第2話 - 1
相方
「じゃあ、明日はホント頼むよ、二人とも。これからが勝負だからね。期待してっから。お疲れさん」
「お疲れ様でした」
「お疲れっした」
バタン。と、楽屋のドアが閉まる。狭い楽屋の端と端になるべく離れて座る。
どちらからともなく「フーッ」と溜息。煙草に火をつけて、携帯。無言の時間が部屋に溜まる。そして。
「ハル。頼むぜ、おい!」
相方、どん北村のダメ出し。最近のパターン。
「今日のなんだよ。ツナカンさんがいいパス出してくれたのによ。バシッと決めろよ。最近おかしいぞ、マジで!」
「……」
相方には目もくれず、スマホに視線を注ぎ続ける。
「ったくよ。やる気がねんならやめちまえよ!」
「やだよ」
「は?」
「やだっつってんだよ」
「なんだそりゃ。ガキかっつんだよ。ホントにおまえやる気がねんならやめてくれよ。迷惑なんだよ」
「……」
「はぁぁ……。かえっかな」
「お疲れ」
荷物を持って立ち上がった相方にわざわざ背を向けて、言いながら右手を軽く上げてみた。苦虫を噛み潰したような相方の顔が、見るまでもなくはっきり見えた。
「ずっと言おうと思ってたんだけどよ。おまえ、なんか実家帰ってからおかしいぞ」
「……」
「なにがあったか知らねぇし、興味もねぇけどよ。けぇりてんならとっととけぇってくんねえか。ホントに迷惑、邪魔、ウザイんだよ!」
ドン!
ドアが凄い音を立てて閉まる。衝撃で体が震えた。
お疲れ様でした。
尻尾を振って甘える犬のよう、ドアの向こうで相方が気持ち悪い挨拶をしているのが聞こえてきた。
「フーッ」
もう一息煙を吐き出した。そこにまだ残る相方の「残像」を消してしまうように。あるいは、よりはっきり浮かび上がらせるかのように。
「犬じゃなくて狸か」
声に出さずにいられなかった。
まさか隠しカメラもないだろうと思いつつ楽屋をぐるっと見回した。カメラに映る自分の姿から眼を背けるように、ラインを開く、新規のメッセージは何もないけど。
「ウザイ、か」
俺はウザイって言葉がだいっ嫌いなんだよ!
そう言って突っかかってきた友人を思い出した。確かに、言われてみると嫌な言葉だ。
あの短い夏休みから一月半、実際、ちょっとおかしい。
舞台に上がっているとき、スタジオで、あるいはロケでカメラの前で、仕事をしている最中、テンションを上げていかなければならないところで「ふっ」と我に返ることがある。
アクセルべた踏みで加速していって一気にトップスピード! と思ったら急ブレーキ!
「ガスの元栓締めたっけ? 猫の餌入れてきたっけ?」
そんな感じ。猫は飼ってないけど。
そこから再び加速しようと思ったって上手くいくわけない。相方についていけるはずがない。周りのテンションに乗っかっていけるはずがない。
お客さんと空気を共有できるはずがない、笑いを取れるはずがない。
集中できていない。もっと上手くやらなきゃいけない。
――あいつらが見てるってのに。こんなんじゃ笑われちまう。笑わせねぇと。
そのためにもっとコミュニケーションとらなきゃいけない。こっちが歩みよるんだろうが。夜、そう決意しても、翌日仕事場で一緒になるとなにも変えられない。
眼を閉じる。
前に伸びるレールは先で闇に呑まれる。
九月も半ばを過ぎたのに、東京の夜はいまだ生ぬるい。
「地元じゃもう秋の匂いが野山に満ちてんだろなぁ」
想いを込めて見上げた空は悲しいくらいケバケバしかった。地元に帰ったりしなければ、今日も「不快」を感じることなどなかったのかな。
多くの人と、人の思いと、喧騒に溢れている大都会東京。
人口密度と老人の孤独死があたかも反比例するように、周りに誰もいないから孤独なのではなく、人がいても心が触れ合わないことが孤独なのだ、この東京砂漠。
誘いの電話もラインもこない、俯かないで歩いていこう、この東京砂漠。夜の砂漠をさらに地下へと潜っていく。
地下鉄の臭い。最初に乗ったとき妙に得意な気持ちになった。独特の臭いを嗅ぎながら。「これで俺も『東京人』の仲間入りだ」って。
――あいつらきっと地下鉄なんか乗ったことなんねぇだろ。
鼻でふっと笑ってみる。
純粋で純朴なみんなの顔に混じって、どうにも固くてなにをしても食えない男の姿が浮かび上がってくる。
竹切狸のような相方「ドン北村」の姿。
出会ったのはこっちにきて初めてのバイト先だった。
