第3話 - 2

 熱にうなされながら一夜を過ごす中で、ちょっと不思議な夢を見た。

 きれいな女の人に手を引かれて坂道をのぼっていた。綺麗というか可愛い、ズバリ好みのタイプ。

 二人は坂道をどんどん上っていく。道には他にもたくさん人がいて、なんかこっちを見たり話しかけたりしてくる。

 芸人仲間、後輩若手、先輩。みんなこっちを見て、嬉しそうに、ちゃかすように、みんな笑顔だった。

 どんどんどんどんのぼっていく。そのうちに地元の友達の顔が見えてきて。

 ――お、むーさん、もろこし先輩、あ、さきんこ。

 そしてさらに、

 ――あっちゃん! ゲコ! 

 二人の笑顔の口が動いた。何を言ったのか聞き取れない。取りあえず笑顔を返して。

 ――あ! あるさん!

 じっと俺の顔を見て、うん、と一つ頷いた。

 次の瞬間、辺りは闇に包まれる。薄暗いなんてもんじゃない。本当の闇。足元も見えない。

 すぐ前を歩いている彼女の姿も見えやしない。

 ――ちょ、なんだよこれ!

 声は出なかった。

 不安、恐れ。押しつぶされそうになる。暗闇に彼女の顔だけが浮かび上がった。

 笑顔だった。その笑顔に、俺はただただ首を振り続けた。

 ――嫌だ、いく、進むんだ、前へ、前へ、俺の夢、みんなの夢なんだ、俺の夢なんだ、夢なんだ。

 パッと辺りが光に包まれた。抜けた、白い世界。一人で立っている。手を引く彼女はもういない。

 ――観音様。

 その瞬間、引き寄せられるように見た右手の空に、昨日新幹線から見た観音様が、そのままの姿で立っていた。


 静かに目を開ける。見飽きたアパートの天井。

 が、なんか新鮮。そのままゆっくり体を起こした。カーテンの隙間が明るくなっていた。朝の七時。

「白い世界。雪、だった、かな……。さきんこ、あんな不細工じゃない」

 着ているものは汗でぐっしょり濡れていた。

 かわりに、頭と体はすっきりと軽かった。

 熱はひいていた。風邪はすっかり治っていた。ただ夢の中の「さきんこ」の顔だけ、いつまでも納得できなかった。

「あんな不細工じゃねぇ」


「雑炊と玉ねぎだね」

 マツケンが耳元で囁いた。ちょっと離れたところには相方、どん北村がいる。

 今日はコンビでの仕事だった。終わって楽屋で一休みしているところだった。

「その分、働いてもらうからね」

 そういって肩をポンポンと叩き、親指を立て、ウィンクなぞしてくれて。悪寒がした。

 マツケンがうちにきてから四日が経ってる。

 昨日一昨日はピンでの仕事だったりマツケンが他に用事あったりで、マツケンと顔を合わせるのは今日がアレ以来だ。

 マツケンはなにか考え違いをしている。風邪がよくなったのはあの雑炊のおかげでも、ましてや玉ねぎ汁のおかげでもない。

 ――観音様……。

 不思議な夢の話は誰にもしていない。マツケンには悪いけど。

 栃木にいった帰りに群馬に寄ったことも言ってない。そもそも、「いった」ということも、誰にも言っていなかった。

 隠すつもりはないけど、誰からも聞かれないし、こっちから言うことでもない。

 えるさんから電話があったことも言えてない。

 なんだ、なんにも言ってないじゃないか。

 風邪をひいたことだって、あのタイミングでマツケンから電話がこなければ、恐らくまだ誰にも知られていない。

 芸人仲間相手に笑い話として話をするのはもう少し後になるだろう。

 その場合、なぜ風邪をひいたか、ということについて言及する必要があるだろうか。「ちょっと旅にいった」くらいでいいんじゃないか。

 ――そう言えば、あのマツケンの電話……。

 マツケンからまだ「用事」を聞いていない。


「なんか最近いいよねぇ」

 と、マツケン。こっちが恥ずかしくなるほどにやけている。本音らしい。

 正直、手応えはある。最近といっても本当に最近、正月休みが明けてからだが、お客さんの反応は上々だった。マネージャーでも他人から言われると嬉しいものだ。

「十六日までもう何日もないけど、二人がこの調子でやってけば、きっと大丈夫」

 マツケンが二人の顔を交互に見て、うんうん、と頷いた。

 十六日は春から始まる土曜ゴールデンのオーディションだった。受かればブレイク、落ちれば……、またどさ回りの日々。

 実際には受かっただけで安泰なんてことはなく、そこからが本当の勝負になるのだが、スタートラインにつかないことには勝負もできない。今までにないほど真剣に狙いにいっていた。

