第1話 - 3

 店から出た途端、気持ち悪くなって近くの電柱に嘔吐した。気分は最悪だった。

「飲み過ぎた」

 自分で自分に口裏合わせるように呟いた。

 夜風に吹かれて歩く。

 きれいな夜空、月は既に山の影に姿を隠してしまったらしい。

 暗い中に電灯がぽつりぽつり。

 道の脇から湧き上がる虫の音。「間を通る」というより「トンネルを抜ける」といった感じ。

 それは、己とは全く無関係にある。

 店を出てすぐ追いかけてきたゲコに送られて家まで無事に帰ってきた。

「じゃあな、おやすみ」

「ああ……、おめ、大丈夫か?」

 店を出てから、それが最初の会話だった。

「ん? 大丈夫だよ、おやすみ」

「おやすみ」

 ゲコの視線を背中に感じつつ、しかし一度も振り返ることなく家に入った。

 家の中は真っ暗だった。

 壁を手探りしながら這うように台所までいくと水を一杯あおった。トイレにいって出すものを出し、二階に上がって着替えもせず横になった。

 そのまま眠りの底に落ちてしまえばと思ったが、目を瞑ると、ぐるぐるぐるぐる回っている。

 回っている、自分の体のほうだ。

 どこまでも、落ちていくのか、昇っていくのか。「1993」も回っている。

 近しい苦い思いではなく、「夏の日」の思い出が浮かんだ。

 太陽ギラギラ、暑くて川に飛び込んだ、あの日。

 後悔はなかった。むしろさっぱりしている。

 前もって、その「宣言」をしにきたわけでないことはもちろんだ。

 言ってしまった今、言ってよかった、という感想がある。

 それを言うことこそ、この「帰省」の意味ではなかったのかとさえ感じている。

「夏の日」の思い出と「1993」が交互に浮かんでは思いを収束させていく。

 目をつむる瞼の向こうが白く光った。雷は、夕方の名残。

 半ば酒に浸った脳みそで作るイメージだ。

 明日の朝、目が覚めて恐ろしい孤独感に襲われたとき、果たしてそれに堪えられるかどうか。

 そんな不安を出したり隠したりしているうちに眠っていた。


 不快感とともに目が覚めた。

 飲んで、歩いて、汗も流さず着替えもせずに眠ったからだ。

「ズボンくらいは脱いだのか」

 ほとんど脱げかけたトランクスを見ながら呟く。そんな記憶も曖昧だ。

 不快感は生理的なものだけではない。

 飲み屋でのことが蘇る。

 最初から妙にフワフワしていた。思い返すと、やたらテンションが高い。

 張子の虎。弾ける寸前のバブル状態だ。

 弾けた直後の混乱、反発。

 そして萎んでいく感情経済。

 反動、嘔吐。そういえば、元気がない。トランクスはぺちゃんこだ。朝だというのに。

 外はすっかり明るかった。今日も既に、すっかり夏だった。

 全身を不快な汗に包まれながら、下に下りて水を飲んだ。

 そして冷蔵庫から麦茶を一杯。

「起きたかい」

「ん」

 今朝は母親がいた。だからなんだというわけでもないが。

「朝ごはんあるよ」

「ん」

 時刻は朝の八時ちょい前。

 昨日帰ってきたのが夜中の十二時過ぎだろうから、起きるにはちょうどいい時間と言えば言える。

「ちょっと散歩してくる」

「あら、そう」

 今はまだ飯をかきこめる状態ではない。

「あっちに、何時にいくの? 今日いくんだろ」

「十時過ぎには出るよ。昼頃の電車に乗りたいから」

「けっこう早いんだねぇ」

「ああ、明日から仕事だから」

「あんた、顔色悪いわよ、大丈夫かい?」

「ちょっと飲みすぎたかな。ちょっといってくらぁ」

「気をつけなよ。川なんかに落ちんじゃないよ」


 外に出る。と、暑い。

 二日酔いの頭にこの陽射しは相当きついものがある。母親の心配はまんざら的外れではない。

 思い返して気持ちが澱むということはなかった。

 むしろ、帰ってきたときは、故郷に対して「下」に見ている部分があった。

 昨日の夜までそんな気持ちがあったかもしれない。あっちゃんやゲコと遊んでいたときでさえ。

 今は、そんな気持ちはない。

 あっちゃんに向かって言ったこと、あっちゃんだけに言ったわけではないが、それは「間違い」であったとは思われない。

 本音と本音をぶつけ合った。お互いにとって、それだけでも「帰ってきた」意味はあるように思えた。

 それが寂しさをより引き立てるのかもしれない。

「成長した、大人になった」ことを実感するのが友達との喧嘩別れだったか……。

 あっちゃんとあれほど本気でぶつかりあったことはない。

「喧嘩」自体が成長の証だった。

 お互いが自分の人生にある程度自負を持っているからこその喧嘩だった。

 四、五人の子供たちが脇を走って追い越していった。

 このクソ暑いさなかに、よくあんなに走れるもんだ。自分にもあんな頃があったんだろうか。

