第9話 楽園『イースト・スラム』
「レナードさんに嫌われてしまいました。
私はやり方を失敗したようです。
消費できる価値も、少し心許なくなりました」
叩かれたり折られたりした部分を治したクリスが、
物憂げな顔をして、フロントガラスの向こうを眺めている。
彼女の目尻にはしわが浮かぶようになってきた。
その横の運転席に座っているチェシカは、
予報紙をつぶさに確認しながら相槌を打つ。
「愛というものは与える者の他に、
受け取る者が必要です。
レナードさんは受け取る準備が整っていません。
どうすれば彼に受け入れてもらえるのか……」
「地道にやっていくしかないわね。
私だってレナードに名前で呼ばれるようになったの
この街に来てからよ。ほんの少し前にようやく」
「まあ……打ち解けたきっかけをお伺いしても?」
「だってこの街で『おい悪魔』なんて呼んだら
通りすがりの三人にひとりは振り向くに決まってるもの!
そしてほとんど毎回、望みもしない取引を打診されるんだから。
イヤでも私を名前で呼ぶようになるわよ」
「なるほど。この街にいる天使は私ひとりでしょうから、
参考にはできませんね」
レナードは彼女達の後方で
黙々とサンドイッチを噛み、時々水を飲む。
チェシカがどこからか盗んできたか、取引してきたか、
とにかくミニバンの後部座席でレナードは食事を続けていた。
ラジオはかかっていない。エアコンの送風は低音。
「よろしければ、レナードさんのことをもっと知りたいのです。
私には価値を返すこともできないのに、
あつかましいお願いでしょうけれど……」
「今はあまり忙しくないし、雑談程度なら構わないけど。
そうねえ、そういえば養鶏場事件は愉快だった。
かなり印象深いと言っていいわね」
「先ほどレナードさんが、少し口に出していましたね」
「奴らはニワトリの代わりに人間を出荷していた。
悪くてマッドな人間が悪魔と提携してねえ、
悪魔好みの商品を生産、開発していたわけ」
「人間的にはおそらく相当の悪趣味でしょうね」
クリスは頷いた。
レナードは飲み終わった紙コップを握り潰している。
「で、そこの商品だった暗殺者を
アルルカンが差し向けてきたのがきっかけで、
キレたレナードが開発元ごと全員殺したんだけど」
そこで少し、チェシカはうっとりとして言葉を切った。
「管理者を失った研究施設は、ガス引火で爆発事故を起こし、
漏れ出した毒薬は紫の霧になって、街の南部を覆った。
あの時の混乱と凄惨さときたら、
それを引き起こしたレナードの極悪さといったら、
私にはたまらなかった……もっと詳しく聞きたい?」
「概要だけで十分だと判断します!」
クリスは丁重な態度で話を打ち切った。
チェシカはバックミラー越しに
不機嫌そうなレナードの顔を確認する。
「そもそも養鶏場の発足自体、
アルルカンとサリィが一枚噛んでいたみたいだから、
入れ子のオモチャづくりがやりたかったのかもね」
「あんまりベラベラと喋ってんじゃねえよ、チェシカ」
「そう? レナードがそういうなら黙りましょう」
「あ、もうひとつ聞きたいことが……」
もはや天使の言葉を聞く気がある者はいなかった。
レナードはリクライニングレバーを引いて、
座席に体重を預ける。
「チェシカさんはレナードさんと、
どのような出会いをしたのでしょうか。
初めて会った時のお互い第一印象というのは?」
返事をするつもりはなかったのに、
記憶を呼び起こしたレナードは、苦々しい顔をした。
あの時のことはどうしても、
チェシカに文句のひとつほど、つけたくなってしまう。
「……そこの悪魔は初対面だっていうのに
ほぼ素っ裸のひでえ恰好で現れたと思ったら、
いきなり俺をブタ呼ばわりしやがった」
「その件は何度も訂正しているけれど
ブタとは呼んでないってば」
レナードは小さく悪態をつきながら眼をつむった。
彼は悪魔が嫌いだ。同じぐらい天使も人間も嫌いだ。
ありきたりな話だが、彼は世界の全てが嫌いでたまらなかったのだ。
「お返事がもらえたということは、
もうレナードさんと直接お話をしてもいいのでしょうか?」
「まだ黙れ」
「レナード、ひょっとして眠いの?」
チェシカは欠伸するレナードを見て尋ねた。
「いい加減、疲れてるからな。
お前に十年以上食わせてるせいで、そろそろ三十路だ。