「あとは体調に気をつけて。風邪なんかひいたらもともこもないからね。じゃ、お疲れさん、気をつけて帰ってね」

 グッと立てた親指に返事を返した。

「お疲れ様でした」

「お疲れ様でした」

 最後にちょっと口元が緩みかけたがなんとか堪えた。

 ――あの辺が役者だな。

 これで昨日の話はさらにしずらくなった。

「キタさん、いこう」

「おう、いくべ」

 荷物をまとめて、二人でテレビ局を出た。

「うっわ、さっみぃ」

 建物から一歩外に出ると、一気に寒さが襲ってくる。相方が言って、肩をすくめてニット帽を深く被り直した。

 東京には東京の寒さがある。相方も雪の多い地域の生まれだが、東京で、むしろ寒がりじゃないかってほど着込んでいる。

「まじさみぃ。キタさん、今日どうする? 明日ちょっと早いけど」

 時刻はフタサンヒトゴ、ロク。終電にはまだ少し間がある。

「おう、軽く打ち合わせっぺ。ドナるか」

「今日もドナりますか」

 近くのマクドナルドに向かった。

 マツケンが「いい」と言っていたが、いいのは客うけだけではない。二人の間の空気もかなり「いい」。

 相方の目に険がなくなった。接し方も普通。こちらを遮断するような固さはない。

 休み中に「苦しんだ」のはこっちだけではないだろう。

 こちらがやろうと思っていたことを、向こうも心がけているようだった。休みの間で、同じ「答え」に至るとは。

 まさか、

 ――ひょっとして、相方も風邪を?

「実は一昨日風邪ひいちゃって、死にそうだったよ」

 と、さらっと切り出せばいいようなもの、なんだか憚られた。「俺もだよ」なんて帰されたら……。

「あるさん」のことについても聞いてこない。ひょっとしたら、相方もいったのか……。

 考えていくと、どんどん「連休」のことが重くなり、沈んでいった。

 なにかを隠すことでプラスになることもある。お互い、そこを沈めたことが「仕事」に対して好影響を及ぼしているように思えた。

 仕事に集中していた。どちらからとなく声をかけ、仕事の合間、前後で話し合うようになっていた。

 コンビを結成したころの、あの真剣で純粋な空気が戻ってきたようだった。


 休みが明けて、三日ぶりに会った相方がキャップを被っていた。うすうす「薄い」ことに気づいてはいた。触れていいのかどうか、迷ったときには既に。

「キタさん、帽子、どうしたの」

 聞いていた。

「ちょっとさ、最近、つうかお前、それ聞くかね」

 語気は強かったが、それが「突っ込み」であることは、顔を見ればわかる。

「そんなに気にしなくても大丈夫だよ」

「そうか」

 と言いながら相方はキャップをとって頭を撫でた。

「そんなに気にならないって、キタさんなら」

「俺ならってなんだよ。意味わかんねぇし」

「大丈夫、個性、ていうか武器」

「フォローなってねぇよ」

 相方はなんかぶつぶつ言いながら、それで会話は一旦終わった。

 それが懐かしい雰囲気で、真面目に目頭が熱くなった。「いける! やってやる!」。頭に、心にそんな決意がはっきりと形になった。

 それはきっと相方も同じだったに違いない。

「俺的にはやっぱ『クワガタ』のネタでいくのがいんじゃねぇかって思う」

 提案に、相方はしっかりと首を振る。店内でも帽子は脱がない。

「俺は、やっぱ新しいの作るべきだと思う。思うし、作りたい。あのネタは確かにかなりうけたけど、それだけに知られ過ぎてる」

「今から作るってのも、逆にリスクが大きくねぇかね。時間的に」

「そんなこと言ってる場合じゃねぇって。時間なんか言い訳にならねぇ。ここで勝負しなくてどおすんだよ」

 相方の視線がまっすぐ伸びてきた。その視線を受け止めて、鳥肌が立った。

「やるか!」

 決して「きしょい」とかではない。

 真剣な眼差し、表情、そして「勝負」するという気概に、感動した。コンビを結成したあの瞬間が、今と重なった。

 

