指切地蔵 参

「ただいま」

 2つの大きな問題を抱えてしまった状態だが、空元気も元気のうち、声だけは努めて明るく元気に発して我が家の門をくぐった。

 10を超える客間、5つの蔵、2つの別館を有する本家には到底及ばないが、分家の我が家もそこそこの歴史のある平屋建ての日本家屋だ。

 といっても敷地的には樹の暮らす本家の20分の一程度しかないのだが。

 やたらと広い玄関に靴を脱ぎ捨てて、玄関前の『九相図』簡略版が描かれた屏風の脇を抜ける。玄関真正面に位置する居間で、ちょうど夕食の準備のために座卓の上を布巾で拭いていたエプロン姿の母に声をかける。

「あ、俺、今日は蔵にこもるから、夕飯いらない」

 言ってコンビニで買ってきた弁当その他の入ったビニール袋を掲げて見せる。

 水産工場でのパートに太極拳に家事にと、毎日忙しく動き回っているためか年齢にしては細身の体型を維持している母は、ぎろりとこちらを睨み付け、

「はあ?! またなのかい?! あんたももう大学生なんだから、事前に連絡するってこと、いい加減学んだらどうなんだい?! まったく、大学で何を勉強しているんだかね! 学費だって只じゃないんだよ?!」

 眉間にしわを寄せて、甲高いきんきん声でまくし立てる。

 身内びいきではないが、母は男顔の美人で黙っていれば実年齢よりはずっと若く見える。だが、とにかく口汚くて気が短いせいで、それを台無しにしている。

 まあ、母は自分の予定を乱されることを嫌うから、怒るのもしようがない。

 かといって事前に連絡をしていればよいというものでもない。時間を与えるとお説教を練ってくるので、直前に『こういう予定になった』と告げてさっさと逃げるのが最適解だ。

「わかってるけどさ……」

「わかってるけど、じゃないんだよ!」

 ここぞとばかりに俺の普段の生活態度から、学校の成績から、太極拳の先生がどうも教室の生徒と浮気しているようだということまでをまくし立てる。いや、最後は俺、関係ないし。

 どのタイミングで逃げ出そうかと考えていると、

「そう、うるさく言うな」

 それまで気配を消して座卓で新聞を読んでいた父が、新聞の影から顔の上半分だけを出しつつ、母が一発で惚れたというバリトンボイスで呟いた。

「要が蔵にこもるというなら、本家がらみだろう。本家と関係を維持しておくのは、決して悪いことではない」

「……でも、だって、あなた……」

 先刻まで烈火のごとく怒鳴り散らしていた母が、一転してしおらしくなる。

 すでに結婚して20年を越えるというのに、父の前ではまるで少女のように振る舞う母の変貌ぶりに、いつものようにわずかな恐怖を覚えつつ、

「んじゃ、俺、もう行くから。おやすみ」

 父に軽く手を振って、とっとと退散し玄関へと向かった。

 背中に母が金切り声を投げかけてきたが、相手にするのは愚策。

 その間も俺のポケットの中では、スマホが振動でメッセージの着信を告げ続けているのだから、これ以上の心労はもう御免だ。


 蔵、と俺は呼んでいるものの収蔵品のようなものは全くない。

 確かに元々は蔵だったのだが、改装によって浴室・トイレと流しが備えつけられ、蔵よりは離れと呼ぶ方がしっくりくる。

 2階建てだが吹き抜けになっており、1階が生活用スペース、梯子を上った先の2階には壁沿いにぐるっとコの字型に書棚が並んでいる。

 エアコンは設置されていない為夏冬は扇風機かオイルヒーターを使うしかないので過ごしにくいが、俺の自室は母屋にあり、この蔵にこもるのは或る限られた状況だけだ。

『本家がらみ』『樹がらみ』の時だ。

 よく勘違いされるのだが、別に俺は従妹に対する歪んだ愛情から行動しているわけではない。


『本家』は男殺しの家系だ。男が産まれても長く存在できない。

 存在できない、というのは文字どおりの意味だ。

 出産後、退院して本家屋敷に連れてこられた男児は1週間以内に姿を消す。どれだけ目を離すまいとしても、ほんの半瞬、それこそ瞬きの間に男児は姿を消し――そして決して見つからない。

 本家に残る文献によると、明治時代、これを信じなかった入り婿が生まれたばかりの息子を抱えて本家の敷居をまたいだのだそうだ。

 厳戒態勢で屋敷の皆が見守る中、ほんの一瞬、10人にも及ぶ使用人の視線が途切れた刹那に男児はおくるみの中から姿を消した。

 自らの不徳を悟った入り婿は、本家の跡継ぎとなる長女が10歳を迎えるのを待って失踪したとされている。


『あれは、儂でも手に負えん』


 本家には何か深い業・因縁がある。

 希代の霊能力者であるとの評価が高いじい様にそう言わしめたのだから。

『お前にゃまだ早い』と俺は詳しいことは教えてもらえていないが、その因縁をどうにかするためには本家の血筋を絶対に絶やすわけにはいかないのだそうだ。

 本家の血、とは現状では、樹の血だ。

 樹の母は樹出産の予後が悪く、もう子供は産めない――というより、本家に女児は1人しか産まれない――ので、樹の身に何かが起こることは、そのまま本家の途絶を、本家が因縁に屈することを意味する。

 それは俺にとってちょっとどころでなく受け入れがたい。

 ちょっとだけ話はそれるが、樹と俺は血縁的には4親等――従兄妹の関係にある。

 そう、父は本家に生まれた人間だ。樹の母の兄。

 だが、出生届を出した直後に分家――かなり昔に枝分かれした、跡取りのない分家に養子に出された。

 本家の因縁はどうも名実が伴うことが問題らしく、書類上本家から離れ、物理的に本家屋敷の敷居をまたがず養子に出されたならば、本家に生まれた男児も生存できることはご先祖様たちの命がけの試行錯誤によって確かめられている。

 だから父は生きていて、俺が産まれた。

 だが、それは父が『本家』の血筋の人間ではないことも意味する。

 父は物心ついてからこれまで一度も本家の門をくぐったことはないし、実の父親であるじい様との会ったこともない。

 物心ついてから一度も、だ。

 樹の母である、実の妹との面識もない。

 亡くなった母親の――ばあ様の墓参りすら、できない。

『本家』と『分家』、血縁1親等以内の接触はよくないと、そう伝わっているからだ。

 同じ市内に住んでいるというのに、それは――なんともよろしくない。

 だから俺は、なんとか自分の代で本家の因縁を払い、父とじい様を会わせてやりたい。

 そのために樹を失うわけにはいかず、大事にしている。ただ、それだけだ。


 篠塚さんのメンヘラ彼女並の常軌を逸したメール攻勢を適当にいなしつつ、俺は樹が本家屋敷へ戻っているかどうか確認するためのメールを送る。

 この蔵にはじい様の指導に基づく、不浄に対する防護結界が設置してある。当然本家にはここのものよりさらに強力、かつ能動的な防護策が用意されているが、樹が本家にいなくては意味がない。

『ドラゴンと天然パーマのプリンセス、とっても面白かったんだよ! 今度一緒に見に行こうね! 勿論、要にいのおごりでね!』

 ああもう樹は可愛いなあ。樹と二人っきりで映画を見るために他の席を買い占めてしまいたいが、残念ながら俺にはそんな財力はない。暗号通貨、買っておくべきだったか。

 いや、本題は映画云々ではない。樹が本家にいるかだ。

『今はちゃんとおうちにいるよ! ファミレスで食事した時に聞いたんだけど、佐野君は甘いものが好きなんだって! 可愛いよね!』

 それは女子を釣り上げるための極彩色ルアーだろうが。サノめ、真面目と聞いていたが存外に姑息だな!

 ……まあ、樹が夜遊びしてないならいい。

『ところでライキリは元気か?』

『なんか今日は甘えんぼさんみたいで、私のそばから離れなくて、お母さんがジェラシーで大変なんだよ! 子猫の時、私が夜通し温めてあげたこと、やっと思い出したんだね! あ、そろそろ佐野君たちとオンラインで映画の感想を語り合う時間なんだよ! じゃあね、要にい!』

 ぐぬぬ……確実にサノの野郎は樹と距離を縮めつつあるという事か……処、処さねば!