 当然のように子どもの自分とダブっていた。

 目の前をかけていく小さい自分の背中から糸がつながっている。細い光の糸は自分とつながっている。

 ここで後ろを振り返ったわけではないが、今の自分の背中からも糸が伸びているはずだった。

 親友、仲間、後輩先輩(もろこし頭も含む)との別れが大きな孤独感にならない理由、決定的な寂しさを免れている原因がこの糸の先にある。というのはなんとも皮肉だ。

 それは自分が「今の自分」を作るために真っ先に棄てたものだったから。

 久しぶりの夏らしい夏、故郷の夏が「寒さの夏、おろおろ歩く夏」にならずに済んでいるのも「ソレ」のおかげだ。

「ふぃぃ。あっついぜよぉ」

 昨日の川原に今日もきていた。

 さっきの子供たちが、やっぱり川の中で遊んでいた。

 昨日と同じ桜の影、芝生の土手を二三歩下り、そこに腰をおろした。

 朝八時の太陽光線が降り注ぎ、周りの草木が音を立てて焦げる中で、子どもの膝丈ほどの大して深くもない川はサワサワと涼しげにせせらいでいた。

 昨日とは全く違う。

 昨日は数年前とも違っていた。次にくるときも、また違うのだろう。

 あんな風に三人で遊ぶことは、もうないのだろうか。

「そういや、ゲコがいたな」

 昨日ついてきてくれたのだな。あいつだけは、いつまでも変わらないような気がした。

 目を閉じていると、引き込まれるように眠っていた。

 はっと目が開いた。夢を見たようだ。なんだかひどく雑多な、ごった煮のような夢だった。

 友だちがいて、後輩先輩がいて、昔の彼女がいて、今の相方やなんかも出ていたような。

 夢の中の言葉は、なんだか川で遊ぶ子どもたちの叫びに似ていようで。

 携帯を見ると、八時半になるところだった。

「しまった、朝の連ドラみんの忘れた」

 上半身だけ飛び起きたが、またすぐにたドカッと背中を芝につけた。

 そして再び目を閉じた。眠りが誘うことは、なかった。

 顔の上でさえずるヒヨドリやメジロの声が、くすぐったい。子どもたちの笑い声が、くすぐったい。そんなところから手を伸ばして、くすぐらなくてもよかろうに……。


「じゃあいくから」

 時刻は十時二十分過ぎ。全身ずぶ濡れになって家に戻ってきたのが一時間ほど前。

「いつまでもバカやってないで、少しは大人になんな」

 と母に怒られた。

 着替えて朝飯かっこんで帰りの支度して、かなり慌しい朝になってしまった。

「もういくの? 駅までどうすんだい? お母さん送っていけないけど」

「バスでいくよ」

 近くのバス停からバスに乗っても、この時間なら幾らなんでも間に合うだろう。

「そう。じゃあ、またいつでも帰っておいで」

「ああ」

「あとこれ」

 母親が差し出した、一通の封筒。

「お父さんから」

「え?」

「後で開けてみな」

「ああ、どうも……」

「電車の中で開けないほうがいいよ」

「え? なんで?」

「泣いたら恥ずかしいだろ」

 そういうことは口に出すもんじゃないだろ。

「向こうにいってから開けてみな」

「ああ、わかったよ。じゃあ、いってみらぁ」

「はい、じゃあね、元気でがんばんな。またいつでも帰ってくるんだよ」

「はいよ」

「今度くるときは東京のお土産もっと持ってきとくれよ」

「おお」

「あと、キムタクのサイン、お願い」

 すぐに返事ができなかった。ある種の励ましとも取れるが、多分本心に違いない。

「お父さんには、珍しいお酒とか、つまみとか。あ、時計が欲しいとか言ってたかな」

「は?」

「時計。そんなに高いのじゃなくていいから。クイズ番組が好きだから、日曜日の夜七時にやってるやつ、それに出たらお父さん喜ぶよ」

 どんだけ息子ウェルカムなんだよ。

「あと、そうだ」

 まだなんかあんのか。

「サインにはちゃんとわたしの名前入れてもらってね。写真はちゃんと撮っておいておくれよ。スマホで動画撮れるだろ。あたしの名前言ってもらって」

 お母さん、じゃなくて、ちゃんとあたしの名前を呼んでもらうんだよ。

「じゃあ」

 いってらっしゃーい、と母親が玄関の外まで出てきて見送っていた。

 流石に道路までは出てこなかったらしい。とぼけた別れ方で、あっけにとられる内に前に向かって歩き出していた。

 それでも、東京に「帰る」とは言えなかった。

 母親のためではない。自分のためだ。

 これ以上「ここ」とのつながりが希薄になって、もしなんかあったら。

「お笑いバブル」が弾けでもしたら……。

 行き場を失い、路頭に迷い、上野公園でそこの主の「げんさん」に弟子入り、元お笑い芸人として仲間内で人気者になり、ワイドショーに出てブレイク、ホームレス芸人として第二のお笑い人生が……、「ホームレス芸人」てなんか聞いたことあるような……。