 外に出ると、冷気が一気に体を押し包んできた。

「しっかしアレな。誰も気づかねぇのな。声一つもかからなかったぜ」

 サングラスなどで顔を隠しているわけではない。相方は帽子を被っているが、もう一人は「テレビのまま」だ。「こっちを見てひそひそ」するOLもいなかった。

「オーラないんだろうな」

 目が合うと、お互い笑みがこぼれた。ふと見上げた。相方も見上げていた。どっちが釣られたのか。

 冬の夜空はエッジが効いた光でくっきり切り取られている。星を隠して自ら煌くネオンサイン、看板、オーロラヴィジョン。

 それはしかし、ある意味星よりも遠い。

 決して手が届かない、3D映画ほどのリアリティーもない、スクリーンに映された光、空間、追い求め突き詰めればそれは、北極星よりも遠い、冷たい光。

「なに、もう少しだ。ゴールデンウィークの頃には、変装せずに街を歩けなくなるぜ」

「だな」

「はるまげ、どーん!」

「どーん!」

 芸能人を見る目ではなく、「アブナイ人を見る目」に刺されながら、二人は別れて帰っていった。

 そうだ、もう少しのところまできている。ここで頑張らないでどうする。なんとしてもスタート地点に立つんだ。あいつらが自慢したくなるような芸人になるんだ。

 今度こそ胸張って、帰るんだ。

 体の内にふつふつと湧き上がる思い、面影。この寒さも、自分に対する励ましように感じていた。


 相方がオーバーペース気味かもしれない。

「勝負」という自分の言葉で自分を追い詰めているようだった。当然だろう。

 今までの芸人人生で最大のチャンス。今後の、これから十年先の人生に関わる。


 相方は「勝負」という言葉をよく口にした。そんな相方を、ちょっと引いて見ているようだった。

 ――自分を見失うな。

 自分を見失うな、自分らしく、自分の力で、自分のできる中で、自分の、自分が、自分を……。

 相方の「勝負」という言葉と対応するように、頭と心と、体に「自分」と言い聞かせる。

 相方の「勝負」がアクセルで、「自分」がブレーキ。相方に直接「止まれ」なんて言ったりしないが、何かと相方の意見、考えを「それは」と言って引き戻す、あるいは方向性を直そうとする。

 もどかしく思っているだろう。ときには苛立ちさえ覚えているかもしれない。

 しかし、向こうもよく自分をコントロールしているようだった。

 ――これでいい。見失うな。

 そう確かに信じていた。なにかにつけて自分に言い聞かせ、刻み込んだ。

 その反面、追い込まれた窮地を吹き飛ばすような相方の突破力ある発想には期待していた。

 コンビを組んで十五年近く経つが、これまで見たことのない、「知らない北村」に期待していた。

 あるさんはえるさんのこと「全部知っている」と思っていた、それが間違いだったと激しく後悔した。

 ――ならば俺は、「北村の未知数」に期待してみよう。

 信じてみよう。

 ポテンシャルは持っている。絶対ある。なんせ、「俺」が選んだ相方なんだから!

 不安もある。絶対に、乗り越えてみせる。

 二人だったら、絶対できる。


 一月十二日。オーディションまであと四日。

 今までは、基本的にこちらがネタのベースを考えて、相方が中心になってボケを膨らましていくという作り方がメインだった。

 今回は、相方が考えてきた破滅的な「話」を、こっちの主導で所々デチューンして組み直しをしながら、バランスをとりメリハリを付けるという作り方をしていった。

 お互いにストレスを感じながらの作業だったが、ここにきて漸く「らしさ」が出てきた。

 ――なんとか形になってきた。これなら勝負になる、かな。

「キタさん、ここは『電子レンジだろ』よりも『電子レンジじゃねんだから』の方が、その後のボケもすんなり入るような気がするんだけど」

「そうか? 俺としては勢いでスパッときてくれたほうがいいんだけど。ちょっと試してみるか」

 事務所の会議室に二人の掛け合いが響く。

 五反田でビルを間借りする小さい事務所の中の小さい会議室での掛け合いは、事務所中に響き渡ってお釣りがくるほどだが、深夜十二時を過ぎ一時になんなんとしているこの時間、事務所にいるのは二人だけだった。

