雪の下

カイセ マキ

第1話 - 1

    なつ


 「直江春一なおえはるいち」と宛名された手紙の返事を書いて投函したのは三日前のことだった。


『あっちゃん、字きったねぇな。昔からだよな。中学のとき、担任のカッパに「おまえは学年で字の汚さで五本の指に入る」って言われたよな。読みずらい。

 

 相変わらずバカべぇやってんな。ゲコはなにやってんだ。自分の車てめぇんちに修理出したって儲けになんねぇだろうが。小学生の頃から数えてぶっ壊したの何台目だ? いい加減家が建つだろ。


 今度そっち方面に仕事でいくんでよ、ちょっと寄ろうかと思ってる。七月の二十六日。駅につくのが昼過ぎかな。当日、時間わかったらラインするんで、よろしく。


 御雪舞十八年ぶりの復活か。その頃、帰れたら帰りたいけど、どうかな。まぁ、会って話しようぜ。じゃあな。』

 

 電車を降りたところで大きく背伸びをした。体が伸びたら欠伸が出た。それほどがっつり寝てもいなかったろうに、体がだるいし、頭もすっきりしない。まるで時差ぼけでもしているかのように。

 ――海外にはまだいったことねぇけど。

 たぶんこんな感じなんかな。オレンジ色の電車は、この駅で一旦車内を掃除したあと折り返しでまた戻っていく。乗り込む人はぽつぽつ。


 東京に出ると言って家出同然にこの駅から上りの電車に乗ったのは今から十四年前、十八歳のとき。あのときの駅員さんも今はいない、無人の駅になってしまった。

「おう、ハル。がんばってビッグになって帰ってこいよ」

「富さん」と呼ばれていた駅員さんに改札でそう言って励まされた。電車で高校に通っていて、富さんとは普段からよく話をした。

「こんな町を出て東京でビッグになる」

 いつもそんなことを言っていた。


 自動改札を抜けながら、富さんの顔が浮かんできた。濃い眉、大きな口、大きな声、いつでも誰にでも笑顔だった。

 結局、あの日が最後になってしまった。今ではどこにいるのやら。

 学校から帰ってくる、ただいま、と富さんに切符を渡す。煤けた壁に変色したポスター。雑然としていて、冬になれば真ん中にストーブがどんと陣取って、いつでも近所の人が集まって会議を開いていた。あの頃の田舎臭かったロビーも今ではすっかりきれいになって、平日の昼間、ひっそりと静まり返っている。

「そうでもないか」

 駅を出れば、夏の日差し、押しつぶされるほどの蝉の声は昔と変わっていない。駅前に立つ大きな観光案内板。緑の間に道路を意味する黄緑の筋がぐねぐねと這っている。山と川、あとは申し訳程度に温泉があるきり。軽く見上げながら思わず溜息が漏れた。

「だーれだ」

 いきなり視界が奪われた。生温い感触が、気色悪い。

「おい」

 ふざけんな、言おうとした瞬間、股間に衝撃!

「ぐぉ!」

 喰われた! そして耳に吐息。ざわっと鳥肌。

「五本じゃなくて三本よ」

「いっでぇ! ばっか、おめぇら! マジ放せって!」

 思い切り暴れて悪魔の掌からなんとか逃れた。股間を抑えてうずくまる。

「おかえり」

「おかえり」

息絶え絶えに見上げる。懐かしい顔が二つ、並んで笑っていた。

「ただいま」

 これだけ言うのがやっとだった、目に涙を溜めながら。


「おまえな、手紙出すならもっと早く出せよ」

 助手席に座る男がそう言って後ろを振り向いた。眼鏡で長髪、顔の輪郭に沿ってうっすらと無精髭が生える。耳に息を吹きかけた、雑賀晃さいがあきら

「ちゃんとついただろ」

「ついたよ、昨日な。俺らだって仕事持ってんだ、いつでも出れるってわけじゃねぇぜ」

「最近はコンピュータでなんでも制御できんじゃねんかい」

「おめぇ、豚なめんじゃねぇぜ。豚舎の掃除に豚の体調チェック、人の手でやらなきゃならんことは山ほどある。おめぇと違ってきれい好きで神経質だ、接し方にも人間以上に気をつかう。なにより」