 もう一度振り返った。誰の姿もそこにはなかった。

 母は、泣いていなかった。今も、泣いてなどいないだろうか、自分は……。

 涙は心の汗という。頬を汗が伝い、ツツと首筋を流れた。

 家からバス停までは歩いて五分。そこから駅までバスで二、三十分。そのバスは一時間に一本。

 ――時間調べとけばよかったかな。間に合うよな……。

 プ、プ、とクラクションが鳴った。

 道の反対側に車が止まっている。白のマークツー。

「ゲコ」

 似合わないサングラスをかけたゲコが運転席の窓を開けて、こっちを見て笑っていた。


「ありがとよ。ちょうどよかった。出かける途中だったのか?」

「いや。朝電話してよ、おまえのおかんに聞いたんよ」

 こういうの黙ってるとか、あの人、どんだけだよ。

「そうなのか。サンキュ」

 あえて気持ちを込めずに言った。それが精一杯だった。

 窓を全開に開けてずっと外を見ていた。

 エンジン音と風の音、暫く無言の時が過ぎた。

 くるときは退屈だと思っていた緑の景色、この日もやっぱり、退屈だな。これがバスだったら、きっと違った感じになっていたろう。

「俺じゃねぇべ」

「ん?」

 ぼそっとゲコが言った。

 なんのことか、最初はわからなかった。

「おめぇんち電話したのは俺じゃね、あっちゃんだ」

「……」

「あっちゃんから朝俺んちにも電話があって、このくらいにうち出るから、できたら送ってやってくれって」

「……」

 言葉がなかった。

「俺もそのつもりで朝から準備してたんだけどな、いつでも出れるように。ただ、ちょうど親父が出てて車黙って借りてきたっけ、帰ったら怒られるべな」

「……」

「どうした、ハル。おめ、まさか泣いてるんか?」

「ばっ、何言ってんだ、飲みすぎで、ちょっと頭がいてんだよ」

 実際泣いてはいなかった。

 が、ゲコの顔を見たら泣いてしまう、そんな気がして振り向くことはできなかった。

「大丈夫、ハルのやつが最後に泣いてたなんて、誰にも言わねぇって」

「泣いてねぇって言ってるべ」

 ほんとに泣いてない! しかし、明日には「ハル泣いた」として町中に広まっているに違いない。

 ――それも悪くない。

 ゲコがみんなに吹いて回るのを想像した。

 十四年分の夏休みが、もう終わろうとしていた。


 三十分ほど電車に乗れば途中の駅で新幹線に乗り換えることはできた。出る前はそれも考えていた。

 が、乗り換えることはしなかった。

 あの寂れた無人駅につながるレールの上でもう少しのんびり揺られていたい、そんな感傷があったのかもしれない。

 窓の外は変わらずの緑、緑。山や林、畑、田圃の間を抜けて、川を渡って、まばらな民家の屋根を飛び越えて。

 途中、母親に渡された手紙を読もうかと思って手に取ってみた。

 手に持ったまま二、三分、じっと見つめてみたり裏返してみたり、結局開けずにしまった。

 再び窓の外に目をやると、東の空に入道雲が膨れ上がっていた。太陽に照らされ、大きく育った入道雲が目に痛いほど白く輝いていた。

