2. 国文学科よりの使者
「それで、新年度からはこの研究室の人間が計三名になるんだな?」
「はい」
白澤は、ひかるが『会議』という言葉を口に出す前に素早く次の話題へ移った。
「それもおまえとわたしを含めてだ。どういうことなんだ。本当にそんなことがありうるのか? 誰に責任があるんだ、これは。どう思う? 言ってみろ」
「先生です」
「いや、いい。みなまで言うな」
「全責任は、ハクタク先生にあります」
「言うんじゃない、ひかる! 黙っていろっ。ハクタクと呼ぶな。わたしはシラサワだ。そして責任があるとしたらそれはわたしではなく大学にある。そう、これはもう完全に大学側の責任だ。わたしではなく。ここ数年ずっと哲学科が定員割れを起こしているということがそもそもの原因であるわけだからな。哲学を志す若人そのものが減少しているのだ」
まったく嘆かわしい、と大仰に頭を振ってみせる白澤に、ひかるは諭すような口調で冷静に応えた。
「定員割れしているからといって哲学科の学生が皆無というわけではありません。うちに来る学生がひとりしかいないのはやっぱり先生の評判のせいです。……まあ、もう、しょうがないじゃないですか。ひとり来てくれるだけでもありがたいと思わないと」
白澤は顔をしかめる。
「そのひとりというのもあいつだろ、
沿島
「人聞きの悪いことを……たらし込むとか言うのやめてください、ここ、ただでさえ良からぬ噂が立ってるんですから」
「いきのいい学生はとって食われるって話か」
白澤はフンと鼻を鳴らす。
「この歳で独身だとろくなことを言われない」
「そしてぼくはそのとばっちりを食っています。兄さんが卒業してだいぶ経ちますよ、そろそろひかるって呼ぶのやめてもらえません? そのせいで誤解される部分も大きいんですから」
ひかるには、ふたつ年上のみことという兄がいる。かつてふたりが揃ってこの研究室に所属していたころ、区別するために下の名前で呼ばれていたことが習慣として定着し、今に至る。
白澤は唇の片端を曲げて笑った。
「その程度のことで誤解するようなやつらはどんな説明をしようと聞く耳を持たない。よって呼び方をいくら変えようが無駄である。そのような無駄な行為によって久保兄弟を呼び分けられなくなるなど言語道断だ。本末転倒だ。支離滅裂だ。まるで沿島のレポートのようだ。あんなものを提出された日にはもう……よっぽど落第させようかと思った」
「そうですかね、よく書けてると思いますけど。先生が厳しすぎるんですよ」
「わたしのどこが厳しい? 落第させていないだろう。優しすぎるくらいだ」
沿島の名誉のために記しておくが、彼は決して出来の悪い学生というわけではない。それどころか哲学科の中ではかなり上位の成績をおさめている。白澤が学生に求めるレベルが高すぎるというのが本当のところである。
「……あと、先生は女嫌いを公言なさってますから、それがよけい疑惑に拍車をかけていると思います」
「わたしはそうは思わない。女に興味はないが、だからといって男に興味があるとは言っていない。そもそもなぜわたしが人に興味を持っているという前提で論じられているのか理解できない。見識が狭すぎやしないか?」
そのとき、部屋の扉がノックもなしに勢いよく開き、底抜けに明るい声が飛び込んできた。
「失礼、ハクタクさんいる? ああいたいた、もうすぐ会議始まるよ」
「
現れたのは国文学科教授兼作家の三本木
「いや通りかかったからさあ。それにしてもすごい埃だねえ! いつものことだけど。掃除したほうがいいよ、大掃除。ちょうど年度末だし。学生とか呼び出してさ。ここ三、四人いたでしょ、確か」
無遠慮な言葉がぽんぽん飛び出す。白澤はあからさまに嫌な顔をしながら応えた。
「もういないんだ。卒業したのだ、全員。いるのは来年度から新しく入ってくるやつだけだ。まだ連絡先も知らん。つまりいないも同然だ」
「あらら。そりゃしょうがないね。じゃあ会議行こっか」
「……」
白澤は渋々といった様子で三本木の後について研究室を出ていった。ハクタク先生が面倒なときはやっぱり三本木先生に限るなあ、と思いながら、ひかるはふたりの背中を見送る。
窓の外から差し込む三月の日差しが、本棚に積もった埃を柔らかく照らしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます