日月人示 はないくさ

「困った子ねえ……」

 我儘を言うたび、彼女はいつも、そう呟いて微笑んだ。

 その細長い人差し指を、血ほども濃い紅色の唇にあてながら。


 枕元に置いておいたスマホから流れる国民的アイドルの着メロに頭蓋を揺らされて、ベッドからとび起きた。

「……なんだっけ、今の夢……」

 どこか懐かしい、見覚えのある女性。思い出せそうで、思い出せない。

 ――ああ、いや、それどころじゃない。

 今日から一部の講義で後期の期末試験が始まる。昨年は進級ぎりぎりの単位しか取得できていない。

 4年生の今、これ以上後期試験で単位を落とすと卒業できない――留年の二文字が現実味を帯びてくる。

 研究室推薦ですでに就職は決まっているのだから、さすがに教授の顔に泥を塗るわけにはいかない。

 慌ててベッドから体を起こして着替え、

「朝ごはんは?」

 そう問いかける母に、

「途中で買って食べるよ!」

 そう返して家を出る。


 後期試験の第一陣である有機化学工学は本来3年生の時に取得しておくべき専門科目だ。昨年度受講登録はしたものの、ほぼ受講しなかったせいで落としていたが、今年は留年がかかっているから、卒論実験の合間に時間を作って毎回出席するよう腐心した。

 友人から譲ってもらった数年分の過去問を叩きこんでいたおかげで、時間にかなり余裕を残して解答を終えていた。途中退室は認められているが『崖っぷち』の学生が早々に退室したら不正を疑われそうで、試験時間いっぱい教室にいることにした。

 脳裏に浮かんできたのは次に控える計算化学工学――やはり3年時に取得しておくべき講義――の過去問ではなく、今朝見た夢。

 どこかで見たことのある女性の顔。

 ああ、そうだ、あの人は……


 小学生の頃、カギっ子だった。

 夕方6時を過ぎると、公園で遊んでいた友人たちは母やあるいは父に連れられて家路についていった。

 でも、カギっ子に迎えは来ない。九九でつまずいて早々に、両親から見切りをつけられ『健康ならばそれでよし』と勉学の面では全く期待されていなかったので、3つ上の中学生の兄のように学習塾に通わされることもなかった。

『これで夕飯を買って食べなさい。お兄ちゃんの勉強の邪魔をしてはだめよ』

 メモとともに台所の机の上に置かれた1000円札に印刷された偉人は、なんだか冷たい視線でこっちを見ている気がして、いつもコンビニでさっさと手放した。

 けれど誰もいない家に帰る気にもなれず、おにぎりとジュースの入ったビニール袋を片手に公園や海辺で時間を潰すのが常だった。

 選ぶ場所には特に理由はなく、その日はなんとなく街外れにある丘の方に向かった。

 そこから見える街を見下ろしたらきっと楽しいに違いないと思ったのだ。

 丘の上には一本の桜の木があった。

 たおやかな幹と、その幹に寄り添うものを守るように大きく広げられた枝、そこに連なる小さなつぼみ。

 その優し気な姿に一瞬で心を奪われた。植物に興味を持ったのも、美しいと思ったのも初めてだった。

 呆けてしばらく桜を眺めていたが、目的を思い出し、幹に背中を預けて街を見下ろす。

 山の稜線の向こうに沈みゆく太陽と、それに照らされた街。

 森々の隙間から漏れ出した陽光に満たされていた街が暗闇に沈み、その暗闇を追い払うようにビルの光がぽつぽつと浮かび上がってくる光景は、すぐにお気に入りになった。

 その日、街を見下ろしながら食べたツナマヨのおにぎりのおいしさは別格で、桜の下でおにぎりを頬張り、兄か母が帰宅する前に家に帰る。それが当時の日課になった。

 桜とそこから見える景色はとても美しいものだったが、自分以外の誰かの姿を見かけることはなかった。子供があんな時間に一人でいようものなら説教をされた挙句に家に連絡をされただろうし、桜と景色を独り占めできるから人気がないのは好都合だった。

