第1話 - 2

「もう十二時なるな、ゲコ」

「……ん? ああ、もう時間?」

「おう、そろそろ戻ろうぜ。おい、おまえよだれ、草ついってっぞ」

 静かだと思ったら、ゲコのやつ、眠っていやがった。寝惚けた顔を見て、体を起こしたあっちゃんが声を出して笑った。

「もう仕事か」

「自営業だからちったぁ時間の融通がきくんだけどよ、そろそろ戻らないと、親父に怒られっちまうからな」

「俺はこれから買い物だ。修理に使う部品が足んなくてよ。ちょっとふもとまでいってこねぇと」

「そうか。悪いな、わざわざ抜けてきてもらって」

 自然に出た言葉。言われるまでもなく気色悪い。

「なんだよ、気持ちわりぃ。どうせ暑くて仕事どころじゃねぇけどな」

 そんな言葉が嬉しくて、ちょっと緩んだ。三人とも上半身を起こしている。

「飯でも食いにいこうと思ったんだけど、どうする?」

「あ」

「いいべいいべ、また夜会うんだし。日に何度も見る顔じゃねぇって」

「おめぇな」

「だな。こんな冴えねぇツラ見ながらじゃ、折角の飯がまずくなるぜ。つうことで、ここらで解散かい」

「おい、いくっつってんだろうが」

「うっせぇ。いかねぇってんだろう。家になんかあるだろうが。家で食え、家で」

「冷蔵庫に卵がいっぺ入ってた。それでもかけて食っとけや」

「なんでお前がそんなこと知ってんだよ。おい、いこうぜ」

「ゲコ、家まで頼むよ。ハルはどうする? まだいるか?」

 言いながら、二人が立ち上がる。

「いや、だからよ」

「まあいいや、まだいろわ。俺ら先に帰っから。いつまでこっちにいんだっけ?」

「え? 明日の昼ころ帰る予定だけど」

「そっか、じゃあまた夜いくからよ。それまで休んどけや」

「ちゃんとシコシコ抜いとけや」

「じゃあな」「じゃあな」

 土手を登り、二人はさっききた道を戻っていった。その後ろ姿を少し見送って、再び横になった


 口では「いく」などと言っておきながら、結局立ち上がることはなかった。


 会話を苦々しく振り返った。食欲などない。ムカムカと、胃液が逆流してくるようだ。「あ」と言葉に詰まった後の自分の発言は二日酔い以上に気持ち悪かった。

 ――変わっちまったな……。

 二人に絶妙な気の遣わせ方をさしてしまった……。

 三人、家が隣同士というわけではないしそれほど近いわけでもない。もっと近くに他の同級生もいたが、物心ついた頃には三人でいつも遊んでいた。

 親同士が親しくて家族ぐるみで付き合っていたというのが大きな要因なんだろうが、それでも他の近所の子どもたちではなく、ほとんど常にあの二人と遊んでいたということは、子どもなりに馬が合ったんだろう。


 小学校中学校は町に一つずつしかなかったためにずっと一緒だった。いつも一緒に遊んでいた。

 中学のときはみんな違う部活に所属し、それでも帰りは一緒に帰ってきていた。

 高校で別々になると、一人はちょっと道を外れたが、実家には連絡しなくても二人には必ず居場所を教えた。

 高校卒業、一人は町を飛び出して東京に出た。二人とも「がんばれよ」といって送り出してくれた。

 東京に出ると、驚くほど連絡をすることがなくなった。それどころではなかった。

 あっという間に時間が過ぎていき、日々暮らしていくことに必死で故郷と友人に思いを馳せる余裕もなかった。

 何度か引越しを繰り返すうち、昔の思い出と一緒に二人の連絡先を書いたメモもなくしてしまった。どこにあるか、忘れた。


 漸くある程度人生の方向性が決まり、経済的に楽ではなかったが、それでも心に若干の余裕が生まれたのが東京に出て八年目九年目。

 仕事も徐々に増えていき、それなりに芸能界でのやりかたもわかってきた。漸く、両親に連絡を取ることができた。

 これで帰れる。昔の仲間たちとまた会える、遊べる!