ちょっと前ほど元気じゃない」
「出直したい? 家は壊れちゃってるけど」
「今日中に用を済ませなきゃ、
あの愉快犯がまた別の面倒な奴を寄越してくるに決まってる。
出発してくれ、運転は任せた」
「チップは弾んでくれるのかしらん?」
「まだ前払いから差し引けるんだろ」
レナードは結っていた後ろ髪がなくなったのを、指差して主張する。
仕方ないなあ、という顔をしながら
チェシカはアクセルを踏みだした。
「……この街に来たばかりの頃や、
養鶏場の連中と戦争していた頃のレナードは、
真夜中でも眠れずに充血した眼をぎらつかせていた。
なんにも信じることができずにいるどん詰まりの、
あの危なっかしい眼の光が、私は大好き」
悪魔も返事を期待せず、
独り言を漏らすことがあるようだ。
まばらな街灯が、レナードの横顔に降り始めていた。
---
まどろみの中で、レナードはまだ12歳だった。
母は物心ついた時にはおらず、父は酒ばかり飲んでいた。
あまりいい家庭環境とは言えなかっただろう。
それでもまだ人間らしい営みの中では、
珍しくもない不幸だったはずだ。
(あんなやつ、早く死ねばいいのに)
毎日のように、父親を呪いながら暮らしていた。
そしてある日突然、その願いは叶った。
幼いレナードが怒声で叩き起こされて、
父親のいるリビングにやってきた時には、
当の父は仰向けに倒れ、目を見開いて死んでいた。
酒の飲み過ぎだ、当然だという冷めた心があった。
肉親の突然死に動揺する心もあった。
そして自分があんなことを考えたせいではないか、と
かすかな不安と期待を覚えた時に、
すさまじい風がレナードの体を撫でていた。
「見つけたあッ! 私が一番乗り!! やったあッ!!」
壁を抜けて現れた下着姿の女は、二本の角を生やしている。
レナードの両肩に手を乗せてきて、
そしてその髪よりなお赤く、輝く瞳を近づけてきた。
「――貴方は私の、運命の
あはっ、アハハハハはははは!!」
悪魔はそのまま背骨が折れんばかりにのけぞり、
涙を流しながら狂笑し続けた。
レナードは子供ながらに、
(おれはこれから地獄に落ちるんだな)と思った。
ほんの、5年前のことだ。
---
「信じられる? あのレナードがあんな眼の前まで来て、
ていうか実際に何十回も殺されて、まだ生き残ってるよぼく」
「まれに見る剛運だろうね」
命と車と、身につけた以外の所持品は
全てカクタスの預かりにしてしまったが、
おかげでモスプラムは少し動く元気が戻ってきた。
「でしょう?! 寿命の負債をどうするかは、
まったく思いつかないけれど、とにかく生きてる! ふふ。
自分の声が変なしわがれ方してる、まったく慣れないな」
モスプラムは運転を続けた。
街並みは遥か後ろに遠ざかり、眼の前には荒野が広がっている。
「こんな街はもうこりごり。
こんだけ歳食っちゃえば追っかけてきた教団の奴らも
一目じゃあわからないし、何ヵ月も潜伏してたんだから、
そろそろ出て行ってもバレないと思うんだ」
「うん……」
「カクタスは最初『この街だけは入らない方がいい』って
言ってくれてたけど、本当にその通りになっちゃったね。
どうやって今後を過ごせばいいやら……」
生き残った安堵と、これからどうするという絶望が
モスプラムの心に代わる代わる押し寄せる。
それをあえて考えないために、わざと明るく振舞おうとした。
助手席に座るカクタスは、モスプラムの顔を見つめた。
「カクタスもさあ、さっきからぼくのことずっと見ててさ、
何かもっと言いたいことでもあるんじゃないの?」
「そうだね。
たとえばモスプラム、君はまっすぐ走っているつもりだろう。
でも実はさっきからこの街の外周を辿っているだけなんだ。
もう君は、どこにも行けないんだよ」
「えっ、なんて?!」
風が強く吹き、エンジンの回転音が一瞬大きくなった。
猫の人語が聞こえない。
「なにか言ったの?!
おじいちゃんになって耳が遠くなったかな!!」
「サリィ達の定めた法により、
核心について語ろうとしても人間の認識は阻害される。
だからこの声は、ほとんど君に届かないだろう。
それでも『街の外に出る』と自力で思いついたのは、
君の力が人間の精神に働く関係もあるのだろうか」
「ねえ! さっきから何て言ってるの?!