 その頃、季節は春へと移ろおうとしていたが、つぼみが開花の兆しを見せても丘の上の桜には誰も興味を持っていないようだった。

 あんなにも、綺麗なのに。

 いつものように、コンビニでおにぎりを買って素晴らしいことを思いついた。

 そうだ今日は桜に登ってそこから街を見下ろしながら飯を食おう、一番下の枝になら登れるはずだ。

 興奮しながら丘に向かって――さて、コンビニの袋はどうしよう? さすがに両手があいていないと木に登るのは難しい――少し頭を悩ませて、すぐに解決方法を導きだした。

 ズボンのベルトにコンビニ袋をくくりつけ、いざゆかん、と顔をあげて勢いよく鼻息を吐きだしたところで、

「あら、あなた、何をしているの?」

 誰かが桜の幹に寄りかかって立っていることに初めて気がついた。

「ふふふ、こんな誰そ彼時に、こんなところに来るなんて、悪い子ね」

 桜色のブラウスに紺のスカート、そして黒いタイツ。長い黒髪をピンクのリボンでまとめた女性は、口の両端を耳の近くまで吊り上げるように微笑んだ。

「一人でこんなところに来るなんて、本当に悪い子。ふふふ……悪い子は、お仕置きしないとね」

 沈む夕日の逆光によって真っ黒になった女性は、くふっ、という小さな笑い声とともに手を伸ばしてきた――

「こ、こんばんは!」

 まず何よりも挨拶――知っている人、知らない人、不審な人――とにかくまずは挨拶だと学校で教え込まれていたから、ぺこりと頭を下げた。

「おねえさんも、この桜のところからみるまちが好きなんですか?」

 自分だけの秘密の場所が他の人に知られてしまった。それは確かに残念なことだったけれど、でも心のどこかにここから見る景色を誰かと共有したい、そんな思いもあった。

 小学生の子供から見れば、大人の女性はとても大きく見えて気後れしそうなものだったが、臆することなくその女性の方へと近づいて行った。

「……あなた、この桜のこと、何も知らないの?」

「知っています! つぼみがたくさんついていて、そろそろ花が咲くんです。あ、ほら!」

 まるで自分のことのように誇らしげに叫んで、地面に一番近く、大きく張り出した枝の先のつぼみが開花しているのを指で指し示した。

「とっても綺麗でしょ! この桜、お気に入りなんです!」

 いかにも常連のような言い草だったが、丘の桜が咲くのを見たのは初めてだった。

 母に連れられて河川敷を歩いた時に見た桜に比べると、花は小振りだったが赤味が強く、あれ、これってもしかして桜じゃなかったのだろうか、と疑問に思ったのだが、幼い子供らしく単純に結論した。

 まあ、桜じゃなくても綺麗だからいいや、と。そして、

「とっても綺麗ですね!」

 同意を求めるように女性に向かって叫んだ。

 近くで見あげる女性は、母よりも学校の教師よりも、テレビや街で見かけるどんな女性よりも、今しがた見たばかりの桜の花よりも綺麗で、そんな人に初めて出会ってしまって気恥ずかしくなり、もじもじと体をくねらせた。

