第3話 - 1

  手紙


 ドンドン、というノックがでかいか。

「ハルちゃーん! 生きてる? 松沢です! ハルちゃん!」

 の声がでかいっちゅうねん。

 返事をするのも億劫、なんとか立ち上がって殿中を歩く侍のように足を引き摺り引き摺り漸く玄関までたどり着く。

「ハルちゃーん、生きてるかい!」

 ――アパートではあんまり目立つなって、俺にはいつも言ってんのに……。

 ドアの鍵を開けてノブに手をかけた、瞬間。

「ハルちゃん!」

 ドアが凄い勢いで引っ張られ、前のめりに倒れそうになる。

「生きてた!」

「今死ぬかと思いました」

 現れたマツケンの丸い顔、満面の笑み。心配しにきたんだか、なにしにきたんだか。

 見ると、手には余りにも大きな袋を下げている。しかも、もう一つドアの脇に置いてあるし。

「すいません、ありがとうございます」

「ほんとに元気ないねぇ」

「あ、はぁ」

「こんなイカ臭い部屋にいたら、余計体悪くなりそうだよ」

「は、はあ」

 この手のボケが、体調悪い時には一番こたえる。ボケなのか、事実なのか。

「冗談だよ冗談。ちょっと待ってな、今元気の出るもの作るから。いや、しかし寒いね、今日も」

 マツケンは、言いながら中に侵入し、さらに奥へ奥へと部屋を蹂躙していく。

 この状況、反抗する力を持たない部屋の主にとってはまさしく「侵攻」という言葉が相応しい。

「寝てて寝てて。ね、今暖かいもん作るから。それまでちょっと休んでて」

「はぁ、すいません」

 言われた通り横になる。

「包丁、鍋、コンロに、まな板。一応揃ってるじゃん。おお、ミキサーもあるね。しかも意外と綺麗にしてある。もしかしてもう別の女が」

「もう」とか「別」とか言うなって。そんな女がいたらなにもあんたにきてもらうことはないっつうの。

「冷蔵庫。あーあ、ほんとになんにも入ってない。どうやら彼女はいないみたいだな」

 通い妻か。イライラではなく、なんだか妙な、くすぐったいような気持ち……。

 あんな丸い通い妻はゴメンだ。暑苦しいし、でも冬は温かそうだ……、なに考えてんだか……。

「コーラ。ダメだよこんなの飲んでちゃ。よかったよこれ準備してきて。よし、じゃあ、始めるか。ハルちゃん! ちょっと待っててよ! すぐ作るから!」

 特別声を張らなくても、マツケンの声は全て筒抜けに聞こえてくる。

「昨日も寒かったからねぇ。まずご飯炊かないと。うわ! なにこれ! きたなっ! くさっ! だめだね、やっぱり男の一人は。早く彼女見つけてあげないと」

 台所でなにかやってるマネージャーのことがめちゃめちゃ気になったが、やはりほっとしたのだろう、どうやら眠ってしまったらしい……。


「ハルちゃん、できたよ」

 自分の部屋で目が覚めて、一発目に見るのが三十後半の男のツラじゃ、よくなるもんも悪くなるってんだ。

 感謝の気持ちも忘れてそんな思いで体を起こした。

 がしかし、部屋に充満する匂いは、そんな不埒な思いを差し引いても気分のいいものだった。暖かくて、美味しそうな……。

「ほれ、特製マツケン雑炊。熱いから気をつけて食べな」

 そう言いながらお椀を手渡された。お椀とマツケンの顔を交互に見る。

「なに? 大丈夫だよ、うまいって!」

 匂いを嗅ぐ。

「あのね、ハルちゃんが元気になってくれないと僕だって困るんだよ。大丈夫だって、毒なんか入ってないよ、うちの家族で毒見も済んでるんだから」

「いただきます」

 フーフーして一口。

 ――熱い! そして。

「うまい! いや、マジうまいっす!」

「だろ! かみさんとか子どもが風邪ひいた時によく作るんだ。評判いいんだから。風邪のときはさっぱり味にしてるけど、豆板醤とか入れてピリ辛にすると、これがうまいんだ。風邪でなくてもいけるんだよ」

 マツケンが自慢げに体を反らした。実際、うまい。ふんわりとき卵がまた優しい。

「はいよ、あとこれ」

「なんすか?」

「これまた、マツケン特製玉ねぎジュース」

「たま、ねぎ?」

 その透明のグラスに入っている液体は、ジュースとかっていうようなハイエンドなものではない。少しとろみがついてる、もろたまねぎ臭いし。

「これも大丈夫! うちじゃみんな飲んでる。体にいいんだ。ダイエットとかにもいいんだけどさ」

 急に不安になった。が。

 ――これもネタになるな。不味かったら、逆においしいな……。

 軽い職業病といえる。体を張ってこその若手! 芸人に公も私もない! 

