うな、涙……。

 ふーっと大きく息を吐き、ぱっと目を開いた。

 見慣れた天井、なるほど、ここから逃れることは容易ではない。炬燵のぬくもりは、口の中を乾燥させる。

 テレビからは後から差し込まれた笑い声。勝手に笑ってくれるから、こっちは好きに泣けるのだ。

 トイレにいって台所で冷蔵庫を開ける。まだ玉ねぎ臭い気がする。

 モノはとっくに終わっている。まずくはなかったが、「終わったんでまたください」と言うことはできない。

 北村も飲んでみればいい。きっと、元気になるだろう。ウーロン茶の2リッターをラッパ飲みした。

 テレビを消して、再び炬燵で横になった。仰向けに、目をつむった。こっちだって、正直ギリギリだった。

 ――きたさん、今どこで、なにしてるんだい。

 一時は顔を見るのも嫌だった。声を聞くのも辛かった。

「会えない」となると、すこぶる寂しい。

 ――キタさんには、頑張る理由、自分だけだったのかな。

 頑張るのには理由がいる。最後まで頑張って「ここ」に居据わるには自分一人の力では無理なのだ。

 決して一人ってことはなかっただろう。家族親戚、仲間。

 なによりも。

 ――俺の存在は。俺には力が足りなかったかな。

 そもそも、先に「ここ」から逃げ出したのはこっちの方だ。逃げた先で力をもらって帰ってきた。

 そんな場所が、北村にはなかったのかな……。

「頑張れ」て言われてきれたのは誰だっけ?

 その件に関しては、今度きっちり謝る。あるいは、報いる。何事かを、なすことによって。例えば……。

 キッと目を開いた。

 北村が帰ってこないなら、こっちにだって考えがある。消したつもりで消しきれない、鉛筆でノートに書いた跡のように、鉛筆で柔らかく塗りつぶせば、浮かび上がってくる白い文字のように。

 闇夜に舞う、粉雪のように。


 一月十四日は、澄み渡る青空だった。アパートを朝七時過ぎに出る。風がまだ強く、体感ではかなり寒い。

 早朝、朝まだき、マツケンから電話があった。

「夜中に、キタちゃんからメールがあってさ」

 どうやら「最悪中の最悪」はなさそうだ。ほっとしたのなんか、ほんの束の間。メールは「ごめん」と一言だけ。

 電話をしたが出ず。電話で話そう、とメールして、すぐに返事はこなかった。そのまま寝てしまい、朝目が覚めると、また一言「ごめん」。

「これが。いいことかどうかわからないんだけど、もしかしたらハルちゃんにも嫌な思いさせちゃうかもだけど」

 突然だが、今日の一発目、北村の現場にいって欲しいということだった。本来の仕事よりも二時間ほど早い。

 それでも、ほぼ間違いなく本来の現場には遅刻するだろう。

「うちの若手押したんだけど、向こうがうんて言ってくれなくてさ、さすがにね」

「わかりました。いきます」

「ごめんね。僕も先回り先回り、謝って回るから。今日も晴彦と一緒に、よろしく」

「わかりました」

 いろいろ言おうとした。聞きたいこともあった。

 口にすると、いらんことまで話してしまいそうなので、言わなかった。変な間が空いてしまった、最後にもう一度「わかりました」と繰り返した。

 ピンでも十分やっていける。そんな風に思っていた時期があった。

 ――俺はこんなに依存していたのか……。

 自分の弱さを痛感した。

 受け入れてしまえば、あとは真っ直ぐな道が続いているだけだ。

 ある大好きな漫画のフレーズ。

 今までだって、時に悩みながら進んできた。まだ道を折れるタイミングじゃない。それを決めるのは北村でも誰でもない。「自分」だ。

 ――あいつがいたからここまでこれた。

 きっかけを作ってくれたのもキタさんだし、もしキタさんに会わなかったら、コンビ組んでなかったら……。

 ずっと下を向いて歩いていた。電車の床を見ていた。ずっと俯いたまま、進んでいた。


 いつからだろう?