 こちらを見下ろし、桜の木に背を預けた女性はその細長い人差し指を桜の花びらと同じように赤い唇にあて、

「困った子ねえ。さあ、どうしてくれようかしら」

 そう呟いて、鈴を鳴らすように笑った。


 そうだ。今朝、夢で見たのはあの丘の上の桜で出会ったお姉さんだ。

 どうして今まで思い出せなかったのだろう。

 ずっと夕暮れの時刻をそこで過ごしていたというのに。

 あのお姉さんと出会った日のことを、どうして、今まで忘れていたのだろう。

 そこで、教授が試験時間の終わりを告げる。解答用紙を教壇に提出し、次の試験が行われる小教室に向かう。


「こ、ここで夕ご飯を食べてもいいですか!」

 がちがちに緊張しながら叫んだ。なにせ、『綺麗な』『大人の』『お姉さん』だ。腕白小僧の胸もドキドキしようというものだ。

 お姉さんは、唇に触れていた人差し指を桜の幹に押し当ててしばらく黙っていたが、

「好きになさい」

 くるりと体を回転させ、桜の幹に背を預けるようにして腰を下ろした。

 もう桜の枝の上に登ろうなどという思いつきはすっかり忘れ去っていており、『綺麗なお姉さんの近くにいたい』という子供らしい下心からお姉さんの隣にちょこんと座った。

 途端、お姉さんはびっくりしたように見たが、おにぎりを頬張っていると、

「あなた……私が怖くないの?」

 半ば呆れたような口ぶりで問いかけてきた。

『警戒すべきは無職のおじさん』だと学校は教えてくれた。だからお姉さんの質問の意図がわからなかった。

「怖くないですよ?」

「そう……」

 虚を突かれたように、お姉さんは微笑んだ。その微笑みはどこか儚げでありながらも魅力的で、理由も分らぬまま視線を外すことができなかった。

 今にして思えば、あれが初恋だったのだろうと思う。

 その日から、夕ご飯の時間はお姉さんとともに過ごす時間となった。

 毎日のように桜の下を訪れ、隣に座るこちらを見下ろしながらいつもの仕草とともに、

「困った子ねえ……」

 そう言って受け入れてくれた。

「あなた、ご両親はいないの?」

「います! でも忙しいので、こうして一人でご飯を食べています!」

「そう……寂しいんじゃない?」

「寂しいけど、今はお姉さんがいるから平気です!」

「……そう、なの」

「……お姉さん?」

「……もうすぐ、桜が散るわ。そうしたら、私もここには来づらくなるの。だから……」

「お姉さん、どこかへ行っちゃうんですか?」

「……ああ、いえ、大丈夫よ。毎日はいないかもしれないけれど、どこにも行かないから、だから、そんな泣きそうな顔をしないでちょうだい」

「……はい! ありがとうございます!」

「本当に……困った子ねえ……」


『夕陽ケ丘の桜』

 学生に対する温情か、それとも怠慢か。ほぼ昨年と変わらない計算化学工学の試験問題の回答を用紙に書き込んでいた時に、不意にそんな事柄が思い浮かんで来て手が止まる。

 そうだ。あの桜は、そんな風に呼ばれていた。

 何のひねりもない呼び名。

 それは逆に、ただそれだけで特定ができる知名度があるという事だ。

 皆は知っていたはずだ。

『夕陽ケ丘の桜』のことを。

 けれど、あの桜の下でお姉さん以外の誰かと会った記憶がない。

 ――どうして?

 そうだ、あの桜には――

 一席開けて隣に座っていた男子学生が回答を終えた答案を提出するために席を立った。

 そこでふっと我に返り、問題用紙に向き直る。

 今はこの単位をとることに集中しなければならない。

 そう思った。なぜだか、今までよりも強く。


 お姉さんと知り合っていくつかの季節が過ぎた。

 春の夕暮れ以外、あまり姿を見せてくれないのは体の調子が悪いことが多いからだとか、桜の木にたかる芋虫が実は大好きだとか、そういう小さなことを知っていった。

 そして、小学生はいつまでも小学生ではなく、服のサイズが大きくなっていくにつれて、自分の中でのお姉さんへの思いがどういうものかを自覚していった。

 お姉さんは当時の自分から見て20代前半くらい。中学生からしてみれば、すごく大人の女性だった。それに比べると同級生たちはいかにも幼くて、恋愛対象として見るのは難しく、学生時代にありがちな色恋沙汰とはほとんど無縁の生活を送った。

 放課後、特に春は終礼とほぼ同時に姿を消していたからか、同級生たちは『よその街に彼女がいる』と噂していたようだ。実際は、片思いの相手のところへ健気に日参していたのだが。

「お、お姉さんはどんな男性が好みなの?」

 高校1年生になったその春、ついにそれを聞いた。

 土日祝日は、春でも絶対に姿を見せてくれないお姉さんだったが、結婚しているわけでも彼氏がいるわけでもないのは、これまでの会話の中で確認してあった。

 お姉さんは、なぜそんなことを聞くのだろう、と言いたげに首を傾げた。

 ああこんな質問をしてしまったらあなたが気になっているって言っているようなもので、自分の気持ちに気づかれてしまうかもいやいっそ気づかれてしまったほうがダメだダメだそれはなんか男らしくない、などとツルツルの脳みそが思考の渦の中でぐるぐるしていると、お姉さんは綺麗な三日月型の笑みを浮かべた。

「そうね、いきのいい子は、好きよ」

「いきのいいこ」

 口の中で繰り返し、『いき』を『粋』と変換する。

『粋でなければ漢じゃない』そんな決め台詞の月9ドラマが流行っていた頃だ。流行りものに疎いことの多いお姉さんも、あのドラマは見ているのだな、と意外に思って、浮かび上がってくる疑問がひとつ。

 粋な男って、どんな男なのか?

