第8話 地獄に降り立つ聖母のように

這いつくばるモスプラムは投影機を腕で振り払った。

がしゃり、という音と共に装置は滑っていった。


「物に当たってもどうしようもないよ」

カクタスはそっとなだめるが、

モスプラムはそのまま何度か拳を地面に叩きつけた。


「何度もっ何度も、チャンスはあったはずだろ!」

「……そうだね」

「だって、そうじゃないか、レナードは……

 あの迷惑な天使さえいなければいくらでもどうにかできる、

 そういう場面がいくつもあったはずなんだよ!」

「そうだね」


悪魔カクタスもまた、

チェシカやマニアリと同様に妨害に長けた存在だった。

二者と比べると向かってくる害を逸らすというより、

遮蔽物を張り巡らして隠し、弾くイメージがより強い。


姿を直接見られないように遠くから、

こちらの敵意は勘付かれないよう隠してもらいながら、

『他人をそそのかす』ことで自分は手を下さないようにしながら。

レナードの殺意を薄めて逃れるために、やれることはやった。


ほとんどおまじないのようでいて、

しかし悪魔から効果を約束された方法を、直前まで吟味した。

モスプラムは彼にできうる最善の状態で死神に挑んだ。

それでも彼がここまで生き残ったのは、

ただの悪運としか言いようがなかっただろう。


「に、にげる……もうぼくは逃げるよ。

 レナードがくたびれているうちに、

 新しい殺意がぼくに降りかかって来ないうちに、

 もっと遠くに行けばきっと……助かるさ、今までみたいに」


モスプラムが薬剤で脱色していた髪の毛は、

今はもう地毛の色と変わりない。

手もしわだらけで、傷口がいつまでも痛む。


「君の車はそばまで呼び寄せてあるよ」

よろけるモスプラムの前を、

カクタスは先導するように歩いていった。

廃ビルの内部から外に出て行くだけでこんなにも難儀なのかと、

衰えた体のモスプラムはぜぇぜぇと息を切らした。


「あのさ……あの、近くにいた空気を爆発させられる奴、

 結構強そうな悪魔がついてたよね。

 たぶんぼくが潜り込んだのも気がついてたと思うけど、

 意外なぐらいすんなり素通りさせてくれた」


モスプラムは不安を感じると、

とにかく喋りたくなる癖があった。

相槌をうってくれる者がいると、なおさら止まらなくなる。


それは、洗脳というほど大それた力ではない。

遠くの人間の頭の中に、声を介さずにささやく程度のことだ。

『ある作戦』がモスプラムの甘言のせいではなく、

さも自分で思いついたかのように誤解させるには少しコツがいる。

けれど慣れていれば早く済む。


「投影機ごしに見た悪魔は少し考え込んでたけど、

 取引先の寿命をさっさと吸いつくすことを選んでくれた。

 あれで、運が向いたと思ったのが勘違いだったっていうか。

 みんなやたら聞き分けがいいから調子乗ってたけど、

 もう途中から集団自殺みたいになってたし、なんていうか……」


「どうしたの?」

話ながら歩くせいで、モスプラムはすぐに疲れてしまう。

ただ、彼がしばらく足を止めた理由は他にある。


「なんか、今日見かける悪魔達はさ、

 みんな妙にそわそわしているっていうか……

 カクタスだったら何か知ってる?」


「みゃあ、みゃあ」

(あれ?)


「さあ。なんともいえないね。

 この辺りの悪魔の知り合いは多くないし」

「うん……そう?」


モスプラムは聞き間違いだと思おうとしたが、

どこか強烈な違和感が残った。

だが優先するべきは、それよりも離脱方法だと思い直す。

彼はなんとか足を素早く動かそうとした。


モスプラムは出入口に立った。

彼がこの街の外にいた頃からずっと使っている、

少し古いオープンカーを見た。

そのボンネットにもたれるようにして、先客がいた。


「よう」


赤髪の悪魔を伴った、およそ情の感じられない眼つきの男。

見間違うはずもない。

モスプラムにとっての死神がそこにいた。


「……どうしてここにいる?」

情けない声で情けない質問をしているなと思いながら、

モスプラムは問いかけずにはいられなかった。

レナードは少しだけ首をかしげて、答えてやった。


「直々に挨拶しにきてやったんだよ、死ねって」


モスプラムは胸を抑えながら、うつ伏せに倒れた。

この距離で直接浴びる殺意の負担は、

今までの比ではない、と思った。


「ひゅーっ、ヒューッ、ううっ」

まだ死に切れていないことを感じながら、

モスプラムはぼろぼろ泣いていた。

(ぼくはここでなぶり殺しにされるんだ。そんなの嫌なのに!)


