魔女宗 メルガの秘跡
こんな話、知ってる?
あのね、ある招待制SNSアプリがあるの。
マイナーだからまだ知ってる人、少ないんだよね。
でね、そのSNSに登録すると主催者の『メルガ様』が恋愛事の相談に乗ってくれるの!
『メルガ様』にアドバイスをもらった子たちは、皆、恋が成就するんだって!
2組の今日子ちゃんや5組の原田さん、その2人も『メルガ様』のおかげで彼氏と付き合えることになったんだって言ってたよ!
……え? アプリのアドレスが知りたい? そうよね、やっぱり、知りたいよね。でも、どうしようかな~。
勿体ぶってるわけじゃないのよ。こういうのってさ、知ってる人がたくさんいると『メルガ様』が忙しくなりすぎて予約が必要とかになっちゃうかもしれないでしょ?
……え? うん、もちろん、私たちは友達だよ。そうだね! 友達だもんね!
うん、わかった! 教えるよ! 友達だもん!
あ、でも、注意してもらわないといけないことがあるの……
「……で?」
不機嫌丸出しというか、多分憎悪すら滲み出ていたであろう俺の視線を受けて、ファミレスの対面に座る
黒髪の三つ編みおさげに前時代的な黒ぶち眼鏡と、顔に関しては地味という言葉の体現者なのだが、女子高生とは思えないほど豊かに成長した大きな胸とのアンバランスさ加減が絶妙に男心をくすぐる少女ではある。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
『
我が愛しの従妹の樹より送信されたメール。
俺にとって、というか本家・分家問わず男衆にとって、本家唯一の娘である樹は溺愛の対象である。
よって俺は大学から帰宅した後、母によって命じられていた庭の落ち葉掃除を即座に放棄し、愛車を駆っていつもののファミレスまで馳せ参じたのだが……
そこにいたのは、樹ではなく『毒虫・ザ・篠塚雪』だったのだから、落胆がいかほどのものか、俺がどれほど樹を大事にしているかを知っている人間には、想像するのも容易いことだろう。
あぁ、帰りたい。使命を途中で投げ出した俺は、帰れば母から怒濤のごとくお小言を浴びせかけられるに違いないが、それでも帰りたい。
あからさまに嘆息すると、スマホが振動でメールの着信を告げる。
樹か?!
そう思ってスマホをタップすると、そこには、
『普段の優しい要さんも素敵ですけど、今みたいなクールな表情も格好いいです! 色々な表情の要さんを見ることができて、とっても嬉しいです!』
送信者のアドレスは、篠塚さん。
反射的に睨みつけると、頬を染めて俯く篠塚さん。その両手は祈りをささげるかのごとく胸の前で組まれており、俺がこのファミレスに来てからは、間違いなくスマホに触れていない。
これが、この篠塚雪の厄介なところだ。
霊能力者とは言い難いが、少なくとも特殊な才能はあるのだ――それも、尋常ではないレベルの。
『そんなに熱く見つめてもらえるなんて、彼女として光栄です!』
篠塚さんからメールの追撃。末尾に添えられた照れ顔の絵文字が神経を逆なでする。
以前篠塚さんに『一時的な』『偽』彼女になってもらえるようお願いしたのだが、篠塚さんの中では『一時的な』も『偽』もいつのまにか忘却の彼方へ流され消えたらしい。
レテ川の水でも常飲しているのか、何度訂正しても記憶がアップデートされないので、そろそろ転生でもさせてやろうかという頃合いだが、篠塚さんは飼い慣らすことができれば優秀な『手駒』――『零』感の俺にとって、切り札の一つになりうる。それも、使い捨て可能な。
とはいえご機嫌取りをする必要もない。
樹に会えると思って喜び勇んでやってきた分、そのギャップからやる気が奮い立たない。
さっさと用事を済ませて撤収しようと判断し、
「……で?」
先ほどと同じ言葉を告げる。
「俺は樹から呼び出されてここに来たんだけど、どうして篠塚さんがいるのかな?」
同じことの繰り返しになっても時間の無駄なので、注文したコーヒーを一口飲んでから目線で返答を促すと、篠塚さんはちょっと真面目な――私立三真坂南女子高校・不思議研究同好会会長の顔になった。
「あの……要さんは、『メルガサクラメント』という招待制SNSアプリのことを、聞いたことがありますか?」
篠塚さんは、ちらちらとこちらを見上げながら言う。胸の前で指を組んでいるせいで二の腕に両側から挟まれた巨乳が大変なことになっており、男の本能としてそちらに目を奪われてしまっていたが、篠塚さんが真面目に話す気になったのであれば、そんなものは些事に過ぎない。
「『メルガサクラメント』?」
情報収集のためにいくつかの会員制SNSには登録しているが、そういう名前のSNSは聞いたことがない。
「いや、聞いたことがないな」
招待制を銘打っているのだから老舗料亭よろしく『一言さんお断り』で、既存会員の伝手を使って少しずつ会員を増やしているのだろう。それでも、ネットの海のどこかに藻屑は放流されていそうなものだが。
続きを目線で促す。いちいち頬を赤くするな――そして、メッセージを送ってくるな。確認する気も起きない。
「最近、市内の女子学生の一部に流入してきた噂なんですけど……」
『メルガサクラメント』という招待制のSNSアプリがある。
そこに登録すると主催者の『メルガ様』が恋愛相談に乗ってくれる。
『メルガ様』のアドバイスに真摯に耳を傾けて従えば、大多数の恋愛は成就するし、うまくいかなくてもすぐに運命の人が見つかる。
正直嘘くさいが――恋愛サロンのようなものか?
主催者が語る恋愛論を会員の皆で傾聴するというような。
こういうサロンはネットワークビジネスだったり、カルト化していく可能性があるからあまり関わりたくないのだが――
「樹が、それに興味を示した?」
そうでなければ、俺が呼び出される理由がない。
俺の言葉に、篠塚さんは神妙な顔で頷いた。
『メルガサクラメント』の噂を聞いた樹が、そこに登録してみたいと篠塚さんに相談してきたのだそうだ。
樹は通販サイトでの買い物の仕方すら知らないほどのネット弱者だから――だが、それなら真っ先に俺を頼ってほしかった。無論――絶対登録などさせないよう振舞うのだが。
「それで、『メルガサクラメント』にはちょっと気になるところがあって調べていたので、登録は要さんと調査をして安全であることを確認してからにしてほしいと、樹ちゃんにお願いしたんです」
最近続いていた篠塚さんからの誘いのメールや待ち伏せを無視・回避していたせいか、樹を巻き込んで、俺が出てこざるを得ない状況を作ったんじゃないだろうな――そんな勘繰りをしてしまうが――『本家』の娘である樹が興味を示し、篠塚さんが違和感を持ったなら、それは、多分、俺が対応するべきことなのだろう。
「気になることって?」
「『メルガサクラメント』には二つ注意事項があるんです」
『登録できるのは現役の女子学生だけ』
『一度登録したら恋が成就するまで退会はできない』
一気に胡散臭さが増したな。
判断能力の低い学生を集めて、退会条件を縛る――
「『メルガサクラメント』には何か『課金要素』はあるの? 怪しげなグッズを売りつけているとか、いわゆる『お布施』が多いとランクが上がって『メルガ様』がくれるメッセージが増えるとか」
「いえ、そういうのはないようです。ないのですけど……」
ああいや、ちょっと待て。
「篠塚さんはさっき――『調べていた』と言ったね。樹に相談を持ち掛けられる前から、『メルガサクラメント』の事を知っていた?」
頷いた篠塚さんは立ち上がり、ボックス席の向かいから俺の隣に移動してくる。
は? なに、何なのそのムーブ。必要ある?