「とってもおいしいのよ」

『おいしい』

 それって、それってつまり――エロの権化と言っても過言ではない男子高校生に、その生々しい表現は強烈過ぎた。

 故に、お姉さんの思う『粋な男』とはどんな男か、という重要な質問をすることもできず、顔を真っ赤にして俯くことしかできなかった。

 相変わらず勉強は苦手だったが、古文の授業だけは好きだった。桜をテーマとした和歌や俳句だけは不思議とするっと頭に入ってきたし、お姉さんは割と古典古文関係が好きなようだったから、共通の話題を増やすためにもそこだけは力を入れていたのだ。

『粋な男』

 ドラマと漫画と周囲の意見を総合した結果、それがどういうものかと結論づけた。ただ、俳優ではないから万全の準備をして、お姉さんに臨んだ。

 いつものように世間話をして、ふと会話が途切れた瞬間、お姉さんの視線が夕日の沈みゆく山際に向く。散り始めた桜の花びらが舞い踊る中、何度も何度も練習した言葉を呟いた。

「ひさかたの、ひかりのどけき、春の日に、しづ心なく、花の散るらむ」

 紀友則――紀貫之という有名人の親戚が詠んだものだ。百人一首にも含まれているから、もしかしたら本人も有名なのかもしれない。

 現代語に訳すと『こんなにものどかな春の日なのに、どうして桜はあんなに散り急いでいるのだろうか』といったところだろうか。

 お姉さんとゆっくり会えて穏やかな時間を過ごせる春の時間は短くてとても寂しいです、という意味を込めて呟いたつもりだ。

 横目でお姉さんの様子をうかがった。

 お姉さんが好きな『粋な男』とはどんな男か、という問いに対する自分なりの回答だったのだが、キザ過ぎはしなかっただろうか。いや、それならまだしも、こいつ頭おかしくなったのか、とか思われていたりしないだろうか。

 驚いたようにこちらをじっと凝視していたお姉さんは満面に嬉しそうな笑みを浮かべ、紅色の唇に人差し指を添えながら、

「あしひきの山桜花、日並べて、かく咲きたらば、いと恋ひめやも」

 まるで歌うかのように、詠みあげた。

 これも、授業で聞いたことがあった。というか、桜に関するものは一通り下調べで頭に入っていた。

『もしも山桜が何日も咲いているものだったら、こんなにも恋しいとは思わないでしょうに』

 ……参った。お姉さんは年季が違った。

「ふふふ……」

 妖艶に笑って、お姉さんはそれまで唇に当てていた人差し指をこちらへと伸ばした。

「……そうか。あなたも、いつまでも子供では、ないのね」

 その人差し指が唇に触れ――紅をさした、という程度ではないほどに頬を真っ赤にしてしまって――あたふたしているこちらを見やって、お姉さんは悪戯っぽく笑った。

 胸の内を密やかに暴露するような、そんなことがあっても、関係は特に変わることがなかった。

 踏み込む勇気がなかったというのもある。でも出会った頃と比べると明らかにお姉さんの調子が悪くなっていたというのが、大きな理由だ。

 多くを語ることはなかったけれど、何かしらの難病を患っているのだろうと見当をつけていた。気づかせまいとしていたようだが、年々お姉さんの体調は悪化していた。春以外の季節で会える日は、年を経るごとに減っていった。

 ただ、お姉さんが言ったように、子供は、いつまでも子供のままではないのだった。

「進学しようかどうか、ちょっと悩んでるんだ。兄さんみたいに頭良くないし、大学に進学するよりすぐ働いた方がいいのかなって……」

「あなたの好きになさい」

 お姉さんの返答はいつも素っ気なかった。

 けれど、

「ただ、選択できる機会があるのなら、あなたはより良い未来を選ぶべきよ。私は……ここで見ていることしかできないけれど」

 いつでもこちらのことを案じてくれて、大人の視線で助言をくれた。

 元々考えてはいたことだったのだが、それで踏ん切りがついた。

 兄に勉強を教えてくれと頼もう。兄とは仲がいいとは言えないかもしれないが、それでもきっと勉強のコツくらいは教えてくれるだろう。もうすでに最後の花びらが散り落ちた季節だし、自分の地頭を考えたら医学部は絶対に無理だろうが、それでも地元で人気の公立大学に潜り込むのは不可能ではないはずだ。

