第2話 - 2
正月に甥っ子たちがきたとき、妻は家にいた。家の中を歩くことはできたが、かなり痩せてしまっていた。弟家族は日帰りで、その日の昼過ぎには帰っていった。
弟家族に会って、彼女は楽しそうだった。よく笑った。よくしゃべった。弟たちが帰ったあと、彼女は、
「今日は疲れた」
と笑顔でいい、そのまま眠った。「笑う」ことは疲れるのだ。笑顔は彼女の眠り顔に暫く残っていた。
楽しそうな彼女をみて、喜んでいいのかわからなかった。彼女の笑顔をみるのが、声を聞くのが、辛かった。
「もう帰ってくれ」
何度そう思ったかしれない。彼女が一秒笑えば命が一秒短くなり、一言しゃべれば一秒命が縮まるようで。
東京に戻った弟から『今日はすまなかった』とラインがきた。弟には、兄の「思い」が伝わっていた。
『こっちこそごめん』
もっと他にいろいろ言葉を付け足そうと思ったが、なかなか難しかった。説明を、言い訳をつらつらと書いて送ろうと思ったが、難しい。電話をしようとも考えたが、それも難しい。兄は、泣いていた。
「アキさん、ごめん、俺がこんなで、一緒に喜んであげられなくて、ごめん、アキさん」
涙が止めどなく溢れていた。
科学の進歩が日進月歩とはよく聞く言葉だ。がんの研究においても当てはまるだろう。
実際の現場においても、日進月歩とまではいかなくても、治療方法はどんどん進化している。免疫の働きを活用する免疫療法、抗がん剤耐性を持った癌細胞の増殖を抑える適応療法、癌細胞の放出するエクソソームをコントロールして転移を防ぐ治療法により十年後には文字通りがんと共存しながら生きるという選択肢が可能になるかもしれない。
だから、アキさんには、
「生きよう! 頑張って! あと十年、五年生きれば」
また違う道が、新しい方法が、できるかもしれないから。
「ありがと」
妻の笑顔は白い雲のように柔らかく、声は青い空のように優しかった。
昔から六月が好きではなかった。梅雨が嫌いだ。
雨が嫌いなわけじゃない。
青空がみえないから? それは「雨が嫌いじゃない」ことと結局は矛盾する。
六月が「昔から好きじゃない」と思っているのは、妻が病気になってからできた記憶かもしれない。
そして、その「記憶」は、きっと、これから一生消えることはない、書き換えられることはないだろう。
医師から「長くはない」ことを聞かされる。その言葉が虚しいほどに、そのことを夫はわかってしまっていた。
妻は、細くなった。なんて細い、なんて薄い。
「俺、決めた、アキさんは、俺が殺す」
「いきなり、なにいってるの」
「病気になんか殺させない。アキさんは、俺が、俺の手で殺す」
「ばかね、きみが捕まっちゃうじゃない、それじゃ、わたし、成仏できないよ」
成仏なんかさせない!
「俺にとりついてくれよ、幽霊になってこの家にいてよ」
「きみが、寝れないんでしょ」
「寝れなくたっていいよ、怒ってくれよ、ばかって、叱ってよ」
「ばか、ね」
俺が殺すって決めたのに。俺の手で殺すって決めたのに。なのに、妻の苦しそうな顔をみるのが辛い。妻の声を聞くのが苦しい。
「おいていかないでくれよ、寂しいよ、俺、一人じゃ生きていけないって」
「そんなこと、いわないでよ」
彼女は、夫に最後のお願いをする。
「笑って見送って。お願い。わたしが死ぬときは、最後にきみの、笑顔で、わたしの、大好きな」
冬の太陽のように暖かく、夏の夕立のように強かった妻は、秋の夜のように清らかに、春風のように清々しく、息を引き取った。
残された夫には、地獄のように辛い日々が待っていた。死人のように、日々生きていた。
四月の時点で会社を辞めていた。彼女には「休みをとった」と嘘をついた。
翌日には「実は」と本当のことをいった。
「ばか」
と小さく笑った。嘘をつくならつき通さなければならない。彼女に嘘をつきたくなかったというのもあるが、それよりも「辞めて」怒られたかったのかもしれない。「ばか」といわれたかったのかもしれない。
悲しいことではあるが、彼女の命は燃え尽きようとしている、それが夫にもはっきりとわかる。消えかけた命を前にして不正直に振舞えるほど、夫は賢くはなかった。
彼氏も彼女も三十代の終わりを前にして初めての結婚だった。
彼女は、二十代の終わりにも大きな病気を患った。子宮頸がん。転移はなかったが、
「諦める、という言い方は無責任かもしれないけど」
という前置きとともに、彼女は子どもを産むことを諦めた。彼女は子宮を全摘した。再発や転移などのリスクを考えての処置だった。
そのとき付き合っていた彼氏にも、その後付き合うことになる彼氏にも、何人かに結婚を申し込まれ、
「気にしないよ、きみと一緒にいれればそれでいい」
などといわれたりしたが、結婚には至らなかった。
そして、彼氏と彼女は結婚する。
なんで俺とは結婚してくれたの?