「しかしアレだな、駅はきれいになったけど、他はあんまし変わってねぇな」

「聞けよ」

「そうでもねぇべ。この辺りは随分道も綺麗になった。ガードレールもついたし」

 運転手は車の持ち主、ゲコこと新納力にいろちから

 茶髪にピアス、は高校時代。今は茶髪だがさすがにピアスはない。汚れの染み付いたつなぎ、さっきの股間の痛みを思い出して、後部座席から蹴りたい背中……。

 ルームミラー越しに目が合って、にっこり笑顔は昔から憎めない無邪気さ。なんだか二人とも、昔と変わらない。

 この空間が、ひどく落ち着く。

「そういえばゲコまた事故ったんだろ。この車か?」

「そうだよ」

「大丈夫なのかよ」

「ハル、俺が手紙出したの一ヶ月前だぜ。それでなくたっておまえ、こいつは五日後には完璧に直してたからな」

「だいたい、おまえ体は大丈夫なんか? そんなに事故ってばっかで怪我しねぇのか」

「事故事故って、こないだはちょっとぶっけただけだべ」

「ちょっとぶつけただけっておめぇな、車の左側大破してただろうが」

「体は無傷だ。なら事故っていわねぇ」

「それはおまえだけだ」

「でも去年、こいつ峠道で事故ったときは、車大破したのに足首捻挫して首ちょっと鞭打ちになっただけで次の日から仕事したんだぜ、なぁ」

「ガードレール突き破って一つ下の道路まで転げ落ちた。あんときは流石にこえかったけど、そんな大した高さじゃなかったから。ロールケージで補強もしてたし」

「それはこのマークⅡじゃねぇのか」

「別の車だ」

「バカだな、相変わらず」


 窓の外を流れる景色は緑一色。一色といってもその緑は濃淡織り交ざって決して一様というわけではない。風に揺らぎ光を弾く。

 ここに喧騒はなく、クラクションの代わり、鳥たちが高い声を飛ばしている。対向車がくると「はっ」とするほど。今の自分が暮らす世界とは、全く別のものだ。


「おまえらのアレも、最近結構テレビ出てんな、ハル」

「出てんな、ハゲ」

「ハゲてねぇよ。どこがハゲてんだよ」

 おお、本物だ。ゲコがびっくりしてみせる。ルームミラーから視線をそらす。

「なんだっけ、『はげまげどん』だっけ、ハゲ」

 一瞬湧き上がった怒りの感情を、鼻の穴から吹き出した。昔っからだ。

「相方のドン北村って人も面白いし、いいコンビだな、はるまげどん」

 あっちゃんがフォローを入れる。いつも三人のまとめ役だ。

「まぁな、漸くな。最近やっと食えるようになってきたって感じだよ」

 食えりゃ大したもんだ。あっちゃんの言葉は、まるで独り言のようだった。

「おまえ、アレか、親には言ってあんのか」

「なにを」

「今日くること」

「言ってあるよ」

 ずいぶん驚いていたな。

「この前、おまえのかあちゃんに会ったとき恥ずかしいって言ってたけど、でも、顔は笑ってたな。嬉しそうだったぜ」

「しょっちゅう電話がかかってくるんだ。正直うぜぇよ」

「んなこと言うんじゃねぇ。おまえが出てったあと、大変だったんだぜ、なぁ」

「んだ。親父さん、あんなもんはうちの子じゃねぇ! つって叫んでた」

「おかげで町じゃおまえの話はタブーになった」

「そうかい」

 近所の人間に「うちの子じゃねぇ」言ってる親父の姿は容易に想像できた。その顔が十四年前のものであることは疑問にもならない。

 親父にも、最近少しは認められてきただろう。いろいろ物も送ってくれるし、電話でも話をするようになってるから。


「アレか、おまえのうちにいっていいんか?」

「ああ、うん、頼む」

 駅からおよそ二十分、家が見えてきた。それはまるで夢の中、記憶の中の思い出を見つめているようだった。

 ――こなければよかった。

 車が止まる直前、心がガクンと落ちた。家の敷地に入るために、こちらもそれなりの「代価」を支払った、ということだ。入場料のようなものだ。


 車から荷物をおろし、二人に別れを告げた。夕方にはまた会う。

 空を見上げてみた。別に見たかったからではない。心にしこりを抱いた息子が暫くぶりに実家に帰ってきときには、そうすることになっているから。

 直射日光という割りに、空は白く滲んでいた。皺がよったように、所々雲が白く固まっている。

 東京ほど暑くはないと、そんなことでも自分を「上」に起きたかった。庭の土が足の裏に違和感だ。そんなことでも自分を正当化したかった。

 玄関を入る。母親が出てくる。

「おかえり」

「ただいま」


 山の夏は短い。

 家の庭のボダイジュが深緑の葉の下に沢山の花を蓄えるのを見ると、この季節、子供心にワクワクしていたのを思い出す。

 一ヶ月以上ある長い休みの間、短い夏と一緒にめいっぱい野山を走り回ったあの頃。部活にいそしみ、遊びにいそしみ、恋にいそしみ……。

 今となっては全てが懐かしい。思えば、初めてのキスは中二の夏休みだった。初体験は……。

「俺が殺し屋なら、おまえ死んでたぜ」

「あめぇな、気づいてるね」

 築百年近いこの家で、玄関から物音立てずこの部屋までくるのは不可能だ。そのことはあっちゃんだって熟知している。

「その程度の『絶』じゃ俺の『円』から逃れることはでき」

 ない!