 表情の変化を察知したのだろうか。お姉さんは面白そうなものを見るように――正直それは、『あらこの子犬、新しい芸でもするのかしら』とでも言いたげなものではあったけれど――こちらを向いて口の端に笑みを浮かべた。

 ただ、その唇の血色は、桜の花が咲き誇る季節と比べるとひどく悪かった。

 だから――より多くのお金を稼げる就職先を見つけられるようにして、いや、その端緒が掴めたのなら――

 胸の奥からこみ上げてきた、熱い想いが制御の効かない暴れ馬のように口から飛び出そうとするが、なんとかそいつの頭を押さえつけることに成功した。

「きょ、今日はもう帰るよ」

「あら、そう」

 本当はもっと話していたかった。けれどお姉さんは、決して先に帰ろうとしなかった。

 理由を聞いてもはぐらかされるばかりで、

『ふふふ。送り狼に襲われてはたまらないもの』

 だから後ろ髪を引かれる思いで別れを告げた。夜気に中てられてお姉さんの体調が悪化してしまったら、切腹ものだ。

「じゃあ、また」

「ええ。じゃあ、またね」

『また』という、たった二文字の言葉が心をかき乱し、そして安心させる。

 少なくとも嫌われてはいないのだ。また会ってもいいと思うほどには、好意を抱いてもらえているのだと。

 あれやこれやあった何年かの付き合いのくせに、と笑われそうではあるが、そんな些細なことが気になるほどに、まだ子供だったのかもしれない。

 心の中の暴れ馬をどうにかした時の弊害で、頬の血流が引かないまま丘をすこしだけ下って、桜の根本に置いた鞄を忘れていることに気がついた。

 別れを告げてすぐに戻るのはなんだか間抜けなような気がしなくもない。きっとお姉さんも迂闊さを笑うだろう。

 けれどそれでもいいと思えた。一緒に笑えるネタがひとつ増えるだけだ。むしろ鞄を忘れた自分グッジョブ、そんな思いで桜の下に取って返した。

「ちょっと忘れ物を――」

 頭を掻きながらそう言った視線の先にお姉さんはいなくて、桜の根本にある鞄だけが出迎えた。

「あれ……?」

 てっきりまだいると思っていたから、呟いて小走りに駆けた。

 この丘の桜からは大きく分けて下る道と上る道がある。お姉さんは上る道――以前、下る道が分岐に差し掛かる所で数時間待ち伏せたことがあるが、お姉さんは来なかった。

 なのに、上る道のどこにも姿はなかった。桜を離れてから5分も経っていない。上る道の方に進んだのだとしても、後ろ姿くらいは見えるはずだ。

 だが、そこには人っ子一人いなかった。

「どこに行ったんだ……?」

 首をひねりつつ桜の下の鞄のもとに戻った。

「お前、なにか見たか?」

 鞄に問いかけるが当然返事はなく、花びらを失った桜の枝が風に揺られてさわさわ、さわさわと鳴るだけだった。


 有機化学工学と計算化学工学の単位はほぼ確実。なら卒業はほぼ確定だ。そう判断して胸をなで下ろし、生協の食堂へと向かった。

 取るべき単位を3年次終了まで取得していた友人たちは就職活動を既に終え、卒業式まで学内に姿を見せることが珍しいし、院に進む予定の友人の一人くらいは見つからないかときつねうどんをトレーに載せて食堂を見回したところで、友人ではないが『有名人』の姿を見つけてそちらに近づいていく。

「ちっす」

『今週の生協おすすめ・トルコライス定食』をぼっち飯をしていた二重瞼の『有名人』は、向かいの席に座ったこちらの挨拶を受けて顔をあげ、見覚えがない、と判断したようで無難に小さく頭を下げた。

「……ちっす」

 確か……なんとかカナメという名前だったはずだ。学年と学部が違うから付き合いはない。

 ただ、学内で男女ともに絶大な人気を誇るカリスマであり、ファンクラブも有する美人である設楽神楽女史が唯一接近を許している男という噂の『有名人』だから、こちらは顔を知っている。