「そういうところだよね」
え?
「もっと自分に自信を持たないとダメだよ。自信ていうのは責任。きみは、全部自分で背負ってるようで、全部他人のせいにしてるの、ダメだよ、それじゃ」
いわれていることは理解できる気がした。ただし、なにが「結婚の決め手」になったかはわからなかった。後に、
「ノリよ、ノリ。してみたくなったのよ。一回くらいしておきたいじゃない」
恥ずかしそうな笑顔でそういった。彼女は滅多に照れたりしない。照れた様が、とても可愛い人だ。
彼女の両親は涙を流して祝福した。それは少しやりすぎだ。彼氏の両親も泣いて喜んだ。
「ぐうたら長男と結婚してくれて、ほんとにありがとう!」
「いいお嫁さんでほんとによかった、ありがとう、これでわたしたちも」
安心したわけではないだろうが、アキさんが家に入って五年のうちに二人はこの世を去ってしまった。
彼女との結婚生活は八年ほどだった。大学は県外にいっていたが、地元の企業に就職するために戻ってきたのが二十二歳のとき。基本的には実家から通っていた。十五年間実家で三人で暮らしていた。歳はとってもずっと変わらない生活が続いていた。時間だけが経っていく。そんなはずはないとは理解しつつも、いつまでもこの三人での生活が続くような気がしていた。そんなはずがないのだからと、焦りを持ちつつ安穏ともしていた。
四人で生きていく覚悟をようやく固めた、五年後には二人になり、八年後には一人になってしまった。
振り返ると、自分はとんでもないことをしでかしてしまったような気がしてくる。
アキさんと結婚していなければ、今でも三人で平穏にくらしていたのかもしれない……。
「バカが!」
一人のリビングで、男は大きな声をあげた。
「情けない」
情けなくて、涙も出てこねぇ。やっぱり、自分は一人では生きてはいけない。
「アキさん……」
情けなくて、涙が止まらない。
「だいじょぶすか、おじさん」
甥っ子が、いつのまにか後ろに立っていた。
「だいじょぶすか、おじさん」
「ああ、ごめん」
テレビは消えている。時刻は夜中の一時を過ぎていた。静かな家だ。
いや、静かなら、甥っ子がくるのが聞こえたはずだ。時間が流れないはずはない。自分だけが、自分の意識だけが、時間から逃げていたのだ。大事な人を生き返らせることはできない。だったら時間を止めるしかない。離れたくない。忘れたくない。
「すいません、おやすみなさい」
甥っ子はまた、二階にあがっていった。パタン、ドアが閉まる、音が今度は聞こえていた。
振り返る記憶、思い出は、泣き顔ばかりだ。情けない泣き方ばかりしている。自分が弱いために涙を流し、涙を流すたびに弱くなる。
今日また泣いた。辛さに胸を叩かれては泣き、泣いては辛くなる。アキさんがいなくなって、自分はほんとに一人で外に出ることもできなくなっていた。
三ヵ月。まだ三ヵ月、もう三ヵ月。
時間は薬にはならない。時間が解決してくれることなどない。時間は決して戻らない。人にとって意味のある戻り方をすることはない。時間の流れに委ねてしまっては、人は老いるだけ。モノは朽ちていくのみ。時間の無情さ、空虚さに耐えきれずに自らの手で自らの未来を切り捨ててしまう人だっている。未来を見出せず、現在に絶望して自ら命を絶ってしまう人もいる。
時間を進めるためには動かなくてはならない。
失ったものを埋めるためには、止まってしまった歩みを再び始めるには、自分でするしかない。
一人、ではない。誰かの助けがいる。つながり、絆。人は一人では生きてはいけない。人は一人では、生きてはいない。
誰かがいる。誰かはいる。
今日、甥っ子がきた。受け入れたのは自分だが、
「これもアキさんが……」
なんでもかんでも亡くなった妻に頼ったのでは、疲れの溜まる肉体を失ってなお疲れが抜けないというものだ。
きっかけが欲しかったのだ、自分に。動き出すための。
そのきっかけを中学二年生に求めるとは、四十半ばのおじさんが、なんとも情けない……。いや、年齢は関係ない。なんなら、生き死にだって関係ない。人は一人ではない、それは、死んでしまったとしても、そばにいるから。誰であれ「一人」の中の一人なのだ。