 ……いや、今はそれどころではない。

 色々思う所はあるが、本家にいる限り、樹は間違いなく安全だ。

 じい様の式であり、本家の能動的防御を担うライキリが樹の側にいるのならば、樹の身に危険が迫る可能性はない。

 懸念が払拭された所で、蔵の2階の壁沿いにずらりと配置された本棚に手を伸ばした。

 目的のもの――じい様と俺で編纂した『三真坂近隣 民俗マップ』はすぐに見つかった。

 厚み1センチ程度の和綴じ冊子であるこれには、半年ごとにじい様と俺が調査した三真坂近隣の昔話・怪談・都市伝説などの最新版が簡潔にまとめられている。

 ちなみに、じい様と俺と樹がデフォルメされたミニキャラクターが三真坂市の地図の上に配置されたアニメチックなデザインの表紙は樹によるものだ。

 多芸多才で美人。うむ、樹の横に並びうるものがいるか? いや、いない。

 ともあれ、この民俗マップには、各神社や地蔵・祠の配置・由来までが記載されている。

 本来であれば今日の調査に出る前に確認するべきだったのだが、昨日の悠馬さんからの連絡が夜遅かったことと、今日は母のパートが休みだったため『父と2人きりで過ごしたいからさっさと出かけろ』という母の都合で早々に追い出されたため今になってしまった。

 ページをめくっていくが、

「ないな……」

『指切地蔵』がないのはわかっている。ただ、その『派生元』になりそうな話があるかもしれないと、ほんのわずかだけ期待したのだ。

 ならば、考えなければならないことは、『指切地蔵』が『指を集める』理由と、『誰』が『指切地蔵』を三真坂に持ち込んだのか。或いは、何の目的でやってきたのか。

 現状、その問いに答えをもたらしてくれる情報はない。

 そして『指切地蔵』は、早ければ今夜にも俺か樹のところに襲い来るだろう。

 どうしたものかと唸ったところで、コンビニで買った唐揚げ弁当を放り込んだレンジが甲高い電子音を発した。

 とりあえず夕飯を食べておこう。

 コンビニ弁当の味は母の料理の味とは比べるべくもないだろうが、まあ、腹は満たされる。空腹ではいい考えも浮かばない。

 立ち上がったところで、スマホが震えた。一瞬身構えたが、それは悠馬さんからのものだった。

『調査依頼のあった新庄一馬について、情報が集まった。まずはこれに目を通し、記憶との照合を頼みたい』

 添付されていたPDFファイルは、新庄一馬の免許証の画像データだった。

『40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならない』と言ったのは、第16代アメリカ大統領エイブラハム・リンカーンだが、俺は正直、内面――特に悪い部分は10代から顔に出るから気をつけねばならないと思っている。

 そういう意味では、新庄一馬は何の特徴もない顔をしていた。傲慢でもなく、コンプレックスを抱いているようにも見えない顔。通勤通学電車で見かける、普通の若者だ。

 記憶にはない。少なくとも、俺やじい様が把握している、三真坂市で『怪異』を利用した厄介事を起こしそうな人間のリストにある顔ではないことは確かだ。

 そのことを悠馬さんに伝えると、

『本家のリストにないなら、こちらは筋が違うという事のようだ』

 筋違い……だが、悠馬さんにそう思わせる理由が、新庄一馬にはあったという事だ。

『では次のアプローチを。2か月ほど前、新庄一馬は市内のショッピングモールの書店において、万引きを疑われて拘束されている』

 ――万引き?

 展開の飛躍に若干戸惑い――いや、飛躍でもないかと思い直す。

『当初、新庄一馬は身に覚えがないとして警察が来るまで手荷物検査には応じない、自分は潔白であると頑として跳ねのけたそうだ。だが、駆けつけた警察立会いの下行われた検査で、新庄一馬の鞄から未精算の文庫本が見つかった』

『万引き』と『指切』――

『それでも新庄一馬は無罪を主張し、監視カメラの確認を願いでたが、腰の重い警察と万引きに憤る店側は早々には応じなかったようだが、監視カメラの映像が検められ、漫画本を立ち読みしている新庄一馬の鞄にこっそりと文庫本を忍び込ませる女子高生2人組の姿が映っているのが確認された。蒙昧な警察は共謀を疑ったようだが書店員に新庄一馬が万引きしたとこっそり告げた女子高生と制服が一致したため、冤罪を被る憂き目は避けられたようだ』

 多分、その女子高生の制服は南女のものだったのだろう。

『ご名答。件の女子高生2人組は密告ののち姿をくらませたことと、映像はすでに上書きされていたため、2人の個人情報は取得できなかった。新庄一馬は高校に苦情を入れたそうだが、そこは名誉と生徒を守護する聖域だ。まともに取り合ってもらえなかった、どころか握りつぶされた節すらある。それから高校の近くで下校中の生徒をじっと観察する新庄一馬に職務質問をかけた記録が警察にはあるようだ』

『万引き』――『窃盗』と『指切』、そこには決して看過できない結びつきがある。

 イスラム教国家では、経典に基づくシャリア刑法に規定されているハッド刑を適用する場合がある。

 婚前交渉は石打刑、などだ。

 シャリア刑法において、窃盗に対する罰は――指の切断。

 一般刑法とシャリア刑法を並立させて運用し、厳密にシャリア刑法を適用している国は少ないそうだが――

 日本人には『嘘つきは閻魔様に舌を抜かれる』の方が分かりやすいかもしれない。

 ともかく、『指切地蔵』と新庄一馬、その両者が動機の点で繋がったことになる。

 ――報復だ。

 だから、施設に来ていた学生ボランティアを利用して、南女で『指切地蔵』を流行らせた。

 だが新庄一馬に『指切地蔵』を作り上げる能力などなかったはずだ。

『新庄一馬は失踪の数日前に、銀行口座から200万近い預金を全額引き出している』

 新庄一馬は電話1本よこして退職したと安住さんは言っていた。無職になって当座の生活費を口座から引き落としたと考えられなくもないが、キャッシュレス推進のご時世でそこまでの現金を一度に手元に置く必要があるか?

 考えられる可能性としては――

 ――復讐を『外注』した?

 特定を諦めたというより放棄して、南女全体を報復の対象としたのか。三商の生徒は巻き添えという事だ。

『可能性の1つではある。深入りの是非は一任するが、受注先については要たちの方が詳しいだろう。なお、新庄一馬の行方は生死を含めてまだ調査中だ。詳細な報告書はのちに送付する。では、良しなに頼む』

 悠馬さんがもたらしてくれた情報を結び付けて考えると――『指切地蔵』は呪詛、ということになる。

 南女の生徒だけではなく三商の生徒も被害に遭っている時点で、条件を満たしたもの――指切をした人間の指を狩る――いわば『指切地蔵』自体が無差別な呪術の触媒として働いている。

 となると、先刻篠塚さんを巻き込んだ指切で、『指切地蔵』が反応を示さなかったことにも納得がいく。

『指切地蔵』自体は、システマティックに進行する『装置』に過ぎないからだ。

 日中に指切りした人間の指を、夜陰に紛れて狩る。

 そういう『呪術装置』を作れる人間が市内にいたか――?