 あと、カナメが有名なのには、もう一つ理由がある。

「ほぼ初対面で、変な事聞く奴だと思うだろうけど……本当に霊感あるの?」

 カナメは忌々しそうな表情を一瞬だけ浮かべて、

「いや、ないよ」

 冷静な口調で応じた。だが、もうお前みたいな連中には飽き飽きだ、というのがそこかしこから隠しきれずに漏れ出ていた。

 カナメの高校時代の同級生が、1年ほど前に『心霊相談ならカナメにすべき』と顔写真付きのLINEを大学で拡散し派手に言いまわっていたせいで、フルネームを知らない人間ですら、カナメがオカルトの専門家であることは在学生なら誰でも知っている。興味本位で寄ってくる奴らには辟易しているのだろう。

 こちらが上級生であることは認識していない故の雑な態度に思うことがないわけではないが、それでも確認しておきたいことがある。ここでカナメに出会えたのは幸運以外の何物でもない。実は、昼飯を食ったらカナメに連絡をとれる伝手を探そうとしていたからだ。

「『夕陽ケ丘の桜』って、知ってる?」

 カナメは眉をぴくっとはね上げて反応を示した。その表情は先ほどまでとは微妙に変わっていて、こちらを疎む雰囲気なのは相変わらずなのだが、どこか、こちらの言葉を待ってくれているようだった。

 多分、カナメは無責任な奴――噂好きでミーハーで興味本位なだけの奴が嫌いなだけで、特定の案件についての相談事を持ちかける奴には意外に親切な――ツンデレな対応をするんじゃないだろうか。

 なんとなくそう思ったから、全てではないにしろ、胸襟を開くことにした。

 小さい頃、よく『夕陽ケ丘の桜』で『お姉さん』と会っていたこと。今はもうお姉さんとは会っておらず――というか、会っていたことすら今日の今日まで忘れていたこと。

 お姉さんとのことを差し障りない範囲でカナメに伝える。

「――なんか急に思い出したんだ。何でだろう?」

 くるくるとフォークに巻きつけたナポリタンスパゲッティを口の中に放り込んだカナメはもぐもぐと咀嚼しながらこちらを目を細めるように見て、何かを考えるように視線を左右に小刻みに動かしてから、ごくんと喉を動かした。