 山沿いでは夕方から雨になる。朝の天気予報でそう言っていたのをふっと思い出した。


 スマホに「車窓から」の景色を、心の中でナレーション入れながら録画していると、ゲコがいきなり話し始めた。

「ハルは知らねぇか、おめぇが高校卒業して東京出ていって、その年はめちゃくちゃ天候が不順で、農家の家は大打撃受けた」

 知らなかった。そんな話をされても、「それがどうした」くらいにしか思わなかっただろう、昨日までなら。

 ゲコが昨日の飲み屋でのことに関連して何か話したいのだということを、不快な思いなく理解した。

 普段のふざけたことを言うときと真面目な話をするときと、ちょっとした雰囲気や話し方の違いで瞬時に相手に悟らせる。ある意味、トークの天才かもしれない。

「おめぇんちの近くによ、赤城ってうちがあったろう、俺らのいっこ下にまさおってのがいたんだけどよ。おぼえってっか?」

「ああ、憶えてるよ」

赤城のまさお。中学校くらいまではよく遊んでた。「ハル、ハル」言っていつも後にくっついてた。

「その年の暮れによ、そのまさおの親父が包丁振り回して家族刺そうとしたことがあったんだ」

「な!」

 なんだそりゃ!

「それも知らなかったか。まぁ、無理心中だ。叫び声聞いて近所のもんが駆けつけたときには母親が血まみれで倒れてた。その母親と弟庇うようにまさおが親父の前に立っててよ、親父は血の付いた包丁持って突っ立ってた。向かい合ってたんだ。他のもんがきて余計に興奮したんだべ。いきなり包丁振り回し始めてよ、まさおたちに襲いかかった。それを取り押さえたのがおめぇの親父だ」

「ほんとかよ。だっておまえ、まさおの親父っつったら、めちゃめちゃ真面目で人がよくって、大人しい人だったろうが……。全然知らなかった。親父もオカンも何も言ってなかったぞ」

 ふと思い出したことがあった。まさおの家について。

 まさおの祖父は好奇心旺盛というか、野心家というか。さまざまな作物に手を出した。

 当時まだほとんど普及していない珍しい野菜の種や苗を仕入れてきては挑戦し、そして失敗した。

 借金を膨らませるだけ膨らませて、コロッとあの世へ旅立った。

 残された家族の苦労は大変なものだった。周りもできる限りのことをしようとした。

 食べ物を分けたり、お金を貸したりもしたが、実際どれほどの助けになったのだろう。

「大人たちは、真面目過ぎたのが逆に仇んなったんじゃねぇかっつってたけど。警察に捕まってそのままどっかの施設に入れられたっつう話だけどよ、それっきり帰ってこねぇ」

 衝撃的すぎる話だった。

「まさおたちは。その、母親と兄弟は」

「母親も命に別状はなかった。まさおと弟は軽くて済んだ。でも、まさおたちは母方の親戚に預けられて、母親も傷がよくなったところでその親戚の方にいっちまった。家はすぐに取り壊されて今は空き地になってる。気づかなかったか? 昨日川いったべ。あのちょっと先だ」