 じい様とともに市内の『危険人物』をまとめた極秘ファイル――表紙に取り付けられた錠に鍵を挿し、慌ただしくページを繰っていくが、該当するような人物はいない。

 ただ――『ブローカー』としての役割を果たしそうな人物ならいた。

『千丈院千景』本名、錦織うた。現在は高齢を理由に引退して出身地である三真坂市で隠遁しているが、現役時代には霊能力者を装い怪しげな密教法具や呪いのブードゥー人形、インディアンのお守りであるドリームキャッチャーなどを、その卓越した営業力と獲物を見定める眼力で節操なく全国各地で売り歩いた人物だ。

 彼女自身は社会に対して悪意を持っている人間ではないようなのだが、問題は彼女が扱う商品に『本物』が時折紛れ込んでいたことだ。

 俺が産まれる前の事だが、彼女が売った『村正銘の脇差の偽物』は人口200人ほどの小村を壊滅に追い込んだとじい様から聞いたことがある。そして、じい様によると彼女は否定していたが、『本物』を売る相手を選んでいた節があると。

 彼女が窓口になったとしたら、新庄一馬は『本物』を手に入れられる可能性がある。

 確かめなければならないのは、新庄一馬と錦織うたに接点があったかどうかだ。ないなら外注説は消える。

 まず真っ先に考えられるのが、緑陽園に錦織うたが入所している場合だが、錦織うたは三真坂に戻ってきた後、小さな一軒家を購入してそこでひっそりと暮らしているそうだ。

 要注意人物ではあるが、活動している素振りがなかったため俺自身は錦織うたの顔を見たことがない。様子を確認に行くべきだろう。

 錦織うたの住所を確認し、電子レンジの中に放置されている唐揚げ弁当の事を思い出したところでスマホが着信を告げて振動した。

 篠塚さんだったら無視しようと思ったが、液晶に表示されていたのは友人――いや、知人の女の名前だった。そして――あまり関りを持ちたい人間でもない。

 気づかなかった振りで無視してもいいのだが、わざわざ電話をかけてきたという事が気になる。いつもの益体もない話ならメールで済ませるはずだからだ。

 これ以上の厄介事は御免だが、しようがないか。覚悟を決めてスマホをタップする。

「やあやあ、要。夜分にすまないね。きっと要は今頃、コンビニの唐揚げ弁当でも食べている頃だろうと思ったのだけれども、危急の用件でね!」

 設楽神楽したらかぐら。中学生時代からの腐れ縁だ。

 ていうか、発言がピンポイント過ぎて怖えよ。かつて、設楽はこの蔵に出入りしていた時期がある。合鍵作ったり、盗聴器を仕掛けたりしてないだろうな?

 その調査はとりあえず後回しだ。

「ああ、まさにこれから夕飯を食べるところだから、用事があるなら手短に頼むぞ。弁当が冷めてしまうからな」

「あっは! 熱々の唐揚げ弁当より私を優先してくれるなんて、やっぱり要は私のことが大好き!」

 相変わらず言っていることが支離滅裂だが……弁当より優先されることは、そんなに喜ばしいことなのか?

「手短に、と言ったな?」

「うん、うん、わかっているよ。要は知っているだろうけれど、私は勘が鋭いからね。ふと嫌な予感がして要に電話をかけたのだけれど、2回とも不通になってしまった」

 ……思い当たるのは篠塚さんしかない。『電化製品と相性が悪い』という篠塚さんが側にいたために、設楽からの連絡は不通となってしまったのだろう。

「だから、ファンクラブの子たちに頼んで色々情報を集めてもらったんだ」

 宝塚の男役並の美貌と抜群のプロポーションを誇る設楽の下に集うファンクラブ会員たち――全員女性だが小学生から社会人まで網羅している――の情報収集能力は侮れない。

「要は今、『指切地蔵』に関わっているね?」

 設楽の言葉に戦慄する。せざるを得ない。俺のプライバシーが蹂躙されている。

「本当なら今すぐ駆けつけてあげたいところだけれど、こちらも手が離せないから、アドバイスだけ。いいかい、要。篠塚雪と笹原ひびきには気をつけ――」

 突然、通話がぶつりと切れた。

「……設楽?」

 沈黙したスマホを机の上に置いた瞬間、蔵の天井から吊るされた裸電球が、一斉に点滅を始めた。

 それぞれが、てんでバラバラに。明滅する光が作り出す影が、壁に床に、不気味に踊った。

 これは……


 ごとん……


 蔵の外からその重い音が響いてきた瞬間、全ての照明が落ちた。

 窓がない蔵の内部は、塗りつぶされたような漆黒に覆われた。

 不覚にもあげそうになった悲鳴を喉の奥に押し込んで、慌てて手探りでスマホを掴むが、表面をタップしても電源スイッチをいじっても何も反応しない。

 ごとん……

 再度響く、重低音。

 音の発生源は防音性能に優れているとは言えない土壁の、その向こう、蔵の入り口のほうから聞こえてきていた。

『指切地蔵』か……!

 ごとごとと、まるで入り口扉を開けようとしているかのように、小刻みに『指切地蔵』の足音らしきものが響いてきていた。

 蔵に入った時点で扉には内側から2本の閂を下ろし、その両端を古びた大きな南京錠で固定した上に、蔵の内側にはじい様の手ほどきによって俺が敷設した結界がある。

「ゆび……おくれ……」

 石を擦り合わせたような雑音交じりの、しわがれた老人のような声。

 がんっ…… がんっ……

 扉を叩く音。外にいる『指切地蔵』が今どういう状態なのかわからないが、おそらく今日見た地蔵そのままの姿で扉に体当たりをしているような気がする。

「ゆび……おくれ……」

 じい様直伝の結界だ。そう易々と破られるものでは、ない。

 跳ねあがる心臓にそう言い聞かせて、心を落ち着ける。

「ゆび、おくれ」

 がんっ…… がんっ……

 やがて扉を叩く音は止み、

 ごとん……

 音と声は移動を開始した。

「ゆび……おくれよ……」

 蔵の周囲をぐるぐると回る様に。

 ごとん…… ごとん……

 がんっ

 時折、壁に体当たりをしながら、

「ゆび、くれよ」

 恫喝するように。

「ゆび、おくれよぉ」

 あるいは、懇願するように。

 やるわけ、ねえだろうが。

 心の中で毒づいても『零』感である俺に成す術はないのが現実だ。

 ただひたすら蔵にこもって『指切地蔵』が去るのを待つしかない。

 せめて、怯えずに、涙目になったりせずに。

 ごとっ ごとっ ごとっ ごとっ

 徐々に足音の周期が短く、速くなっていく。

「ゆ、ゆ、ゆび、びびっ、ゆゆゆ、ゆびっ、ゆび……ゆびぃっ」

 壊れた音楽ファイルのように、不穏に繰り返される言葉。

 ごとごとごとごとごとごとごとごとごとごとごとごと!

「あと、1本なのにぃぃぃぃぃぁぁぁぁぁっ!!」

 最大限まで膨れ上がったフラストレーションを爆発させたような絶叫を最後に、突如、静寂が戻った。

 息を詰めて、耳を澄ました。

 そうして、どのくらいの時間がたっただろうか。


 ごとん…… ごと……


 結界を破ることを諦めたのか、足音が蔵から遠ざかっていった。

 それに気づいたのとほぼ同時に、蔵の灯りがぱっと灯った。

 はふぅ、とかそんな感じの息がもれた。

 だが、俺はそう簡単には警戒を緩めなかった。

『吉備津の釜』ではないが、安心した途端に……という定型は古典を紐解いても枚挙に暇がない。

 だから扉を開けて外の様子をうかがうような愚は犯さない。

 代わりに、気配を殺して扉の横に移動し、ざらざらした壁に頬を押し当てて、聞き耳を立てた。


「明晩こそ、お前の指をもらうぞ」


 壁越しに耳朶を震わせる、底冷えするような嗄れ声。

「うおゎっ!?」

 背後に飛びのいた瞬間、後頭部に激痛が走る。

 きらきらした油の膜が歪むような不可思議な光景を捉えたのを最後に、意識は暗闇の中に沈んでいった。




『おはようございます!』

 という篠塚さんからのメッセージ着信の振動音で目を覚ました俺は、現在時刻を確認する。9時35分――俺が気絶、もとい、意識放棄、もとい、意に沿わぬ就寝をしてからどのくらいだ。

 まあ、今日は日曜日だから講義もないし問題ない。

 って、うお……

 俺はスマホの未読メールの数を見て絶句する。篠塚さんからのメッセージは、午前7時からきっかり5分おきに、同一の文面で着信していた。

 ……怖いわ、ほんと。さて……こっちにはどう対処したものか。

 首を傾げ、お腹がぐるりと鳴ったところで昨晩夕飯を食べ損ねたことを思い出した。

 すっかり冷めた唐揚げ弁当をレンジに放り込んで、篠塚さんに朝の挨拶とゆっくり朝食を食べたいからメッセージを送ってくるなということをオブラートに包んで伝えた。

『わかりました! 朝ごはん、よく噛んで食べてくださいね! あと、今日のデートとっても楽しみにしています!』

 そんな約束、してねえだろうが。

 ああもう、色んな意味で頭が痛い。

 とりあえず、喫緊の脅威が『指切地蔵』であることには変わりがない。

 昨晩は不覚をとってしまったが、奴は今宵また、俺のところに来るはずだ。

 その可能性は低いとは思うが父と母のいる母屋に矛先が向いても困るし、今日の、まだ陽が高いうちに決着をつけたい。

 ともかく、まず確認すべきことがある。

『樹、今日の予定は?』

『今日は佐野君たちと水族館なんだよ! イルカショーみたいに2人の恋もハイジャンプしちゃうかも!』

『ぐぬぬ……ま、腹から着水して痛い目みないで済むよう、祈っておいてやろう。ともかく、暗くなる前に必ず本家に帰ること。あと、学生の内は軽率にみだらな行為をしないこと。いいな!』