某ファーストフード店。夕方から夜中まで、営業時間中はハンバーガーを作って二十三時に閉店した後は掃除と次の日の準備。
閉店作業は時間帯のこともあって十八歳以上限定、時給も割増になる。
だいたい五人で行うのだが、高卒で一番歳下ってこともあり、みんないろいろとかわいがってくれた。
学生もいればフリーターもいるし、昼間は普通にサラリーマンをしながら小遣い稼ぎにくる人もいる。
他には同じように夢を追いかけて地方から出てきた人、ミュージシャンで夢はメジャーデビューって人、等々。
食事や飲み会はもちろん、おねーちゃんのいる店とかいわゆる「風俗」なんかにも連れてってもらったり。
東京という場所にストレスなく入り込めたのは間違いなくあの人たちのお陰だ。
衝突したこともあったし、不愉快な思いをさせてしまったこともあった。恋愛、そして失恋も……。
全部ひっくるめて、「はるまげどんのハル」の素地は、間違いなくそこで作られた。
でも、「はるまげどん」の素がそこでできたわけじゃない。「はるまげどん」の相方はそこにはいなかった。
毎日、閉店の三十分前に作業用のつなぎを着た人が店に入ってくる。
お客さんではない。
そのつなぎの人はカウンターの中にまで入り込んできて「おざーっす」と店員に挨拶をする。狸のように丸い顔をして、目が合うと「おざーっす」とペコッと頭を下げる。
初めて見たとき、「なんだこの人は?」と怪訝に思った。「メンテさんだよ」、先輩が教えてくれた。
「メンテさん」は夜中、店の清掃とかをしながら朝番の人がくるまでお店の番をする人だ。たまにひょろっとした人だったけど、だいたい狸の人がきていた。
ほとんど毎日バイトにいってたこともって、ちょっとづつ話をするようになった。
おかしいのが顔だけではいことに気づくのに時間はかからなかった。
仲良くなると、こいつがめちゃめちゃ面白い。それが相方「どん北村」こと北村俊彦だった。
「昨日見たっすか? やっぱ『がずあるがずえる』は面白いっすよね」
北村はハルより二つ歳が上だった。
「見たよ! 若手じゃナンバーワンだろ。あいつらぜってぇーブレイクするぜ」
会話はいつもお笑いの話から入って。
「北村さん、いいとこ教えてくださいよ」
「ジャンルは? ヘルス? ソープ?」
「なんでもいいんすけど」
ハルは機材を拭きあげながら、北村は掃除の準備をしながら、話をしながらも要領よく仕事をこなしていく。
「えっとな、あそこ、あそこにあるんだ、いいところが」
「どこっすか」
「巣鴨」
「すがも! マジっすか! ゼッテーウソだよ。おじいおばあの原宿でしょ」
「マジだって」
「いったことあるんすか」
「いや。トゥナイトでやってた」
「トゥナイトって。北村さんどうやって見んすか、いつもここにいんのに」
「録画して見るにきまってんだろ」
「あれを録画してんすか?」
「おーい! トゥナイトバカにすんなよ。東京でのセイ活をエンジョイしようと思ったらあの番組は外せないだろ。チェックしとけよ、トゥナイトは」
「セイ活って、どっちの『セイ』っすか?」
「女性の『性』に決まってんだろ」
「北村さん、彼女は?」
「彼女なんかいねぇよ!」
「そんなのチェックしてるからできないんじゃないっすか」
「うるせぇよ!」
いつもこんな話ばっかり。毎日北村がくるのが楽しみで、その狸のような顔が店に入ってくるともう顔が勝手ににやけてしまう。
「なに笑ってんだよ、この変態が!」
まともに挨拶してたのは最初だけ。あとは会うなりそんな感じだった。
そんな北村も、それから半年ほどで店を辞めてしまった。
寂しくはあったが、だからどうしようということはなかった。お互いの連絡先は交換していたのでなんかあれば連絡がくるだろうし、こっちからもすればいいと思っていた。
お互い連絡もないまま半年ほど経ったある日、突然北村から電話がかかってきた。久しぶりにちょっと会いたいということだった。なにか話があるからと。
ピンとくるものはあった。東京にきて一年、苦しいながらもなんとか生活に慣れてきて、そろそろ動き出したいと思っていた。
「二人でお笑いやらないか」
北村はちょっと笑ってた。しかし、その熱意、決意は充分に伝わってきた。
「はい」
この瞬間、「はるまげどん」は誕生した。