そんな喜びはなかった。

 全てが遠かった。距離だけでなく、思い出も、友情も。全てが遠い昔、今の自分とは非連続な別の世界の出来事のように。


 自分はもうあの頃の自分ではない。

 東京で、芸能界で生きてきた、あんな山奥で暢気に暮らしている人間とは、もう違う種類の人間になった。

 あいつらはいい友達だったが、住んでる世界が違ってしまった。もちろん親友だ、だけど、あいつらと共有できるものが、果たしてこれから先にあるだろうか。

 それでも、故郷に錦を飾るという意味で、そろそろ昔のダチに会ってみるのもいいかな、くらいに考えていた。

 もしくは、俗に言うテレビ的な言葉を使えば、東京でビッグになっても「俺は昔のままの俺で、地元に帰ってくれば昔と同じように仲間と遊ぶんだ、でも忙しくて滅多に帰ってこれないんだけど、ホントは昔みたいにバカやりたいんだ」とか。そんなテレビ番組でコメントするとしたら。


 要するに、光輝いている自分を見せびらかしたかったんだ。

 川では子供たちの楽しげな声が、水飛沫と一緒に弾けて太陽の光に煌いていた。

「そっちそっち、シゲ、そっちいった! 捕まえろ!」

「わかってるって、ちょっと黙っててよ、魚が逃げちゃうだろ」

「シゲ、シゲ!」

 ……。

 目を開けば、夏、元気な子供たちが聞こえてくる。

 目を閉じれば、夏? 

 子供たちは遠くなり、暗闇の中に何かが膨らんでいく。東京での生活、事務所、相方、芸能界、彼女……。不安、迷い、恐れ。

 十四年という歳月の重さがのしかかってきた。初めてと言っていい。頭の先にある桜の木が倒れてきたかのような重さ。

 ――俺は、もう帰ってくるべきではないのかもしれない。

 自分に言い聞かせるように、ゆっくりと頭の中にその言葉を流した。

 落ち着いて、桜の木をどけようとした、というか、その言葉で桜の木を消せると思った。

 消えないようだ。

 空は青く、雲は白い。

 半年ほど前にいった沖縄の青空とは、まるで違うものだ。

 もちろん東京とも。

 沖縄の空はきれいだった。南国の、突き抜けるような空と、そして海。

 こっちにゃ海はないが、空も、沖縄と比べるとなんだか濁っているような。

 沖縄、またいってみたい、何度でも。この空は、なんか退屈で……。

 いつの間にか、子供たちの声がやんでいた。

 重たい体をやっと起こして川を見下ろす。シゲとその仲間たちの姿はなくなっていた。

 それでも静寂とはほど遠い。この雑多な、煩雑な感じ。東京の賑わいとは似ても似つかない。

 ぼんやりと眺めていると、何かがパッと閃いた、瞬間。

 ウウウウウーーーーー。

 空が鳴った。空襲警報ならぬ、お昼のサイレン。懐かしさと可笑しさでにやけた。

「腹減ったなぁ」

 沖縄ではマングースの被り物を着てハブと戦った。腕を噛まれたときは死んだと思った。被り物の腕だったから、それは危ない笑いに変わったが。

「なにしにきたんだんべ」

 確かに、みんなちやほやしてくれる。親友だった、なんでも言い合えると思っていた二人さえ、なんだか気を遣ってくれている……。

 まるで自分が望んだ状況になっている。はずなのに、この胸のつかえはなんだろう。

 ――ここはもう自分のいるべき場所では……。

 心の中で繰り返してみても、心に刺さった桜の枝は抜けない。

 すっきりするどころか、なに、この寂しさ、のようなものは?