 ――キタさん、かなり無理してがんばってるな。

 なんせ、肉体的にも精神的にもストップアンドゴーを全力で繰り返しているようなものだ、疲れていない方がむしろおかしい。

「ちょっと休憩しよう。外出ねぇかい」

「もうこんな時間か」

 日付がいつかわったのか、二人とも気づいていなかった。時間がわかった瞬間、どっと疲れた。頭も体も、栄養不足だ。

「牛いこ、牛」

 若手芸人の友だち、牛、すなわち、牛丼屋さん。

 二人、牛丼を腹にかっこみ、事務所に戻って更に一時間ほどネタをつめると、そのまま二人は事務所に泊まった。

 朝、近くの健康ランドで汗を流し、それぞれの仕事場に別れていった。


 午前九時ちょっと前、ロケバスで移動中、マツケンから電話がかかってきた。

 ピンで仕事の場合は、マツケンはどっちかにつく。今日は相方のほうにいっているはずだ。

「はい」

「やばい! やばいよ!」

 マツケンのいつにない真剣な声が耳飛び込んでくる。

「どうしたんすか?」

「キタちゃんがこないんだよ!」

「へ?」

 一瞬頭の中が真っ白になった。

「携帯も電波届かないし。メールはしといたけど。どうしたんだろう。なんかあったかな、事故にでも巻き込まれたかな」

 事故。

「実は、朝まで一緒にいたんすよ。夜中までネタ作ってて、そのまま事務所泊まって、朝一緒に出てきたんだけど」

「ほんと! なんか変わったとこなかった?」

 疲れてはいた。こっちが感じていた以上に疲れていたのかもしれない。

 しかし、それ以上におかしいと思うことはなかった。

「そうっすねぇ。特になかったかな。ちょっと疲れてはいただろうけど。うーん」

 しかし……。

「じゃあ、やっぱり事故か、それか事件にでも巻き込まれたか。とりあえず、こっちは連絡待つしかないし」

「俺も電話してみます」

 意味があるかどうかはわからないけど、とにかく、なにかできることを。

「こんな話ししといてなんだけど、ハルちゃんは仕事に集中して。うん、じゃあ」

「はい、あ、マ」

 ツーツーツー、切れた。普段に輪をかけて慌しい。

 マツケンが「事故」と言った瞬間、というか、きてないと聞いた瞬間、浮かんだのは相方の背中だった。

 真っ白い頭の中、こちらに背を向ける相方。サブリミナル効果のように一瞬で消えた。

 恐らく、マツケンも同じことを真っ先に想像したに違いない。

 そして同じく「消した」に違いない。

 ――相方は今日は確か横浜だ。電車で三十分。事故か事件に巻き込まれた……。

 そのほうが「まだマシ」と考えている自分がいた。

 健康ランドを出た時間を考えれば、仕事の前に一時間近い余裕があるはず。

 もしなにかに巻き込まれ、警察などに身柄を確保されているなら、恐らく事務所に、マツケンに連絡がいくはずだ。

 相方が痴漢でもして、身元を頑なに隠しているというなら別だが……。

 むしろ、それでもいい。

 北村が、生きているなら……。

 驚きやショックは少なかった。いや、頭が真っ白になったとき、決して心の「沈み」は小さくなかったはず。

 しかし、それがほんの一瞬だった。すぐに平静を取り戻し、現状を認識した。

 相方の心配をしている場合ではない。ロケバスが止まる。仕事だ!

 

 午前中は都内で情報番組の生放送に出演。

 白装束で、成人式を迎える女の子から、成人として気持ちを新たにしてもらうために氷水をかけられるという前向き(?)な企画をこなした。

 仕事が始まれば集中力はあった。むしろテンションは高いかもしれない。

 不安を振り切るために、アクセルを踏むならべた踏みしないと!