叔父は二階に上がっていった。
「タクヤ、明日、午前中から付き合ってくれるか。ちょっと、いきたいところがある」
特に返事などはなかったが、叔父はそこで一階へと降りていった。
予報に違わずいい天気だった。巻雲が青空に流れる。空が高かった。気温は高いが、空には既に秋の先っぽがみえている。
二人の乗る車が坂道を登る。観音山を登る坂道を。「羽衣線」とは、きれいな名前をつけたものだ。坂道を登りきった左側に有料駐車場がある。そこに車を入れた。
「叔父さん、がんばって!」
甥っ子の声援を受けて、叔父の乗るロードレーサーが駐車場から離れていく、レーサージャージとレーシングパンツに身を固めた、叔父もすっかり戦闘態勢だ、身なりだけは。
駐車場を出て左手に進むと、道は下る。ぐるっと回り込むように下ると、道は和田橋通りに合流する。観音山の入口、羽衣線の入口である。さあ、ここからが本番、スタートだ。
登り始めると、左手に高崎の街並みが開ける。懐かしい光景だ。久しぶりにみた。前に登ったときは、妻がまだ生きていた。ただし、そのとき既に「元気」ではなかったのかもしれない。カーブを曲がると、街並みは消える。そうだ、こうだった、この景色、やはり懐かしい。
一周目。早くも一番軽いギアを使う。足もかなり使っている。
「叔父さん、すごいすごい! 頑張って!」
「おう」
左手を軽くあげて応える。あいつ、あんなに声が出るんだな。声の大きさではなく、こういう場所でも。やっぱり「イマドキ」だな。二周目に入る。この下りでどれほど回復するだろうか。
和田橋通りに出て観音山を正面にみる。反対側の歩道で自転車を押す女性が護国寺に向かって頭を下げたようにみえた、わたしが今日やり遂げられることも祈ってくれると嬉しい。二度目の登りに入る。緩みかけた気持ちと足に渇を入れ、ギアを軽くして腰を浮かせた。怯むな。
懐かしい街並み、懐かしい坂道、懐かしい……。ここはまだ「懐かしさ」の途中。登れ、漕げ、ペダルを回せ、アキさんが元気なあのときまで! あのときの自分はこんなとこではへばってなかった、まだ戻りきれていない、漕げ、回せ、登れ。
登った、二回目。さすがに、しんどい……。
「叔父さん、がんばって! あと一周だよ!」
甥っ子の声援に、左手をあげて応える。さあ、もう一周、いこう。
ヘロヘロだった。もう力は残っていそうにない。
でも、止めようとは思わなかった。甥っ子がいるから。
一人だったら止めていたかもしれない。実際、今日じゃなくて来週にしようかとも考えた。来週、一人でこようかと。
誰かに見届けて欲しかった。「お目付け役」ともいえる、途中で逃げ出さないための。
今はまた違うことを思っている。
甥っ子は、いうなれば「現実」だった。久しぶりに自転車で観音山を走ると、懐かしさがあっという間に包み込んでくる。妻がいた「あの頃」に入り込む。「妻がいる」と思えばその時間に浸ることは簡単だった。
甥っ子がいなければ、なおのこと。
甥っ子が声援をくれる。甥っ子の声は、まさしく背中を押してくれた。周回というのは象徴的過ぎたかもしれない。この三ヵ月、叔父が閉じこもっていたループの象徴。進まない時間の中で生きていた、繰り返される時間の中で生きていた。ブラックホールからは光さえも逃れられない。
光さえも飲み込むブラックホール。というのは、飲み込まれた光の話。ブラックホールを外からみると、光はブラックホールの表面にくっついているようにみえるそうだ。そこでは時間が止まるから。
夫が囚われていたのは、妻なのか、妻の死か。どちらも同じことだ。大きな星が死ぬとブラックホールになる。妻が死んでブラックホールになり、そこに夫が囚われた。
文字にすると、陳腐ではある。
さらに陳腐なことがいえる。光はブラックホールから逃げ出せない、しかし、人は違う。そこから前に進むことができるのだ、ブラックホールの引力から抜け出して、飛べる! 一人ではないことに気づくことができれば! 甥っ子の声援があれば!