『はーい! あのね要にい、私、食べたいスイーツがあるんだよ!』

『ぐぬぬ……店の情報、メールで送っとけ。気が向いたら本家にデリバリーしといてやる』

『さっすが、要にい!』

『ああ、そうだ。昨日の夜はゆっくり眠れたか?』

『ぐっすりなんだよ! おかげでお肌もツヤツヤなんだよ! 佐野君の視線もくぎ付けだね!』

『ぐぬぬ……』

 今日もサノと一緒というのは気に入らないが、スイーツを餌に本家に戻しさえすれば、樹の安全は完全に確保される。

 スイーツを手配して、夕方にまた動向を確認しておく。

 これで樹の方はいい。

 昨晩の『指切地蔵』の襲来の中で、気になることがいくつかあった。

『あと、1本なのに』

『指切地蔵』の最後の絶叫だ。

 あと、1本?

『指切地蔵』は、何か目的があって指を集めている?

 それが達成されたら、どうなる?

 いや、達成されることにどういう意味がある?

 それに設楽の言葉。

『篠塚雪と笹原ひびきに気をつけろ』

 設楽が女性の名前を呼び捨てにするのは珍しいことだ。

 篠塚さんは当然警戒しているが、笹原ひびきは――緑陽園から南女に『指切地蔵』の話を持ち込んだ――新庄一馬に利用されただけに見えるのだが……笹原ひびきにも何かがあるというのか。

 完全にノーマークだったが、この状況で時間を割く理由があるか?

 ……ある、な。かつて、じい様に『筋がいい』と言わしめた設楽がわざわざ電話をかけてきたのだから。

 笹原ひびきにアポを取ろうとするなら、篠塚さんを利用せざるを得ない。

 ぐぬぬ……

 ああ、あと『千丈院千景』こと錦織うたの最近の動向の調査も必要だ。

 手が、足りない。昔のように設楽が協力してくれたら――などとは欠片も微塵も思わないが、じい様の不在が痛い。

 そうだ。錦織うたの身辺調査は悠馬さんにお願いしてしまえばいい。錦織うたは詐欺罪か何かで前科がついている可能性が高いだろうし。

 よし、とりあえずの今日の方針が決まった。

 篠塚さんと悠馬さんにそれぞれ依頼のメールを送り、『彼女の私に任せてください!』『委細承知した』、返事を確認してから、母屋に出かけて帰りの時間は未定という事を伝えた。

 母の小言を背に、用心のため敷地に入れず外のコインパーキングに停めてあるロードスターに向かって歩き出した。

 実をいうとじい様には何度か連絡を試みたのだが、生憎と『電波が届かない』

 これはいつもの事だから篠塚さんの影響ではないだろう。

 俺が何とかするしかない。

 ちなみに設楽に折り返しの電話はかけていない。設楽も忙しいようだし、向こうからかけてこないのなら、必要なことは全て伝えたという事だろう。

 家を出た瞬間、通りの角の電柱の影に隠れていた中学生らしき女の子2人組が、俺の顔を一瞥して駆けだしたが――まあ、うん。設楽のファンクラブのメンバーとかいう事ではないだろう。自意識過剰というものだ。うん。多分。

 情報の整理とまとめをしながらロードスターの下にたどり着くと、そこでは信じがたい事態が起こっていた。

 俺の愛車、ロードスターの助手席に、制服姿の篠塚さんが澄まし顔で座っていたのだ。

 は? 何? ねえ、なんでいるの、篠塚さん? 電子ロックだから? 電子ロックは篠塚さんの前では無力なの? 無理やりなの?

 ああ、俺の大事な相棒、ロードスターが汚されてしまった。無力な俺を許してくれ。

 ……『指切地蔵』を片した後は、お前の番だぞ、篠塚雪。

 という昏い憎悪をひた隠し、運転席に乗り込んだ。

「おはよう、篠塚さん。もしかして、鍵開いてた?」

 こちらをチラ見した篠塚さんは、頬を染めて一言。

「振りですけど、彼女ですから……」

 答えになってねえんだよ。

 この場で喉首を締あげたい衝動を抑えつつ、ロードスターを発進させた。

 篠塚さんによると笹原さんとのアポは問題なくとれたらしい。

 笹原さんは休日に希望者を募って行われる特別講習に参加しているため、お昼休みに学校の近くのファミレスで落ち合うことになったそうだ。まあ、食事代は当然俺持ちになるか……バイトしないとな。

「笹原さんについての情報もそれとなく集めておいてほしいってお願いしてたけど、そっちはどう?」

「あ、はい。協力してくれそうな子にメールで聞いてみて、整合性が確認できている情報だけなんですけど……」

 笹原ひびき。私立三真坂南女子高等学校1年2組。出席番号は12番。誕生日は10月31日のハロウィン。

 学外でのボランティア活動を中心に行う課外活動に所属しており、その中でも熱心な生徒の1人として、周囲にその真面目な人格を評価されている。

 父子家庭で、離婚か死別かは不明。

 友人は多いが、特定の親友は少なくとも学校にはいない。大学進学を希望しており、勉強と部活、家事に忙しく、放課後や休日の誘いに応じるのが難しいのが理由だろうと同級生たちは思っている。

 うん、ここまでは所謂『普通の優等生』だよな。特筆すべき点は何もない。

 だが。

「整合性が確認できない――噂話はなにかあった? 特に、悪い方の」

 今、篠塚さんが提供してくれた情報は、言わば裏付けのとれた信頼できる情報だ。

 笹原ひびきが表に出している情報と言い換えていい。

 人間の本質は、その裏側に潜んでいることがままある。

「その……どうやら笹原さんにはかなり年上の彼氏がいるらしい、という噂があって、隣の県で男性と会っている笹原さんの姿を見かけたことがある人も何人かいました。ただ……特徴が違うんです。サラリーマン風の人もいれば、茶髪の遊び人みたいな人だったり……年代も20代から50代と広くて……」

 短期間で彼氏を乗り換えている、というよりは。

「……パパ活?」

「……そうじゃないかと、言っている人もいました」

「笹原家はお金に困っている感じ?」

「そういう話は……聞いたことがないです。笹原さんのお父さんは財閥系列の企業勤務だそうですし」

 ふむ……なら、ストレスか?

 日々蓄積していくストレスというのはどこかで発散する必要がある。

 真面目な生徒を演じているのなら、そのストレス。父子家庭で家事を一手に引き受けているのなら、そのストレス。

 優等生の仮面を、剥ぎ取る時間が必要になってくる。

 取り立てておかしなことでもない気がする。ストレスが限界に達したら、深夜の部室棟の屋上で全裸になって焚火の周囲を雄たけびを上げながら踊り狂うと誇らしげに語っていたアメフト部の先輩も大学にはいるから、それに比べれば健全とさえ言えるだろう。

 まあ、噂は時に悪意によって流布される場合もあるから、どう扱うかは本人を知らないと判断できない。

「今回の調査は良くも悪くも笹原さんに近しい人に行ったんですが、好意的な人からも出た目撃情報なので、これはそれなりに信憑性があるのではないかと、思います」

 信号で止まった際に篠塚さんの頭を撫でた。この子、本当に駒としては優秀なんだよなあ。本音を言うと、即縊り殺したいけど。

「……はわ、はわわ!」

 顔を真っ赤にした篠塚さんがはわった瞬間、スマホが震えた。

『彼女としてお役に立てて嬉しいです! でも彼女として要さんが笹原さんを気にする理由が、気になります!』

『振り』が消えているのは指摘して是正したものなのかどうか。

 篠塚さんによると、他にめぼしい噂はないらしい。笹原さんに好意を持っていない生徒からは、いつもスーパーで惣菜等が半額になる時間に買い物をしているから困窮してパパ活をしているんじゃないかという話も出たそうだが、学校帰りに買い物に行くならそうなることもあるだろう。