場所は北村のアパートの近くの某ファーストフード店。二階席の窓際。夕方の街に溢れる人々を、二人ともじっと見下ろしていた。
地下鉄から地上に上がる。
辛うじて明かりのある駅前から少しでも歩けば街灯もまばらな寂しい道。
前を女性が歩いているときは要注意だ。痴漢か変態露出男かストーカーと間違えられないように細心の注意を払わねばならない。
実際、前を歩いていたOLが後ろを振り向いた瞬間走り出すというようなことも何度かあった。
相方のアパートの近くもこんな感じだった。暗い道を、激しいお笑い論を交わしながらよく歩いたっけ。
事務所に所属しているだけで仕事もお金も入ってくるわけじゃない。
バイトをしながらネタ作って、ライブして、ライブのチケットだって自腹で買ってそれを知り合いに買ってもらって、配って。
帰りの地下鉄からいつも反省会。白熱しすぎて周りの人から変な目で見られて……。
生活は苦しかったけど、考えてみたらあの頃が一番真面目で純粋だった。楽しかった。
テレビとかに出られるようになって仕事も徐々に入ってきた。
収入も増えて世間の人たちに少しずつ認知され始めたのがここ四、五年。真っ白なスケジュールが一つでも埋まるとそれだけで「やった!」って喜んだ。
今は漸く月の四分の三くらい埋まるようになった。
もちろん、こんなもんで満足しているわけじゃない。
マネージャーさんも言ってた通り、むしろこれからだ。
充分理解している。向こうだって理解しているだろうに、最近なんかおかしい。思い当たることがないこともないが……。
去年の十一月、正月特番の撮影であるグラビアアイドルと一緒にロケにいくことになった。
「ヤッベー、ササミチと一緒だよ!」
相方のアパートで、相方はそれまで見たこともないほど興奮していた。
「ササミチ? 誰だそれ?」
「おまえ知らねぇのかよ! 佐々美智代ちゃんだよ!」
佐々美智代。二十二歳のグラビアアイドルで、ほとんど毎週なんかの雑誌に写真が載るという売れっ子。
「ふーん。知らんな。あれか、なんとかいうグループの一人か」
相方は確かにアイドルには詳しい。
が、「ササミチ」を知らないというのでは不勉強のそしりを免れない。その頃、グラビアだけでなく、テレビなんかにも出始めていた。
アイドルや女優とかには昔から興味がなかった。テレビや雑誌に出てくるような女性は現実味がなくて「好意」の対象になかなかならない。
「アイドルや女優のイメージDⅤDに金使うならAVのがましだ!」
と大きな声で言ったことはないが、心の中では頑なにそう思っていた。自分がこの世界で働いている今でさえ、信念はぶれていない。しかし、だ。
「ほら、これ!」
バサバサと手近の雑誌をめくる相方、それを手渡されたほうは。
「ふーん」
確かにかわいい。それはむしろ当然だろう。
「『ささ』じゃなくて『さっさ』だろ。んーん。確かにかわいいな」
「うすっ! リアクションうすっ!」
そう言いながらササミチのよさについて熱く語り始める。要するに、大ファンだった。
相方の、「ササミチ」についての趣味論から性格論から高校時代のエピソードまで、聞いたそばからすっかり外部に垂れ流しながら、強いてその女子の気になった点と言えば。
――細身のわりに乳あるな。
という、ビキニの胸の谷間だけだった。
仕事も無事終わり、幾らか仲よくなって携帯の番号とライン交換もした。
それからもちょくちょくラインや電話のやりとりをしていた。相方もしてると思ってたし。
その年のクリスマス、彼女と一緒にいたのは彼女を「誰だ?」と言った方だった。
「売れっ子アイドル」という肩書きとは裏腹に、中身は普通の女の子だ。いろいろな悩みの相談にのってるうちに二人で会うようになり、なるようになった。
相方にはすぐに報告した。始めはなんとも言えない表情をしたが、「他の男じゃなくておまえでよかった」、そう言ってくれた。
付き合い始めてすぐに彼女のマンションに転がり込んだ。
一応自分のアパートも借りたままにしていたが、ほぼ彼女の部屋で同棲状態だった。
相方もその部屋には何度かきたことがあったが、じきに呼んでも断るようになり、こっちも呼ばなくなった。相方のその態度を、「やっぱりあんまりいい気がしないんだろう」くらいに考えていた。
しかし、だからといってコンビの雰囲気まで悪くなったということはなかった。感じていた限り、むしろ以前より熱がこもっていた。