 朝、抜けるような空を見た。

 そう、朝は「見上げた」んだ。立ち止まらずに空を見上げた。見上げて、立ち止まった。

 建物に区切られた青い道が続いている。滑らかな雲を突き抜け、乗り越え、踏み越えて。

 昨日の夜も星空を見上げていた。風が強かった。北村のことを思っていたんだな。

 ――キタさん、どこにいるんだべ。

 北村のことを考えつつ、体は北の方を向いていた。

「おしっ」

 小さく言って、気合を入れた。

 不安が消えることはない。それでも、前へ進む力が、不安を抱えたままでも進んでいく力が湧いてくるようだった。


 現場は、ある種異様な雰囲気だ。自分と空気がなじまないのがはっきりわかる。完全アウェー。

「おはようございます」

 マツケンを見つけた。「おはよう」。目と目が合うと、どちらからともなく笑みが漏れた。

 隣の晴彦はまだちょっと顔が硬い。

 三人固まると、そこに視線、というか関心が集まるのがわかる。卑猥な感情が集中する。

 と、感じる。

 マツケンの笑顔は、普段と変わらないものだった。指でオーケーサインを作ってみせる。

「こっちは大丈夫。あとは晴彦と、ちょっと打ち合わせとかして。アシスタントのアイドルもかわいいし、問題ないでしょう。僕はすぐお台場にいくから」

「まだ、向こうには」

「ぜんぜん。これからいってみて。こっちのプロデューサーとディレクターにはなるべく早く解放してくれとは言ってある。いい人そうでよかったよ」

 最後少し顔を近づけて、小さな声で言った。

「わかりました。サクサクとやっつけちゃいます」

 マツケンの視線が硬くなった。大丈夫、わかってますって。手を抜いたりなんかしない。最初から、飛ばしていきます。

「じゃあ、晴彦、あとよろしく」

「あとよろしく」

「はい、え? ハルさん?」

「マネージャー! お願いします!」

 早くも歩き出していたマツケンを呼び止め、腰を折って頭を下げた。

「まかしといて」

 グッと親指を立て、いつも以上に勢いよく離れていった。そして、まだ幾分表情が硬い晴彦にも。

「お願いします」

 と、軽く頭を下げた。その頭を慌てて追い越すように、晴彦が深々「こっちこそ、お願いします」と頭を下げた。

「よっし。やるか」

「はい!」

 アウェーとかビジターとか、そんなの関係ない。絶対に負けられない戦いが、ここにもある!