ぴったりと太ももをこちらに寄せる位置に陣取った篠塚さんは、スマホを俺に差しだして見せた。
『最近なにかときな臭い『メルガサクラメント』に潜入捜査してきちゃうよ!』
『気をつけて下さいね』
『だいじょぶ、だいじょぶー。だいじょばなかったら、雪ちゃん助けに来てね!』
表示されているのはLINEでのメッセージのやり取り。
『潜入捜査』――つまり『メルガサクラメント』に疑念をもち、実情を知る目的で登録した誰かがいたという事だ。
「隣県の女子大に通う佐古田メイさんという南女の卒業生で、不思議研究同好会の前身ともいえる、オカルトや怪談の蒐集と発表の活動をしていた人なんです」
南女はそれなりに偏差値の高い高校だが、オカルトに興味を持つかどうかにはあまり相関はないようだ。発明王として名高いエジソンも霊界との通信を目論んでいたというし。
『『メルガ様』、意外と親身に相談に乗ってくれる。さてさて、尻尾を出すのはいつかな?』
『ちょっと、突っついてみちゃうよ!』
『潜入捜査してみた!』みたいなYoutuberっぽいノリから一転、次の佐古田メイから届いたメッセージは不穏に満ちたものだった。
『これヤバい案件』
『山羊が尾行』
『メイさん、大丈夫ですか?』
以降、篠塚さんの安否確認のメッセージが続くが、既読はつかない。佐古田メイの最後のメッセージは昨日の夜だ。
「お姉ちゃんは一昨日からフィールドワークに出かけていて音信不通ですし、どうしようかと思っていたら、今朝、樹ちゃんから『メルガサクラメント』の登録に関する相談があって、それで――」
篠塚さんの姉は隣県の大学勤務の、『現代の魔女』『秘祭暴き』などの綽名持ちの――各方面から嫌われている――けれど実績のある民俗学の研究者である。
その姉と連絡がつかない状態で樹から相談を持ち掛けられ、俺に相談したのはいい判断である。
「いや――山羊?」
そのメッセージが戯言でないなら、何かしらの意味があるという事になる。
――ていうかこれ、真っ黒じゃねえか。
『ヤバい』案件なんだろ。調査する必要すらない。樹に相談を持ち掛けられた時点で、『やめた方がいいよ』って言って終わりだろうがよ。
「……メイさんは、大事なお友達なんです。お姉ちゃんもいないし、頼りにできるのは要さんだけなんです」
潤んだ瞳でこちらを見上げる篠塚さん。
自分1人では手に負えないと判断して、樹を介して俺に持ち込んできたわけか。
――友人を助けたいという気持ちはわかるが、俺を巻き込もうとするな。
「要さん……」
はぁ。
「……今回だけだからな。次はないぞ」
じい様によると、俺は身内以外の人間を軽視しすぎる傾向があるらしい。俺自身はそこに何の問題があるのか甚だ疑問ではあるのだが、尊敬するじい様が言及するのなら、それは矯正すべきことなのだろう。
その一環だ。別に篠塚さんや佐古田メイのことは心底どうでもいい。
ああ、あと、可能性は低いが、篠塚さんに見切りをつけた樹が他の誰かに相談して『メルガサクラメント』に登録してしまう可能性がある。それはよくない。まあ、友達思いの樹がそんな背信行為をするとは欠片も思わないが、全ての可能性を疑うことも従兄としての務めだ。
「要さん……! ありがとうございます!」
こちらの腕にしがみついてきた篠塚さんは俺の肩に頭を持たれかけさせ、小さな声で呟いた。
「……優しい要さんが、大好きです」
あーあー、聞こえなーい。何にも聞こえなーい。
ていうか、スマホに連続でメッセージを送ってくるのを止めろ。太ももだけ振動で筋肉が鍛えられちゃうだろ。
ともあれ、対応すると決めたのなら、やることはいつも通りだ。
「そもそもは佐古田さんが『メルガサクラメント』に目を付けたわけだ」
肩で押しやっても懲りずにくっついてくる篠塚さんは小さく頷いた。
「その理由は?」
問いかけると、篠塚さんはごく自然な動作で俺のコーヒーに手を伸ばし、口に含んだ。
……おい、自分のがまだ残ってるだろうが。俺のコーヒーで唇を湿らせるな。
「発端は、メイさんに持ち込まれた相談なんです」
素知らぬ顔で俺のコーヒーを手元に引き込んだ篠塚さんによると、『メルガサクラメント』に勧誘された女子高生が佐古田さんに不安を訴えたことが始まりなのだそうだ。
その女子生徒――東条茜は中学時代の友人である戸田詩音から紹介メールをもらい、『メルガサクラメント』に登録したものの、特に恋愛がらみで悩み事もなかったため放置していた。
東条さんが『メルガサクラメント』に登録したのは、戸田さんの勧誘が非常にしつこかったかららしい。
通っている高校が違うにも関らず、何度か校門で待ち伏せされたこともあったそうだ。
『きっと気に入るから』
『ねえ、助けると思って』
必死に懇願され、それが怖くて東条さんは『メルガサクラメント』に登録すると、その日を境に執拗な勧誘と干渉は途絶えた。
ほっとしてしばらくしたところで、東条さんの耳にある噂が伝わってきた。
戸田さんが、学校にも来ず、家にも帰っていない――『失踪』したらしい、という噂だった。
勧誘している時の友人のなりふり構わぬ姿に、何かしらの事件に巻き込まれたのではないか――自分にも累が及ぶのではないかと恐怖を覚え、東条さんは佐古田さんに相談したのだそうだ。
――『失踪』ね。
「東条さんの通っている学校は?」
三真坂市は県境にあるから、隣県の学校の情報もある程度把握している。
篠塚さんが口にした学校名は、佐古田さんが通っているという女子大の付属高校でそれなりのお嬢さんが通う学校だ。佐古田さんは三真坂市の南女出身だが、どちらもお嬢さん学校という事で交流が生じたのだろう。
「戸田さんは?」
篠塚さんが口にした、戸田さんが通っていたというのはあまり偏差値の高くない私立――諸々の理由から自主的にドロップアウトする生徒がいてもおかしくないところだ。悪い男の家に転がり込んでいるだけの可能性もある。
まあ、とりあえず話を聞こう。
「東条さんは『最近誰かに尾行されている気がする』とひどく怯えていたそうです」
「粘着質な勧誘や、その後の失踪で少し精神的に参ってしまっただけじゃないか」
つまりは、気のせいだ。
篠塚さんによると佐古田さんも最初はそう判断したようだ。だが、付属の後輩たちに話を聞くと同様の事例が――『メルガサクラメント』に登録した友人・知人が『失踪』する――いくつか見つかった。いずれも、家庭や学校が荒れているような環境にいた女子学生たち――消えても、気にかけられない少女たちだった。
それで調査をすることに決めた佐古田さんは『メルガサクラメント』に登録するのと同時進行で、怯える東条さんを尾行し――後をつけている人間がいないか確かめたのだそうだ。
ここで、篠塚さんは困ったような表情で頬に触れた――俺の頬に。触んな。
「――尾行中のメイさんから送られてきたのが、さっきのメールです」
山羊が尾行。
字面だけだとシュールだ――しかし、ヤバい山羊って、なんだよ。
ヤバくなくても普通の山羊が人間を尾行することは――そもそも街中にいることはあり得ない。
ならば、山羊に見える別物、ということになる。
いや、そもそも『山羊』を除けばオカルト的要素が――『怪異』が関わっているようには思えない、人間関係のトラブルに起因する案件のように思える。思えるのだが……
「……佐古田さんは、『視える』人?」
「あ、はい。少しだけ、霊とかが視えるんだそうです」
うーん、ややこしいな。
霊――で、山羊? 動物の霊?