「血管サラサラにして新陳代謝をよくする。風邪をひいたときはさ、汗かくといいって言うだろ。これ食ってこれ飲んで、あとはよっく休めばすぐ元気になるよ」

 少し大袈裟なアクションで雑炊とジュースを指差し、目と目が合ってにっこり笑顔。体にはいいに違いない。匂いを嗅ぎつつ、恐る恐る口に含んだ。

「ん」

「ね? 案外いけるでしょ」

 どうやって吐き出そうか考えていたのだが、確かに、思ったほどまずくはない。

 むしろ市販の野菜ジュースやなんかに比べれば飲み易いくらい。マツケンの言葉に、一つ頷いた。

「でしょ、慣れれば癖になっちゃうよ。置いとくから、毎日ちょっとずつ飲みな。ホント体にいいから。風邪なんかすぐ治っちゃうよ」

 実際、朝に比べれば格段によくなっている、気がした。

 気が張っているせいもあるかもだけど。マツケン特製シリーズが栄養になったのは確かだろう。

 そしてその笑顔と、優しさと、愛しさと、切なさと、心強さと……。


「じゃあ、風邪ひいてるのに長居しても悪いから」

 そう言って荷物をまとめ始めた。いや、やっと思い出した、そう言えば。

「マツケンさん、なんか用事があったんじゃねんすか」

 マツケンは背中をこっちに向けたまま、その丸い背中の向こうでなにか言った。

「まぁ、あったって言えばあったけど……」

 珍しく煮え切らない。昨日のことだろうか……。こっちから積極的に切り出したい状態ではなかった。

「また後にするよ。ハルちゃんが元気になったら」

「そう、すか、すいません」

 笑顔が少し弱くなっている。聞けない状況が、申し訳ない。

「じゃ、ハルちゃん、明日頼むよ。玉ねぎ飲んでぐっすり休めば、明日の朝にはすっかりよくなってるからさ」

 テキパキと荷物をまとめてゴミをまとめて、せわしない感じでマツケンが立ち上がり、そして早くも歩き始めた。

 その背中に向かって、咄嗟に声をかけた。

「マツケンさん」

「はい?」

 マツケンが立ち止まり、振り向く。

「今日は、ありがとうございました」

「なんだよ、改まって」

 大きな丸い顔が照れ臭そうに小さくなった。

「ハルちゃんは、ハルちゃんたちはうちのエースなんだから、バリバリ働いてもらわないと困るんだよ。トップとるためにも。だから、こんなことも、まぁ、マネージャーの仕事のうちってばうちかな。じゃあ」

「あ、はい」

 トップと言った。トップ……。

「ああ、いい、出てこなくていい。寝てな寝てな」

「すんません」

「じゃあね」

「はい。お疲れ様です。ありがとうございました」

「お疲れ。あれだ、鍵だけは閉めときな」

 バタン。

 言葉の最後を言ったと同時にドアが閉まった。足音が聞こえなくなるのを待ってガチャッと鍵をしめた。


 あのまま帰してよかったのかと、鍵をしめたところで考えた。まるで、こっちが弱みを握ってしまったような、ちょっとした罪悪感があった。

 この体ではどうしようもなく、部屋に戻った。

 テーブルの上の雑炊と玉ねぎジュースを、立ったままぼんやりと眺める。台所にいくと、そこはきれいに片付いていた。

 きた時よりも美しく! 