 背後のあっちゃんに向き直りつつ、パッと畳を前方に一回転した。背後、座っていた縁側の板がパンと鳴った。

 片膝立ちで振り返る。

 縁側を降りたところにゲコがいた。思い切り振り下ろした直径一センチほどの木の枝がぼっきり折れている。

「おめぇ、殺す気か! もっと加減しろよ!」

「腕は鈍ってねぇみてぇだべ」

 三人がお互いの顔を見合って満足そうに頷いた。


 昼の二時過ぎに帰ってきて、いたのは母親だけ、その母親も入れ違うように出ていった。

「普通、駅に着いたときに『駅だよ』くらい電話するもんでしょうよ。わかんないから一応お昼作っておいたのに、なにこの中途半端な時間は」

 そんなことを言いながら、バタバタと家からいなくなった。

 芸人に「中途半端」は一番こたえるやつ。作ってあった飯を食ってテーブルの上を片付けた。

 一度テーブルの近くに横になったが、何かに誘われるように縁側に胡座をかいて、ぼっけら外を眺めた。

 会ってまず何を話そうか、いろいろと考えていた。

 父親はいないだろう。母親に何て言うか、何て言われるか。

 たぶん父親はいないと思うが、もしいた場合。最悪、母がいなくて父親だけが残っていた場合、父は、自分は、どんな顔で向き合うだろうか……。


 母親の態度には、救われたと言うべきだろう。十四年という歳月の重さ、気まずさは感じなかった。

 電話ではちょくちょく話をしてるし、父も母も一丁前にダメ出しなんぞすることもある。こっちが思うほど、あの人たちは重く感じてはいないのではないか。

 そんなことを考えた。

 ――母親とは、ああいうものか。

「案外変わってねぇ」

 生まれて初めてかもしれない、こんな時間を持ったことは、しかし、なんだか懐かしい、目の前を風が抜ける度に、眼前の景色は青さを増していった。


 目が覚める。ティーシャツとハーフパンツで横になって、腕と脚が汗でべとついていた。

 家は静かなままだ。黒くて重たそうな振り子時計がもうすぐ四時をお報せ。それを見て便所に立ったのは、必ずしも尿意を催したからではなかったが。

 十四年間を一気に埋め合わせたような時間の締めくくりに畳の上を一回転したのはその直後だった。


 家の一人息子より先に台所にいき、冷蔵庫の一番下の段を明け、麦茶とグラス三つをもってきた二人の「曲者」。

 その二人が先に口をつけたのを見てから麦茶を飲んだのは、まさか毒入りを警戒したわけではない。

「どうだ、久しぶりの実家は? 十なん年ぶりだ」

「十四年かな。意外と、普通だったな」

 誰かいたのか。母親が。

「お母さん、別の人になってなかったけ? 若いフィリピン人とかに」

「っせい!」

 ゲコの頭を思い切り、突っ込んだというより、はたいた。

「いたっ! なにすんだぁ。傷害事件だ、プロが素人に本気で突っ込みいれてからよ」

「何言っとんねん、ぼけぇ、プロボクサーちゃうっちゅうねん」

 危うくグーで殴るところを、なんとかパーで打ったのだ。車の中でのことも含め、すっきりした。

「親父さんとは、アレか」