「『夕陽ケ丘の桜』――『人食い桜』のことなら――ああ、知っていますよ」


 昨年の春の事だった。

「困った子ねえ……」

 一世一代、ありったけの勇気を振り絞った告白に、お姉さんはいつも困った時にするように、口元にその細長い人差し指を唇にあてた。

 こちらをからかっているとか、焦らしているとかのそういう駆け引きではなく、本当に、心の底から、ただひたすらに困っているというのがその表情から見てとれた。

 こちらを挑発するように笑ってくれたのならまだしもに。

 それで逆に焦ってしまって、勇猛さというか、無謀さからの、大音声での、再びの宣言。

「俺は、あなたが、あなたのことが、好きなんだ!」

 耳まで真っ赤になっているのは自覚していたし、勢いよく動脈を流れる血流の音さえ聞こえてきそうなほどに、心臓がばくばくと鼓動する。

 言ってしまった。ついに言葉にしてしまった。

 小学校5年生の春、出会ってからずっと胸の内で熾火のように静かに燃え続けてきた想いを、とうとう告げてしまった。

 大学3年の春になったら――就職活動が本格化する前に告白すると、そう決めていた。

 数年来の付き合いを経てもお姉さんは自分のことを――連絡先や住んでいる場所とか、というか本名すら、教えてくれなかった。

 本名すら知らない相手に告白するなんて正気の沙汰ではないと自覚していたけれど、これまでの時間は、お姉さんを家族以上に大事な存在にするのに十分な時間だったのだ。

「困ったわねえ……」

 そう呟くお姉さんの腕を思わず掴んでいた。

 するりと抜けだし、桜の幹の向こうから横顔だけをのぞかせたお姉さんは小さく首を左右に振った。

「あなたは、もうとっくに気づいていると思っていたのだけれど……」

「それは……」

 お姉さんの病気の事なら、わかってる。でも、そんなの関係ない。医者になれるほど頭は良くなかった。でも、治療に必要な金を稼ぐことはできる。

 いつもお姉さんのことを問いかけたときのように、こちらをからかって、煙に巻こうとしているのだと思って、駆け寄ろうとした胸元に投げかけられたのは、

「困った子……しようがないから、ちょっとだけ、遊んであげる」

 早咲きの桜の枝の一振りだった。

「ふふ……これで、勝負をしましょうか」

 桜の枝の一振りをこちらに突き付けたお姉さんは、悪戯っぽく笑った。

「枝を打ちつけ合って、先に全ての花びらが散った方が負け。負けた方は、勝った方の言うことを何でも聞く。いいわね?」


 はないくさ。


 桜の花の枝で打ちあう遊びをそう呼ぶのだということは、のちに知った。

 けれど、枝を打ちつけ合うなどということはなくて、ただそっと触れあうように2人の持つ枝は交錯した。

 まるで、花弁が散ることを、恐れているかのように。

 小さな頬笑みと桜の花びらが舞い散る中、時を忘れて踊るように戯れた。

 けれど、どんな時にも終わりは訪れるもので。

 はらり、と枝についた最後の一枚が、散り落ちた。

 お姉さんが手にした枝の、最後の一枚が。

 そんなことはまるで予想していなかったというようにお姉さんは、その細長い、綺麗な指を口元へと持っていき――

「本当に、困った子ねえ……」

 困惑したように、嬉しそうに、呟いた。

 ――そこで、記憶は途切れている。


 夕陽ケ丘へと向かうのは、1年以上ぶりになるだろうか。

『夕陽ケ丘の桜』――別名『人食いの桜』

 朧気ではあるが、その名称をどこかで聞いたことを覚えている。

 詳細はカナメが教えてくれた。

 夕陽ケ丘一帯にはこんな逸話が伝わっていたのだそうだ。

『若い猟師が山桜の咲く丘に迷い込んだ。そこで猟師は若く美しい女と出会い、恋に落ちた。猟師は女と桜の下で逢瀬を繰り返すが、女は住まいも名前も頑として教えてくれなかった。桜の花が散ろうかという頃、自分の里に来て一緒に暮らさないかと契りを求めた猟師に女はこう応じた。『桜の花が散るからもうすぐこの地を離れなければならない。また桜の花が咲く頃にあなたが私の事を忘れていなければ、訪ねてほしい。その時には、あなたと一緒になりましょう』猟師はそれを承諾した。再会の約束の後、桜は散り女も消えた。翌年の春、猟師は丘へ向かい、里へは帰って来なかった。丘の上で山桜の花びらに埋もれて死んでいる猟師が里人によって発見され、女は桜の精で、猟師は誑かされ憑り殺されたのだと噂された。それ以降、春はこの山桜に近づくことのなきよう、言い伝えられたそうだ』

 それが『夕陽ケ丘の桜』――実際に、この十年より以前は春の時節、桜が咲く頃合いに、行方不明者が数年に一人、出ていたのだそうだ。

 だから、誰も近寄ることがなかった。

『桜の精』に憑り殺されることのないように。

 だが、今後はもう、そんな不穏な事件が起こることはない。

 ――昨年の夏、宅地開発のために『夕陽ケ丘の桜』は切り倒されたから。

 かつて『夕陽ケ丘の桜』があった場所は街を臨む公園になっていた。公園は、すぐそばに建てられたマンションに住む子供たちであふれている。

 子供たちが駆け回る公園を母親たちに不審な目で見られながら通り抜け、落下防止柵の設置された丘の果てで、かつての記憶と同じように、夕日に沈む街を見下ろしながら柵にもたれかかるようにして膝をついた。

