対峙
いま、約500メートルの距離から私は奴の側頭部に狙いを定めている。自称トールは大酒を食らって、陣地の中でいびきをかいて寝ている。
500メートルは私の技量をもってしても狙撃の限界ぎりぎりの距離であった。必殺を期するためにもっと近づきたいという気持ちと、安全圏を維持するためにこれ以上近づきたくないという気持ちが、私の中でせめぎ合っている。私の狙撃手としての、そして猟師としての経験と勘が危険を告げていた。虫が知らせるのだ。これまで狙撃手として生きてきて、こんなに虫が知らせるのは初めての経験だった。
相手がただの人間なら、狙撃の場所、状況、タイミングを改めるべきであっただろう。しかし、この相手を殺すという前提のもとでは、これ以上の好機はまず作れそうもなかった。私は狙撃兵として人間を狙うときよりも、猟師としてヒグマを至近距離から狙っているときに近い感覚を抱いていた。
決断する。私はアイアンサイトを覗いて、引鉄に指をかけた。その瞬間、かっ、とトールは目を見開いた。偶然か。それとも、まさかこの距離から、私の向けた殺気に気付いたとでもいうのか。
だが、私の愛銃、モシン・ナガンM28の銃口から放たれた7.62mmの銃弾は奴が眼を開いたのとほぼ同じ瞬間、そのこめかみに突き刺さって脳をぶち抜いた。頭の反対側から、血と脳漿が噴き出す。
神も銃弾を受ければ肌が裂け肉を断たれ、そして脳を砕かれるという事実は分かった。人間ならば即死だ。だが、奴は動いた。その手がはっしとミョルニルを掴み、そして投げた。正確に、こちらの位置に向けて飛んできた。それが奴の意志だったのか、それともミョルニルそのものの持つ何らかの超常の力によるものだったのかは分からない。
仕留めきれない可能性を、考えていなかったわけではない。私は、普段の狙撃の時には絶対にそんなことはしないのだが、今度このときばかりはすぐ脇に撃てるばかりの状態にしたKP31サブマシンガンを伏せていた。それを咄嗟に引き、撃つ。狙ってはいられなかったが、弾幕を張ることはできた。ミョルニルの軌道が変わり、そして私の直前でターンする。
しかし次の瞬間、信じがたいものを私は見た。トール本人が、いつの間にどうやって迫ったのか目の前にいて、私の前で、笑った。獰猛で凶暴な笑顔だった。なるほど、こいつは確かに戦の神だ。KP31の弾薬はまだ残っている。躊躇わず、至近距離から引鉄を引いた。どれくらい撃ち込んだら動かなくなるか分からないが、もう一回ミョルニルを投げてくる前に斃れてくれることに賭けるしかなかった。
だが、トールは飛んで戻ってくるミョルニルがその手に帰る前に、予想外の挙に出た、懐から、片手で抜いたものは確かに、フィンランド軍の使っている拳銃であった。狙いは下手だったが、何しろ距離が近すぎる、銃声が響く、撃たれた。どこを撃たれたのか考えている暇はない、私はKP31を弾よ尽きろと撃ちまくる。奴がついにどうと地に臥すのと、私が真っ赤な視界の中で気を失ったのはほぼ同時であった。
意識を取り戻したとき、私は白く清潔なベッドの上であった。私が生死の境を彷徨っている間に、戦争は終結していた。
もとが秘密の任務であるから、迂闊な相手の前で「奴」の話は出来ない。中尉と二人になったとき、ようやく、聞くことができた。
「あいつは、どうなりましたか」
中尉は苦虫を嚙み潰したような顔で言う。
「お前は一人で倒れていた。血だまりは一人分しかなかった。だがあいつはあれっきり、二度と我々の前には姿を現さなかったよ」
奴は帰ったのか。帰ったとして、どこへ帰ったのか。それとも死んだのか。死んだとして、どこへ行くのか。われわれが行くのとは違う何処かへ行くのだろうか。
「モシン・ナガンM28の銃弾で神は殺せるか?」
その答えは誰も知らない。
神を撃つ銃弾 きょうじゅ @Fake_Proffesor
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