「まだ会ってねぇ。ま、電話ではちょいちょい話ししてるから。最近じゃダメ出しとかするし、調子のって」

 あっちゃんは笑いながら頷いてくれた。ゲコは、まだ頭を撫でている。


 話している内に母親が帰ってきた。

「いらっしゃい。ゆっくりしてって。麦茶なんかもあるから」

 それだけ言って家の中をバタバタと動き回った。

「おまえ、アイドルとかの知り合いはいねぇのか。携帯の番号、知ってんだろ」

 あっちゃんが顔を近づけて声を落とした。

「え?」

「今だと、なんとか四十八手とか」

「は?」

「アオカンシックスナインとか」

「そんなアイドルいるか。そんなもんAVのタイトルじゃねぇか」

 ちょっと紹介してくれよ。おいら女優なら五十くらいまで全然いけっぞ。……。


 いつの間にか外が色を帯び始めていた。

「そろそろいくかね」

「もうか。まだ五時半だぜ」

「田舎の夜は早いんだよ」

「疲れてめんどくさくなっちまったよ」

「なに言ってんだ。みんな待ってんだぜ。なんせこの町のスタアなんだから」

 あっちゃんは右手で眼鏡を直した。

「そうそう、スタア。方言使って漫才やったら、たぶんもっとうけるべ」

「それもう何人もやってっから」

 寧ろこの話題にこれ以上付き合うのが面倒になった。いぐべいぐべ。言いながら立ち上がった。つられて二人も立ち上がる。

「よっこいしょういち」

 麦茶とグラスを三人で片して。

「かあちゃん、ちょっと出かけてくっから」

あらそう、もうすぐお父さんも帰ってくると思うけど。

「夕飯は?」

「いらない。同窓会っつうか、飲み会だから」

 気をつけていってらっしゃい。母親の言葉に送られて、三人は家を出た。


「あったまいてぇ」

 寝苦しくて目が覚める。暑い。頭が重い。どう寝返りをうっても、布団から外れて畳の上を転がってみても一向気分がよくならない。仕方なし、起きた。

 外ではすっかり夏ができあがっていた。日の光、蝉の声、ホトトギスの鳴き声、走り回る子どもたち、夏休み。


 熱気のあふれる外の様子と対照的に家の中は静かだった。

 ミシミシと階段を踏み、一階に下りる。降りながら時計が鳴っている。薄暗い室内に時計の白い文字盤がぼんやり浮かび、針は十時を指していた。

 台所で水を一杯飲む。冷蔵庫を開けて、麦茶をまた一杯あおる。

「フー」

 と息をはいた。

 家のどこかで風鈴が鳴った。多分、客間の軒下だろう。その風鈴の音色が今この家で最も大きな音だった。

 唯一の存在。

 風鈴の音が、またも思い出を運んできた。


 実家は農家だった。父親は毎朝早くに家を出ていき、母親も祖父も父の手伝いのために昼間はほとんど家にいなかった。

 夏休みに入ったある日、目が覚めると家がまるっきり静かだった。

 目覚めた直後のまどろみに、言い難い不安が襲った。

 薄暗い階段を降りる。段を踏む度にミシミシと鳴る音が、もう一人誰かの足音みたい。

 居間のテーブルの上には置手紙と朝ごはん。台所にいって冷たい麦茶を飲んで、居間でテレビもつけずにごはんを食べた。今日と同じように、家のどこかで風鈴だけが鳴っていた。