 おもむろに立ち上がる。

 桜の影を出て、直射日光を浴びようかという瞬間、ふっと辺りが暗くなる。

 見上げると、大きな雲が太陽を隠していた。

 どわっと、夏の音、音音音に襲われた。

 その場でぐるっと一回り。

 一周回って時代が変わるわけもない。川の流れをちょっと眺めて、ふらふらと歩き始めた。

 さっき感じた寂しさ、不安さえも暑さに解けて蒸発していくようだ。

 自然のパワーの前に、己の小ささ、無力さ、だらしのなさと弱さを痛感した。己の小ささ……。股間に目をやる。

「そんなに小さくねぇし。下ネタかよ」

 言って一人でにやけた。だいぶやられているようだ。

 それでも、言うべきことは言わねばなるまい。いや、言ったほうがいい。

 二人に、言っておこうと思った。

 捨てるのはいいが、捨てられるのは、ご免だ。

ビーサンをズルズルさせて、家への道をよろよろと戻っていく。


 ふらふら帰ると、みんな両親も祖父も戻っていた。昼、父親と同じ卓を囲みながら、どことなく気まずい。会話がない。

 ――昔っからこんなもんだったかな。

 電話ではもっと話をするのに、面と向かうと、なんかしゃべりづらい。

 母親も黙ってもぐもぐしている。多分、この辺の変な感じもわかっているだろうに、この人は、やはりできている。

「おまえ、最近太ってきたんべ。腹、ちょっとメタボみたくみえるぞ」

 口火を切ったのは、親父の方だった。

 最近太ってきたって、まるでちょくちょく会ってるみたいに……。昨日はほとんど顔を合わせていない。実質、十四年ぶりの息子に言った最初の言葉が、「メタボ」たぁ……。

「親父は、少しやせたんじゃ」

 細くなったように見えた、思い出の中の「親父」より。真っ黒に日焼けして、皺もくっきり。

 こんなに皺々だったかな。横顔をちらちら。

「栄養吸い取られてるみてぇだろ、向こうはよく肥えて」

 男二人の視線が母親に集まる。

 というか、視線を引き寄せる何か、殺気というか迫力、オーラを、この女性は発している。三人の中で最も迫力のある体型をした……。

「なんか言った?」

 明らかに息子が睨まれた。でき過ぎた。心を読まれるとは。

 笑い声が出たわけでもない。その後も会話が飛び交ったということもない。ぽつりぽつり、おかずをつまむように言葉を発した。

 それでも何か満ちていた。

 自分も大人になったのだ。十四年という歳月は、まんざら不味いばかりでもなかった。それに気づいたことが素直に嬉しかった。


 西の空に見事な入道雲が立つ。夕方、縁側から空を見ていた。蒸し暑い中に、

「ザザァ!」

 突然バケツをひっくり返したような雨が降る。みんなは畑に出ている。

 心配がないではないが、胸がざわつくようなことはない。

 凄まじい雨に辺りが真っ白になって間髪入れずにドドンと空気が痺れる。

 稲光が黒雲を縦横に走り、幾筋も地面に突き立った。

 シェンロンが出てくるときは恐らくこんな感じに違いない。今日の勢いだと、本場のデカイほうが出くるだろう。


 屋根に穴を明けるほどの雨音に包まれて。

 懐かしかった。

 東京だって夕立はある。それこそこの時期はしょっちゅうゴロゴロピカピカやってる。ゲリラ豪雨ってやつ。あっちでの大雨の恐ろしさは実際に体験したものでなければ理解はできまい。

 あっちでは、夕立はじっくり眺めるようなものじゃない。

 同じ夕立なのに、田舎と東京で違う見え方感じ方をするのか?

 同じ夕立を? 

