第2話 - 1
「無理なら無理っていっていいよ。そこまで聞き分けがない子どもじゃないからさ」
東京で暮らす弟から電話がきた。子どもが、この週末こっちに遊びにいきたいといっている、と。弟の子どもは中学二年生。
「だいじょぶだよ」
「俺も女房もちょっと用事があっていけなくて、子どもだけでいかせることになるんだけど」
「だいじょぶだよ、こっちは」
「そうか」
弟がなにかを飲み込んだ、とても大きくて重そうなものを。小さく吐き出した。
「無理いってないか?」
「こっちこそ気遣わせて悪い。ほんとにだいじょぶだから、タクヤに『待ってる』て伝えてくれ」
電話は終わる。この兄の奥さんが三ヵ月前の六月に病気で亡くなった。毎年八月のお盆の時期には、弟家族はこっちに遊びにきていたのだが、兄の方で「今年のお盆は静かに過ごしたい」と断ったのだ。
それから一ヵ月。こういう状況だと「まだ一ヵ月」という方が適当なのかもしれない。弟にもその思いがあるのだろう。
兄にとっても「まだ一ヵ月」だった。
しかし、なぜか不思議と、弟から「子どもが」と話がくると「もう一ヵ月」という気持ちになった。
三日ほど前に弟から『子どもがいきたいといっているんだが』とラインをもらった。それをみた瞬間には「断ろう」という思いが強かった。それこそ「まだ一ヵ月だぞ」と若干の苛立ちを覚えたものだ。
一晩寝て起きる。意外と悩んだ。悩んだことが意外だった。ラインをもらった十分後には『ちょっと考えさせてくれ』と返信し、一時間後には『すまんがまたにしてくれ』と返信しようと気持ちが固まりかけていたのに、二十四時間後には『了解』と返信していた。
「妻」に、「そろそろ心をオープンにしなさい」といわれた気がした。そろそろ、そういうタイミングなのかもしれない。
その日その日で暑がっていたのだろうが。振り返るとなにも引っかかるモノがない。暑さを疎んだ記憶がなかった。梅雨の鬱陶しさは、思い出せるのに。
いつの間にか三ヵ月が経っていた。カビでも生えそうな体たらくの夫に浴びせる、「妻」の嘆きが鼓膜に響くようだった。
兄は実家で結婚生活を送っていた。数年前に母が亡くなると、それで両親は二人とも鬼籍に入ることになり、実家は兄と妻の二人の家になった。子どもはいなかった。
その妻も、先に逝ってしまった。わざわざ「広い」と形容するほど広くはないが、四十男が一人で暮らしてみると、そこはやはり「広い」と感じる家だった。
妻は、大腸がんだった。
妻が去年の五月頃から胃が痛いといい出し、近くの病院を受診したが、胃炎の薬をもらって帰ってきた。胃を押してみたり、レントゲンを撮った上でのその薬だった。
薬を飲むと一時的に楽にはなるのだが、すぐにまた痛くなる。一月ほど様子をみていたが、次第に動くのが億劫だというようになった。玄関を出て敷地内にある車まで歩くのもしんどいといい始めた。そのときには腸の方にも痛みが広がっていた。食欲もなく、嘔吐もたびたび。
さすがにただの胃腸炎ではない。少し大きな病院にいってCTを撮ってみると。
「大腸がんです」
ということだった。しかも、その時すでにステージ4。肺や胃などの臓器に転移はみられないが、大腸の近くのリンパ節に転移があり、さらに腹膜のほうに転移が進んでいるということだった。腹膜播種というのだそうだ。
検査結果の告知の前に、
「誰か、家族の方呼びますか」
と聞かれたという。一人で「大丈夫です」と答えたが、さすがに、その時点でがんであることは想像がつくというものだろう。妻がいうには、検査が終わった時点で既に「わかっていた」という。
「CTを撮る前と後の女性の看護師さんの態度が全然違ってた」
そうだ。CTの前は「だいじょぶですよ」と笑っていた看護師さんだが、撮影が終わった後の彼女からは笑顔が消え、明らかに表情が強張っていたという。
「わかりやすいよね」
と妻は笑っていったのだった……。
その場では「余命」という話はなかったそうだ。
その病院にいった時点で「薬を飲んで安静にしていればよくなる」病気でないことは覚悟をしていた。「がん」も頭にはあったそうだが、やはり、実際に医師の口から告げられたときは衝撃を受けた。「がくっ」と項垂れ、暫く言葉を発することができなかったという。
手術はその病院でもできるが、抗がん剤など術後の治療まで考えると他の病院のほうがいいということで、市役所近くの「総合医療センター」に入院した。
甥っ子は、金曜日の十九時半ころに駅につくということだった。叔父は、駅まで車で迎えにいく。
車で駅までは十分もかからない。久しぶりにみる夜の繁華街。灯りがまぶしい。懐かしい、というよりも、なにか、