 不吉な『夕陽ケ丘の桜』を切り倒そうという話はこれまでにも何度も出ていたのだそうだ。

 ただその都度に、業者やその関係者から死者が出て中止となり、『人食い桜の祟り』として恐れられてきた。

 ただ、この10年以上、誰も行方不明者が出ていなかったことから、地権者が半ば脅すようにして『夕陽ケ丘の桜』を切り倒すように業者に命令した。

 戦々恐々、業者は地元の高名な霊能力者にお祓いをお願いしたあと、『夕陽ケ丘の桜』のもとへ向かい――

『夕陽ケ丘の桜』は、あっさりと切り倒された――

 伝承によると『桜の精』は、春にしか姿を現さないとなっている。

 けれどお姉さんは春以外の季節でも会ってくれた。

 それは多分、お姉さんにとっては負担だったのだろう。

 一人でふらりと桜を訪れる子供など、いつでも喰ってしまうことができたのに。

 でも、お姉さんはそうせず、いつでも困ったように微笑んで出迎え、送りだしてくれた。

 年々弱っていったのは、病気でも何でもなかったのだ。

 何の気まぐれか、愚かな子供をその手にかけることをしなかったから。

 そうして――ついには抵抗もできず切り倒されてしまった。

 ああ……そんな……

 昨年の夏、胸にぽっかり穴が開いたような空虚感に不意に襲われ、大学から足が遠いたせいで3年で取るべき単位を落とし、留年も危ぶまれていた理由が分かった。

 お姉さんとの記憶を失い、お姉さん自身をも失い、だが、自分では自覚できないその喪失感が気力をごっそりと奪っていっていたのだ。

 どうしてお姉さんが思い出に蓋をしていったのか。

 それは……あんな我儘を言ったからだろう。

 あんな我儘を……独りよがりな告白などしなければ……

 視界が歪み、頬を涙が伝い落ちていく。喉の奥からこらえようもなく、嗚咽が漏れる。

『あらあら、本当に、困った子ねえ……』

 不意に、そんな声が聞こえてきたような気がして。

 それを呼び水に、脳裏にあの『はないくさ』の日の記憶が蘇ってくる。

 

「しようがないから、約束通り、あなたの言うことをきいてあげる」

 お姉さんは花びらを失った桜の枝をぽいと背後に放り投げ、そして、胸に飛び込んできた。

 図体だけは年齢相応以上にしっかり大きくなっており、いつの間にかお姉さんより頭ひとつ大きくなっていた。胸板に感じるお姉さんの頬の柔らかな感触。

 これは……これはつまり、OKってことだよな。

 鼻息も荒く、華奢な腰に手を回して抱きしめようとした所で――

「このあたりも過ごしにくくなったし、あなたのお望み通り、あなたの伴侶になってあげる。でもそれは、もっと先のこと――あなたが、もし、まだ私のことを想ってくれていて、私をここから連れ出してくれるなら――」


 つい最近納車されたたプリウスからスーパーの買い物袋片手に降車し、マンションの集合郵便受けを開け、そこに友人の名前が記された分厚い封筒を見つけて思わず相好を崩していた。

「要から? あいつ、そんな筆まめだったかな?」

 大学卒業後、プラントの設計者として財閥系のメーカーに就職したが、地元勤務というわけにはいかず、ド田舎の工場に配属されていた。

 学生時代の友人は付近には誰もいないから、働き出したばかりの気苦労や愚痴なんかを率直に言い合える相手は今のところいない。勿論、同じ研修を受けている同期は何人かいるが、まだそこまでの関係を築くには至っていない。

 そんな微妙なタイミングで送られてきた後輩――というよりも友人からの便りが嬉しくないわけがない。

 買ってきた惣菜をレンジで暖めつつ、缶ビールと封筒を持って2DKの自室で便りを開封する。

 封筒の中には、1枚の便箋と、もう1通の封書が入っていた。

 便箋には要が書いたらしい下手くそな文字で、こうしたためられていた。

『じい様が今なら先輩に送っていいと言っていました。中身は開封すればわかるそうです。仕事とか色々、まあ頑張って下さい』

 基本的に血縁者以外には適当対応の要らしい言葉に、苦笑する。

 もう一通の和紙で作られた高級そうな封書には手紙以外の何かが入っているようだった。

 同様に開封すると、そこにはやはり1枚の和紙製の便箋と、桜の花びら模様があしらわれた極々小さな巾着袋。

 便箋には流麗な筆記体でこう記されていた。

『桜の精との約定により、これを付す』

 巾着袋をひっくり返すと、そこから掌に転げ出てきたのは、親指の爪ほどの大きさの、からからに乾いた茶色い、小さな小さな種子。

 ああ――

 その時どんな表情を浮かべていただろうか。

 満面に笑顔? それとも今にも泣き出しそうな?

 ひとつだけ確かなのは、やはり年季が違う、ということだ。

 スマホを取り出し、要の番号を呼び出してタップする。要は基本電話に出ない、というか、こちらを先輩として敬っているかどうかすら実は怪しいが、このタイミングであれば応じてくれるはずだ。

 というか、そうでないと困る。

 桜を種から育てる方法など知らない。

 それが『桜の精』を宿したものとなれば、なおさら。

 はやく、はやく、要、はやく! さっさとでてくれ、焦らさないでくれよ!

 はやる気持ちを思わず口に出していたら、

『あらあら、そんなに急いて……本当に、困った人ね」

 懐かしく愛おしい声が、聞こえたような気がした。


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朝霧要の百鬼夜行 @kazen

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