 そうではなく、それは別のものだ。

 田舎の夕立と東京の夕立は、全然別のもの。

 こっちでは、どんなに雨が降ったって町が沈むようなことはないから。

 親たちは心配ない。ここの人たちは昔から、上手に付き合っているのだ。都会の人間みたく、困り果てて空を睨み付けるようなこと――。

 目が眩んだ。まるで時間が止まったか、あるいは天国の入り口に立ったか。

 ドドドォォォーン……。

 やりきった、どや見たか、という余韻が辺りに響いた。

 意識が現世に戻ってきたとき、自分の体はうつ伏せに寝ていた。偉いもんで、咄嗟に伏せたらしい。

 とんでもなく近い場所に落ちたのか。扇風機も止まってしまった。

 扇風機はすぐに動き出した。

 十五分ほどで、雷雲は頭の上を通り過ぎていく。雨も小降りになり、じきにやんだ。

 蝉や鳥たちの声が戻ってくる。雲の隙間からのぞく磨かれたような空色は既に濃さを増していた。

 西の空が朱に染まる。桃色の雲が町の上を足早に流れ流れる。鮮やかな藍色が、焼けを山の向こうに追い落とす。

 二人が迎えにきたのは、それから更に三十分ほど経ったころだった。


「ハル、じゃあ今日も最初に、一発」

 あっちゃんの仕切りで会が始まる。

 面子は昨日とほとんど変わっていまい。今日見えない顔と、今日見える顔と、あるようであるが、わかるわけがない。

「ただいまご紹介に預かりました、わたくし……、元気ですかっ! 元気があればなんでもできるっ!」

 乾杯までに生中で三杯は飲んでいる。「古い」という誰かの声など。

「誰だ、今古いとか言ったやつ、立てこの野郎っ! えー、今古い言ったやつ、言ったヤツの中の言ったヤツ、出てこいやぁ!」

 クスクスという、苦笑いにも似た笑い。

 突然の猪木から突発的に高田延彦へ。近いようで遠い。あたかも6チャンと8チャンくらい大きな違いだ。

 さらにそこから「ペリィです、港を開けてください」と片言の日本語でペリーの物真似(パクリ)をするにいたって、激しい笑い声が一人分上がって、すぐに静まりかえった。

 店内に携帯の着信音が響いた。あ、もしもし。

「でんのかよ! 乾杯!」

 かんぱーい! 直後に、室内の温度が二度は上がったに違いない。


 お笑い芸人と飲める! と言ったって主役のもとにワッと集まってくるようなことはない。

 結局、テーブルごとに飲んで、しかも、主役がいようがいまいが盛り上がっている。

 主役はといえば、機嫌がいいのか、疲れがアルコールに刺激されて超テンション上がっているのか、楽しくて仕方がない。

 自らテーブルを巡り、面識のある人よくわからん人、間に割り込んで肩組んで、酒を飲んで、笑った。

「ねぇ、シャカリキの二人と遊んだことある? わたし、テルがちょー好きなんだけど」

「たまに飯食ったり、飲んだりするけど、テルね、めちゃめちゃ遊び人だよ。ぶっちゃけ、女絡みではあんまりいい話聞かないね。一晩で何人とやったとか、遊び用の携帯持ってるとか言ってたかな」