霊と言えば人間だが、それ以外が存在しないわけではない
犬、狐、蛇――憑き物筋と呼ばれる家系には動物霊が憑いているとされるが、山羊の霊が関わる逸話は聞いたことがない。
情報が足りない。
篠塚さんの話をもとに、今後の方針を頭の中で組み立てる。
「登録者に伝手は――東条さんと連絡はとれる?」
「いえ、私は東条さんの連絡先は……メイさんがいれば……」
そうなると、出来ることは限られてくる。
外から調査ができない招待制SNS――なら、内に飛び込むしかない。
本来、慎重に慎重を積み重ねて調査を進めるのが俺のやり方ではあるのだが――佐古田さんの件もあるし、佐古田さんが即座に行動を起こしたのも東条さんに危険が及ぶ可能性がゼロではないと判断したからだろう。原因が人間であれ、『怪異』であれ。
頼りのじい様は、老人会のお歴々と島根県に慰安旅行中だが、最悪、篠塚さんに命を懸けてもらおう。
常備している『飛ばしスマホ』の1つを取り出してアプリストアを立ち上げる。だが、検索には引っかからない。
「『メルガサクラメント』はストアに登録してない?」
「アプリストアの検索には引っかからないのでアドレスを直接入力してダウンロードするんです。アドレスは……」
アプリストアを介さない――OS管理者の検閲を受けていないアプリ――怪しすぎるだろ。位置情報追跡のGPSでもなんでも仕込み放題じゃねえか。
篠塚さんに教えてもらったアドレスを入力すると、確認もなしにダウンロードが始まった。
666MBとやたら大きなサイズのアプリを起動すると、飾り気のないシンプルな、それこそオフィスソフトウェアのワードアートで作ったような『MergaSacrament』というロゴが表示された。
こっちを壁際に押し込んでくる勢いで身を寄せてくる篠塚さんに見せるとこれで間違いないと頷いた。肘に豊満な胸が当たっているが、ともかく平常心を維持。
大文字で区別されているのだから、字義上は『Merga』と『Sacrament』に分かれているという事になるのだろう。
『Sacrament』は直訳すれば『秘蹟』――『Merga』は人名と考えるのが妥当だろう。
『秘蹟』とは、キリスト教において信徒に恩寵を与える宗教的儀式だ。
わかりやすく日本語にすれば、『メルガの秘蹟』『メルガの与える恩寵』ということになる。文法的な問題を、語呂の善し悪しの為に無視すればだが。
『メルガサクラメント』はキリスト教系の発祥? 聖書に動物霊について言及した箇所はなかったように思うが……
ID、パスワードを要求する入力ボックスの下部に、『新規登録はこちら』というリンクがあり、迷いなくそこをタップする。
新規登録に対して求められていた情報は5つ。
『希望ID』
『パスワード』
『名前』
『学校名』
『紹介ナンバー』
――うん、怪しい。学校名が必要なSNSってなんだよ。
『当SNSは招待制です。登録を希望される方は、登録者のご友人から紹介ナンバーか、招待メールを受け取ってください』
画面の下部には流麗なフォントでそう記されている。
ともあれ、招待制SNSというだけあって、やはり紹介者の情報が必要か。
一旦諦めかけたが、その問題はすぐに解決した。
東条さんが戸田さんからメールで送られていた『紹介ナンバー』を、佐古田さん経由で篠塚さんが受け取っていたのだそうだ。使い回しが可能らしい。佐古田さんがかけた『保険』というところか。
『希望ID』『パスワード』『名前』は適当に、『学校名』は市内の高校を、そして『紹介ナンバー』を入力し、新規登録をタップすると、くるくると回るドーナツ状の画像が現れ、その下部に『残り99%』と表示された。
そのパーセンテージは『98%』『95%』と徐々に上がっていくが、正直、遅々として進まない。業を煮やしていたところ、5分後に急速に進行度が進み――だが結果は『ネットワークが混雑しています』という表示だった。
――舐めてんのか。
眉間に青筋を浮かべつつ、再チャレンジしたが、結果は同じ。
『飛ばしスマホ』が悪い? だが自分のスマホで登録する気にはならないし……いや、これはアカウント乗っ取りの常套手段か?
『不正なアクセスが行われた可能性があるのでログインして確認してください』などと不安を煽るメールを送り、そのリンクから本物によく似たサイトへアクセスさせ、IDとパスワードを入力させる。
ログインに時間がかかるのは、その間に本物のサイトにログインできるかどうかを確認しているからだ。首尾よくログインできたなら、パスワードを変更し高額の買い物や送金を行う。
『ネットワークが混雑しています』と切られたのは、正規の情報と一致しなかったからだ。
正規の情報――この場合、それはつまり『メルガサクラメント』の運営が紹介される女子学生の個人情報を把握しているという事だ。紹介者が事前に『メルガサクラメント』に個人情報を提供している、と考えるべきだろう。だが、別の懸念もある。
「……篠塚さん、スマホ貸してくれる?」
「あ、はい。どうぞ。ロックナンバーは――」
――俺の誕生日かよ。教えてないんだよ。怖いんだよ。
ともかく、篠塚さんのスマホを勝手に操作し『メルガサクラメント』をダウンロードして篠塚さんの個人情報を入力していく。
『ID』は『ShinoYuki』。パスワードも同じ。先程と同様にドーナツ状の画像が現れるが、それは30秒ほどで終了し、
『ご登録ありがとうございます! 主催者とのご歓談にお進みください!』
メッセージがフロート表示されると同時に画面がチャット風に切り替わり、
『はじめまして。私が主催者のメルガです。あなたはきっと恋愛事の悩みを抱えているのでしょう。なんでも私に相談してください。微力を尽くさせていただきます』
『メルガ様』のメッセージがポップアップする。
――マジかよ。
紹介者の情報提供を前提とするならば、『メルガサクラメント』は篠塚さんの個人情報を持っていないはずだ。篠塚さんと戸田さんに面識はないのだから。
抱いた懸念が現実味を帯びる。
『メルガサクラメント』――『メルガ様』は近隣の女子学生の個人情報リストにアクセスできるという事だ。
三真坂市の学生である篠塚さんの情報を捕捉できるのなら、『メルガ様』の手が樹に及ぶ可能性もある。
それは――看過できない。
『メルガサクラメント』は――潰さなければならない。
『本家』の娘――跡取りである樹に及ぶ危険は、すべて排除する必要がある。
『どうしましたか? 恥ずかしがらなくてもいいのです。ここでの相談は、誰に知られることもありません』
そんな言葉、信用できるわけがないだろうが。
だが、情報収集の必要はある。
『メルガ様』が何を目的としているのか。そして、『山羊』は何か。
今後の方針を検討していると、篠塚さんが身を乗り出してスマホに触れた。俺の手から奪えばいいのに、そうではなく、俺が手にしたスマホを、俺の手ごと握りしめて操作していく。
母方の姪っ子たちが初めて俺のスマホを見た時の反応が想起されて一瞬だけ微笑ましく思うが、相手は毒虫だと思いなおす。そして、その毒虫は勝手に入力を進めていく。
『はじめまして、メルガ様。相談したいことがあるんです』
『どうぞ。そのために、私は存在しています』
『私は高校生で、大学生の彼氏がいるんですが、交際は順調なのに、まだキスもしていないんです。次の段階に進みたい場合、どうしたらいいんでしょうか』
『それはきっと彼が奥手で照れているのだと思います。貴方の方から積極的にアプローチすれば、彼氏の陥落は容易いでしょう』
『積極的なアプローチとは、どういうものでしょう?』
『大学生の男性は一般的に性欲を持て余している可能性が高いです。あなたの彼氏は、単に理性でそれを抑圧しているにすぎません。そこを刺激してあげればよいのです。あなたの理知的な容姿と蠱惑的な体躯のギャップを活かすべきでしょう』
『つまり、色仕掛けという事ですか?』
『直截的な表現をするならば、その通りです』
『具体的にはどのようにすればいいのでしょう?』
『2人きりになり、身体的接触を増やすことが最適解と思われます。その肉感的な乳房の物理的接触回数と時間を増やすのがよいでしょう。そして、1つ大事なことがあります。彼の方から触れてくるのを待つ、ということです』
そこまでやりとりが進んだところで、スマホを取り上げる。
「あぁん……」
とかいう篠塚さんの口から漏れたセクシーな吐息は無視。
――どういうことだ?
