第2話 - 3

 状況的に自殺でほぼ間違いなかったが、一応警察が入っていろいろ調べたらしい。三日がお通夜、葬儀と告別式が四日。

 三日、正月らしく富士山の麓でのロケだった。

 富士山をバックに、湖のほとりで海パンいっちょで冷水風呂に入るという、これもある意味冬の風物詩的な仕事だった。

 これが昼過ぎに終わると今度は都内に戻って夕方からまた生放送に出て、その後はラジオに出演、スケジュールを消化して解放されたのは夜中の二時だった。つまり、日付は既に四日になっていた。


「じゃあ、ゆっくり休んで」

 マツケンの笑顔はいつもとまるで変わらない。グッと親指を立てて出ていった。

 楽屋に二人きりになり、ふっと一息つくまで四日がどんな日か思い出せないくらい、マツケンの様子は平常通りだった。

「キタさん、明日どうすんの? 明日っつうか、もう今日か」

 一瞬の間が空いた。北村のその間はしかし、迷っている、という間ではなさそうだった。

「俺は、いかない。いかない」

「いかないんだ」

「おまえいくの? だって、直接世話になったわけでもねぇし。逆に、いったら向こうが迷惑なんじゃね。あんた誰、みたいな」

 自分も同じような道筋で考えていた。だから意外だった。

 相方は「いく」と言うと思っていた。いかないにしても「いきたいけど」と言うと思っていた。

「おまえもいかんほうがいいんじゃね」

「なんで?」

 この「なんで」は条件反射といっていい。相方と逆をいきたいという。

「得るものなんてねぇだろ。時間と金の無駄だって」

「無駄じゃねぇだろ。無駄ってなんだよ」

 既に理性的な反論ではなく。部屋の反対側にいる相方に向き直る。

「得るものってなに。意味がわかんねんだけど。なに言ってんの」

 こっちをじっと見返している、狸の目を、その目の奥に向かって。

「あ? 他にやることあんだろうが」

「あるよ。わかってるよ。それとこれとは別だんべ」

 相方が、呆れた、という様子で体ごと視線を外した。

「勝手にしろよ。同情するような真似して、みっともねぇ。いろんな意味で『死んだ』人間に媚売ったってしょうねぇだろうがよ。そのかわり、また前みてぇに帰ってきて腑抜けんなよな」

「はぁー」

 抑えられなかった。

 吐き出す直前、相方が話し終わったほんの一秒、自分の後ろにはっきりと感じた。

 ゲコに聞かされた情景がパッと浮かんだ。ほんの一瞬だったが、それは稲妻のように脳裏を照らし、焼きついた。

「ハルてめぇいい加減にしろよ」

 ガガと椅子が床をこする、立ち上がったのは二人ほとんど同時だった。

 コントでもできないほどドンピシャのタイミング、内心ちょっと可笑しかった。

 もちろん、そんなことおくびにも出さない、相手に大きく歩みよったのは北村の方。

「おめぇさっきからなんなんだよ! 俺はよぉ、俺たちの将来のために言ってんだよ。ずっとそれを考えてんだよ、てめぇと違ってよ!」

「俺だって考えてるよ」

「考えてねぇだろうが。偉大な先輩の葬儀にいって自己満足か。逃げてんじゃねぇよ。脇目も振らずに打ち込まなきゃ、俺たちだっていつああなっちまうかわかんねんだぞ」

「仕事とかじゃなくてさ、命だろうが。人が死んでんだぞ! 『ああ』ってなんだよ」

「俺たちには直接関係ねぇだろうって。自殺した人間全員にお焼香しにいくんかよ。死に物狂いでやんなきゃいけねぇのはこっちだぞ。身内の人になんて言うんだよ。お笑い芸人ですってか」

「そうだよ。そう言うよ」

「バカか。あの人たちは芸人たちから干されたんだぞ。それをお前がいったら、どう思うと思ってたんだよ。誰も喜びゃしねぇよ。わかんねぇのかよ! えるさんとその家族の気持ち考えろって!」

 正論だ。その「正論」が鼻につく。癪に障る! 北村のくせに!