 さすがマツケンだ。奥さんとうまくいってるのか、ちょっと心配になった。

 コンロにはまだ雑炊の残りが入った鍋もある。

 冷蔵庫の中は。卵と野菜、フルーツの缶詰。お、玉ねぎジュースが、ペットボトルに入って。こんなにあんのか。

 缶チューハイも。こっちの好みをしっかり抑えている。さすがにそつがないな。

「ふう」

 ちょっと長いこと活動しすぎた。体力が尽きた。

「エヴァンゲリオンか」

 アンビリカルケーブルがないため、活動はかなり制限される。テーブルの雑炊をかたずけて、蒲団に横になった。

 これでよかったのだろうと思った。

 言いたいことを話さず、聞かず、それでいてそれなりに満足を分かち合えただろう、お互いに。


 マツケンがなにを言いたかったのか、あまり考えないようにした。考えれば考えるだけ、心が体ともつれあってともに落ちていくようで。

「ハルちゃんが、元気になったら」

 マツケンの言葉をそのまま口にした。

 こっちの腹におさまっているものが、果たしてマツケンにどんな影響を及ぼすものであるか、今は見当もつかない。

 やはり、少し後悔した。その事実だけは伝えておくべきかと思った。でも……。

 敢えて言わなかったのではなく、言えなかったのだ。

 体と心が言わせなかった。「がずがず」の「あるさん」から電話があったってことを……。


「『がずあるがずえる』の『ある』、っていえばわかるかな」

「あ、は、はい。あの、えーっと」

 わかるような、わからないような。

「ごめんね、いきなり電話なんかしちゃって」

「いえ、あ、全然、全然大丈夫です」

 パニック頭でまず考えたことは。

 ――どうして俺の電話番号知ってるんだろう?

 ということだった。

 もちろん、そんなこと聞けるわけもない。あるさんは、落ち着いた声で話を続けた。風邪で寝込んでいたことなど、どっかにすっ飛んだ。

「昨日は、ありがとう」

「いえ、あの、そんなの、別に」

「いや、本当に。芸能関係の人間なんてほとんどきてないし、まして芸人となれば、ホントにハル君だけだったから」

「いや、そんな……、もう、昔っから憧れだったっすから……」

 はっとした。憧れが過去形だったこと。

 そして「憧れ」という言葉が、あるいは皮肉っぽく聞こえてしまったかもしれないということに。

 その危惧が、恐らく半分は当っていた。

「確かに、昔の俺たちはみんなの憧れになりえたかもな……」

「すんません、そんなつもりじゃ……」

「いやいや、こっちこそそんなつもりで言ったんじゃないよ。最初にも言ったけど、ハル君にはほんと感謝してる。昔俺たちに憧れ、目標にしていた芸人たちの中で、結局昨日きてくれたのはハル君だけだったんだから。あの頃つるんでたヤツラは、誰もこなかったんだよな」

 あるさんは自分たちがまさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」だった頃の思い出をとうとうと語った。

 銀座や六本木で派手に遊んだこと。後輩にも同期にも散々おごって、みんなから慕われていたこと、逆に上から疎ましく思われていたこと、いじめのようなものにもあっていたこと。

「結局派手にやりすぎたんだろうな。調子に乗りすぎちまったんだ」

 人気が落ち、テレビに出なくなった頃のこと。その辺りの経緯も。

「結局あいつのわがままさ。そういうと怒られるかな。ギャラだったり他の出演者が気に食わなかったりするともう『出ない!』ってさ。収録の途中で怒って帰ったこともあったな。放送では、CM明けたらなんか俺しかいない、みたいな……」

 あるさんは、さばさばと語った。「本物か?」という疑念はもうなく、すっかり聞き入っていた。

「そんなのもうダメに決まってる。そんな芸人、いくら人気があったって使うわけないし、当然、人気だってあっというまになくなった。忘れ去られたよな……」

 そんなことないっすよ。言えるはずがない。

「そっから先は語るも無残な物語さ」

 フッ、と、そこであるさんが鼻で笑った。このフレーズ、「がずがず」のネタで聞いたことがあった……。

「慕ってくれてると思ってた後輩たちも、落ち目になったとたん離れていった。ほんと辛かったぁ。その頃……、これ以上は将来ある若者に語るような話じゃないな」

「……」

「いまんなってなんとなく思うんだよね。これでよかったんじゃねぇかって。なんつうのかな、あいつ自身、こうなることを望んでたんじゃないかって」

「望んで……?」

 聞き返すともなく聞いていた。

「もちろん最初は芸人として成功することを夢見てたわけだけど、なんか、余りにも急にいきすぎた。言ったら、まだ安全装置とかつけてないのに橋の上からバンジージャンプさせられた、みたいな感じかな。勢いに任せて一気にいって、当然その先は地面に激突、ドカン、て感じ。相方なんかマジで死んじまうし」