『メルガ様』は篠塚さんの体型について言及している。写真を登録したわけでもないのに。
ただ、そこはまだいいのだ。近隣の女子学生の情報を蒐集しているならば、容姿の情報を取得していても不思議ではない。スマホの普及で、皆が駆け出しカメラマンになった。
だが、篠塚さんのメッセージの投稿から『メルガ様』の反応まで、ほとんどタイムラグがない。返答に1秒かかっていない――ほぼ即座に対応している。
これは、普通ではない。
AIが使用されていて、それが優秀なのか。それとも――
――『怪異』は時代とともに変遷する。
例えば、『私メリーさん、今、あなたの後ろにいるの』と告げる『メリーさん』は電話のない時代には、当然存在しなかった。
『メルガ様』という名のチャットを介する『怪異』が新たに生まれていてもおかしくはない。
『そんなことはわかってるんだよ。適当なこと言いやがって。メルガ様のバーカバーカ』
『私は、私がまだ幼く愚かであることを私は知っています。ですが、他者に対する罵倒は感心しません。それはいずれ、あなたに返ってくるものですから』
『こんなクソSNS、退会してやるからな。バーカ!』
『それはお勧めできません。私は、あなたがあなたの人生をより善く生きるための助言をするために存在しています』
「篠塚さん、どう思う?」
胸の形が変わるくらい体を押し付けてくる篠塚さんに問いかける。
――早速実践してんじゃねえぞ。
「嫌な感じ、悪い感じはしません。むしろ誠実だと、思います」
それは俺もそう思う。佐古田さんもそう感じていたようだ。ただ、表向きは、というのと、どこまでも一般論という但し書きがつくが。あと、文言の選び方が女子高生相手のものではないように感じる。
俺も篠塚さんも『怪異』を見たり感じたりする能力はない。
だから、これ以上『メルガ様』の相手をする理由がない。尾行の気配を感じていたという東条さんは『メルガサクラメント』に登録したあと放置していたというし、これ以上は積極的に関わらなくていいだろう。
ついでに退会の手続きに繋がるリンクを探すが、アプリの画面上には見当たらない。というか、『メルガ様』とメッセージのやり取りと、紹介ナンバーの表示、招待者へメッセージを送るという3つ機能しか『メルガサクラメント』にはないようだ。
退会できないとか悪質すぎるだろ。これは最終的にはアプリを削除するしかないが、個人情報は俺のじゃないし問題ない。
『退会はお勧めしません。私はあなたを後悔させたくはないのです』
『メルガ様』からの最後のメッセージを一瞥してからアプリを閉じ、篠塚さんにスマホを返す。
そして、俺が篠塚さんのスマホを触っていた、まさにその時間に、俺のスマホに届けられた篠塚さんからの数多のメール。いい加減にしろよ。
俺の憤慨はともかく、『メルガ様』の最後のメッセージは、裏を返せば『退会すると後悔するぞ』という脅しでもある。
調査の糸口は、篠塚さんの所に『山羊』が来るかどうか――あとは待ちだ。
ただ……どうだろうな。
『メルガサクラメント』に登録した女子学生全員が失踪しようものなら、社会的に問題になるのは間違いない。
『山羊』が失踪に関わっているとして……そこには必ず、条件があるはずだ。人形を捨てる、という行為が『メリーさん』から電話がかかってくる原因となるように。
行動ではなく、属性の可能性もある。
個人情報を把握できるのならば属性に由来する可能性が高いと考えるべきか。
戸田さんは、言い方は悪いが『いなくなっても騒がれない』タイプの人間だ。東条さんや篠塚さんは違う。どちらもそれなりの良家の娘だから、帰ってこなくなれば家族は少なくとも警察には相談するだろう。
しかし、実際、東条さんの所に『山羊』が来ているのを佐古田さんは目撃している。
少なくとも『メルガサクラメント』に登録することがトリガーになっているのは間違いないのだが……
「要さん、私、少し怖いです……」
頬を上気させ、俺の腰に手を回して、融合を求めるがごとく抱きついてくる篠塚さんによって、思考が寸断される。その顔面を押えて引き剥がしにかかろうとしたところで、
「お客様、ちょっとよろしいですか?」
微笑みの形に歪んだ唇の端を痙攣させるウェイトレスに『公序良俗に反する行為』を注意され、何故俺がこんな屈辱を味あわねばならないのかとほぞをかみつつ、店を出たのだった。
篠塚さんを自宅の最寄り駅で放り出した後、愛車のロードスターを時間制駐車場に停め、ゴルフバックを背負ってその後を追う。
時刻はちょうど誰そ彼時。
邪魔者はいないので思考を再開させる。
『山羊』が来訪する条件を導き出すには、目的を類推する方が早いかもしれない。
『メルガサクラメント』ひいては『メルガ様』の目的は何か。
恋愛相談を餌に『メルガサクラメント』に若い女を集めて――選別する。
選ばれてしまった女子学生に待っているのは――あまり好ましくない未来だろう。
いなくなっても気にかけられない女子学生を求めているように最初は思えたが、東条さんをしつこく勧誘していた戸田さんの態度から察すると……逆か? それなりの家庭で育った女学生――良家の子女を求めている? 戸田さんのようなタイプはそういう属性の女子学生を集めるための『兵隊』で……『口封じ』の可能性もあるか? 伝え聞いた戸田さんの必死な様子からすると、それを達成しなければならない切実な理由があると考えられる。
例えば――身に危険が及ぶ、とか。
そんな風に考え事をしていて――不意に気付いた。
いつの間にか、音が――消えている。
篠塚さんが歩いているのは、片側一車線の住宅街の中を抜ける道路脇の歩道。
走行する車も、歩行者の姿も――ない。
灯っていた民家の光――先程まで漂っていた夕餉の匂いと喧噪が消えている。
白く輝く街灯だけが、道行を指し示すように伸び――
立ち止まった篠塚さんの正面に誰かが――何かが立っている。
頭頂から伸びる、くるりと巻いた2本の白い角。
横に長い瞳孔をもつ金色の瞳。
ぞわぞわと伸びる黒い毛皮。
『山羊』だ。
ただ――その『山羊』は2足歩行――頭より下はフリルのついたピンクのブラウスとスカートという――女性の体型だ。
ああ、そういうことか。
『山羊頭の悪魔』、だ。
少しでもオカルトを齧ったことがある人間なら、この言葉から連想するものは共通するだろう。
バフォメット――山羊の頭に女性の乳房を持つ姿で描かれた姿が有名か。
キリスト教は布教の過程で異教徒ごと土着の神を併呑し悪魔として組み込んでいったが、聖書に登場しないバフォメットはその系譜とは異なり、起源がはっきりしない。
ただ、バフォメットはその歴史的背景からして、悪魔崇拝の『烙印』であり『象徴』だ。
11世紀に聖地エルサレムをイスラム勢力から奪還すべくヨーロッパのキリスト勢力によって行われた十字軍の派遣を背景に拡大したテンプル騎士団は14世紀に異端審問によって瓦解した。
『フランスは財政難だしテンプル騎士団はバフォメット――悪魔崇拝している疑いがあるから異端審問して――拷問の末に認めさせ、処刑して財産没収』という顛末。
悪魔崇拝の象徴とされる悪魔がバフォメットだ。
悪魔崇拝――とくれば『生贄』が付き物だ。
そのために、若い女を集めている。
――その柔らかい肉を喰らうために。
ならば、『メルガサクラメント』に登録し失踪した女子学生――東条さん、戸田さん、そして佐古田さんは『食卓』に供された可能性が高い。
悪魔を『怪異』と言っていいのかどうか。俺はエクソシストではないから判断できない。
――だが、悪魔崇拝ならば、そこに人が関わっているはずだ。
『メルガサクラメント』は『生贄』選別のためのツールなのか。信者のITエンジニアが作り上げた選別ツール――いや、笑えないな。
山羊頭の悪魔を前に、篠塚さんは微動だにしない。逃げてくれればいいものを。
俺は『零』感だし、悪魔払いの経験もない。
篠塚さんが『生贄』にされてもいいのだが、樹への言い訳を考えるのも面倒だ。
山羊頭の悪魔は、首から下は人間の形をしている。