 と、人気芸人を落とすことは忘れない。そんなテーブルはさっさと離れる。

「ハル、おまえ、さきんこと付き合ってたんだろ? 今どうなってっか知ってっか?」

 さきんこ、我孫子佐紀(あびこ さき)。中学の同級生で学校のアイドルだった。で、聞いてきたのが萩原修。

「ムーさん、それ昨日も聞いたよ」

「え、そうだっけ?」

「今大阪にいんだろ? なんだっけ、アレと結婚して」

「そうだよ。アレ? なんだよ、知らねんきゃ。やっぱりなぁ。アレだよアレ」

 どれだよ。

「しょうさまん、そう、しょうさまん」

「ああ、商社マンね」

「そ、しょうさまん。大阪にいって、全然帰ってきやしねぇ」

 昭和のボケだな。なにいうとんねん! さきんこに愛を込めて。大阪風突っ込み。

「遠いからな、大阪は」

「全く、どいつもこいつも出ていったきり帰ってきやしねぇ」

「俺は帰ってきただろ?」

「おめぇはよ、おめぇはよ、おめぇはホントにがんばってからよ、応援してっから、ハル、な、応援してっからよ、ホントに……」

 泣き出した。昨日と全く同じだ。テンドンだな。トーク番組で使えるかも。

 クラスは一学年一クラス、二十人ちょっと。その中でここにきてるのが半分くらい。

 他に親しく遊んでいた先輩後輩がきて、総勢二十人ほどか。短くても十四年、みんなの顔を見ていない。

 それでも、顔を見ると名前やあだ名が自然に出てくるのは不思議だった。

 その不思議さが、ハイテンションに油を注いだことは否定できない。

 自分の席に戻ってくると、「ふう」とわざとらしく息を漏らした。

 どうした、疲れたか、というあっちゃんの言葉に対し、「いや」と言ったきり、言葉は続かない。

 全員となんらか言葉を交わしただろう。疲れた、少し眠いのか。

 酔いもちょっとさめてきた。

 テンションが一気に落ちていく。高所から飛び「落ちていく」バンジージャンプ直前の自分の横顔とかぶったのは単なる偶然だ。

 何をはしゃいでやがる、この偽善野郎、周りに合わせて媚びた笑顔振りまいてんじゃねぇぞ。

 彼らの表情は、楽しそうだった。

 いや、実際愚痴も聞かされた。楽しいばかりではない。しかし、

 ――俺ほど苦しんだ人間は、いない。

 誰も彼も、今の自分に対して憧れのようなことを言う。「この町から芸能人が出るなんて、しかも俺らの友だちなんて」

「頑張ってくれ、応援してる」

「おいしい思いしやがって、今度東京遊びいくから、そんときは」

「俺も東京でっかな」

とかとか。

 本心ぶちあけろ、みんなドン引きするぜ。

 両肘をテーブルにつき、掌を組んでそこに額をのせて目を瞑った。

 明るい店の照明を嫌う、濁った思いのその表面に浮いているのは「彼ら」の思いか。

 さきんこは、もう帰ってこないだろう。

 盆と正月、連休に旅行がてら帰省することはあっても、こっちに住むことはあるまい。

 彼女は可愛い子だった。十四年という歳月は、彼女をさらに美しい女性に変えていることだろう。

 大阪にはたまにいく。いったら連絡してみようか。しょうさまんかなんだか知らないけど、会えばどうにかなっちゃうかも……。


 出ていった人間が帰ってくるのは二通りだ。

 「勝者」として自分を見せびらかしにくるか、それか「負け犬」として逃げ帰ってくるか。

 自分はまだ「勝ち組」なんかじゃない、確かに、ちょっと調子乗ってる。

 でも別にここが嫌いになったわけじゃない。ただ、自分の生きる世界はここじゃない。

 芸人仲間が言ってた。久しぶりに帰省して東京に戻ってくるとき、

「じゃあ、もう帰るから」

 と何の気なしに言ったら、

「帰るなんて言わないでおくれよ、あんたの家はここじゃないか」

 と、母親が少し寂しそうに笑いながら言ったそうだ。

 自分もそうだ。頭の中にははっきりと向こうに「帰る」という意識がある。

 それは悪いことじゃない。

 中途半端な意識では、戦っていくことなんかできない。

 あそこで勝つことなんて、できねぇ。

「おい、なに難しい顔して飲んでんだよ」

「え?」

 あっちゃんに声をかけられ、なぜか、驚いた。

「仕事のことでも考えてたのか?」

「いや……、まぁな」

「ハルはすっかり向こうの人間だべ」

 お馴染みの二人に挟まれた。なぜだろう、少し窮屈な気がした。

「そんなことねぇけどよ。ただ明日の今ごろはもう向こうにいるんだなぁ、と思って」

「仕事のことなんか忘れちまえ」

「いやそれは」

「そういう訳にもいかねぇか。厳しい世界なんだろ、芸能界ってヤツァ」

 あっちゃんが少し熱っぽい、酒が回ってきているらしい。その熱にあてられたわけでもないだろうが。

「ぼけっとしてるとあっという間に置いてかれちまう。実力だけじゃない、なんつうか、運つうか、勢い、タイミングみたいなもんもあるから。なんであの人が、って思ってるような人が全然出ていけない。すっげー面白いのに。そして辞めていく。厳しいとかなんとかより、理不尽な世界だよ」

