ハクタク先生の研究室 -哲学者の飼育と管理の実際-

クニシマ

1. 白澤の研究室へようこそ

 新宿駅から東泉如ひがしせんじょ行きの立鐘堀たっしょうぼり線急行に乗ること六駅、東京都加喜かき市の北端に位置する宮ヶ沼みやがぬま駅東口から徒歩約十分、多彩な学部を兼ね備える総合大学・八条目はちじょうめ大学。その人文学部哲学科の一角に、学生の寄りつかない研究室があった。その名は人呼んでハクタク研究室。入ったが最後、しち面倒な教授の餌食にされて二度と帰ってくることはできないというのがもっぱらの噂で、まともな判断力のある人々はこの研究室がある棟の該当階に降り立つことすら忌避する。同学科の別の研究室に用があるなどでどうしても近寄らなければならない事情のある者は足音を忍ばせて手前の廊下を通り抜けるため、辺りは常に静まり返っている。もっとも今日学内が静かなのはすべての学部が春季休業期間に入っているからであるが。

 ともかく、なぜそのような噂がまことしやかに囁かれているのか、その原因はといえば、それはひとえに研究室の主であるハクタク——もとい白澤函シラサワ カン教授の偏屈極まりない性格によるものである。

 そして今、その研究室へと足を踏み入れる影がひとつ。白澤の教え子にして助手の久保クボひかるだ。

「失礼します。先生、会議の……」

 扉を開けて入ってくるなりそう話し出した彼を、白澤は睨みつけて制止した。

「そんなことはどうでもいい。おい、田中が退学届を出したと聞いたが本当か?」

「どうでもよくはないんですけど……はい、本当です。残念ながら」

 癖毛の頭を軽く掻きながらひかるは答える。田中とは、哲学科に在籍しギリシア哲学を専攻していた学生で、入学当初から白澤の研究室を志望していたという世にも珍しい人物だったが、経済的な事情によりこの度やむなく自主退学となった。

「そうか。優秀な学生だったんだがな。彼が入ってくれさえすれば少しはこの研究室の汚名も返上できただろうに」

 白澤はまったく気のない口調でそう言う。ちなみに、彼が本心から他人を褒めたことは一度もない。

「ああ、汚名を背負っている自覚はあったんですね。ところで会議の」

「恩師に向かってなんだ、その言い草は。おまえも背負っているんだぞ」

「先生に背負わされているんです。ぼくは清廉潔白な人間なのに、ここにいるってだけで変に噂されちゃって、この間卒業した山下くんだって『あの人みたいにはなりたくない』って言ってたの、ぼく聞いちゃったんですよ。へこむなあ」

 本人はこう主張するが、そもそも白澤の助手を務めていられる時点で通常の感覚を持つ者から見れば充分異常であるということに気づけていないあたり、すでに白澤に毒されきっているといえる。

「はっ、たかだか山下のひとりやふたりがなんだ。わたしは教え子どころか他学部の学生や新入生、果ては教員にまでその何倍、いや何十倍、いや何百倍もの陰口を叩かれている」

「それは先生が地獄耳なだけです。あの、会議の通達がですね……」

 白澤は再びひかるを睨みつける。できることなら会議に出たくないと考えているのである。

「今、そんな話はしていない! わたしが同僚どもに裏でなんと呼ばれているか教えてやろうか? 『多弁屁理屈男』だ。あるいは単に『嘘つき』とも言われるな。憐れむべきことだとは思わないか? まあ、往々にして哲学徒の弁は哲学徒以外には単なる屁理屈にしか聞こえんものだから仕方のないことだが」

「はあ、まあ……そうですか。ご愁傷様です」

 わかったならよろしい、と白澤は鷹揚に頷く。ひかるは無言でひとつ深いため息をついた。

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