ならば――物理的に『壊せる』かどうか、試してみるべきだ。
樹に――『本家』の娘に近づく可能性がある脅威は全て粉砕して、排除する。
ゴルフバックを投げ捨て、その中に隠し持っていたスレッジハンマーを手に吶喊――しようとしたところで、篠塚さんがこちらを振り返った。
「あぁ、要さぁん……」
顔を真っ赤に染めた篠塚さんは、よたついた足取りでこちらに手を伸ばした。
「体が火照って……苦しいんです……」
明らかに正気ではない――嫌々参加した学科の飲み会で何度か見た、酒と色と欲に呑まれた女の、蕩けた瞳。
バフォメットにはそういう――催淫の能力もあったか。
「要さぁん……」
「邪魔だ」
寄り掛かってくる篠塚さんの鳩尾にスレッジハンマーの柄を叩きこみ、
「……はわっ?!」
はわっている篠塚さんの沈んだ肩に手を当て、すれ違いざまに俺の背後に押しやる。
そのまま篠塚さんの正面にいた山羊頭の悪魔に近づいた瞬間、甘い匂いが鼻腔を突いたが、かまわずスレッジハンマーを下から振り上げる。
顎ごと頭蓋骨を砕くつもりで放った一撃を山羊頭の悪魔は飛びのいて躱した。
避けた――その動きも、決して人間離れしたものではない。
ならば――どうにかなる。
だが、今ではない。正体は知れた。ここは一旦引いて、対策を練る。
牽制のための一撃を振るおうとして――
膝が、崩れた。
酩酊しているかのように、視界が目まぐるしく回転する。
握力が失われ、拠り所であり、ばあ様の形見であるスレッジハンマーの感触が消える。
こちらへの干渉能力を低く見ていた。
これほどの即効性があるとは……想定が甘かったか……じい様……ごめん……
呆然と両膝を突いた俺を――山羊頭の悪魔がくぐもった声で嘲笑っている。
その姿を最後に――
「要君、あなたは十分な働きをしてくれたわ。優をあげる」
――聞き覚えのない囁き声とともに俺の意識は闇に落ちた。
カレーの匂いに鼻腔をくすぐられて目を覚まし、すぐに周囲と時刻を確認する。
道路を行き交う車列、こちらを胡散臭げに見つめるサラリーマンや女子高生。時間としては、俺がロードスターを駐車場に停めてから30分も経過していない。
歩道に両膝をついた俺の背中に、気を失っているらしい篠塚さんがもたれかかっている。
何が起こったのかはわからないが、少なくともこの場所を離れるべきだろう。
ぐったりとした篠塚さんを――お姫様抱っこではなく、肩に荷物のように担いで駐車場へと足早に急ぐ。警察に見られたら職質じゃすまないな。
「……要さぁん……だめ……いえ、だめじゃないです……」
耳を傾ける価値もない、クソみたいな寝言を呟く篠塚さんをロードスターの助手席に放り込み、シートベルトをつけたところで、俺のスマホが着信を告げて振動する。
表示されているのは、覚えのない番号。
俺の個人情報、どうなってんだよ。そう思うが、出ない選択肢がないのも確かだ。
「……もしもし」
「要君とこうしてお話しするのは初めてね」
前置きもなく聞こえてきたのは、多分若い女の、落ち着いた声。
電話の声は電子的に合成されたもので本人の声とは違うらしいが、間違いなく意識を失う寸前に聞こえてきたものだ。
「やっと『メルガ様』の尻尾を掴むことができたわ。本当は、汚らしい尻尾なんて触れたくもないのだけど、雪ちゃんはまだ力不足だから――要君、雪ちゃんに協力してくれたこと、お礼を言うわ」
俺の窮状を救ってくれた人間だ。
だが、不思議なことに、あまりありがたいとは思わない。
この言い様から思い当たる人間は、状況的に1人しかいないからだ。
篠塚さんの姉――『現代の魔女』『秘祭暴き』――
「……篠塚怜佳」
呟きに応じたのは、あからさまな嘆息。
「義理の姉を敬称なしで呼ぶのは感心しないわね。怜佳お義姉様、でしょう?」
いや、義理の弟にはならないから。そんな未来は、永劫来ないから。
音信不通じゃなかったのかよ。
「私、察しの悪い子は嫌いなの。……もしかして、要君、あなたまだ何にも理解できていないの? 呆れたわね。優は撤回。でも雪ちゃんの彼氏だから、甘めの採点で可はあげてもいいわ。ただし『追試』に受かれば、よ。落第なら『除籍』ね。あなたは『雪ちゃんの彼氏』という名前の豚になるの」
切りつけるような、見下げ果てたような、酷薄な声。
仮にも大学教員、教育者が学生に対して口にしていい内容じゃないだろ。学生が可哀想だ。
いや、それはともかく――最初から俺を巻きこむ算段だったわけだ。
篠塚さん1人では許ない。だが、篠塚さんの近くに手頃な『駒』がいる。
「――全部、あんたの御膳立てってことか?」
佐古田メイが『メルガサクラメント』に潜入調査をしたこと、樹が『メルガサクラメント』を知ったこと、篠塚怜佳が『表向き』音信不通になっていたために篠塚さんが俺に助けを求めてきたこと。
勘ぐれば、それらはすべて、『メルガ様』を釣り上げるため――
「私が出ると、逃げてしまうのだもの」
悪びれもせず、篠塚怜佳は言い放った。
つまり、俺たちは『獲物』が逃げ出さず、無視もされない、『ちょうどいい餌』として供されたのだ。
正確に言うと、『餌』にされたのは篠塚さんで、『ちょうどいい』護衛扱いされたのが俺だ。
――ふざけやがって。
「要君、『追試』に割く時間の猶予はそれ程ないの。『カヴン』の裏切り者に鉄槌を与えなければならないから。だから一つだけ簡単な問題を出すわ。『メルガ様』とは、何?」
漠然とした問いかけが来たものだ。
未だに俺は『メルガ様』『メルガサクラメント』にまつわる真相に至っていない。
『メルガ様』の事を知ってから数時間も経っていないのだからしょうがない。
だが、『魔女』にこうして挑戦的に問いかけられて『わかりません』『時間切れ』では男がすたる。最愛の従妹である樹に顔向けできない。
『メルガ様』とは何か?
「『魔女』だろ」
魔女、という概念自体は紀元前から存在していたとされる。
その表記の通り、超自然的な能力――つまりは『魔術』『呪術』を行使する女性のことを指していた。
おそらく、共同体の中でのシャーマンのような存在であったのだろうが、キリスト教の拡大の過程において、魔女は人に害をなす異端として『魔女狩り』――迫害の対象となってしまった。
いわく、箒に乗って空を飛ぶ。
いわく、悪魔と契約して人を食う。
いわく、黒ミサによってキリスト教を冒涜する。
黒ミサ――サバト――悪魔に仕える魔女たちの、血と肉の饗宴。
サバトでは人肉が食され、特に子供が好まれたという。
そのサバトで魔女たちに崇拝されていたというのが、山羊頭の悪魔――バフォメットだ。
篠塚怜佳が口にした『カヴン』というのも、13人で構成されるという魔女のグループの事だ。
『メルガ様』――メルガ・ビーンあるいはメルガ・ビエン。17世紀のドイツで行われたフルダ魔女裁判で火刑にされた魔女から名前をとったのだろう。魔女として逮捕され、収監されたのちに妊娠が発覚したがために、悪魔と姦通しているとして拷問の末に処刑された。
中世に最盛期を迎えた魔女裁判で有罪となる条件の一つにこういうものがある。
『手足を縛って水に沈める。浮けば悪魔の助力を受けているから有罪。そのまま沈めば人間だから無罪――ただし溺死』
集団ヒステリー・集団妄想とも言われる『魔女狩り』で嫌疑をかけられた者の多くは、普通の人間たちだっただろうから――恐るべき『推定有罪』の時代だ。
その『メルガ様』が悪魔に捧げる生贄を集めているというのだから、皮肉と言っていいのかどうか……
『メルガサクラメント』は犠牲者を選別するためのツールだ。結局、条件はわからなかったが今更時間を割くべきことでもない。
それにしても、魔術的プログラミングと言うのが妥当かどうかはわからないが、今や魔術もデジタルの時代か。
先刻、『山羊頭』を被って襲ってきたのがデジタルではない『メルガ様』だろう。相対した感じ、アレは人間で間違いない。自ら、悪魔に捧げる生贄を回収に来た。
「独創性がなくて、つまらないわね」
「……」
――面白い必要あるか?