「ずいぶんまともな意見じゃんないすか、北村さん」

「なに?」

「マツケンに聞いたぜ。からみずらいって言われたって。あんた恐いんだろ、見るのが。自分の未来の姿見るのが、ああそうか、俺たち、じゃなくて、『俺の』だろ」

「ああー!!」

 言葉にならない叫びをあげて、北村が突っ込んできた。

 ガン! ダダン! 背中から強か壁に押し付けられた。

「いてぇなこの野郎!」


 相方、すげぇ顔で睨んでやがった。狸が、あんな顔を持ってやがったのか。

 正月の東京は、静かだ。都心でも、夜の街を彩る電飾もトーンを落としているようだ。車通りも少ない。

 まるで、この東京に自分一人しかいないかのように。初めてではないな。孤独感が、むしろ寒くはなく、包み込むように、妙に居心地がよかった。


「おい!」

「ちょっ、キタさん!」

 パッと入り口から誰かが飛び込んできて、二人の間に割って入り、さらに相方が引き離され、体が壁から起こされて。

 落ち着いているつもりだった。入ってきたのは後輩とスタッフ、さらにマネージャーのマツケンまで。

 その場はすぐにおさまった。深夜でもあり、野次馬もいなかった。

「煙草吸って帰ろうと思ったら、なんか音が聞こえたからさぁ、びっくりしちゃったよ」

 マツケンは二人に笑顔を見せてそう言った。

「すいませんでした」

 相方がみんなに一つ頭を下げて、部屋を出ていった。

 いつものリュックを背負っていったかは見なかったが、帰ったのだろう。いや、背負っていたような気がする。後に何も残っていなかったし。


 楽屋にマツケンと二人きりになった。後輩もいつの間にかいなくなっていた。

「すいません」

 口から言葉は出てきたが、マツケンの顔を見ることは簡単ではなかった。

「話せる?」

 優しい言葉だった。きっと、いつもの笑顔より優しい顔をしてるに違いない。

「ちょっと、時間をください」

 気持ちが昂ぶっていたわけではなかった。

 整理がつかない。なにから、どこまで、話していいのか。

 それよりなにより自分の口を塞ぎたかったのは……。

「まぁ、いいや。今日は終わろう。ずっと忙しいから疲れてるんだよね。連休だからしっかり休みなよ」

「あの」

 漸く顔を上げた。マツケンは下を向いてハンドバッグをごそごそしていた。

「いいいい。いいから」

「すいません」

 こっちを見てないマツケンに頭を下げ、そのまま俯いてマツケンのズボンの裾の辺りをじっと眺めた。裾と黒い革靴の隙間から見える赤い靴下、温かそうだ。

「また後でさ。別に怒ってないから。なんて言うのかな」

 バッグを探る手が止まった。一瞬言葉を切って、何かを思い出すように。

「羨ましいっていうか。なんていうか、青春だよね、うん、青春。古いかな」

 再び手を動かして、バッグからタクシーチケットを取り出した。

「はい、これで帰りな」

 そこで目が合った。思い描いた通り、涙が出るくらい柔らかい表情だった。

「なんて顔してんのよ。しっかりしてよ、うちのエースなんだから。ちっさい事務所だけど、二人に頑張ってもらって面白い芸人さん集めないといけないんだからさ」

「はい」

 次の「すいません」は、言葉にならなかった。そう言えばキタちゃんにタク券あげなかったけど、大丈夫だったかな、後で連絡してみよ。そう一人で言うと、こっちを見て小さく頷いた。そしてもう一度、頷いて。