 やはり熱にあてられた。逆に、熱に触れて酒がさめてしまったか。

「それでもよ、そこでちゃんと生きてる人間が俺たちの同級生だってんだからな。俺ももちろんだけどよ、みんな期待してっからさ」

 肩に置かれたあっちゃんとゲコの掌が重かった。そろそろ終わるか、あっちゃんが呟いた。

「みんな、今日はここらへんで終わりにすべぇ」

 大きな声が店内に響き、ざわつきは徐々におさまっていった。

 どこかのテーブルで燃え残りのような笑い声が控えめにあがった。すぐにおさまる。

 あっちゃんが「じゃ」と言いかけた。

「ハル、なんか面白いことやってくれよ」

「おまえがやれよ」

 突っ込みの条件反射で言葉が出ていた。

 その言葉は「突っ込み」などという多少とも洗練されたものでは全くなかった。

 炸裂した理性の箍を締めなおす「もう一人の自分」はいない。

「なに?」

「おめぇがやってみろっつんだよ。こんなとこでできるわけねぇだろ」

 相手はわかっていた。高校のときの先輩だ。当時からガラの悪い人間だった。話をしたはずだが、何を話したか、記憶にはない。この金髪とうもろこし野郎。

「なんだてめぇ」

「まあまあ、先輩ちょっと落ち着いて。こいつもちょっと酔っ払ってるみたいだから。ハル、もうちょい大人しくしてろって。今終わりにすっから」

「うるせぇな、誰だおめぇ、なに仕切ってんだよ」

 この金髪は昨日もいた。

 昨日も今日も、あっちゃんが仕切っているのをさんざん見てるだろうが。

「すんませんね、もう終わりにするんで、ておい、ハル、やめろ」

 歩き出していた。

 歩きながら、あっちゃんの声に軽く右手を上げた。

 そんなに広い店じゃない。通り道にある足をガツガツ蹴っ飛ばしながら、その先輩を見下ろす場所まできた。

「ハル! おい!」

「謝れ。あっちゃんに謝れ」

「うっせぇな。てめぇ調子乗ってんじゃねぇぞ」

 男が立ち上がりかけたのを隣が抑えた。

 とうもろこしのいきんでる表情、隣の人の手につながれている様子、滑稽だ。

「あんたが謝ったら、なんでもしてやるよ。面白いことしてやるよ。いや、じゃあ、俺が先に面白いことすっから、そしたらあんたも謝ってくださいよ。ちょっと目つぶって」

 嫌そうな顔ながらパツキンは素直に目を閉じた。

 素直に目を瞑ったパツキンの、意外にもあどけない顔を見て、鼻で笑ってしまった。

 テーブルに載っているビールの中ビンを両手に持って、男の頭にかけた。

「コント、ビールかけ」

「ぶあっ! てめぇ、ぶっ殺すぞ!」

 かかってきたもろこし野郎を迎え撃とうとしたが、体が動かない。

「放せ!」

 顔面に飛んできたパンチは辛うじてかわしたが、ボディの一発はかわせなかった。

 間に飛び込んできた人間がもろこしを押し返す、うまいこと自分の椅子に落ちた。

 再度立ち上がったもろこし野郎の足元で、土下座をしていた。

「すいません。今日のところは帰ってください。後できっちり謝りにいきますから。ほんとすいません」

 土下座をしているのは、あっちゃんだった。羽交い絞めにされている体はほとんど動かせない。

「ゲコ、放してくれ、放せ!」

 吊られるときに付けるハーネスをしているかのように、体をギリギリと締め付ける。

 もろこしと連れが席を立ち、あっちゃんを見下ろしながら三人の横を通りすぎていった。

 ――あっちゃん、なんで土下座なんかしてんだ……。

「待てや、パツキン、てめぇ!」

 ――つまらないから、俺が、頑張ってないから……。