もしかして鼻唄? めずらしいね!」
「生きている人間がこの街の外から中へ入ることはできるが、
中から外へ出ることは許されていないのさ。
絶望を食むために、一度入った獲物をサリィは逃さない」
(さっきからずっとみゃあみゃあと鳴いているようだ、
カクタスはそんなこと言わないはずなのに)
「レナードを始末できたなら、
報酬として外へ出る取引ができればよかったんだけど、
それも結局は叶わなかった。
君をこんな早くに手放すことになるなんて、残念だよ」
モスプラムがとまどっていると
今度はきちんと彼にも聞こえるような内容で、
カクタスは語りかけはじめた。
「……モスプラム、もういいんだ。
君のあがきは、もはや無用のものだ。
いじらしさのあまり、
見ているこちらの胸が潰れそうなほどに」
「今日のカクタスって本当に意地が悪くない?」
モスプラムは苦笑したが、アクセルを踏み続ける。
「やめないよ!
せっかく生き延びたっていうのにさ!」
彼はもう一度、今できうる限りのいい笑顔を返そうと努力した。
「……ああ、それでいい。
君のような人間の悪あがきにこそ、葛藤にこそ、
僕は価値を信じられるのだから」
カクタスは魂の価値を高めたいという理由だけで、
モスプラムの不安をわざわざ煽ったのかもしれないし、
そうではないかもしれない。
(わからないけれど、カクタスはそういうものだからそれでいいさ)
モスプラムは随分前から、相棒の業を受け入れていた。
「きみがいい性格してるってのは
ぼくも知ってるよ、昔からずっとね」
カクタスはその言葉を聞き取ると、
ぴょいと運転中のモスプラムの膝の上に乗ってきた。
「ぎゃあ、ちょっと! おっかないから邪魔しないでよ!」
「障害物も何もないじゃないか」
カクタスはそのまま退くつもりはないようだ。
「寿命を少しくれれば美味しいものを出すよ」
「いつ聞いてもむちゃくちゃな取引だよねそれ。
じゃあ髪束もっていってよ、
キューティクルすっかりダメになったろうけどさ」
「いいだろう」
こういう時のために伸ばしてあるモスプラムの髪がショート丈になり、
代わりにドリンクホルダーにカップが出現した。
既製品だが甘すぎないレモネードが入っていた。
それが飲み終わったあとの片手には、
キイチゴのマカロンの入った包みが出現した。
「うん、やっぱりこれだね、これ」
キイチゴの酸っぱさを感じられる舌が残っていてよかったと、
お気に入りの砂糖菓子の感触をしばらく、じっくり噛みしめた。
数十分ほど、彼らは他愛ない話をし続けた。
やがてモスプラムは、「少し眠い」と言った。
いつしか円弧を描いていたオープンカーの轍は、
直線になって、街の結界の外へ飛び出て行った。
人間の死体は物体であり、
物体そのものはサリィの拘束対象ではないから。
「……君を絶望のままに死なせてしまうのは、
ぼくのやり方に似合わない。
君の死に際をあの二人に捧げるのが惜しくなってしまった。
最期には美味しいものを食べた記憶と共に、
苦しまず、眠ったまま逝ってほしいと思った。余計だったかな」
誰も聞いていなくても、黒猫は独り言を伝えた。
「モスプラムの遺した価値よ、
約束により、すべてこのカクタスの糧となるがいい」
モスプラムの名は偽名であるが、
彼はその名を愛していたため、
カクタスも本名を使わずに呼びかけた。
そしてモスプラムは彼の運転していた車ごと、黄金の煙へと変わった。
カクタスは煙に包まれながら、黒い毛皮を脱ぎ始めた。
「やっぱり僕、悪魔の肩書は苦手だ。このまま外へ出て行こう。
それでなくとも天使が現れ、運命の予報はひっくり返った。
この街は――――」
---
『この街に入る時、悪魔は黒い礼服に着替えること。
統一性があると美しいゆえに』
『この街の悪魔は、街の保全に協力すること。
餌場として最低限の秩序は保たれなければいけない』
『この街に入る人間の破滅と絶望の瞬間は、
アルルカンとサリィに捧げられる』
『アルルカンとサリィとこの街の規則について、
人間達にみだりに話さないこと』……
街の境界線のあちこちには、大きな看板が立てられていた。
人間以外にしか読めない文字で、
サリィの敷いた街の悪魔のための法がずらりと72箇条。
そして看板の最後には、
人間にも読める大きな文字でこう書かれている。
悪事のために他の場所にいられなくなった人間を呼び込むために。
『悪徳を愛する者達の楽園、イースト・スラムにようこそ!』
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