 設楽が笹原さんに気をつけろと言った理由は――本人に会ってから検討でもいいだろう。最悪、設楽に聞くという手段もある。気は進まないが。

 ともあれ、笹原さんと待ち合わせのファミレスまでにはまだ距離と時間があるから、昨晩、悠馬さんからもたらされた情報を篠塚さんと検討してみることにする。

 篠塚さんに『指切地蔵』と通り魔事件を結び付けさせるわけにはいかない――篠塚さんは『指切地蔵』を単なる願掛けと認識している――から、指切という行為に含まれる意味としてこういう考えもある、という形でしか提示できないが。

「ハッド刑……ですか」

 思案気に俯いていた篠塚さんは、無造作に髪の毛を1本抜いて足元に放ろうとしたので空中でキャッチして――マナーが悪くて申し訳ないが窓から車外に投棄した。

「なんでしょう。ちょっと、違和感があります……地蔵ですよね? 地蔵なのに、イスラム教っていうのが……相容れるのでしょうか」

 無意識だったのか、考え込んだ様子で篠塚さんは呟いた。

 そこは俺にとっても否定できない部分ではある。

 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教――それらの教義は異なっているが、信仰する唯一神は同一のものだ。

 それと仏教の地蔵が交叉するのは違和感がある。

 だが、もしかして深く考える必要がないのかもしれないとも思う。

 不思議なことだが、世界の神話においては地理的・文化的に離れているにもかかわらず類似性が見られる場合がある。

 日本神話が記されている古事記にこんなエピソードがある。

 国産みを行ったイザナギとイザナミの夫婦神。妻イザナミは火の神を産んだことが理由で亡くなってしまう。妻を想うあまり黄泉の国へと出向き、イザナミを連れ帰ろうとするイザナギに、『すでに自分は黄泉の国の食べ物を口にしてしまったため、戻れないが、黄泉の国の神に相談をしてみる。その間、決して自分の姿を見ないでほしい』とイザナミは言う。

 イザナギは『姿を見ない』と応じたが、あまりに話し合いが長引いたため約定を破ってイザナミの姿を見てしまう。醜い死者となった自分の姿を見られたイザナミは激高し、ここからイザナギの逃走劇が始まる。

 ギリシャ神話にあるオルフェウスのエピソードはこれに非常に類似している。

 毒蛇に噛まれて死んだ妻アウリュディケーを取り戻すため冥府を訪れたオルフェウス。冥府の王に妻を連れ帰ることを許されるが、『地上に戻るまで決して振り返って妻の姿を見てはいけない』という約束を地上間近で破ってしまう。

 どうしてこのような類似が起こるのか?

 人間の根底に共通認識があるのだと思う。ユング心理学において集合的無意識と表現されるものと言い換えてもいい。

 死人の国は地下にある。死人は醜い自分の姿を見られるのを嫌う。

 発想としては普通というか、平凡だ。だがそれは決して突飛ではない、暗黙の了解ですらある。

 噓つきは舌を抜く。盗人は指を落とす。

 そもそも『指切地蔵』は本来の意味での地蔵ではないのだから、『指切』と『指切』で稚拙な語呂合わせが生じたならそこに『理屈』が生じるという解釈でもいいと思う。字義であり、児戯だ。

 大事なのは『物語』なのだろう。

 ただ――『あと1本』の言葉をどう解釈するかだ。


「はあい、ゆっきー。休日に部活動お疲れさま」

 待ち合わせのファミレスのボックス席に腰かけていたのは、ゆるふわボブカットで目の大きさが印象的な、失礼だが一見ボランティア活動に精を出すようには見えないタイプの少女だった。

「笹原さん、忙しいところ時間とってもらってごめんね」

「いいよいいよぉ。せっかくゆっきーと仲良くなれたんだし、このくらい、なんてことないって」

 甘く伸びる語尾が特徴的な笹原さんは快活に笑って、俺の方をちらりと見た。

「その人がゆっきーの彼氏さん? ふぅん……なんか、いい感じだね!」

「……あ、ありがとう」

 頬染めてんじゃねえぞ、この野郎。誰にも言うなとあれほど……

「ああ、残念ながら彼氏ではないんだよ。わけあって、篠塚さんと一緒に調べ物をしてるだけで」

 強めのイントネーションで言ったつもりだが、笹原さんは興味深そうに――動物園で珍獣を見るように――俺と篠塚さんを見比べてから、

「ま、そういうことにしといてあげる。えっとぉ、朝霧要君……じゃ、あっしー君だぁ!」

 あっしー君……何だろう、美人に属する笹原さんにそう呼ばれても全然嬉しくない。

「ほらほらぁ、早く注文しないと、お昼休み終わっちゃう。あ、私の分はもう注文しちゃってるから」

 メニューを差し出した笹原さんは俺を見て満面の笑みを浮かべた。

「あっしー君、ごちになりまーす!」

 この子、結構手ごわいかもしれない。


「それで? 『指切地蔵』の話だっけ?」

「うん、そう。笹原さんには一度お話を聞かせてもらったけど、追加で確認したいことがあって」

「いいよいいよぉ。なんでも聞いちゃって!」

 お財布に優しいお手頃価格のランチセットで笹原さんが満足してくれたことに安堵しつつ、

「あのね、緑陽園で話を聞かせてもらったんだけど、ちょっと気になることがあって」

 一応、笹原さんにもう一度話を聞く理由は考えてあった。いや、本当に気になるところではあるんだが。

「笹原さん、君が聞いて、課外活動部のみんなに話した『指切地蔵』の話は、『ハイキングコースを少し外れた四つ辻の奥に小さな洞窟があり、その入り口に赤い前掛けをした地蔵が祀られている』で、間違いないかな」

「うん、えっちゃんはそう言ってたよ」

 えっちゃん――緑陽園の入所者の坂本さんか。

「直接坂本さんとは会えなくてね。職員の安住さんに確認してもらったのだけど、坂本さんの話には『洞窟』と『前掛け』の記述はないそうなんだ。些細なことなんだけど、気になってね。記憶にあるかな?」

 笹原さんは考え込むように眉を寄せてから首を傾げた。

「うーん……あっしー君、ごめん、覚えてないや! ゆっきーも、ごめんねぇ!」

「ううん、大丈夫だよ。こういうことは、よくあることだから。曖昧な証言をされるより、覚えてないって言ってもらった方がいいの」

 残念だが、伝達の過程で変化したと考えるのが妥当か。

「ああ、そもそもどういう流れで『指切地蔵』の話になったのかな」

 老人ホームの入所者とボランティアの女子高生が市内の怪談・都市伝説を話すシチュエーションというのもよく考えれば不思議だ。

「えーと、どうだったかなぁ? 確かぁ……その日の課外活動部が『入所者の方のお話を傾聴しよう』っていうテーマだったのかな。ほら、おじいちゃんおばあちゃんって、誰かに自分の話を聞いてもらいたがったりするでしょ? そういうのも活動として大事なんだよね」

 ああ、まあわからなくもない。老人が作業中の店員に延々話しかけるのを見かけたりするし。

「ただぁ、えっちゃんはできれば女子高生が興味を持ちそうな話がしたいって、前日に職員のじょー君に相談して、それでじょー君から『指切地蔵』の話を聞いたって言ってたよ」

 じょー君?