「帰ろう。あ、もうこんな時間だし。うん、帰ろう」

 二人で連れ立って楽屋を出た。出たところで「あ」と声がした。見ると、さっき止めに入った後輩が立っていた。マツケンは、

「いいよいいよ、僕はキタちゃんに連絡してみるから。じゃあ、気をつけて帰ってね。じゃあまた」

 そう言って、こっちになにも言わせずにさっさと離れていってしまった。

「ハルさん、大丈夫すか? なにがあったんすか?」

 赤い色のフレームをした眼鏡をかけて、長髪で洒落た服を着たこの後輩を見ると、なんだかあっちゃんを思い出す。眼鏡だけじゃなく、顔つきもどこか似ている。

「なんでもねぇよ。なんつうかアレだ、若気の至りってやつだな、うん」

「いやいや、三十すぎたオジサンが、なに言ってんすか」

「年齢じゃないんだよ、気持ちよ気持ち」

「まあ、なんでもいいんすけど。ハルさん、ちょっといきましょうよ」

「やだよ」

「はやっ! て、どこかわかってんすか?」

「どこ」

「風俗いきましょうよ、風俗」

 すぐに返事をしなかったのは迷いがあったからではない。少しの「間」に笑顔を浮かべて、後輩に対する感謝の気持ちを、言葉にはしなかったが。

「今日はいいや。わりぃな」

 どこにもいく気分ではなかった。すぐに一人になりたかった。

「ラーメンでも食いにいくか」

「おっす! ごっつぁんです!」

 局の近くでラーメンを食べて、後輩と別れた。

「だってどうすんの、お前。帰るなら途中までタクシーで一緒にいけばいいだろ」

「いや、俺、風俗寄って帰るんで。渋谷のほうまでいってみます」

「歩いていくのかよ」

「はい。大丈夫です」

 じゃあ、と言って元気いっぱいスタスタ歩いていってしまった。

「なんだあいつは」

 おかしなやつだ。

 風俗に誘ってくれたこと、あいつなりの気遣いだと思っていた。元気のない先輩を励ましてやろうという。だからラーメンを奢ったのだが……。

 ただ単に風俗にいきたかっただけかもしれない、しかも、あわよくば風俗を奢ってもらおうと狙ったか……。気分が紛れたことは確かだった。

 すぐにタクシーには乗らず、こっちもぶらっと歩き出した。後輩の元気な姿を思い出して、今の自分の力のなさを笑ってみた。


 正月の東京は、車も少なく、煌びやかな電飾も普段よりトーンを下げていた。

 年末の賑わいから一転。今日、この時間、「お店」がやっているのか心配になる。

 そもそも、「いく」なんて一言も言っていない。いくつもりもなかったのに。

 ――あいつ、すげぇ顔で睨みやがって。狸め、あんな顔も持ってやがったのか。

 相方の顔が浮かんだ。真剣な顔だった。恐れを覚えるほどに。自分の姿が浮かんだ。恐れを覚えている、その姿を。

 ――みっともねぇ、ほんとみっともねぇ男だ、情けねぇぜ。

 マツケンに、後輩に、自分は決して孤独などではないはずだ。こうやって元気づけてくれる人たちが近くにいる。

 それでも、いや、それだからこそなおさら余計に、孤立感は強くなる。

 それは、彼らに対する裏切りだ。彼らに話していないことがあった。

 状況から見て、相方が襲い掛かってきた、悪者のように思っているかもしれない。相方がとっとと出ていってしまったことで、相方は彼らに誤解されたままになっている。そう。

「誤解だ」

 今でさえ誰にも言いたくないことを、相方に、ある意味最も言うべきでない人間に言った。しかも、完全な悪意を持って。

 最悪だった。結果から考えれば、全てがまるで計算されていたかのようだ。

 相方に襲いかからせるために、そして、その現場を他の人間に見せるように。

 年が明けたばかりの街を、まるで世紀末の廃れた町を歩くがごとく、項垂れて歩いた。

 ふと見上げれば高層ビルの群れ。真っ暗な夜空に道を作っている。どこまでも続く夜空を区切るという、悪、大罪だ。

 どいつもこいつも、夜空を犯して生きている。俺は、押し潰されたいのだ、下敷きになりたいのだ。

 あんなことを言いたいわけじゃなかった。相方の、死んだ人間に媚を売る、という言葉、発想が許せなかった。

「命」をそういう風に捉える人間性だ。一瞬浮かんだのは、包丁を振り上げる父親と、その父親から母と弟を守るまさおの姿だった。

 赤みがかった照明の室内で、恐怖も忘れて父親と対峙するまさおの必死の表情だった。

 相方に、お前のどこが死に物狂いなんだと言いたかった。

 それは生半可なもんじゃない、「死」とリアルに向き合わなければ、死に物狂いなどわかるわけがないだろう、と。逃げてるのはお前のほうだと、言ってやりたかった。

 いや、それはある意味で言ってやれた。それはしかし、最悪の言い方で。

 完全に負けていた。「えるさんと家族の気持ち」を引き合いに出された時点で、まるで自分のことしか考えていない自分は負けていた。まさかの逆転負けだった。

 冷たい北風が吹きぬける。辺りの街路樹がザザザァァと鳴った。

 ふっと体が浮き上がる、まばらな光の間を、どんなに舞い上がたってあのビルを超えることさえできない、自分はちっぽけな人間だ。

 もとはと言えばえるさんが死んだりするからいけないんだ。こんなに苦しく、寒く、孤独なのはえるさんが死んだせいだ。

 死ぬことはなかった。死んだらいけない。しかも自殺なんて、最悪だ。あんたが弱いから、周りが苦しむのだ。愚かもの、ザ・フール。

 あなたの自殺は、無駄死にだ。この狭い東京を真っ暗にすることさえできはしない。誰が悼んでいるというんです? 

 お笑い芸人をこんなに思い悩ませて。あなたは本当に、死んでしまったのだ……。

 どこでタクシーに乗ったのか、はっきり思い出せない。気がついたら、

「ここでいいです」

 と言って、狭い路地に入る手前で降りていた。

 三年前ならどうだろう? 

 もしこれが三年前なら。きっと世間がひっくり返るような騒ぎになっていたに違いない。もちろん、三年前なら起こりえない出来事ではあるけども……。

 見上げた空は広かった。そこに、二つの「向こう」を無意識に重ねていた。

 ――向こうは星がきれいなんだろうな。今日あたり雪でも降ってるかな……。

 闇の中によく見たアパートのシルエット。そのアパートの向こう、ぼんやりとした東京の夜空に、ポツンポツンと星が鈍く光を放っていた。

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