「ふっ」
と叔父は笑みを浮かべる。きざったらしく。彼女がみたら「バカ」といわれそうだ。
ああ、いた、みえたよ、アキさん、そんなところにいたのかい、俺は戻ってきたのかな、きみが生きてたあの頃に。
アキさん、もう一度会いたいよ、もう一回叱ってくれよ、もう一回話がしたい、もう一回、もっともっと、笑いあいたかったよ、アキさん、アキさん。
「きみに看取って欲しいって、思ったのかもね。なんとなく、そんな予感がしたみたい」
彼女が亡くなる少し前、彼女はそういった。掠れた声で、弱弱しい声で、わざとそんな聞き取りずらい声を出しているんじゃないのかな、きみは、そういう告白が苦手だったから。
まさかこんなに早くそのときがくるとは思ってなかったけど。そう、聞き取りずらい声でいうと、にっこり、笑った。
「ごめんね」
笑いながら、謝った。
情けない俺を心配させないように、彼女はいつも笑顔だった。なのに俺は、いつも冴えない顔で変なこといって、きみを困らせて。いまだに「叱られたい」なんてバカなこと思って。ほんとに情けない。きみのために、きみの最後の望みも叶えてやれなかったよね、ほんとにバカだったよ。
「ごめん」
今さら謝ったって遅いのに。今ごろ謝ったってしようがないのに。今ごろ泣いたって、今ごろ腹を立てたって。今ごろ、今さら……。
これっきりだ。もう、これっきり、今日で。
「じゃあね、アキ」
もう振り返らないから。過去に戻ろうなんて思わない、きみを思って泣いたりしない。だから未来で、また会おうよ、もう泣き顔をみせたりしない、きみが「好き」だっていってくれた笑顔をたくさんみせるから……。
「叔父さん、もうちょっと! がんばって!」
「いけぇぇぇ!」
それは声にもならず、叫びにもならず、音にもならなかったかもしれない。
男は、登り切った。観音山を三周、止まることなく走り切ったのだった。
車のとこまで、ふらふらしながらたどりつく、自転車が倒れそうなのを支えて足を出した、そこでとうとう自転車は止まった。「ふうう」大きく息を吐きだした。
新たなドアを開けた! 今までの日常と決別して新しく生まれ変わることができた!
なんていう達成感は意外にない。全身が震えるようなのは、やり遂げた喜びではなく、たんなる疲労からだ。この疲労すら、懐かしい。
「しかし」
休んでいる場合ではない。動くこと。動くことを止めない。動くことで時間は進むのだから。
「タクヤ、一緒にきてくれ」
自転車を駐車場を囲む柵にチェーンロックで縛り付け、甥っ子を伴って今登ってきた坂道を下った。
二週目の登り坂の前にみた女性、護国寺に向かって一礼した女性がいた、「そんな雰囲気」を感じたが、まさか本当にやるとは!
三回目の坂の途中に、自転車を押す女性がいた、間違いない、あの人も、自転車で「挑戦」したのだ!
わたしの無事を祈ってもらうどころではない。チラ見の印象では、自分より年上、いや、自分の母親と似たか寄ったかの年齢にみえた。とんでもない精神だ。たかだか四十半ばの自分が達成感を感じない理由がわかるというものだ。満足している場合ではない。上には上がいる。
その上が、
「いた」
「おばあさん、自転車でここまできたの!」
甥っ子も驚く。おばあさんは、止まっていた。動けない、といった様子だ。かなり疲れているのだろう。
坂道の三分の二ほどの場所でもある。叔父が声をかける。短く話をすると、叔父は一人でまた坂道をあがっていく。ほどなく、下ってきた車がおばあさんから少し下りたところにハザードを出して止まった。おばあさんと甥っ子は、カーブのすぐ入口で待っていたから。注意深く、叔父が二人の元へいき、左右を慎重に確認して、車の後部座席に乗せた。
ハザードが消えて、右ウインカーが点滅、動き出す、消える、車が走り出すと、甥っ子はおばあさんの自転車に乗って、坂道を下っていった。
残暑というほどではないが、気温は高めだったから、軽く熱中症気味だったかもしれない。帽子もかぶらずに出てきたのはよくなかった。買っておいた水のボトルを一本渡した。おばあさんの道案内で家まではすんなり到着した。意識ははっきりしているようだ。少し休めば回復するだろう。おばあさんの家の向かい側の路肩に車を停めさせてもらう、進行方向上仕方なし。住宅街の中の道路という感じでセンターラインもないが、車はすれ違えるほどの広さではあった。長居するつもりはない。甥っ子が着いたらすぐに帰ろう。甥っ子も、迷わずにつけるはずだ。この家には、文字通り大きな目印がある。
家の庭に、大きな柿の木があった。広く梢を広げた柿の木が、庭に立っていた。
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