 しかしその寂しさはいつまでも続くわけじゃない。

 母親の用意してくれたごはんとおかずがすっかりなくなるその少し前、慌しい足音が家の中庭まで押し込んでくる。

「ハル! 川いくぜ!」

「川いくぞ!」

 二つの大きな声が、痛んだ心に沁みる風鈴の音色を弾き飛ばしてくれる。そう、ちょうどこんな風に。

「おーい、ハル、久しぶりに川でもいこうぜ」

「川いくべ、川」


 あれから十数年経って、地面をリズミカルに蹴っていた駆け足も、風鈴を圧するほどの勢いも失せてはいたが。

「まだ寝てるんだべか」

「相当飲んでたからな。こっそり起こしにいこうぜ」

 中庭の縁側で、ミシと鳴った。今日は二人一緒のようだ。

「まだわかんねぇのか。この家の敷地に入ったときから感じてたぞ」

「なんだよ、起きてたのか」

 さも残念そうに。起こしにきたんじゃねぇのかよ。

「今起きたとこだよ。暑くて寝てらんねぇ」

「ならちょうどよかった」

 二人は堂々と床を踏み鳴らして居間までやってくる。

 テーブルを囲むように腰をおろしながら、あっちゃんがたくあんの漬物を二切れつまんだ。コリコリといい音がする。

「んだ。早くいくべ」

 家は蝉たちに包囲されていた。ミンミンニイニイできる限りの声をはる。それが彼らの婚活であるなど、いちいち考えたりしない。

 包囲されているというより、すでに一斉射撃を受けているようだ。彼らの鳴き声は、そのまま暑い夏を語る。

「川って、おまえらな。このクソ暑いのに外で遊ぶのかよ」

「あついから川だろうが、なぁ」

「あったりめぇだ。クソ寒い冬の川に入るバカはいねぇべ」

「真冬の川に飛び込むなんざ、お笑い芸人くらいだ。あ」

「なんだその『あ、言っちゃった』みたいな顔は」

「ついうっかり」

 よくもまぁ抜け抜けと。

「飛び込んだよ、真冬の川に。おまえらも一度やってみろ。あれはあれでなかなかいいもんだぜ」

「おいらも一回車で飛び込んだ」

「おまえ、いつか死ぬぞ」

 そんな冬の川での出来事を思い浮かべると、じわっと全身を汗が包んだ。

「いくべ。ハルはそのカッコでいいんか」

 白のティーシャツにハーフパンツ。帰ってきて着替えた記憶がないような、あるような。

「ちょっと顔だけ洗ってくる」

「じゃあ茶でも飲んで待ってらぁ」

あっちゃんがそう言うと、二人はズカズカと台所へと向かったようだ。勝手知ったる人の家。全く本当に、この二人はいつまで経っても。


「おい、歩くのかよ」

「は? 川すぐそこだぜ。そんなことも忘れたのか」

「いや、覚えてっけど……」

 蝉の声だけではない。真夏の太陽に熱せられ、道脇の雑草が呻き声をあげる。そんな「何か」が聞こえているような。

「ハル、もうばてたのか」

「もうすっかり都会の人間だべ」

 うるせぇ。そう反論する気力もなかった。ビーサンがペタペタずるずる。

 実際、家から五分と歩いていない。なのにこのざまだ。東京の不愉快な暑さに比べれば、こっちのはずいぶんと素直だろう。東京で生きることに比べれば……。

 これが「夏」なのか。「夏」とはこういうもんだった? 

 そんな思いを抱きかけた。あいつらが言った通り、

 ――俺はもう、こっちの人間じゃなくなったか。

「おい! どこまでいくんだよ!」

 気力体力と同様、ガクンと視線を落として路肩の石を数えるように歩いていた、声に反応して前を向いた、そこに二人はいない。


「おーい、大丈夫け?」

 ゲコのものと思われた声に引っ張られ顔を向けると、二人は既に芝生の土手を下って川の岸に立っていた。

「別に俺らは構わんけど、どこだって」

 口ではそう言いながら、二人はとっとと靴と靴下を脱ぎ、つなぎの足を膝までまくって川に足を踏み入れていた。

 その様を一瞬見下ろしてから、ゆっくり川へと降りていった。ふと沸いた苛立ちは、すぐに川の水に流した。


 流れたのは一瞬の「苛立ち」だけではなかったらしい。そこから転がるように土手を降りると、ビーサンのまま川に飛び込んだ。

「ダァー、死んだわマジで」

 ハーパンビーサンでつなぎに遅れをとるわけにはいかん! とばかり、水と戯れ、二人と戯れた。


 川を吹き渡る風が今日ほど心地いいと思ったことは今までなかったろう。あるいはとっくの昔に忘れてしまったのか。

 家に一人残され、そこに現れた二人の男の子たちと一緒に遊んでいた頃は、どうだったんだろう、こんなに気持ちよかったんだろうか。

 あっちゃんとゲコと離れ、悪い仲間とつるんで家にろくすっぽ帰らなかった高校時代。

 あの頃もこんな風に河原で寝そべってぼんやり時間を過ごしたことがあったけど、あの頃はどうだったんだろう……。

 もう、どこか遠い昔のことのように、今の自分とは別の人間のことのように……。

「おまえらさ、楽しいか?」

 桜の木陰が土手の上を川に向かって伸びている。大きな梢の影に男三人、並んで寝そべっている。

「あ? なにが?」

「いや、ここにいて、毎日楽しいのか?」

 多少の皮肉はこもっていたろう。暑さで自制心も緩みがちではあったにしても。

「楽しいってば楽しいし、辛いってば辛いし。でも、そんなのどこにいても同じだろ。生きてりゃ楽しいこともあるし辛いことだってある、だろ?」

 あっちゃんは大人だ。川では三人のおっさんに代わって数人の子供たちがバシャバシャやっていた。

「まぁな。そうなんだけどさ」

「言いたいことがあるなら言っちまえよ」

 とは聞き返さない。歯切れの悪さが重さを醸す。気づかないあっちゃんではない。ゲコもちゃっかり黙ってやがる。いつも適当なことばっかり言うくせに、変に空気を読む。

 言いたいことならあったさ。だからと言って軽々しく言える言葉ではない気がした。友達だからこそ言えない。


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