仕事は順調だったし、ライブも大盛況でいつも満員だった。そしてそのうちに、コンビの仕事以外にピンでの仕事がちょこちょこ入るようになった。
昔から運動神経には自信があったので運動系の番組に、相方はバラエティ番組のレポーターなどに。数はそんなに多くなかったけど、「いっぱしの芸人らしくなってきた」なんてお互いに言い合っていた。
コンビでの仕事に違和感を憶えるようになったのはそれから少ししてからだったか。相方との間に「ズレ」を感じるようになった。
初めはそんなに深く考えなかった。お互いにピンで仕事をするようになって、少し息が合わないんだろう、くらいに考えていた。
そして、はっきり「それ」を感じたのは今年の五月。テレビのネタ見せ番組でコントをやったとき。
相方のボケにつっこみを入れた、そのときの相方の顔、表情、視線。冷ややかなもの。本番中、全身に鳥肌が立った。
本番終了後、楽屋でマネージャーに言われた。
「今日はなんかいま一つだったね」
その言葉通り、お客さんの反応はいま一つ。こっちの手応えはいま二つ。
「今が大事な時期だから。一つ一つ、しっかりこなしていこう。まだまだこれからだよ、でかい波起こそうよ」
マネージャーが腕をくねくねと波のように動かした。次の予定を連絡して、部屋から出ていった。二人残された楽屋の空気が、ナメック星に向かう宇宙船よろしく重くなる。
「なんだよありゃ!」
マネージャーがいなくなるなり、相方が吼えた。
「は?」
それが精一杯のリアクション。狸が本気で切れている。
「『は?』、じゃねんだよ! なんだよ、あの中途半端なつっこみは!」
「なにがだよ! 半端はそっちだろ!」
確かに、中途半端だったのはこっちだ。あの一瞬、集中が百パーセントでなかったことを認めないわけではない。
「つうか、本番中にあんな顔すんじゃねぇよ! さらっと流して次につなげりゃいいだろうが!」
「なに逆切れしてんだよ。わけわかんねぇし」
「切れてねぇし」
「最近、おまえ気持ちが緩んでんじゃねんか。コンビの仕事、雑になってっだろ」
「なってねぇよ。そりゃそっちだろうが! おまえだってこないだボケミスって」
お互いの誹謗合戦はそれから五分ほど続いた。
正しい批判であれば甘んじて受ける。今までそうしてきたつもりだ。コンビがさらに成長するために必要だから。
そのときはそれができなかった。図星をつかれたから、というのはあるだろう。
が、それだけではなかった。
いい加減、争いの不毛なことに相方も嫌気がさしたらしい。まとめの言葉を、やはり上から言ってきやがった。
「今が大事なときだって、わかってんだろうが、よぉ! しっかりしてくれよ、なあ!」
すぐに出ていくかと思った相方は、しかしなかなか出ていかなかった。もちろん、視線も言葉も交わることはなかった。
大きな溜息を一つ吐き出し、「お疲れ」と言って楽屋から捌けていった。
狸のやつ、一本も吸わずに出ていったな。そんなことを思いつつ、煙草に火をつけ、大きくゆっくり煙を吐き出す。鏡に映った己の顔を、目をじっと見つめた。
鏡から顔を背けると、ヤツの言葉が蘇る。
「グラビアアイドルと付き合ってるからって、勘違いすんじゃねぇぞ!」
相方は、それまで刺すようだった視線をそらしながらこう言った。
「してねぇし。関係ねぇだろ」
それこそ、お互いにとっての核心だった。
逃げていった相方の顔を、逆に追いかけた。相手の目ではなく、口の辺りに攻撃的な視線を投げたが、相方が痛みを感じたかどうか。
――舞台上でのやつの目、あの目の底にあった冷たく鋭いものはこれだったのか……。
舞台で見えた冷たさの底に、こんな熱いモノが練成されていた。極端な言い方をすればそれは「悪意」あるいは「敵意」。
「ダメ出し」というにはあまりに直截的で、あまりに辛辣だった、相方の感情。
「なんなんだよ、あの野郎!」
マンションに帰ると、ササミチは既に帰っていた。日付も変わるような時刻である。
食事は各自で済ませていたが、シャワーを浴びて一緒に酒を嗜むと、体の中で動き出す。
「最近たるんでるとか気を引き締めろとか、なんであいつにんなこと言われなきゃなんねんだよ」
「どうしたの? 珍しいね、キタさんの悪口なんて」
「ネタがすべったの全部俺のせいにしやがった」