「それは、緑陽園の職員の新庄一馬さん?」

「そう、そう。じょー君、突然辞めて音信不通になっちゃったってきいて、ちょっとびっくりだけど、介護施設はそういうの、よくあるみたいなんだよね」

「そう……その、活動のテーマっていうのは、緑陽園の方から希望があったりするのかな?」

「そういうときもあるし、そうでないときもあるよぉ。その時は、部の方から提案したんだったはず。ほら、毎月毎月イベントなんて思いつかないでしょ? そういう時は、こうしとけばいい、みたいな?」

 なるほど。南女の生徒への復讐を目論んでいた新庄一馬が、その機会を利用して『指切地蔵』の話をひろめようとした、ということか。

「笹原さん、新庄さんの部の生徒に対する態度はどうだった?」

「ん? じょー君は真面目君だったから、私たちにも敬語で接してくれてたかなぁ」

「変なことをきくけど、ある日突然態度が変わったりは?」

「? 機嫌が悪い時は態度が変わったかってことぉ? そういうのはなかったよ。じょー君は典型的ないい人だし」

 典型的ないい人。免許の顔写真から俺が受けた印象とは大きな乖離はない。

「笹原さんは、新庄さんとはどのくらい仲が良かったのかな? 部活動以外で、人目を避けて会ったりしたことはある?」

 俺の言葉がもたらした変化は劇的だった。

 よく動く表情が持つ光が瞬時に消え去った。

 その瞳に昏い炎を宿らせ、俺の方を睨み付けた。

 あてずっぽうが、的中したか。

「か、要さん……!」

 怯えた表情で篠塚さんがこちらの袖を掴むが、笹原さんは俯くと自嘲的な笑みを浮かべた。

「まあ、知ってる人は知ってるよね」

「笹原さん……」

 俺と笹原さんの間を困惑した様子で篠塚さんの視線が往復するが無視。篠塚さんの学校での今後の人間関係など。知ったことではない。

「うちさあ、父子家庭なんだよね。お父さんは仕事仕事仕事……仕事ばっかで、休日にどっか連れて行ってもらったことなんてほとんどなくて。ほったらかしにされるのが耐えられなくて、お母さんは出て行っちゃうし……これで若い女と浮気してたっていうなら恨みようもあるけど。お父さん、仕事以外は眼中にないんだよね。家庭を持つことが出世に影響するから結婚して子供つくって……離婚しても自分の立場が揺るがないことがわかったら、家のことは……私のことはもう放置、って感じ」

 だから。

「『優しいお父さん』と色々、『相談』してたの」

 上目遣いにこちらを窺うように見つめる笹原さんのことを痛々しいとは思わない。そう、よくあることだ。

「ねえ、あっしー君は……要君は、私の『優しいお父さん』になってくれる?」

 なるわけねえだろ。

 そう俺が答えるよりも先に隣から発せられた、

「笹原さん、それは駄目」

 アルミホイルを不用意に噛んでしまった時のような、背筋を逆なでするざらついた声。

 同時に、ファミレスの天井の照明が火花を散らし、光を失った。

 ざわめく店内で思わず笹原さんと顔を見合わせた。

 笹原さんの視線が俺の横に動いて、すぐに大きな笑い声をあげた。

「あはは、ゆっきー、冗談、冗談だからぁ! ゆっきーの彼氏を取ったりしないから、そんな顔しないでよ、もう!」

 篠塚さんがどんな顔をしているかは興味ないが――こんな危険人物が、三真坂市内で放置されていたことに驚愕する。

 じい様に、調査対象を怪談やその類以外――『超能力者』にも広げるべきだと進言しなくてはならないだろう。もし、樹と篠塚さんが同じ交差点を渡っている時などに同じようなことが起こったら、樹に害が及びかねない。

「あ、お昼休みそろそろ終わっちゃう! ゆっきー、これからも仲良くしてねぇ! あっしー君、ごち! またおごってね! あと、一応内緒にしてね!」

 電気は復旧したものの未だ喧噪収まらぬ店内を軽やかに駆け抜け、最後にこちらに意味不明のブイサインを提示して笹原さんは去っていった。

 まあ、逃げたと表現してもいい。

 それより――笹原さんは外れ、なのか? そう判断せざるを得ないか。

 ネガティブな情報は時間の無駄と捉えられがちだが、不正解だという結果にも当然意味はある。

 現時点で俺が検討すべき行動は、あと1つしかない。

「あ、あの、要さん……」

「ん?」

 面倒くさいから視線すらやらずに応じると、篠塚さんはこちらのシャツの裾を掴んだ。

「嫉妬心の強い彼女だって……思われてたり、してないですか……?」

 それ以前に『彼女の振り』ではなくなっていることを、俺が受け入れているかどうかをまず気にするべきだろうが。

「ああ……束縛する女は嫌いだな」

 吐き捨てるように言うと篠塚さんはびくりと体を震わせ、裾から手を離した。

「ちょっと用事を思い出したから、もう行くよ」

 伝票を拾い上げて、篠塚さんを一瞥すらせずレジへと向かう。

 篠塚さんは追いすがっては来なかった。

 あ、こういう対応で追い払えるんだ。なるほど。



 洗車場でロードスターに乗り込んで篠塚さんの痕跡を消しつつ、考える。

 検討すべき行動――

 それは『指切地蔵』に『最後の指』を与えるかどうかだ。

『あと1本なのに』

 昨晩、『指切地蔵』はそう言った。

 それに基づくと、これまでの犠牲者は4人だから5本の指を集めることが『指切地蔵』の目的だったと考えられる。

 俺が新庄一馬の立場だったら南女の生徒全員の指を落とすことを望むが、それは外注ゆえの予算問題なのかもしれない。世知辛いことだが。

 ともあれ、『最後の指』を得たら、『指切地蔵』はどうなる?

 終息するのか、それとも次の段階へ――その場合はおそらくは悪い方向に――進むのか。

 与える指はもう準備できているから、そこをどう判断するかだ。

 打つ手のない状況だから指を与えてもいいと俺は考えているが、万が一にも樹に危害が及ぶようなことがあってはならない。

 悩ましい。

 その時、助手席に放っておいたスマホが震えた。

 ディスプレイに表示されていたのはじい様の番号。

 地獄に仏、地獄にじい様だ。

「じい様……!」

 蜘蛛の糸を掴もうとするカンダタのごとく勢い込んでタップするが、鼓膜を叩くのは耳障りなノイズ。そのノイズに混じって、

「……しま……ん……げ……どう……」

 平板な、だが確かに、聞きなれたじい様の声。それだけ告げて、通話は切れた。

 ……しまんげどう……?

 その言葉の意味がすぐには理解できないが、じい様の言葉には必ず意味がある。

 しまんげどう……しまんげどう……

 繰り返して、思い至って、腑に落ちる。

 ああ、そういうことか。

 篠塚さんが抱いた違和感は正しかった。

『指切地蔵』が指を切るのはイスラムのハッド刑を模倣したものなどではなかった。

 もっと身近で、本来もっと早く気づいてもよかったものだ。これまでに何度か言及してさえいたというのに、情けないことだ。

 嘆息したと同時、

『依頼のあった千丈院千景こと錦織うたについての情報だ』

 悠馬さんからのメール。

 さらに新庄一馬の消息についても悠馬さんは掴んでくれていた。

 悠馬さんにお礼のメールを送り、頷く。

 よし、これで方針は完全に定まった。

 ――『鉄砲玉』の出番だ。


 深呼吸して篠塚さんのスマホに電話をかける。

「は、はい! 要さん、私です!」

 うお、ワンコール終わる前に出たよ。

「……ああ、篠塚さん! 繋がってよかった! 篠塚さんには黙っていたけれど、『指切地蔵』は実は性質の悪い呪いでその調査をしていたんだ! 篠塚さんを巻き込みたくなくて、本当のことを言えなかったし、冷たい態度をとってしまったことを、最後に篠塚さんに……雪ちゃんに謝りたくて……! いいかい、『指切地蔵』には近づいてはいけない! 絶対に! 指切なんて言語道断! 絶対だめだ! 絶対に『指切地蔵』のところまで来たりするんじゃないよ! 俺を助けたいからって指切しては絶対だめだからね! 絶対だからね! ……ああ! 『指切地蔵』が」

 そこまで一方的に叫んで沈黙。ついでに、がさがさと近くの藪を揺らした。

「か、要さん?! 大丈夫ですか、何があったんですか?! い、今からそっちに向かいます! だから」

 通話を終え、即座にスマホをへし折った。

 さて、我ながら猿芝居だったと今更恥ずかしくなってきたが、篠塚さんは騙されてくれただろうか。まあ、釣り針に引っ掛かった感じはあったから、大丈夫か?