気力を振り絞るように、モスプラムは顔を上げた。

死神と目が合う。真っ黒な殺意がこちらに向けられている。

だからモスプラムも殺意を込めてにらみかえす。


「――お、おまえがっ、お前の方こそ死ねッ!

 そんなに殺しまくっておいてそんな陰気な顔で生き続けてんなら、

 どうせ自分の生きる価値なんて感じてないだろ?!

 さっさとその力で自殺しやがれッ!!」


擦れ声と共にモスプラムの意思はレナードの額に飛び込む。

しかし、それはすぐにレナードの片耳の穴から抜け出してしまった。

「てめえは、人の頭の中に潜り込めるのか?

 養鶏場のクズ共を思い出す、なおさら腹が立つな」

「…………っ」


レナードの隣にいたチェシカも、モスプラムの顔を覗き込んできた。

それはもう嬉しそうに、満面の笑みを浮かべている。

「洗脳系はずいぶん昔から対策済みよぉ、お坊ちゃん」


「こっちだって対策されるって予想ついてた、

 だから今までレナード相手に直はできなかったんだ……」

脳や意思を超常の力から保護できるのは、

悪魔がついてる同士、相手と同条件だ。

わかっていたから、彼は試せなかった。


(カクタスは、

 みっともないぼくをそろそろ見限るだろう。

 ……いや、ぼくがもう見捨てて欲しいんだ)


伏したモスプラムはぐったり首の力を抜いて、

赤髪の悪魔と死神の顔から眼を逸らす。

代わりに少し遠くの方にいる黒猫の方を見た。


(だってこんなに何回も死にかけるなんて、苦しいに決まってる。

 寿命はもう払わない、このまま死なせてくれ、

 みんな死んだ、いい加減に僕も終わらせてくれよ!)


声にもならない絶望を、カクタスは読み取ってくれるはずだった。

たとえモスプラムの眼が涙でぐしゃぐしゃに濁っていても、

澄んだ猫目がじっと見つめ返してさえくれるなら。


「……それが君の本当の願いなら、そうするけどね」


いつもそうだ。

カクタスはモスプラムが挫けている時に、

助け舟を出すより先に一回は突き放してくる。

モスプラムは自分の本当の願いについて考え直さなければならない。


「お、お願い……します。レナードさま」

幸い、今回はすぐに思いついた。

モスプラムは自由にならない腕を、自分の頭の前に投げ出す。

祈るように指を組んで、レナードに懇願する。


「もう、もうこれ以上は苦しみたくないんです。

 それってつまり、し、死にたくないだけなんです。

 命以外ならもってるものをなんでも差し出します。

 だからお願いします、見逃してください」


レナードは聞き慣れない言葉の意味を、しばらく頭の中で整理した。

命乞いを聞くというのは彼にとって新鮮な体験だ。

ほとんどの相手はそれを言い出す前に死んでいるからだ。


「それでも死ね」

数秒後のレナードは、ためらいなくモスプラムの頭を蹴った。

カクタスも命の保護を手放す代わりに、

せめて最期のサービスとして、

モスプラムの苦痛を和らげるエンドルフィンの分泌を促そうとした。


その時、レナードの後ろの方から、明るい光が飛び出す。

光は、やせ細った老人を抱き起こす。

体温は感じられなかったが、

モスプラムはすこし、自分の身体の緊張が緩むのがわかった。


(姉さんが迎えに来たと思った。顔も全然違うだろうに)