「気づかなかったな……」

 そんな話、思いよるわけがない。

「後にも先にも、あんな血なまぐせぇ話はあれっきりだけどな」

 二度も三度もあっていい話ではない。

 その光景を思い描いてみた。

 この町に、なんて不似合いな映像だろう。そんなの、まるで横溝正史の世界……。

「ハルの親父さんもよ、それまではでっけぇ声でお前の悪口言ってたっけ、それ以来聞かなくなった」

「そ……」

 言葉はすぐに行き場を失う。映像の中の人間の、誰一人にかける言葉は見つからない。そうなる前に、なんとかならなかったのか、と……。

「ハルの親父だけじゃね。みんな大人しくなっちまった。あんときゃ町全部暗くてよ、暮れも正月もあったもんじゃなかったべな」

 ただでさえ薄暗い冬が一層暗くなる。そのまま町全体が窒息してしまうかのごとく。

「まさお……」

 小学生のまさお。人のいいおじさんと優しいおばさん、いつも兄貴と一緒に遊んでいた弟。

 死んじまったわけじゃない、でも、もう二度と会えない……。

 ――そうか、あの川で遊んでた子ども、妙に懐かしいと思ったら、まさおだったのか……。

 太陽が町を白く焼いている。

 真っ黒に日焼けした草木が光を反射して、田舎道を走る白いマークツーの助手席に向かって光の粒をぶつけていた。


 さっきまで眼前にそびえていた山が大分遠い。

 線路沿いに大きなショッピングモールが姿を現す。

 まだまだ東京から離れてはいるものの、緑が徐々に少なくなってきていた。

 ガタン、目の前が暗くなると電車の線路を踏む音が一際大きくなる。トンネルに入った。

 黒く塗り潰された窓ガラスに映る顔。

 それはもちろん自分の顔であろう。

 ――みんなに謝らなければならない。

「みんな」の先頭にいるのはもちろん眼鏡の男だ。大きな借りができちまった。

 いくときはどんな顔をしていたろう。

 暗闇に自分の顔を浮かべるなどしてこなかった気がする。

 光の先に浮かべてみても、闇に彫り付けるようなことは、してこなかった気がする。恐くてできなかったような気がする。

 今だって、顔の造作が変わるわけはないが、向かい合い、受け入れることはできているようだ。


「おめの言ったとおりだ」

「なにが」

「町のみんながやりたくてもできないこと、ハルに乗っけて応援してるんだ」

 すまんと言いかけた。

 当然だ。だって、それが「俺たちの仕事」じゃねぇか。

「確かに情ねぇな。みんなのそういう気持ちを『うぜぇ』なんて言っちまってな」

 反省しきり。応援してくれる「ファン」の声を素直に汲めないとは。一人でも多くの人から「応援される」ことが。

「応援される」ことこそが、仕事なのに。

 返す返すも、情けない、醜態を晒した。酒が入っていたとはいえ。ゲコの横顔がニッと緩んだ。

「今朝、あっちゃんから電話きたとき、あっちゃん後悔してたべ。ハルの気持ちを受け止めてやれなかったっって。あいつの『コテージ』になれなかったって」

 コテージて……。FFか!

「いっつもいっつも心配してる。一番心配してるのはあっちゃんだ」

 妙に納得がいった。誰よりも心配し、誰よりも願っていてくれたに違いない。

「まだ続けるんだべ、芸人」

「当たり前だろうが」

 危うく詰まるとこだった。とぼけた顔してこの男は。

 しかし、言わせられた、このことが、自分の覚悟を再確認し、綻びを修復する「のり」になる。

 あるいは、一歩を踏み出す「バネ」になる。

 あっちゃんとその向こうにいるみんな、町の連中に投げつける。

 ――もう二度と「うぜぇ」なんて言わねぇ!