 おどけたように言った。


 その後の沈黙に、寂しさだけではない、懐かしさや、ほっとした安堵感(あるいは虚脱感)までもが含まれる。「させられた」とも言った。

 それらのほとんど、きちんと処理するには脳みそがオーバーヒート気味だった。

「望み……、あいつは、帰ってきたかったんじゃないのかな、自分の生まれた場所に」

 あるさんとえるさんは中学からの友だちだった。「帰ってきたかった」、それは友だちとしての言葉だ。城跡からの風景が思い浮かんだ。

「仕事もなくて、なにもせずに毎日酒飲んでふらふらしてたけど。今思い返してみると、そんな気がするんだよね。なんだろう、なんか寂しいね。わりぃな、こんな話聞かせちゃってよ、なんつうかさ……」

 電話の向こう、声が少し震えていた。

「結局、あいつのことなんにもわかってなかったのかなぁ。なんでもわかってるつもりだった。あいつの求めるもの、やりたいこと、やって欲しいこと、みんなわかってると思ってた。俺にはわかってると思ってた。俺にしかわからないと思ってた……。なんだ、わかってなかったんだな……」

 受話器から、鼻をすする音。

 泣いているのか? ほとんど「初めまして」に近い人間との電話中に、そこまで……。


 もしかしたら、あるさんは酔っぱらっているのかもしれない。

 いや、酔っぱらっているに違いない。でなければ、ほとんど面識のない人間の前でそこまで率直に感情を吐き出すことなどできるわけがない。

 自分の言葉で自分を泣かすなど、素面では、ありえない。

「俺の一人よがりだったんだな……。結局、あいつのことわかってやれなかった。わかってるつもりで、『俺はわかってる』ってことをあいつに押し付けていたんだな」

 やめてください。

「あいつをずっと苦しめていたのかな」

 それ以上、自分を追い詰めるのは。それは……。

「あいつのこと追い詰めた」

 それ以上、言わないで。それは「誰かさん」だって、同じじゃないですか。

「もしかしたあいつを殺したのは俺かも」

「そんなことないっすよ! そんなことないっす! あるさんはそんなことないっす!」

「……」

「そんなこと言ったらだめですよ。えるさんを一番理解していたのがあるさんじゃなかったら、他に誰がいるんすか。あるさんしかいないっすよ。『がずがず』は、『ある』と『える』の二人じゃなきゃ、ダメなんすよ!」

 言い返さずにはいられなかった。やっぱり、あるさんは酔っている。

「あ」

「わかんないっす、わかんないっすけど、俺なんかが言うことじゃないけど、でも、そんなこと言ったらだめっすよ」

 そんなこと、口に出したらだめだ。普段意識しているヤツなんかいないけど。

「そんなの、ずりぃっすよ。えるさん死んじゃったのに、あるさんだけそんなこと言うなんて、ずりぃっす。こんなこと言ったら」

 と言いつつ、その先は出なかった。また、沈黙がきた。


「ずりぃ」の意味、自分でもよくわかっていない。

 目に映る光景を含めた自分の置かれた状況が、他人に対して攻撃的になりがちになっている。

 もちろん、あるさんが「ずりぃ」のはえるさんに対して、というつもりだが。

「ずるい?」

「今さらそんなこと言ったってしょうないっすよ。悔しい気持ちはわかるけど、自分なんかには想像つかないっすけど、懺悔したい気持ちはわかるけど、いや、自分にはわからないっすけど、なんつうか」

「もしかして、酔っ払ってるの?」

 なに言ってんだ、酔ってるのはそっちだべ。こっちは体調悪くてこんなイカ臭い部屋で蒲団から動けずにいるっつうのに!