「既存の資料の継ぎ接ぎだけれど、まあ及第点ね。雪ちゃんの彼氏だから、甘めの採点で可をあげる」
彼氏じゃないから。
いや、『カヴン』の裏切り者、と言ったな。
お前も『魔女』かよ。綽名じゃなく、本物の。
「『追試』は終わりね。ご褒美に私のセーフハウスの1つを貸してあげるから、そこで雪ちゃんを休ませてあげてくれるかしら」
セーフハウス――殺害予告を送られてくるような『魔女』が用意した避難所ならゆっくりできそうではあるが――
「鍵は雪ちゃんのブラのフロントホックに引っ掛けてあるわ。住所は雪ちゃんのスカートのポケットの中よ」
何を言ってるんだこいつは。
冗談じゃない。路上に放り出しておけば、警察かホームレスか、悪い男かが篠塚さんを保護してくれるだろうし――
「優しい彼氏の要君は、雪ちゃんを放り出したりはしないわよね?」
言葉と同時、ロードスターの車内に『暗い日曜日』の旋律が小さな音で流れ出した。迫る危険を察知して、俺に教えてくれる大事な愛車。
――何か、仕込んでやがるな。
篠塚怜佳が本物の『魔女』だと分かった以上、そして仕込みの見当がつかない以上、逆らうのは得策ではないが――
「それじゃあね、要君。雪ちゃんと仲良くね」
通話の切れたスマホと、
「……要さぁん……はわ、はわわぁ……」
頬を上気させ、寝言ではわって身悶えする篠塚さんを見下ろして――篠塚姉妹をまとめて『秘密の場所』に遺棄するにはどうすればいいのか検討しつつ――嘆息する以外に、今の俺にできることはないのだった。
逆巻く蒼い炎が室内を嘗めるように這いまわる。
その舌先に触れたもの悉く、白い灰に変えながら。
「メイ、首尾は?」
炎と灰が織りなす蒼白の渦の中心に立つ、喪服のごとき漆黒のスーツに身を包んだ女が傲然と言い放った。
体にフィットしたスーツによって強調された、細身だが豊かに隆起した胸。銀縁眼鏡の奥の、舞い散る蒼い火の粉と淀んだ灰を映した怜悧な瞳。
卓越した美貌の女の視線の先には、
「ごめんなさーい。本人には逃げられちゃいましたー」
黒衣の女とは対照的な、真っ白なパーカーとハーフパンツに身を包んだ女。
明るい茶色に染められたボブカットの毛先を揺らしながら悪戯っぽく笑う童顔を、黒衣の女がパンプスの踵を床に叩きつけながら蛇蝎のごとく睨み付けた。
「あなたがうちの学生だったら『除籍』ものよ」
「だから、別の大学に進学することにしたんですよー」
辛辣な言葉を、白衣の女は微笑みながら軽口で受け流した。
「でも五体満足で帰ってくるとは思っていなかったから、あなたの評価は上方修正しておくわ」
「先生はもうちょっと私に優しくするべきだと思いますよー?」
「あなたがそれに値する人間であるのなら、躊躇はないのだけど」
大仰に肩をすくめた黒衣の女の嘆息と同時、荒れ狂っていた蒼い炎が全てを塵へと帰して、黒衣の女の影に収束し――弾けて霧散した。
「こんなものかしら」
足元から立ち昇る蒼い光の残滓に照らされながら、黒衣の女は豊かな胸を押し上げるように腕を組んで睥睨する。
十数秒前まで正視に耐えない状態だった20畳ほどの室内は、がらんとした空間へと変じていた。リノリウムの床の、テナント入居を待つ貸しオフィスといった風情だが、地下であるがゆえに窓もなく圧迫感・閉塞感が強いため、借り手を見つけるのは難しいかもしれない。
『カヴン』――現代を生きる『魔女』の相互扶助・相互監視の組織から逸脱し脱退した裏切り者が、ここで行ったことを考えれば、尚の事。
裏切り者は逃がしたが、その痕跡と秘蹟は排除できた。業腹ではあるが、今はそれで良しとするべきだろうと、黒衣の女は結論する。
差し向けた『使い魔』が首尾よく追跡のための印をつけた。黒衣の女に課せられた役割はそこまでだ。裏切り者の後始末は『カヴン』の他の魔女と、その協力者がやる手筈になっている。
「メイ、次の仕事をあげるわ」
「うわ、嬉しくなーい。でも逆らえなーい。何ですかー?」
「この子たちに、安らかな眠りを」
白衣の女の胸元に投げてよこされたのは、何枚かの学生証だった。
『解体室』と呼ばれたこの部屋で――冷たい作業台の上に染み付いた赤黒い血痕と、部屋の隅に積み上げられた肉片のこびりついた骨が放つ悪臭に満ちたこの部屋で――黒衣の女が敢えて焼き尽くさずに残したものだ。
『サバト』に供され命を落とした少女たちの学生証。その中には戸田詩音の名前もあった。
「わかりましたー。れすといんぴーす、ですねー!」
ただ、恋を成就させたいと願った愚かな少女たちの。
ただ、人並の幸せが欲しいと願った蒙昧な少女たちの。
蹂躙され、解体され、挙句にその残骸を打ち捨てられた少女たちの。
弄ばれ、臓腑を引きずり出され、挙句に晒され腐敗した少女たちの。
『魔女』に唆され『悪魔』に食い散らかされた少女たちの慟哭の慰撫を。尊厳の守護を。
白衣の女は跪き、学生証を胸に抱いて祈りを捧げる。
永遠の安息を、彼女らに。
絶えざる光を、彼女らに。
どうか、聖なる恩寵の祝福を。
どうか、永遠の安息を彼女らに与え、絶えざる光でお照らしください。
朗々と響き渡る追悼と鎮魂の歌を背に、黒衣の女は部屋を出た。
犠牲となった少女たちの情報を表に出すわけにはいかない、というのが『カヴン』の総意だ。彼女たちには『失踪』したままでいてもらわなければならない。彼女らが家族に弔われる日は、場合によっては永遠に来ることがない。ならば、せめて。
『使い魔』はまだ裏切り者の位置を補足している。妹の彼氏は多少頼りないが、自己保身には長けている。高い確率でこちらの思惑通り動いてくれるはずだ。
彼女たちに、安らかな眠りを。
甲高く踵を鳴らし、薄暗い廊下を『魔女』は往く。
ここか……
不本意にも篠塚さんをお姫様抱っこした状態で見上げた先にあるのは、大通りから2本ほど入った道にある雑居ビル。灰色の外壁は割ときれいに塗装されていて、荒んだ雰囲気はない。
ロードスターを走らせること30分。隣県の、新幹線も停車するそこそこ栄えている街だ。
大通りにはちょっとお高いシティホテルや大手企業の支店のある高層ビルが並んでいる。ちょうどその裏手にある雑居ビルにはそれらを顧客として当て込んだ、ちょっとお洒落なカフェや雰囲気のある小料理屋、それに士業のオフィスなどがテナント入居している。ここはその雑居ビルの裏口になる。
そこに『魔女』のセーフハウスがあるというのも不思議な話だが、逆に見つかりにくいのかもしれない。
まあ、いい。ともかく、さっさと篠塚さんをセーフハウスに放り込んでしまおう。
セーフハウスの鍵と地図はあっさりと入手できた。
樹を呼ぶわけにもいかないし他に適切な女の知り合いも思いつかなかったので、服の下に手を突っ込むより先に篠塚さんの鞄をひっくり返したら、転がり出てきた化粧品ポーチの中にカードキーと地図が入っていたのだ。
性悪な『魔女』には匿名で殺害予告を送ってやろうと決意を固めた俺を戦慄させたのは、同時に鞄の中から見つかった、盗撮と思しき俺の姿を収めたフォトブックだった。『コンビニでお弁当を買った要さん』とかいうメモ書きが記された写真は、明らかに大学最寄りのコンビニの監視カメラの映像を切り取ったもので、いずれ人類は超常的な能力による犯罪を取り締まる法を整備する必要があると強く俺に感じさせた。
残念だが『零』感の俺には今は逆らう術がない。篠塚さんをセーフハウスに放り込めば、『魔女』もとりあえず納得するだろう。
というか、篠塚さんの頬の紅潮は既に引いており――試しに、 篠塚さんの頬を指で突いてみる。
「篠塚さんの頬は柔らかいなあ」
「……はわわっ!」
びくんと痙攣し目を見開いてはわった後で、こちらをチラ見してから何事もなかったかのように目を閉じて身を任せる。
起きてるよな? 目がバッチリ合ったよなあ!