 重たい思いを力に換えて、それをまた吐き出して、みんなをもっと笑わせる。そう、みんなに喜んでもらいたいんだ。

「まさおも見てっかな」

 人懐っこい笑顔がふっと浮かんだ。それはいつまでも「小学生のまさお」のままだ。

「あたりめぇだ。おまえのこと誰よりも慕ってたんはまさおだ。きっとおかんと弟と一緒に見て大爆笑してんだろ」

「そうかな」

 ――だと、いいんだけどな……。

 いつか絶対まさおに会いにいく。密かに誓った。


 トンネルを抜けると、景色にグッと彩りが増した。建物が増えて賑やかになった。

 陽射しを受けてカラフルな家の屋根がキラキラと輝いてた。

 自転車に乗るおっちゃん、子どもの手を引いて歩くお母ちゃん、日傘をさして歩くおばちゃん。

 在来線の各駅停車とはいえ、すれ違う人々をあっという間に置き去りにしていく。

 過去から現在へ、まるでタイムトリップしているかのように。

 空が、だんだんせり下がってくるようだ。

 空気の密度も重くなり内臓が圧迫される。電車に乗ってる人も多くなる。戦地に赴く兵隊か……。

 実家の周りは山ばかり、なんにもない。

 夏が終わって秋がくればすぐ冬の足音を聞く。

 初雪は今日か明日かと毎日空を見上げる。

 そして一度雪が降れば町はあっという間に白くて厚い雪の下。熊にでもなったみたいに穴倉にこもって春がくるのを待つ。

 ――ただ待つだけだ。

 春が早くくるような機械やおまじないがあるわけじゃない。

 抗えない力に頭を押さえつけられ、じっと、待つだけ。

 でも、中には待てないやつだっている。

 自分から、「春」に向かって町を飛び出す人間だっている。

 ――出た先が春とは限らねぇけどな。

  それでもそのほうがいいんだと思ってた。

 そっちのほうが偉いんだと思ってた。

 違った。

 抗い得ない力に必死で耐えていた、じっと待っていた。

 彼らに向けた「うぜぇ」は嫉妬か、劣等感か。

 肌で感じた。

 抑え切れなかった。もろこし先輩にぶつけ、あっちゃんにぶつけた。

 戻ってきてやった、「テレビに出てる芸能人」が、ど田舎の故郷に帰ってきてやった。

 ――とは、どんだけイタイんだ、俺は。 

 汗顔の至り。

 前身の汗腺から汗が滲んだ。

 みんなにとっては日常の中の単なる非日常、たった二回のちょっと特別な飲み会だ。

 ――こっちにとっちゃ、この十四年を揺さぶられるほどのインパクトだのに。

 ここで生きていくという信念が、彼らを太く強く見せていた。ゲコが言った。

「なんだかんだ言っても俺たちはこの町が好きなんだ。それによ、俺らだって人生諦めたわけじゃね。みんなそれぞれ夢持って毎日生きてんだ。俺もあっちゃんも。この町でもできることがある、ここだからがんばれる夢があんだ」

 ま、お前みてぇにでっけぇ大したもんじゃねぇけどな。そう言って、こっちを向いて笑った。

 助手席の人間がまっすぐ前を見ているのに、運転してる人間が余所見をして。ゲコが笑っていることは、声でわかった。

「いつでもけぇってこれるなんて思うなや。俺とあっちゃんに女優の嫁さん紹介するまで、ぜってぇやめさせねぇ」

 最後に見せた、今まで見たこともないほど真剣な顔だった。駅について、最後の言葉だった。

 真剣な顔が演技であることはわかったけど、それに演技で返すゆとりはなかった。

 お笑い芸人のくせに、真顔で「おう、じゃあな」て。

 最後に「ありがとう」なんつって。

 独り相撲もいいとこだ。

 笑われるのじゃなく、笑わせろ。それが仕事だろう。

 東京という街は生き物だとどこかで聞いた。

 時々刻々、成長し、消えていく。スカイツリーの建設現場にロケにいって、自分を重ね合わせたこともあった。

 そんな芸能界こそ、盛者必衰の理を映す現代の平家物語。驕れる平家久からず。

 ――実際には大御所として長々君臨している人たちもいけど。

 明日をも知れぬは弱卒の性だ。力がなければ生きてはいけぬ。力だけでも生きていけぬ。

 上野駅で山手線に乗り換える。人ごみを掻き分け押し退け、己が進む道を切り開く。

 なるほど、戦場か。

 自分の生まれた町でこそ頑張れる夢があるとゲコは言った。まだ人生諦めたわけじゃないと。

 ――だったら俺は、どうなんだ。大事なものを擲ったのは、俺のほうじゃないのか……。

 他人の道を押し潰すように、まったく自分のことしか考えていない。

 袖触れ合う人を憎み、疎み、そうやって日々を暮らす「都会人」よ。

 そんな人たちに生かされる。まるで「笑い」という媚を売っているかのようじゃないか。

 ――俺は、夢をがんばっているんだろうか……。

『次は高円寺、高円寺』

 電車内に自分が降りるべき駅の名前がアナウンスされた。

 電車から出る。むっと自分の体を包み込んでくる。熱気、湿気、臭い、人ごみ、人いきれ。

 東京の空気が、再び体にまとわりついてくる。

 ――踏み出せ!

 ドアから出る瞬間、後ろの人に押されながらも座っていた座席を振り返った。

 何もないことを確認する。

 もう振り返るまい。小さく心に誓った。体の真ん中を通るレールを、ただ前に進むだけだった。

 東京の夏は、まだまだこれからだ。

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