「えるさんだって、きっと言いたいことがあったと思うんすよ、だけど言えなくて、死んじゃって、なのにそれを、あるさんが、えるさんのこと『わからない』とかって言っちゃったら、えるさんの言葉誰が聞くんすか。誰も聞けないじゃないっすか、あるさんしか」

 また沈黙。自分で自分の発した言葉を反芻することができない。

 自分の言葉に責任が持てない状態は、やばい。

 よっぽど横になろうと思ったが、我慢した。枕元に置いてある水を一口、失礼します。

「すいません、なに言ってんだろ。実はちょっと体調悪くて、さっき薬飲んだもんで、ある意味酔ってるかもしれません」

 全部言ってしまった。結局、全部「無責任」にしてしまった。

「昨日は寒かったからね。もしかして雪に降られたくちかな」

 そんな優しい言葉で、こっちも少し落ち着いた。これまでで最もギャップの大きな言葉だったかもしれない。

「いや、ありがとう。昨日のことも含めて、改めてお礼を言う。ありがとう。言われてすっとしたよ。確かに逃げていた」

 逃げていた。一昨日のことが浮かんできた。

「そうだよな、あいつの言葉、俺が聞いてやらなくて誰が聞いてやるんだって話だよな。うん。ほんとありがと」

「いや、そんな、恐縮です」

 電話の向こうで爆笑。

「なんだそりゃ、梨本か」

「いあ、そういうつもりじゃ」

「面白いなぁ、やっぱり。俺たちが見込んだ通り、面白い!」

「へ?」

 俺たちが? 見込んだ?

「えるともよく話してたんだよ、はるまげどんおもしれぇって」

「そんな、恐縮です、あ」

「わかってるじゃん。ほんとに体調悪いの? テレビよりおもしれぇんですけど」

「いや、ほんと、えっと」

「言わねぇのかよ」

 あるさんさっき泣いてたのに、もうそんなに笑って、やっぱりずりぃよ。

「ほんとありがとう」

 ほんとに恐縮だった。なんだかよくわからんけど、そんなにお礼を言われるなんて。

 がんばれよ、応援してるから。最後にそう言って、電話は切れた。どおっと、疲れた。力が抜けてどさっと蒲団に倒れこんだ。

「なんだったんだ」

 まるで夢のようだったな……。ブブー、ブブー。また着信。また。

「もしもし」

「ごめん、忘れてた。もう一個話したいことがあったんだ」

「はい」

 あるさんの声は、すっかり明るかった。やっぱりずりぃや。


 あるさんとの電話がその後もずっと気になっていたというわけでもない。

 あるいはマツケンの「特製雑炊と特製玉ねぎジュース」(ドラエモン風で)が効いたのか、一時快方に向かった病状はマツケンが帰ったあと俄かに悪化した。

 夜にも雑炊と玉ねぎジュースを胃に入れて、体を拭いて着替えて横になる。

 目を瞑るとグルングルン部屋が回っていた。できの悪いソノシートから音が出るように、あるさんとの二度目の電話の話が頭の中を流れる。

 あるさんの声は頗る明るかった。

 一度は泣いたこと(本人に確認はしていないが、絶対泣いていた)など忘れてくれと言わんばかり、明るく、力のある声だった。

「ハル君、なんか迷ってんじゃねぇか?」

 ズバッと直球。

「ほんと、芸人も芸能人も誰もきてくれなかった。きたのはほんとハル君だけ。ほとんどこないとは思ったけど、何人か、ほんと面倒みたやつらはくると思ってた。けど、きてくれたのは見事にハル君だけさ。会場でみたときは、そんな余裕はなかったんだけど、今日なってふっと思ったんさ、なんか抱えてるんじゃないかって」

 沈黙を答えにするつもりはない。しかし、それは半ば答えになってしまうだろう。

 この際だ、こっちも聞いてもらえばすっきりするかも、と思って口が動きかけた。

「別に、聞く気なんかないんさ。聞く気もねぇし。聞いても仕方ねぇし。成功するためのアドバイスとかコンビでうまくやってくためのアドバイスなんか、俺に言えることなんかない。さっきの感じだと、俺よりわかってるだろうし」

 乱暴なようだが、納得できた。それでも一抹の寂しさは、体調のせい……、ばかりとも言えないようだった。

「ただ一つ、俺たちの経験から、これだけは言えることがある」

「なんですか?」

「自分を見失わないこと」

 自分を見失わないこと?