『指切地蔵』へと続く道の脇の藪に身を潜め、結果を待つ。

 篠塚さんの場合、電源を切っていてもスマホのGPS情報を取得しかねないから端末自体を破壊したが、どうせ替えのスマホは家にいくつもある。SIMカードだけをハンカチに包んでポケットにしまう。

 この後の予定はこうだ。

 篠塚さん『指切地蔵』と指切する→今晩篠塚さん指を切られる→『指切地蔵』満足して終息する→指を失ったショックで篠塚さん再起不能。

 皆が幸福になれる最高の結末だな。

 これは理想的な展開かつ楽観的な予測だが、とにかく『指切地蔵』に指を与えてしまえばいい。

 しまんげどう――指鬘外道。

 指鬘――切り落とした指を連ねた首飾り――アングリマーラ、とも言う。

 古代インドのコーサラ国に現れ恐れられたという殺人鬼の名前でもある。

 カースト制度の最高位であるバラモンの弟子であったアヒンサは師の不在時にその妻に言い寄られ、それを断ったがために婦女暴行の冤罪をかけられ、師から100人を殺害してその指を切り落とし首飾りを作るという偽りの修行を与えられた。

 人を殺しては指を落とすアヒンサを人々はアングリマーラと呼んで恐れた。99本の指を集めたとき、仏教の祖である釈迦がアングリマーラを改心させ、自らの弟子にしたという。

 冤罪をかけられたために復讐を求めた新庄一馬――それを代行した『指切地蔵』

 ただ、アングリマーラが改心の末、菩薩になったとの伝承はない。

 だが、地蔵菩薩が関係ないのかと言えばそうでもない。

 仏教が日本に伝来する過程で生まれた思想――十王思想。

 十王思想においては、死者の罪の多寡を裁く十王の1人――閻魔王は地蔵菩薩と同一の存在とされている。

『嘘つきは閻魔様に舌を抜かれる』

 閻魔様が盗人の指を落としたという伝承はない。ないが、そこは――『物語』だ。

『閻魔王が嘘つきの舌を抜くなら、盗人の指も切るだろう』

 地理的文化的に隔てられているはずの神話の類似をあげれば、それは人の根底にある共通認識なのだと、説得力が増す。

 篠塚さんの姉――『現代の魔女』は『指切地蔵』について調べた後、『歴史のモザイク』には興味はないと言い放った。

『現代の魔女』に警察の伝手があるのかはわからないが、それは正に本質を突いた言葉だったのだと思う。

 アングリマーラは日本では知名度が低い。どれほどの人間がその名前を知っているだろうか。

 知名度が低いという事は、つまりは『営業がかけにくい』という事でもある。

 そこで千丈院千景は――錦織うたの娘である二代目は『物語』を言葉巧みに利用した。

 指切、地蔵、閻魔王――継ぎ接ぎでもっともらしい『物語』を構築したのだ。

 それに新庄一馬は騙された――乗ったというべきか?

『詐欺罪等で前科5犯の初代千丈院千景こと錦織うたは、今では捨て猫の保護活動に専念しているようで、如何わしい商売は娘である錦織おとに引き継いでいる。悪辣な商売はしていないのか前科はない。国税庁には目を付けられているが』

 悠馬さんの情報によると、二代目千丈院千景の活動拠点は関東で、三真坂からは遠く離れている。

 だが、ならば各地に現地の営業担当が必要なはずだ。そう、商談をする人間が――

 その時、三真坂の森ハイキングコースに飛び込んできた人影を認めて、身をかがめる。

「……はっ……はぁ……っ!」

 藪の隅間から見て取れたのは、荒い息を吐きながら思わず笑ってしまいそうになるくらい必死の形相で駆けこんできた篠塚さんの姿だった。

 フィィッシュ――!

 心中で思わず叫んだのは悪趣味だったと反省せざるを得ないが、しようがない。俺は篠塚さんに好意を持ってはいないし。

 篠塚さんが『指切地蔵』と指切をするかどうか、顛末を確かめる必要があるから、気配を消して後を追う。といっても、それほどの距離はないからすぐに『指切地蔵』の周囲を右往左往する篠塚さんの姿が物陰から認めることができた。

「……要さん! 要さん、どこですか! どこにいますか?! 大丈夫ですか?!」

 篠塚さんごときとはいえ、やはり誰かに気を配ってもらえるというのは悪い気はしない――かもしれないと思ったがそんなことはなかった。

 俺と知り合ったのは昨日の今日だぞ。そこまで――ゴキブリみたいに地を這ってまで俺の安否を気遣うか?

 俺には理解できない。

 じい様に『要はいい子なんじゃが、身内の人間以外には冷淡すぎるから、そこはちいとずつ修正していければいいのう』と言われたことがあるが、その必要があるだろうか。

 血は水よりも濃いと言われる。ならば、それを一番大事にすべきではないか?

『本家』の因縁を祓い、俺の父を、実の父であるじい様と会わせる――そのためならば、どんな犠牲を払うことも厭わないというのは、そこまでおかしなことか?

 所詮、他人など――他人なのだから。

 路傍の石ころと変わらない。

「要さん! 要さん!」

 鬼女のごとく髪を振り乱して叫んでいた篠塚さんが、『指切地蔵』の前で膝をついた。

 額から頬へと伝った汗が、顎の先から滴り、地面を濡らした。

「ああ……要さん」

 がっくりと肩を落とした篠塚さん。

 よし、そこで『指切地蔵』と指切だ! 俺を助けるために指を捧げるんだ!

 前のめりに意気込んだ俺の思惑と、篠塚さんの行動は大きく乖離していた。

「『指切地蔵』……あなたが……」

 昏い声で呟きながら、篠塚さんは『指切地蔵』の両肩に手を置いた。

「あなたが、要さんを……」

 俯いて、絞り出すような声で呟いた。

「やっと、私やお姉ちゃんのことを理解してくれて、下心なしに優しくしてくれる人と出会えたのに……」

 ばちっ

『指切地蔵』の肩に置かれた、篠塚さんの手から火花が散った。

「……あなたが……」

 ちりちりと、線香花火のように閃光が舞い踊る。

 篠塚さんの長い髪が逆立ち、その毛先が弾けるように放電する。

「あなたが、あなたが、あなたが……お前がぁっ!」

 怨嗟に満ちた叫びを篠塚さんがあげた瞬間――

 ――ばちぃっ

 雷鳴に似た大音響とともに、篠塚さんを中心に白光が爆発し――視界が純白に染めあげられた。

 うぉっ、眩しっ!

 思わず顔を背けて目をつぶるその寸前に視界に映りこんだのは――放電とともに内部から爆散するかの如く、粉々に砕け散る『指切地蔵』の姿だった。

 ……

 ……は?

 はあ?!

 ばあ様の遺したスレッジハンマーでもびくともしなった『指切地蔵』だぞ?

 落雷のような高電圧放電によって岩石が破壊されるというのは、ないことではないが――いや、そういう問題じゃないだろうが。

『秩序型』の『怪異』や、ルールに則って粛々と進行する呪詛を、力づくの横紙破りで打破するなどというのは簡単なことではない。

 それこそ、じい様並の能力を持っていない限り――

「要さん……要さぁん……」

 粉々と表現していいほどに散らばった石片を前に、涙ながらに跪く篠塚さん。

 ――決断を。

 ――俺は、決断をしなければならない。

 無事を装って篠塚さんの前に現れるか。

 篠塚さんを『闇討ち』し、『秘密の場所』に遺棄するか。

 このまま去るという選択肢はない。街中で篠塚さんとばったり出会ったときに言い訳のしようがないというのもあるが、篠塚雪は――この女は放置できない。

『鉄砲玉』――いや『ロケットランチャー』として手駒にするか、『地雷』として爆散撤去するか、2つに1つだ。

 考え込んだ時間は、ほんの数秒だった。

「……ああ、篠塚さん……来てしまったんだね。でも、無事でよかった」

 即席で服を汚し、いかにも満身創痍というふうに肩を抱いて藪から姿を現す。

「……か、要さん?! 無事だったんですね?!」

 これまで俺が物陰で窃視していたことを疑う様子も、涙を拭う様子もなく駆け寄ってくる篠塚さんに微笑みかける。

「ああ、ごめんね。これから、きちんと説明するから……」

「いえ、それは別にいいんです。要さんが無事で、良かった……本当に良かったです……」

 俺が選んだのは、篠塚さんを手駒にすることだった。

 篠塚さんは危険人物ではある。

 だが『指切地蔵』を、そのルールを無視して、破壊した。イレギュラーというか、チートだ。

 俺はじい様と違い、『怪異』を時に問答無用でねじ伏せるような能力はないから、篠塚さんの利用価値は計り知れない。

 勿論、こちらの思惑通りに篠塚さんが動いてくれるという前提で、だが。

 持ち手の意向に従わない道具に、存在価値などないのだから。

 ともかく、有用性を示した道具は丁重に扱うべきだろう。

「篠塚さん……雪ちゃん、ありがとう。助けに来てくれて」

 その細い手首を掴んで胸元に引き寄せ、抱きしめる。

 あ、なんか柔らかいな。結構硬い樹とはだいぶ違う。

「かっ、要さん……! はわっ、はわわっ……!」

 篠塚さんは気楽にはわっているようだが、俺の方は割と気が気でない。

 篠塚さんが『指切地蔵』に放った電撃を浴びたならば、俺が生きていられる可能性はゼロだからだ。

 それも、駒として篠塚さんを制御するためには必要なリスク――すべては『本家』の因縁を取り払うのにコミットしておくべきこと――これ、使い方あってるか?