「タイムスリップでもしたような」
感じがした。自分の生きている時間では妻はこの世にはいない。しかし、今、駅にいる、自分がここにいるこの世界においては妻はまだ生きている。妻が元気な世界。家に妻がいる時間の中にいる。そんな気がしていた。そんな感覚で新幹線を待っている。涙が出そうだった。嬉しくて。
甥っ子と会うのは、一月以来八ヵ月ぶりだった。新幹線からジーンズにフリーズ姿の甥っ子が出てくる。
「こんばんわ」
「こんばんわ、おう」
少し大人っぽくなったな、というおとして言葉を飲み込む。あまりにもこういうときの「テンプレ」すぎて嘘っぽくなりそうだった。顔つきと声が、八ヵ月前とは違うようだ。
車に乗る。
「まだ夕飯食ってないんだろ。なにか食べたいものあるか」
「めっちゃお腹空いたっす」
「そうか。じゃあ、どうっすかな。焼肉でもいくか」
「はい!」
やはり、男子中学生に焼肉は間違いない。
「大人っぽくなったな」
ここでいってしまう。
「そうですか」
「身長伸びたか」
「百七十二です」
「俺とあんま変わらんやん。俺が七十六だから。そのうち抜かれるな。部活はどうなん」
甥っ子は剣道部だった。
「夏の大会はどうだった? つうか、東京の大会てどういう仕組みなん?」
よくしゃべる。久しぶりに「身内」と話をしているからだろう。我ながら、面白いほどだ。やはり、受け入れてよかった。
恐れていた。自分の中の恐れを誤魔化している。魔法が解けるのを。
甥っ子が前回一人でこっちにきたのは、去年の四月、春休み中だった。あのときも、叔父が運転、助手席に甥っ子。そして後部座席には妻がいた。三人で焼肉食べ放題にいった。
ルームミラーをみるのが怖かった。車に乗るのがこれほど怖いこととは。
思えば、あのときもあまり食べなかった。もしかしたら、あの頃から、吐いたりしていたのだろうか。
やはり、受け入れないほうがよかった……。
入院後の検査。大腸カメラ、CT、MRI、エコー。結果は予想通り、芳しいものはなし。当初の見立てに間違いはない。
見舞いにいくと、妻の傍らの点滴スタンドには常に三つか四つの袋がぶら下がっていた。食事は流動食。栄養は大きな点滴から注ぎ込まれる。
「トイレが近くて仕方ないの」
と、夫の方にスッと紙を差し出す。トイレにいったら用紙にチェックを入れる、トイレチェックシートだった。それによると、日中は二時間に一回はトイレにいっている。
「うんちだって、もう水なんだから」
嬉しそうに夫に報告するのだった。
看護師さんから動くようにといわれていた。トイレにいくにも、病室の外に出るにも、点滴スタンドと常に一緒だ。点滴の量をコントロールする機械もくっついている。ベッドを離れるときは、電源を抜いて移動する。バッテリー式だ。
病室は病棟の八階、最上階。見晴らしは抜群だった。自動販売機のある休憩スペースにはよくいった。
「ちょっと太ったんじゃない? 自転車乗ってるの?」 。
夫は趣味で自転車に乗る。妻もときどき付き合った。「太った」とは、皮肉だろうか。
確かに自転車には最近乗ってないが。確かに運動不足ではあるが。
「最近乗ってないんでしょ。また観音山二周しないと」
俺がスタンドになろうかな。
「え?」
恥ずかしいから、聞き返さないでくれよ。
俺がスタンドの代わりに点滴持とうかな。
「なにいってんの?」
一回目で聞こえていたのだ。妻のにやけ顔が。
そうすればずっと一緒にいられるだろ?
「ばかじゃないの。気持ち悪い」
視線と視線が重なると、妻は先に視線を窓の外に動かした。七月に入って一週間ほど経つ。まだ梅雨は明けない。曇り空だったが、雨は降りそうにない。
視線の合わない妻を、夫はじっと、むしろ無遠慮にみる。細い。妻の首の細さ。骨と皮、「だけ」とはいいたくない。簡単に折れてしまいそう……。
あのうちさ、幽霊が出るんだよ。
「はあ? ばっかじゃないの」
声は前と変わらない。言い方も。音の強さ、イントネーションも。
ホントだって。夜中に足音とかするんだって。
ほんとなんだって。それでなかなか寝付けないんだって……。
「きみさ、ときどきヤバイよね。今の録音して会社の人に聞かせてあげればよかった」
夫婦は職場結婚だった。妻は結婚しても仕事続けていた。いた。
「しっかりしてよね、女子社員の憧れの的なんだから。あんまり変なこといわないでよ、まったく」
毎日お見舞いにはきていた。仕事が終わった後、ときには、出先の行き帰りの途中でも。職場には許可をもらっていた。理解のある職場のみんなにはほんとに感謝している。しているが……。
そろそろ帰らなければならない。
じゃあ、また明日くるよ。
「きみさ」
ん?