「なんだこらぁ!」

「早くいってくれや!」

 ゲコが叫んだ。

 チッ、と舌打ちを残し、もろこし先輩はようやく店から出ていった。

「俺は、みんなの人形じゃない!」

 それでも、二十人近くがまだ残っているが、店内は、静まり返っている。

「俺は、人形じゃない」

 俺が頑張ってきたのは自分のためだ。誰かのためじゃない。他人を喜ばすためじゃない。

 頑張ったのは俺だ。

「俺だって、一生懸命やってるし、頑張ってるし。もっと頑張んなきゃいけねぇの、わかってるけど」

 いつの間にか体は自由になっていた、ゲコの体は自分の背中から離れていた。

 見えていなかった、いつの間にか、あっちゃんが目の前に、近くに立っていた。

「ハル、みんなだってそんなつもりで言ったわけじゃねぇ。誰も人形だなんて、思ってねぇって。みんなお前のこと応援したくて」

 なんでみんなに応援されなきゃいけないんだ。なんでみんな俺のことを応援してるんだ……。

「重てんだよ。はっきり言って、そういうの、うぜぇんだよ」

「ハル!」

 胸倉をつかまれると、体の力抜けた。

「俺はよ、うぜぇって言葉が大っ嫌いなんだよ!」

 音のない店内にBGMが浮き上がる。「夏の日の1993」。有線のリクエストだろうけど、懐かしいのが流れてんな。

「うぜぇなんて言わないでくれよ。みんな、おまえのこと応援してんだぜ」

「それがうぜぇっつんだよ。この十四年の俺のこと知りもしねぇじゃん。十四年間、俺がどんな思いで東京にいたか、どうやってここまできたか、わかんねぇのに!」

 勝手に土下座して、胸倉つかんでおいて、なんでそんなことを言うのか。

「わかんねぇよ、そんなの。でも、それがお前の選んだ道だんべぇが。高校んときさんざんビッグになるっつって町出てって、今んなって泣き言かよ。情けねぇ」

 そうじゃなくてさ。

「期待とか応援とか、その前に自分でやってみろってよ。山奥に引きこもってチマチマ働いて、毎日毎日同じこと繰り返してあっつう間にジジイババアか。いっぺん外出てみろっつんだよ」

「東京に出てんのがそんなに偉いんか! 町出てくんがそんなにえれんかよ!」

「親から仕事引き継いで、自分の子供にまた引き継いで、それじゃ産まれた時点でてめぇの人生決まってんじゃねぇか。こんな山に産まれたばっかりに、もっともっと楽しいことあんのに、自分のやりたいこともできずに死んでいくなんて、そんなんでいいのかよ!」

「おまえにだって俺らのことわかんのか! お前に、こっちで生きてくことがどういうことか、わかんのかよ。わかってたまるかよ!」 

「だからさ」

 そうじゃなくて。

「情けねぇよ、ハル」

 だから、情けねぇとか情けあるとか、そういうことじゃねぇって。

「お……」

 あっちゃんの「情けねぇ」は非難してるわけじゃない。

 心にズシンとくるのは、その多分にドラマじみた言葉ではないのだ。

 顔を逸らしたあっちゃんの、眼鏡の耳かけの部分こそ、心に突き刺さる。

 その場の空気と同じく張り詰めていた心臓に穴が開いた。空気が抜けていく。

 自分の足で立つと、あっちゃんとも、誰とも目を合わせることなく吐き出した。

「帰ってこなければよかった」

 その言葉にはいくつかの意味がある。少なくとも二つの感情がぶつかりあって生まれた言葉だ。

 足元がぐらつくような感覚。転がり落ちるように、店の入り口から外に出ていた。

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