 あの顔が、妙に懐かしい。帽子で隠したテッペンが、なんだか愛おしい……。

 マツケンは、番組スタッフに頭を下げ続けているという。移動中、電話をしてみたが、取り乱していたのは朝だけだった。

「プロデューサーとか局のお偉いさんに怒られる怒られる、もう使わねぇぞ、とか言われて、ほんと参っちゃったよ」

 と、いつものおどけた調子に戻っていた。さすがだった。動揺がないはずないのに。こっちの様子を聞くことも忘れない。

「こっちは大丈夫。しっかし、あの人なにやってんだか」

 昼過ぎからは、局に入って番組収録。

 笑歌! テンカウント!

「さー、今日も始まりました、わらうた! テーン! カウンッ! 今週はいったいどんな曲がランクインしてるんでしょうか! じゃあ早速いってみよう! 今週の、十位!」

 派手なDJで始まるこの番組。その週のCD売上トップテンに入っている曲をタレントさんがカラオケ形式で歌う。

 暫くなかったこの手の番組だが、局を変えて復活した。

 出演者は若手芸人からベテラン俳優まで多岐に渡り、幅広い層の人たち見られていて視聴率がそこそこいいらしい。

 最初はコンビで出たのだが、二回目からは一人で出ている。相方は余り歌が好きじゃなかった。多少音痴でもあった。気持ちいいのに……。

 相方に、同情さえ覚える。

 逃げているにしろ、きっと苦しいに違いない。出てこい。連絡しろ。自首しろ! 故郷(くに)のお母さんも泣いているぞ!

「さー、今日この曲を歌うのは、ただいま人気急上昇! 今日はいったいどんなパフォーマンスを見せてくれるのか! 歌って走れるお笑い芸人! はるまげどん、ハル!」

 キタさん、いってくらぁ。


「明日もハルちゃんの方にはちょっといけないかもだけど、頼むよ。よろしくね。じゃあね」

「はい、だいじょぶ……」

 今日一日の仕事は一先ず終わった。どおっと、体が重くなった。打ち上げにも誘われたが、断った。

 結局、今日一日北村とは連絡がつかなかった。

 楽屋に一人でいることなんて、珍しくない。過ごし慣れた楽屋が、今日は広く感じる。

 溜息に続いて、耳鳴り。ゾクゾクっと鳥肌が立った。

 最悪中の最悪が、脳裡を過ぎっては消えていく。部屋の白壁に、「最悪」が乱反射して、その音が鼓膜を叩き、脳のシナプスを抜けて心に流れる。

 非常に不愉快だった。音は声であり、目だ。ひそひそと囁き、白い眼を向ける。ドアの外から若いマネージャーが声をかける。

「おう、わかった」

 もう少し待っててくれということだった。

 ――キタさんのことか。

 囁きが大きくなる。ちょっとここにはいれない。待っててくれと言われたが、楽屋を出てしまった。外で待てばいい。

「どうしたの? 元気ないじゃん。ん?」

 声をかけられた。

「お疲れ様です。ちょっと体調悪くて」

「働きすぎなんじゃないの。どう、これから、ちょっと、いく?」

 人を抱くような仕種をしてみせて。

「いや、すいません、今日はほんとに。明日も早いんで」

「仕事仕事か。ちゃんと息抜きしないと、潰れちゃうよ。こっちもちゃんと、抜かないと」

 股間に伸びた手を軽く腰を引いて避ける。

「そうっすね、はい」

 そこでぐっと顔を近づけてきて。

「死相が出てる」

「え?」

「ま、がんばんな、無茶できんのも若いうちだから」

 言葉を残して、颯爽とテレビ局の玄関を出ていった。香水の、いい匂いが納豆の糸のようにあとを引いていた。

 ――ところで……。

「すいません、ハルさん。お待たせしました。いきましょうか」

 若いマネージャーの晴彦。ピン仕事でマツケンがこないときは晴彦の出番だ。

「おう」

「今の誰ですか?」

「さぁ」

 昭和のトレンディ俳優を彷彿とさせるシャツとパンツのコーディネートにトレーナーの使い方、その佇まい。

 ――あの格好にあの馴れ馴れしさ……、ただもんじゃない……。

 記憶の野に刺さった小骨は、局の外に出た途端、風に吹き飛ばされてなくなった。


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