「会社辞めるなんて、考えてないよね」
きみさ。それは、彼女と付き合っていたころの呼び方。結婚して家に入るとき、さすがに両親の前で夫のことを「きみ」とは呼べないということで封印していたのだ。
両親が亡くなってからも、妻は夫のことを「あなた」とか「タケル」と名前で呼んでいた。「きみさ」と再び呼び始めたのは、病気がわかってからのことだった。
「あなたが元気になれば、元気になるなら、そんなこと考えなくて済むんだけど」
いえるわけもなかった。
病室のベッドに妻が横になったのを見届けて、じゃあ、と病院を後にした。
外に出ると、湿気を含んだ空気が体にまとわりつく。まったくもって人をイライラさせる蒸し暑さだった。
抗がん剤治療のため、人工肛門などの手術をした。術後の回復具合をみて、七月半ば、いったん退院することになった。
それは、妻の希望でもあった。
「きみが寂しくて寝付けないっていうからさ」
「そんなことは」
いってないけど。わざわざ幽霊の出る家に戻ってくるとは、妻も物好きな人間だ。
妻が家に戻ってきた翌日、梅雨が明けた。
「食ったなぁ。もう食えねぇわ」
家の灯りがついたなり、叔父が口を開いた。聞かせる相手がいるというのは、やはり悪くないものだ。
甥っ子は流石の食いっぷりだった。自分が中学生のころもあんなに食べたんだろうか。みてるこっちが気持ち悪くなるほど……。
甥っ子の荷物はリュックが一つ。その荷物をリビングに置くと、甥っ子はそそくさと奥へと入っていく、かつて両親が使っていた部屋に仏壇がある、妻の仏壇が。甥っ子はまず仏壇に挨拶したのだった。正座をして手を合わせ、チーン、鉦の音が部屋に染み渡った。きれいな正座姿だ。さすがは剣道部。
リビングのソファにかけてテレビをみていた。お風呂の準備はできている。
「いきなりきて、迷惑だったすか?」
「いや、全然」
二時間ほど前は「迷惑」と思いかけていたくせに。
「どうしても、アキラさんに挨拶したくて」
「おまえ」
先の仏壇に手を合わせたことといい、弟はいい父親をしているようだ。金曜の九時過ぎといえば映画だ。お得意のジブリだが、今日は。
「ありがと、あいつも喜ぶよ」
妻は「アキラ」と呼ばれることを嫌がった。
「強そうじゃん。凄い超能力者とか、暴走族の親衛隊長とかみたいで」
きみだって、二毛作くんとは呼ばれたくないでしょ、といって「くすっ」と笑った。ただ、職場の同僚や友だちはほとんど「アキラ」「アキラさん」と呼ぶ。少し困惑気味の彼氏に、彼女は、
「好きな人からは、違う呼び方して欲しいじゃん」
そういって恥ずかしそうに笑った。
アキ、キラ。
おい。おまえ。
「ぶん殴るわよ」
じゃあ、「アキさん」で。
「それはちょっとなぁ。なんか秋山幸二みたいじゃない」
じゃあ「アキちゃん」かな。
「『ちゃん』づけはやだ」
結構わがままだな。同僚や友だちとしての彼女には表れない一面だろう。これも、「好きな人」にだけみせる、彼女のパーソナルな顔だった。
結果、「アキ」と呼ぶことに落ち着いたのだが、夫は「アキさん」と「さん」付けで呼ぶことが多かった。
二人が風呂に入り終わると、十時半を回る。
「ほんとに、迷惑じゃなかったすか?」
「ん?」
と、今度はすぐに否定しない。小学生の頃はむしろタメ口だったのに、中学生になったら一応敬語で話すようになる。
しつこい、と思う。弟といい甥っ子といい、何度も何度も同じことをいってくる。一瞬「ムッ」とした。実際に会って話をしている甥っ子がこうして聞いてくるということは、恐らく、甥っ子が感じるモノがあるのだろう。
「きみは、誤魔化すのは下手なんだよ」
わかってるよ。わかってるつもりなんだけど。変なところが、正直なのさ。
会社では「クール」とか「落ち着いている」と思われているらしい。実際、イライラを態度に出してしまうのは、彼氏の彼女にみせる一面でもあった。
「ごめん。全然だいじょぶ。ただ、この家に一人じゃないのが久しぶりで、ちょっと戸惑ってるかもしれん」
それを世間では「迷惑」と呼ぶ。今夜は、甥っ子にも「一面」をみせてしまっているわけだが。
「学校に好きな子とかいるの」
「いちおう、いますけど」
「もしかして、もう誰かと付き合ってんの」
「はい、いちおう」
会話は散発的に途切れる。聞き慣れない俳優と聞き慣れた声優の声がどちらも聞こえなくなると、耳慣れたキャスターが見慣れたニュースを読み始める。
「すいません、そろそろ寝ます」
「おう、お休み」
おやすみなさい、と甥っ子はリビングを出て、階段を上がっていった。ドアが閉まる、小さく音がした、かつて弟が使っていた部屋のドアの音。
「ふううう」
大きく、吐き出した。久しぶりに、アルコールが飲みたくなる。家を出て、近くのコンビニに向かう。
情けない姿だった。泣きたくなるほど、情けない。甥っ子にも、みっともない姿をみせてしまった。今はいているこのスウェットの上着だって、アキさんの着ていたものだ。丈がパッツンパッツンで前が閉まらない。上半身が、寒い。
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