このまま地面に叩きつけたいところだが『魔女』に対する対抗手段がない現状の俺は、核保有国に翻弄される小国のようなものだ。
憶えとけよ。小悪党の台詞を吐きつつ、裏口の扉を開ける。
地図に付記されていたメモどおり、鍵はかかっていなかった。上と下に続く階段があるだけの屋内非常階段だ。
セーフハウスはここの地下1階にあるらしい。
さっさと用件を済ませて帰ろうと階下へ向かう。篠塚さんの微妙に荒い吐息が首筋にかかるのが気持ち悪い。
さらに地下に続く階段は続いているようだが、用事はないので地下1階フロアに続く扉のドアノブ付近にあるカードリーダーに、篠塚さんのポーチに入っていた何も記載されていない白いカードをかざした。
ピッという電子音とともに、扉が開錠される。
長く伸びた無機質な――よく言えばシンプルな白い廊下の左右に一定の間隔で扉が並んでおり、向かって右手の部屋に『B-1』と番号が割り振られている。左手は『B-5』だから全部で8部屋あるいう事か。
『魔女』のセーフハウスは、メモによると『B-1』になっている。すぐ右手の部屋、これで解放されると安堵してリーダーにカードをかざし、扉を開く。
マンションの部屋的なものを想像していた期待を裏切り、100平米ほどの室内は薄暗く壁一面が10台程のモニターで埋め尽くされており、さながら設備内の監視室のような様相だ。
「篠塚さん、これ」
「……私、眠ってます」
起きてんだろうがよ。こいつ、随分と図太くなりやがったな。
狸寝入りの篠塚さんを、何度かの抵抗の末に無理やり下ろして2人でモニターを見やる。
そこに映っているのは、先程スマホで見た『メルガサクラメント』での『メルガ様』とメッセージをやり取りする画面だった。
『幼馴染の男の子がいるんですけど、関係が変わってしまうのが怖くて踏み出せないんです。どうしたらいいでしょう?』
『はい。年齢を経るごとに周囲の人間との関係性は変遷していくのが普通です。重要なのは機を計ることです。彼は幼稚園の時の約束を覚えています。次の誕生日に、そこを意識させるといいでしょう』
『付き合った当初は上手くいっていたんですけど、最近彼氏が浮気しているみたいなんです』
『はい。あなたの愛情の深さに彼は戸惑ってしまったのでしょう。浮気相手も遊びのようですから、突き放して距離をとることをお勧めします。不安を覚えた彼はあなたの元に戻ってくるでしょう』
『今まで誰にも話せなかったんですけど、義理の父が体に触ってくるんです』
『はい。あなたは今、危機的な状況にあります。あなたの義理の父親の欲望は限界域に達しようとしています。外部に助けを求めるべきかも知れません。証拠を押さえたのち、然るべき機関に相談しましょう』
モニターは数秒おきに別の画面に切り替わる。
「40人近くを同時に相手にしていますね」
モニター切替の頻度からするとそのくらいだろうか。
「要さん、あれは……」
左腕にしがみついて離さない篠塚さんの視線の先――5段ほどのメタルラックに並べられた十数台のPC筐体――サーバーだ。
「冷却のために室温が低いんでしょうか。ちょっと寒いです……」
ついには懐に飛び込んできた篠塚さんを押し返す気力もなく、嘆息する。
……これは、嵌められたな。
セーフハウスどころか、ここは『メルガサクラメント』の魔術的演算の中枢じゃねえか。
管理者はいない。
『メルガ様』は全自動で、自律的に相談者とのやり取りを行っている。
『ありがとうございます! メルガ様の言う通りにします!』
『メルガ様のおかげで、何もかもうまくいきました!』
『メルガ様に相談してよかったです!』
現在進行形の相談と同時、並べ立てられる『メルガ様』への感謝と傾倒の言葉。
――正直、恐ろしい。
あまりにも誠実――機械的、器械的、奇怪的に誠実。
『メルガ様』の掌中――そんな言葉が思い浮かぶ。
これは――駄目だ。野放しにしてはならない。破壊しなければならない。
『魔女』は、ここを破壊しろ、という意図でもって俺たちを送り込んだのだろうが、その思惑とは関係ない。
俺の直観だ。
『メルガ様』を、『生かして』おいてはならない。
――人の自由意思が、尊厳が、失われる。
人間が、人間である必要がなくなってしまう――
生憎、スレッジハンマーはロードスターに置いてきてしまった。
この状況で最も効率的に破壊活動を行えるのは、篠塚さんの特異な能力だが――
どういう状況で篠塚さんがその能力を発揮するのか――自覚的に扱っているのかどうかが判然としない。以前は感情の昂りで発現したようだ。
こちらの視線に気づいた篠塚さんは、ちょっと照れたように毛先をいじり始める。
こいつ状況わかってんのか。いや、わかってないな。気づいたら俺にお姫様抱っこで運ばれていたから、そのまま狸寝入りを決め込んでいただけだろう。
心中で毒づいた瞬間、壁にかけられていた内線電話が突如として鳴り始めた。
篠塚さんがびくりと体を震わせて、こちらに寄り添ってくる。
「要さん……」
ここは無人だが、部屋の出入りをどこか別の部屋で監視していてもおかしくない。
どうする……一旦引くべきか。
絡みつく篠塚さんの腕を振り払いたい衝動にかられながら思考を巡らせているうちに、5コール目が鳴り終わる。
同時に内線電話がスピーカーに切り替わり、
「あぁ、面倒くせえなぁ……」
物憂げな女の声が流れ出した。
「あぁ、面倒くせぇなぁ……」
照明の落ちた室内、ディスプレイの仄暗さの中に浮かび上がった女が、無気力な口調で呟いた。
手入れのされていないことが一目瞭然な脂ぎった黒髪、潤いのない肌と頬に浮いたそばかすに、どす黒い眼窩の隈。
フリルのついたピンクのブラウスとタイトなスカートの華やかさは、暗く淀んだ表情で相殺されるどころか、不自然ですらある。
面倒くせぇ、面倒くせぇと呟きながら、女は一時も手を休めることなくキーボードを叩き続ける。
「あぁ、生きてるのも面倒くせぇなぁ」
女が頭を掻き毟ると白いフケが電子光の中を舞って、山羊の頭を模した覆面に降り積もる。
キーボードの脇に置かれた5台程のスマホが先刻からひっきりなしに振動しているが、女はそちらに目をやりもしない。
「馬鹿の相手は面倒くせぇなぁ」
『メルガ様』
人をより良い人生に導くために女が創りあげた、魔術的プログラミング――
面倒くさいことを何も考えず、『メルガ様』に従っているだけで人は幸せになれるというのに、『カヴン』の連中はそれを認めないどころか、禁忌に指定しようとした。
女には理解できない。
何も考えず生きるという幸せを享受できるのに、何故それを忌避するのか。
人間は愚かだ。それを自覚できない程に。
人類が幸福のままに存続するために、自由意志など必要ない。
女は時代遅れの『カヴン』を抜けることにした。スポンサーは――『肉食』を好む下衆ではあったが――すぐに見つかった。
思考のない世界。
予定調和な世界。
肉が蠢くだけの世界。
その実現のための小規模な実験だったが、それも潮時だ。
俗物のスポンサーは『野良犬』ではなく『血統書付き』の肉を求めるようになって面倒くさくなってきたので、『カヴン』の追手をわざと引き入れた。俗物どもの言う『秘跡』の痕跡の抹消は、日和見の連中に任せておけばいい。
あとは――関係者全員を抹消して、至近に迫っている『カヴン』の追手の足音から逃れて雲隠れする。
女がエンターキーを叩くと同時、全てのスマホの振動が止まった。
消えて逝け、消えて逝け。思考とともに、消えて逝け。
誰もが手を取り合い、幸福となれる世界の礎となって、消えて逝け。
――面倒くせぇなぁ。
ディスプレイから光が失われ――すべては闇に堕ちる。
「――面倒くせぇなぁ」
こちらの問いかけに一切応じず、ひたすらぶつぶつと呟いていた女の言葉が途切れると同時に壁掛けのディスプレイの電源が落ち、代わりに真っ赤な光で室内が満たされ、甲高い警告音が響き渡る。
あの女――『カヴン』の裏切り者。あいつはヤバい奴だ。
あの女は、人間から『選択』を、『意志』を奪おうとしている。
『幸福』の名の下に、人類を滅ぼそうとしている。
だが、今はあの女の追討どころではない。天井でくるくる回る赤色灯だけが光源の室内に留まるのは愚策だ。
だが――扉があかない。カードリーダーにカードをかざしてもビープ音が鳴るだけだ。
「――はわわっ?!」
しがみついてきている篠塚さんを力尽くで振り払って、扉にヤクザキックを連打するがびくともしない。
他に出口は?!