モスプラムの視覚は不明瞭で、

抱きかかえてくれた誰かの明るい金の髪と、

白いヴェールしかわからない。


クリスは、モスプラムの片手をほどいて、

ぎゅっと自分の片手と繋ぐ。

やがてモスプラムを庇うように、レナードの前に立った。


「さっき、俺があれだけ殺した奴らは見殺しにしておいて、

 そいつは助けようとするのか」


「彼らは明確にレナードさんを害そうとしていました。

 だから、蘇生するとレナードさんが傷つくかもしれません。

 バルバリッチさんの時と同様に悩みましたが、

 これからはどうにか割り切ろうと思います。

 今でも誰かを殺すのはよくないことだと感じますが」


レナードの隣で愛を与えるためには、

前提としてレナードは生きていなければならない。

天使はこの街に来てから学習した。


「今倒れている彼は、もはや敵意がありません。

 望み通りに見逃してやってもいいのではありませんか?」


「そんな気はない」


モスプラムはひきつけを起こしながら悲鳴をあげた。

カクタスは成り行きを静観した。

チェシカは退屈になってきて、

予報紙と遠くの景色を交互に眺めていた。


「やめてやれよ。

 お前が命を長引かせたって、

 俺がやめない限り、余計に苦しめるだけだ」

「そうかもしれません」


「認めるなら、なぜ、やめない?」


「私……少しレナードさんについて考えてみました。

 レナードさんは、

 この子を苦しめたいのですよね?」


天使のほほえみを前に、レナードは沈黙した。

その通りだった。

望めばいつでも殺せる相手の前に、わざわざこちらから顔を見せに来た。

その方が恐怖しながら死んでいくはずだ。

死に顔を見ていれば、少し鬱憤が晴れるのではないか期待していたのだ。


「人の愛も、全てが善いものとも限りません。

 私はずっと善い人間ばかりの街で、善い人間とばかり取引してきたつもりです。

 そんな彼らも時に客観的には不道徳で、不毛な愛を抱いたものです。

 それを受けて、私もやり方を変えるべきでしょう。

 やり方次第でレナードさんも献身を、愛を感じ取ってくれるのではないか」


天使が本当は何をしているつもりなのか、

レナードはようやくわかった。


「ああ! ここまできてやっと、レナードさんのことが

 少しわかったような心地がしてきました。私は嬉しいです。

 だから、どうぞ気が済むまで、彼を加虐してください。

 気が済む回数まで殺し続けられるように、私がお手伝いします。

 私のことは気にせず、あるいは私ごと殺し続けてください」


皮肉でもなく、悪趣味でもなく、天使は本気だった。

天使の白い召し物は、

斜陽のせいで血を浴びたように真っ赤に染まっていた。

モスプラムは天使の手を振りほどこうとしたが、

老人の力ではそれもできなかった。


「さあ、どうぞっ!」

「――嫌ッ!! いやだぁッ!」


モスプラムは、レナードの怒りが沸騰するのを感知し、恐れた。

ただし怒りの矛先は、もはや刺客だったモスプラムではない。

レナードの意思は天使に向いていた。


がつん、とクリスの顔が殴られた。

朝はレナードの身長の半分あるかわからなかった彼女が、

今はもうほとんど同じ目線の背丈だ。


まだ足りないと、レナードはクリスの空いてる手の指を取り、

力任せに小指を握り、ばきん、と折った。

天使は、使命感に燃え、ほほえみ続けていた。


(殴ってもどうしようもないだろ。

 こいつは俺が怒り狂っても、その在り方はなにも変わらない)


だからひとでなしの天使に何を言うべきか、

レナードは考えなければならない。

このどうしようもなく残虐なやり口を

いますぐ止めさせるために。


「そのやり方は」

レナードの声が震えていた。


「こんなやり方、

 てめえにその姿をくれてやった女は、認めると思うか」


クリスは殴られた頬も、折れた指のことも気にせず、

問いかけにちょっと考える顔をした。


「彼女はただの善い人でした。

 きっとこういう暴力的なことは悲しむと思います」


空気に満ちていた死の気配が止んだ。

モスプラムもカクタスも、

レナードの殺気が失せた様子を感じ取った。


「もういい」

レナードが一歩、後ろに引いた。

どうせうまく動けないモスプラムの代わりに、

カクタスの方を指差した。


「クソ野郎共、どこにでも逃げやがれ。二度と俺の視界に入るな」

「レナードさん、どうしてですか?」

「黙れ」


天使はただただ、きょとりと不思議そうな顔をしていた。

彼女の目に映るレナードの顔も、斜陽のせいで真っ赤だった。


動く気力も残っていないと思われていたモスプラムが、

今の彼が出来る限りの速度で飛び起きた。

近くまで駆けてきた黒猫を抱きかかえ、

オープンカーに乗り込むその間、彼は無言だった。


死神の気が変わらないうちに、

なんとしてもこの場を離れなければならない。

涙を拭いたら少しだけ視界が開けた。

前がよく見えないのは老眼のせいではなかったようで、

モスプラムはちょっと安心した。


(この道を通るオープンカーを襲おうなんて、

 誰一人、なぜかやる気もでないし、思いつきすらしない)

同じ内容を頭の中で念じ続けながら、彼はアクセルを踏み込んだ。


レナードは、走り去っていく車を眺めながら、

その場にどさりと座り込んだ。

「腹が減った。サンドイッチ出してくれ、チェシカ」


退屈そうだったチェシカが、

やっと必要とされたおかげで機嫌よく近づいてきた。


「……あとやっぱり新しいコートも用意しろ」

「前と同じ色でいい?」

「ああ」


日が沈んでいく。

イースト・スラムではまともに電灯がつく地区も多くない。

街はどんどん暗くなる。

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