なんとなくテレビはついている。彼女はグレー無地の半袖ティーシャツにスウェット装備でもう寝る準備ができていた。ちょっと眠そうでもあった。
「ダメだったんだ、今日」
「ああ。マネージャーにも言われた。確かに、自分でもイマイチだと思ったけど、俺のせいとかじゃなくてさ、あいつだっておかしかったっつうの」
相方のクソまずい態度を思い出す。
「思ってたんだけど、最近あいつちょっとおかしいよ。調子乗ってるっつうか、なんか俺のこと上から見てんだよ。年上だし、もともとあの人に誘われたんだけど、でも前はもっと、同じレベルでなんでも言えたのに」
彼女は手に持ったグレープフルーツの缶チューハイをじっと見つめていた。それがいつもの彼女だった。
こうして愚痴を聞くときの、彼女の横顔。きれいな曲線と唇のアクセント、少し上気した頬、潤んだ瞳、彼女の横顔が、たまらなく好きだ。
「ごめん。あんまり聞きたくないか」
「珍しいよね、キタさんのことそんな風に言うの」
仕事の失敗とか、先輩後輩のことでの不満、街で声をかけられて「なんだ、違うじゃん」と言われたこととか、そんな話はよくするが、そういえば相方に対する不平は、ここまで感情のこもった愚痴は言ったことがない。
ちょっと困ったような笑顔を浮かべた、彼女の髪を思わず撫でて、反対側の耳を優しくつまんだ。
「くすぐったい」と彼女はちょっと肩を竦めて笑ったが、こちらを見ようとしなかった。
「ハルが、ズルイんだよ」
語尾を上げながら言った。
え?
「ズルイ」という言葉ほど状況によって受け取り方のかわる言葉も少ないのではないか。
「いろいろ持ちすぎてるから、キタさんが嫉妬するんだよ」
「いろいろ?」
「いろいろ」
そう言って、彼女の横顔がまた、輝いた。
ルックス、運動能力、遊び仲間、比べてみた。彼女が「いろいろ」に込めた「オンリーワン」にはっきり気づかないまま、艶やかな唇を奪った。チューハイで濡れた唇は一瞬冷たかった。
「ん」
と喉が鳴った。グレープフルーツの残り香が仄かに鼻腔を通り抜けた。
唇を重ねつつ、髪を撫でたその腕で彼女の肩を抱き寄せた。逆の腕で彼女の腰をとり、こちらに向きなおさせる。
それまで無関心を装っていた細い腕は、缶チューハイをテーブルに置くと、漸く首に絡みつく。首に触れた彼女の肌はサラサラだった。
――ざまぁみろ、俺は今、ササミチと抱き合ってる、キスしてる!
男の腕はティーシャツの胸を触った。生地の上から柔らかな膨らみを弄ぶ。掌はすぐにティーシャツをかいくぐった。
シャツの下は、少しべとついていた。彼女の胸は抜群の柔らかさと美しさを兼ね備えていた。
――俺は、ササミチの胸を揉んでいる! ざまあみろ!
首と擦れあう腕もべとついてきた。息が荒くなる。押し付けあう胸と胸、鼓動が鼓動を叩き合う。
臨界点だ。欲望がメルトダウンを起こし、理性という障壁を崩壊させる。それは、性交ではない。唇を離し、じっと目を見詰めて。
「ミチ、俺のこと好きか?」
「うん。ハルは」
「うん」
「うんじゃわかんない。言って」
「好き、好きだ、大好き、チョー好き」
「うん、ミチも。ミチもハルのことチョー好きだよ」
俺は、ササミチと愛し合っている! ササミチは、俺のものなんだよ!
彼女と抱き合うたび、心で叫ぶ。
この夜は、いつもと少し違っていた。いつも叫びは「世の中の男ども」に向けられていた。
彼女のグラビアを、DVDを見てシコシコしてる男ども、ざまあみろ、誰にも渡さない、彼女は、彼女の「乳」は俺のものだ!
今夜は違った。
確かに「ササミチ」とは人気も認知度も、ギャランティも釣り合わないだろう。
でも、俺は勘違いなんかしていない。彼女と抱き合っている、このことは、妄想でも勘違いでもない。これは、リアルだ!
――ざまあみろ、この狸が!
「なんか言った?」
「なんも言ってないよ」
「エッチなんだから」
「なにが。確かにエッチだけど」
「変な顔」
「鼻をつまむんじゃないっつうの」
「ハルの鼻、好きなんだもん」
「鼻だけ?」
「うん、鼻だけぇ。電気、消して」
まるで彼女の心に己の傷を刻み付けるかのように、男は女を抱きしめた。彼女の甘い吐息を、全て己の欲動で噛み砕くかのように。
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