見回した視界の端――赤く染まった部屋の隅で――黒い何かが蠢いていた。
まるで床から滲み出してきているかのように、粘性を帯びたヘドロのような液体が円状に広がっていく。
ぷつん。ぷつん。
表面に浮いた泡が弾ける小さな音が、警告音の響く中、はっきりと耳朶を震わせる。
大きく震えたあと、ずるりと渦を巻き――それは、立ち上がった。
幼稚園児の作った粘土細工のような、いびつな人型。
ぷつん。
体を構成する黒い粘性の液体が表面で弾け飛んで滴り落ち、そして足元で吸収され遡上していく。
ヘドロ人形は、指のない手をこちらに向けて伸ばし、
あぁあ……おぉぉ……
ぽっかりと開いた口から発せられた、怨嗟のごとき呻き声。
「要さん……」
関係者全員の抹消――
今日は、厄日だ。
壁に背を当て、舌打ちする。
対抗手段は――ない。俺には。
業腹だが――樹に――『本家』に害を及ぼす可能性は刈り取っておかなければならない。放置はできない。
「篠塚さん……いや、雪ちゃん」
「は、はいっ……!」
振り払われたにもかかわらず、ダッシュでこちらに身を寄せ、俺の左腕でがっちりとホールドしている篠塚さんの頬に手を添える。
「はわ、はわわっ……!」
はわってんじゃねえぞ。
こいつ余裕がありすぎだろ。状況をどう理解してんだよ。割と生命の危機だぞ。
「ごめんね。俺の判断ミスで、危険な状況になってしまった。お詫びのしようもない。もし……ここのサーバーを破壊したり、あのヘドロ人形を吹き飛ばせるほどの高電圧を発する何かがあれば、打開できるのだけど……ごめんね」
焦っているせいで、白々しいほど説明的になってしまうが、構うものか。
「要さん……」
『山羊頭』の影響が残っているのかどうかは知らないが、恍惚とした表情で篠塚さんはこちらを見上げる。だがそれは一瞬のことで、
「大丈夫です。要さんは、私が、護りますから……」
慈母のごとく微笑んでこちらの胸に顔を埋めた。
「要さんは、私が、護りますから!」
篠塚さんの黒髪が逆立ち、それを抱く俺の腕の産毛が蒼く輝いた――
ばづん――
そう表記するしかない音が響くと同時、ヘドロ人形の表面を電撃が奔り、ヘドロ人形は粉々に弾け飛んだ。続いて赤色灯が消え、窓のない部屋は暗闇に沈む。
次の瞬間、PCの筐体から蒼い炎が立ち昇った。
篠塚さんの放つ電撃で黒焦げになる覚悟はしていたのだが、幸いにもそれは回避できた。そして、電子ロックされていたと思しき扉が――開いた。
脱出できるタイミングは多分ここしかない。
「はわっ!」
床の上で蠢くヘドロを横目に、問答無用で篠塚さんを抱え上げ、スマホの明かりを頼りに1階の出入り口へと駆け抜ける。
『カヴン』の裏切り者は、あの部屋の出入りを監視していた。こちらの顔は記録されたか?
されていないなら、このまま逃げ切れるだろうが……この状況を差配した『魔女』を信じるほかない。『メルガ様』の創造主――裏切り者の始末も『魔女』にお任せだ。
歯軋りする思いもあるが、少なくとも『本家』の娘である樹の側から『メルガ様』を追い払うことはできた。今はそれで十分とすべきだろう。
追手がないことを確認し、横断歩道の信号で止まるついでに篠塚さんを下ろして息を整える。
「大丈夫です、要さん。私は、ずっと要さんの側にいて、要さんを護りますから」
まるで免罪符を得たかの如く、人目も憚らず抱きついてくる篠塚さんの穏やかな笑顔に、『1回や2回こっちを助けたからって、彼女面してんじゃねえぞ!』と張り倒してやりたくなる衝動が込み上げてくるが、今は我慢の時だ。
「篠塚さん、ここは人目があるから……」
それとなく引き剥がそうとするが、篠塚さんは強硬に抵抗する。
「お姉ちゃんは、他人の目を気にしてやりたいことをやらないのは愚かだって言っていました」
公序良俗の問題なんだよ。
「はじめましてー、佐古田メイですー」
体にフィットした純白のハイネックシャツに、これまた目に眩しい純白のジーンズという、なかなか挑戦的なコーディネートの女が、目を細めて微笑んだ。
「その節はお世話になりましたー」
ロードスターまで逃げ切って三真坂市内に戻ってから1週間。追手はかかっていないと確信できた頃合いに、どうやら無事に生き延びていたらしい佐古田メイがお礼を言いたがっていると篠塚さんから連絡があった。
嫌々ながら応じたのは俺の情報収集能力では『メルガ様』の顛末を調べきることができなかったからだ。
おそらく、篠塚さんに訊いてもわからない。俺と同じように『魔女』に駒として利用されただけだから。
待ち合わせ場所はいつものファミレスだ。佐古田さんの態度によっては出入り禁止になるが、まあ追い出されないうちは利用させてもらおう。
「雪ちゃんも、ありがとー」
ぺこりと佐古田さんは頭を下げる。
「そんな、私は何も……全部、要さんのおかげです」
言葉だけは謙虚な篠塚さんは、3人なのをいいことに俺の隣に陣取り、ぐいぐいとこちらを押し込んでくる。
――人間はどれだけくっついても融合はできねえんだよ。
「そんなことないよー。きっと、雪ちゃんがいたから、朝霧さんも頑張れたんだよー」
「……そうでしょうか?」
潤んだ瞳で、物問いたげにこっちを見るな。今回結局、俺はほとんど何もできていない。単なるおまけだ。
しかし、この女――佐古田メイ。
愛想笑いでももっと情緒があるだろうと思えるほどに笑顔が作り物っぽいし、語尾を伸ばす喋り方もイントネーションがあまりに平板過ぎて、ぶりっ子とも違う。
怪しいというか不可思議というか、人形めいた女だ。
「今日は私が奢るから、じゃんじゃん頼んじゃってねー」
注文を取りに来たいつものウェイトレスの冷たい視線に気づかないふりをしつつ佐古田さんの言葉に甘え、忖度せずに特上ロースカツ御膳(2280円)とドリンクバー(280円)を注文する。
「私も同じものでお願いします」
露骨なミラーリングは逆効果って知らないのかよ。
「私はー、んー、こだわりカレーうどんの小ざるそばセットでー」
正気か、この女。
内心の驚愕はともかく、『メルガサクラメント』がネット上から消えたのは確認したが、『カヴン』の裏切り者がどうなったのか、佐古田さんに確認しておかなければならない。
ただ、佐古田さんがどこまで内情を知っているのか――具体的には『魔女』とどんな関係にあるのかがわからない以上、どう問いかけるかは考える必要がある。
「要さん、ドリンクバーに一緒に行きませんか? あ、メイさんは何がいいですか?」
佐古田さんを排除しつつ、俺を連れ出そうとする篠塚さん。自然すぎて怖いわ。
「オレンジジュースがいいかなー」
「俺も同じものがいいな。篠塚さん、お願いしていい?」
一瞬だけ考えこんだ篠塚さんは、
「わかりました。すぐ戻ってきますね」
機敏な動作で歩き出した。秒で戻ってきそうな勢いだ。
「可愛いですねー」
同意しかねる。
「ただー、あの子も『魔女』ですから、取扱注意ですよー」
「……裏切り者はどうなった?」
佐古田さんが『魔女』側――少なくとも事情を知っている人間であることが今の発言で明らかになったため、遠慮なく問いを投げかける。
「せっかちさんですねー」
佐古田さんが浮かべた笑みは、先刻までのものよりは幾分か人間味のあるものだった。
「朝霧さんは率直なのが好みみたいですから単刀直入に言いましょう。裏切り者――『扇動の魔女』が三真坂市に近付くことはありません。彼女が使っていた組織は壊滅です。あなたには、これだけの情報で十分ですね?」
間延びした――言い方は悪いが空虚な喋り方とは違う、理路をわきまえていることを感じさせる話し方。
それよりも、佐古田さんの言い回しには『裏切り者』の粛清には失敗したというニュアンスが含まれているようにも感じられる。
あの女を生かしておくのは危険だ。だが、篠塚さんの『電撃オチ』に頼りっぱなしの俺がどうこう言えた義理ではない。
大事なのは――
「あなたの大事な『本家』に累が及ぶことはありません。『浄火の魔女』はあなたの働きぶりに満足したようですから、いずれ返礼があることでしょう」
いや、返礼はいらないから関わらないでくれ。
口を開きかけたところで、
「要さん、メイさん、お待たせしました!」
息を弾ませた篠塚さんが戻ってきた。ほんとに秒で戻ってきたな。
グラスになみなみと注がれたオレンジジュースを受け取った佐古田さんは、
「雪ちゃん、ありがとー」
先刻までの喋り方に戻っていた。
今ここでそれを追及する理由はない。必要な情報は――言い方を変えれば、与えられる情報で必要なものはもう得られた。
「要さん、ごめんなさい。メイさんの分で、オレンジジュースがちょうどなくなってしまって……」
どれだけ俺をドリンクバーに誘い出したいのか。
「そう。じゃあ、自分で選びに行こうかな」
「私も迷って選びきれなかったから、一緒に行きます」
「いってらっしゃーい」
しかし――篠塚ファミリーをどう処遇するべきか――樹の側から放逐するべきか、するならどう放逐するのか――それは非常に難問だ。
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