 ――ともれ、そのためには、まだしておかなければならないことがある。


 手当と看病を申し出る傍迷惑な篠塚さんを最寄り駅で放流してから――相当ぐずられたが――南女の正門が見える場所にロードスターを停車し、怪しまれない程度に位置を移動しつつ目的の人物を待つ。

 講習が終わったのか、校門から吐き出される人の流れが増えて来たが、その中に笹原ひびきの姿はなかった。

 ――逃げたか。

 悠馬さんのメールにはこう記されていた。

『当代の千丈院千景こと錦織おとの娘が三真坂市内に在住し、笹原ひびきという名前で南女に通っている。両親の離婚で入り婿だった父親の名字に変わったが、どうやら離婚自体も偽装の疑いが強いようだ』

 当代の千丈院千景の娘――何が『優しいお父さん』に『相談』だ。笹原ひびきがやっていたのは『商談』じゃねえか。

 南女の生徒に冤罪をかけられた新庄一馬は、その復讐を望んだ。

 それを察した千丈院千景の営業担当、笹原ひびきが新庄一馬に接触した。

 その『商談』の結果、三間坂の森自然公園に持ち込まれたのが『指切地蔵』だ。

 新庄一馬が緑陽園の坂本さんに伝えた話と、笹原ひびきが南女で広めた『指切地蔵』の些細な違い――『前掛け』と『洞窟』は『搬入業者』ゆえに実際の現場を笹原ひびきが知っていたから生じた差異なのだろう。

 新庄一馬が緑陽園の坂本さんに伝えたという態を装いつつ、結局のところ『指切地蔵』を広めたのは笹原ひびきなのだから。

 それは、マッチポンプというほかない。

 笹原ひびきを放置はできない。これまでは隣県で活動していたようだが、三真坂市内で仕事をした以上、排除する必要がある。

 樹に不穏な空気を呼吸させるわけにはいかない。

 自宅か、それとも初代――祖母の家か。いや、それなりに裕福なようだし、父親も承知済みの活動だから別のセーフハウスを準備している可能性もある。

 だが――草の根分けてでも、見つけ出す。どんな手段を使ってでも。

 その時、スマホが震えた。液晶には見知らぬ電話番号。

 胡乱ではあるが――ここは、出ないという選択肢はない。

「……はい」

「私、笹原ひびき。今、あなたの後ろにいるの。なんちゃってぇ」

「ああ、笹原さんか。この番号は篠塚さんにでも聞いたの? まあ、丁度よかった。至急、直接会って確認したいことがあるんだけど、どこにいるのかな?」

「ええー、それは内緒だよぉ。だって、あっしー君、私を始末するつもりでしょ?」

 勿論、する。

「だから、あっしー君と交渉しようと思って、電話したんだよぉ」

「……交渉だと? そんな余地はないはずだが」

「うわ、あっしー君、こわ。もしかしてそっちが素なの?」

「そう。それに結構気が短いから、簡潔に」

「ええー、どうしようかなぁ」

「――なら、鬼ごっこのスタートだ」

「待って待ってぇ、えっと、ママから伝言ね。『今後、三真坂市内で商売はしない。必要なら呪具の類を格安で譲る。だから娘を見逃して』 以上!」

「調子のいいことを……」

「あとぉ、あっしー君がお望みなら、お詫びの品を送るって言ってたよ。『持ち主が必ず事故に遭うブローチ』だって」

 ……一瞬食指が動いた。それは認める。

 だが、自己の研鑽に因らない結果をじい様は認めてくれないだろう。

「……詫びの品は不要だ。ただ、三真坂市内で商売をしないこと、あと『本家』に関わらないことを約束できるか?」

 確約がとれるなら、俺としてはそれでいいのだ。俺としては。

「約束するするぅ。市内には色々お友達もいるから転校や転居はしたくないし」

 うむ……信用できるわけないだろうが、こんな不誠実な返答。

 だが、同じ高校の篠塚さんに監視させればいいか? ああ、悪くないアイデアかもしれない。

「1か月ほど、様子を見る。誠意が見られないようなら……」

「はぁい、了解でっす」

 なんだこの、気の抜ける交渉は。

 いや、そもそも、なんで今更じい様のいる三真坂市に手を伸ばしてきたのだか。

「ママはねぇ、おばあちゃんの意趣返しをしたかったって言ってたよ」

 初代千丈院千景の意趣返し? じい様には土をつけられっぱなしだったが、俺になら勝てるとでも? 舐められたものだ。娘は態度次第で見逃すと言ったが、『ママ』をどう処遇するかはこれから決めるというのに。

「おばあちゃんは、若い頃あっしー君のおじい様にプロポーズして振られたんだってぇ」

 ああ、そういう――女の恨みは根が深くて怖いな。

 しかし敵対関係にあって、そこまでの恋慕の情を抱くものか? まあ、じい様が魅力的だという事の証左にはなるか。

「交渉成立したら、ママがこう伝えろって言ってたよぉ。『娘と仲良くしてね』」

 ……どういう意味だ? 俺は仲良くする気はないぞ。

「あとぉ、じょー君もそろそろ目を覚ましているはずだよ」

『隣県の総合病院に昏睡状態で収容されている身元不明の男性がいるのだが、その特徴が新庄一馬と概ね一致しているようだ』

 悠馬さん情報だ。

「指が5本集まらなくてよかったねぇ」

 指鬘外道――アングリマーラ。

 冤罪がために、師から100人を殺害してその指を切り落とし首飾りを作るという偽りの修行を与えられた男。

『あと1本』――それは『修行の終わり』でもある。

「……『悟ったら涅槃』ということか」

 涅槃に至る――それは、釈迦が悟りの境地に至って入滅した――つまりは、死ぬという事だ。

 おそらくだが、新庄一馬が昏睡状態となったのは『指切地蔵』の代償だ。

 微細な契約情報は知る由もないが、笹原ひびきの言いようによれば、憎き女子高生の指を5本集めたら、その対価として入滅することになったのだろう――女子高生の指5本と引き換えに命を懸ける――まあ、新庄一馬がどういう意図で契約を結んだかは、今さら興味はない。

 ただ、無関係だが無分別ゆえに指を切られた女子高生については同情を寄せるべきかもしれないが。

「南女の波多野先輩と藤野先輩のことは気にしなくていいよぉ。そもそも、その2人がじょー君を陥れたんだし、他の2人も他人からは好かれてなかったどころか、誰かに恨みを買うような人間だったしぃ」

 被害者の為人を知っているような口ぶりだが……

「当然でしょぉ。そこまで含めて、仕事だもの」

 被害者が『指切地蔵』の下を訪れるように誘導していたという事か。

 樹が『5本目』に選ばれたのも、必然、と。

 ――やっぱり処しておくか?

「あ、きっとなんか怖いこと考えてるぅ。じゃあまたね、あっしー君。私のことは殺さないでくれると嬉しいな」

 言うだけ言って笹原ひびきは通話を一方的に終了した。

 スマホの番号は入手したし、身柄をどうするかは――じい様と相談してから決めるとしようか。

 さて、悠馬さんへの報告など後始末が残っているが――

 少なくとも、これで『指切地蔵』の件は終わりだ。

 そもそも『指切地蔵』自体が粉々となったのだから。

 短く嘆息したところでスマホが震える。連続で震える。マッサージ機並に震える。

 こっちをどう制御するべきか――

 強力な駒であるのは間違いないのだが――

 手綱をとるのも、手を切るのも、中々往生しそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る