「そう。面白いネタを作るとか、成功するための強いメンタリティを持つとか、本当に大事なのはそんなことじゃない。勢いが出てきて周りにチヤホヤされても、逆に坂道を転がり始めてなにをやってもうまくいかない、てときでも、自分を見失わないこと。常に自分と向き合うってこと」

「自分と向き合う」

「周りの変化に気を取られて自分を見失ったら、それこそゴム無しバンジー。真逆さま。よくて大怪我。悪ければ再起不能。最悪、死」

 地面にたたきつけられてつぶれている自分を想像した。漫画のように地面に人形の穴を空けてめりこむ。

 紙のようにぺらぺらになって、ひらひらと宙を舞う。

「死」。それはそんなに遠い次元の言葉ではない……。

「天国と地獄をみた人間が、これだけはって言うんだから間違いない」

 経験者は語る。「自分を見失った」人間の末路、今となっては、語ることさえできなくなってしまったなんて。

「ほんとにさ、酒に溺れて体壊して、俺は栃木に帰ったほうがいいんじゃねぇかって何回も言った。でもあいつは東京に残った。あいつの心と体はボロボロだったんだ、だから地元に帰ったほうがあいつのためにいいんじゃないかと思った……」

 ぼろぼろの廃人のような人間が暗い部屋でうずくまっている。小さい小さい後ろ姿。一つじゃなく、二つ……。

「あいつを言い訳にするのはもうやめよう。そう、地元に帰りたかったのは俺のほうだったんだ。逃げたかった」

 紛れもなく、これこそ芸人「ある」として、山田一男の本音だったのだろう。

「もう疲れたんだ、あの、裏と表の世界、光と影の世界……、裏と影の世界に」

 思いに満ちた言葉だ。生身の肌で、きっと嫌というほど味わったに違いない。

「一見きらびやかに見える世界でも、そんなのは表だけ、飾りだ。光あるところに闇があるとはよく言うけど、あの世界は、少なくとも俺たちにとっては闇だった。人気の絶頂にあるときでも、いや、昇れば昇るほどに、深い闇の中に紛れ込んでいた」

 闇。そのための「自分」てことか。周りは闇だ。闇の中、「道」を見通す目を、灯りを自分でしっかり身に付けろ、そして失うなってことか。「闇」という言葉は、今の自分の状況とよく合っている。体調の悪いのもそうだが……。ぶるっと身震いした。

「脅かしちゃったかな。前途ある若者が、俺たちの後を追わないように祈ってるよ」

 後を追わないように……。この人は、これからどこにいくだろう。

「あるさんは、これからどうするんですか?」

「昔のダチでさ、うちで働かないかって言ってくれてるヤツがいて、そこで世話になろうかと思ってる。これからはサラリーマンさね」

「そうですか。もう」

「もう芸能界に戻る気はない。独りじゃね。……、どうかな。今のところ、かな。まあでも、いい経験させてもらったよ、なんていうと相方が怒るかな。生きていばこそさ」

あるさんの笑顔が浮かんだ。それで、話したいことはあらかた話したのだろう。

「体調悪いんだっけ。じゃあそろそろ。まあ、多分ないだろうけど、もしなんか聞きたいことあったらいつでも連絡ちょうだいな。活躍を祈ってるよ、じゃあ」

「ありがとうございます。失礼します」

 ふーっと大きく息を吐き出して、スマホを投げ出すように枕元に置いた。倒れるように蒲団に横になった。


 やけに前向きになってたな、あの人。あるさんの電話に付き合ったら気持ち悪くなってきた。相手に合わせてこちらも感情を上げたり下げたり。

 自分を見失わないこと。煮えた薬缶の中身のように渦巻く脳みそに辛うじて姿を保っていた一言。

 今の自分がまさしくそれだ。自分たちが。「はるまげどん」というものが。見失いかけている……。

 目を瞑ると世界が揺れていた。頭の血管が大きく脈打っている。体内で暴れ回る「なにか」、そんなイメージ、「なにか」の声まで聞こえるようだ。

 ――なんだこりゃ、マジでやべぇぞ。

 拷問に耐えるように目をつむったままうんうん唸っていると、いつの間にか気を失うように眠り落ちていた。

 マツケンがきたのはこれから一時間ほど後のことだった。


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