「シャ! シャァ、いこ!」

「どうしたんですか、ハルさん、今日はやたらテンション高いですけど」

 アシスタントの早苗ちゃんが、ちょっとびっくりした顔で半笑い。

「相方が行方不明なんすよ」

 スタッフからどっと笑い声が上がった。

「えー! それ大変じゃないですか」

「うん。だから今日は急遽予定を変更して、相方を、探しにいきたいと思います!」

 スタッフ笑い。

「いやいやいや、ダメですダメです。今日はこの汐留の、この冬話題のスポットを視聴者の皆さんに」

「いいです。もう、そんなのほっといて、みんなで手分けして探しにいきましょ。じゃあ俺はこっちいくんで、早苗ちゃんは向こう探して。で、カメラさんはあっちのほうに」

「ダメです。違いますよ! 今日は」

「なに言うてるんですか。こっちも人生かかってますから」

「ダメですダメです。そんなの自分で勝手にやってくださいよ。はいはい、いきますよ」

「つめた! なんや、かわいい顔して、鬼か!」

「はいはい、じゃあ、いってきまーす」

「おーい、ちょっと」

 早苗ちゃんに腕をひかれて歩き出す。

「はい、カット。ごめんもうワンテイク。ハルくんごめん」

 北村のくだりを入れずに、普通のパターンでワンテイク。どっちを使うかはわからないということだったが。

「じゃあ移動しまーす」

 Dに言われた通り取り直して、ロケハンは移動を開始。

 取り直しにはなったが、現場のつかみはオッケー。

 アシスタントの早苗ちゃん、最近リポーターとして露出も増えているが、アイドル上がりで、頭の回転も速いし、度胸もいい。

 相方が失踪中だということは知らせてあるが、一回目の掛け合いは完全なアドリブだった。思った以上にうまくやってくれた。彼女に感謝。

 晴彦も笑顔だった。晴彦に向かって親指を立てる。向こうも同じように。事務所を潰すわけにはいかない。そこはみんなの、居場所なんだ。


 スタッフにほんとに感謝。

 土曜の昼間にやってる情報番組の中のワンコーナーで、放送は十五分ほどだそうだ。

 取り直したのはアタマだけで、それからはすんなり取れ高オッケーを出してくれた。

 相方はゲストとして呼ばれていたのだが、もったいない。これほどやりやすい仕事は久しぶりだったな。

「ハルさん、お疲れ様です」

「お疲れ様です」

 早苗ちゃんが挨拶にきてくれた。

「ごめんね、こっちのわがままで、なんか急がせちゃって」

 この前に、晴彦と二人でスタッフ全員に頭を下げまくってきた。みんな笑顔で励ましてくれた。アウェーどころじゃない。完全なホームじゃんか。

「ぜんぜんぜんぜん。でも、北村さんの話、本当なんですか」

「マジ。死んじゃいないみたいだけど、どこにいんのかわからないんだって。早く出てこいって感じだよ」

「一人じゃ大変ですよね。わたし、はるまげどん好きだったんですよ」

「ほんとに! ありがと! 仕事もそうだけど、ぶっちゃけ、いないと不安だよね」

 ――なに言ってんだ、俺。初対面の歳下かわいこちゃんに。

「いつも一緒になんかいないけど、連絡がつかないってなるとすっげー不安。こんなに不安になると思ってなかった。まあでも、がんばるしかないよね。開き直ってさ、やるしかないよね。うん。うん」

 そう、やるしかない。一人だって、はるまげどんを背負っていかないと。

「頑張ってください」

「ありがと。頑張ります。早苗ちゃんがはるまげどん好きだって知ったら、相方もすぐ出てくるかもね」

相方はアイドルが好きだった。早苗ちゃんの名前は聞いたことないけど、チェックしてたかな。今日のこと知らなかったか。

「あの、今日この後って、まだお仕事あるんですか」

「そうだ、すぐいかなきゃなんだよね。これもともと相方の仕事だったの俺がきて、次はもともと俺の仕事でさ、すぐお台場いかなきゃなんだ」

 当初の入り時間は過ぎている。しかし、今朝の予想よりはだいぶ早かった。といって、のんびりなどしていられない。

「初めから遅刻の予定だったんだけど、みんなのおかげで予想より早いや。今日はありがと、じゃあ、やば、晴彦から着信あったんだ。気づかなかったな」

 苦笑いのような笑顔を彼女に向けて、ズボンのポケットから取り出したスマホで晴彦にかけなそうとした。

「あの、番号とライン、交換してもらっていいですか」

「あ」

 慌てて電源ボタンを連射した。つながってはいない。

「マジか。いや、もちろんもちろん」

 交換し終わったところで晴彦からかかってきた。

「ごめん、だいじょぶ、すぐいく。電車だべ? 地下鉄か。了解、はい」

 アイドルと連絡先など交換すれば、胸は躍る。

「じゃあ、いきます。ありがとう」

「頑張ってください」

「早苗ちゃんは、仕事?」

「はい」

「じゃあ、頑張って」

 スマホを持った手を軽く上げて、別れた。

 なるほど、社交辞令のようなものか。ファンだと言ってたからな。

 晴彦のもとに向かいながら、考えた。

 この少しの罪悪感。

 相方と別れる、という暗示のようにも思った。本来なら、相方が知り合うはずだった、それを今度も自分だけ。抜け駆けのように。

 少し胸が痛んだが、裏を返せば、その後また「戻る」ということでもある。

 歩きながら空を見上げた。さっきよりも雲が多い。太陽が雲に隠れ、そして現れ、またすぐに隠れた。忘れていた季節を思い出した。

「ふゆ」という言葉が無意識から引き出してきた「なにか」に、心がリアクションする。体を急かす。

 仕事に集中しなければならない。「冬」を吸い込むと、乾いた空気が体と心から潤いを奪い去った。

 マツケンの顔を思い出し、ただ晴彦と合流することだけを考えた。ラインを交換したことは、すっかり離れていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る