指切地蔵 弐

 会計を済ませ、食堂と同じ棟にある公園の管理事務室へと向かう俺のシャツの裾を篠塚さんが子供のようにぎゅっと握りしめている。

「はぐれたら、困りますから」

 とは、俺の視線を受けた篠塚さんの言。

 第一印象が悪い人間の方が、後々仲良くなれるとは言われるが、それにしたって距離感がおかしいだろ。親戚の子供か。

 繁華街の雑踏じゃないからはぐれる要素がないし、そもそも廊下に俺たち以外に人影はない。

 皺になるから止めてほしいのだけれど、利用価値があるうちはあまり強くも言えない。

 電車ごっこのごとく篠塚さんを引き連れて歩いていると、目当ての管理事務室のプレートが掲げられた部屋から2人組の男が出てきた。

 壮年と若者というスーツ姿の二人組のうち、若い男の方が鋭い目つきでこちらに視線を向けた。篠塚さんがびくりと体を震わせて、こちらに身を寄せる。

 だが、すぐに興味を失ったように視線を逸らすと、2人組はそのまま歩き去っていった。

 ……ここの職員って感じではなかったな。雰囲気が殺伐としすぎている。

 思い当たることといえば――警察だ。

 警察が『指切地蔵』のことを真に受けた、というわけではないだろう。

 被害者が全員『指切地蔵』をやったと証言していることから、犯人が『指切地蔵』周辺で被害者を物色している可能性があるとして、公園の人間に不審人物を見かけていないか聞き込みに来ている、というところか。

 警察に周囲をうろつかれると面倒だな。

 苦虫を嚙み潰しつつ、彼らと入れ替わりになる形で事務室に足を踏み入れる。

 そこは受付窓口のある部屋によくある、カウンターで囲まれた内側に事務机が複数配置されているというものだった。

 あまり広くはない室内に5つのデスクが固まって配置されていて、ワイシャツにベスト姿の若い職員2人が表情筋の死んだ状態でパソコンのキーボードを叩いており、年長の責任者らしき中年の男性は険しい表情で市報らしきものを凝視している。こちらをちらりと見もしない。

 先ほどの2人の見送りでもしていたのか、それともそこが定位置なのか、同じ格好のおばちゃんがカウンターの前に立っていたので、よそ行きの笑顔を浮かべつつ声をかける。

「お忙しいところ申し訳ありません。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが」

「はぁい、すぐお伺いするけど、ちょっとだけ待ってねえ」

 公園のパンフレットの束をカウンター上のラックに差し込んだおばちゃんは、こちらを見やって一瞬だけ訝し気に眉根を寄せたが、多くの人間と業務で接している人間の常か、すぐにそれを隠すように曖昧な笑顔を浮かべた。

 ワークシャツにジーンズの男と、お嬢様学校として市内で名高い南女の制服を着た女生徒の組み合わせだから、不審に思われても仕方がなくはある。

「突然すいません。実は県立大学のサークル活動の一貫で、県立公園の方にお聞きしたいことがありまして」

『県立大学』という言葉におばちゃんは、

「ああ、県立の人なのね」

 警戒心を解いて相好を崩した。

 三真坂市内限定ではあるが、『県立大学の学生』というのは抜群のステータスを誇る。

 市内の成績上位者は上位国立か県立大学か、などと言われるくらいだ。

 地元を離れるのを嫌がる内向的な市民性ゆえで、実際そこまで偏差値は高くないのだが、市内で行動する分には役にたつ。地方の国公立大学特有の現象だ。

「今度『珍しい地蔵』の特集を組もうとしてるんですけど、ネットでこの辺りにこんな地蔵があるって噂がありまして……見たことないですか?」

「あらあら、こんなおばちゃんが役に立てるかしら」

「篠塚さん、お願い」

「はい」

 真面目な表情で篠塚さんは小さく頷いて先刻の『指切地蔵』の画像をおばちゃんに提示する。女性が相手だったら普通に対応できるんだな。

「これなんですけど。見たことありますか?」

 受けとったスマホを片手に目を細めたり、眼鏡の位置を微調整したりしているおばちゃんに、

「右手の小指だけが立ってるでしょう? それで、こんな地蔵は珍しいなってネットの一部で話題になったんですよ」

 顎に手を当てて少し考えこんだおばちゃんは、すぐに首を振った。

「見たことないわ。うちの公園にあるものじゃないんじゃないかしら。ああ、ちょっと待ってねえ」

 おばちゃんはスマホを持ったまま、一番年かさの男性に声をかけ、スマホの画面を見せる。男性は親の仇でも見るようにスマホを睨み付けた後、首を横に振った。

「公園内にお地蔵様は1つもないそうよ。うちの課長さん、公園内の事なら全部把握してる人だからねえ」

 カウンターまで戻ってきたおばちゃんは申し訳なさそうに言う。

「ああ、いえ、お手数かけて申し訳ありません。お忙しいところ、ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 ほしい情報は得られた。あの2人組の情報も欲しいところだが、あまり長居して記憶に残らないほうがいいだろう。

 篠塚さんと2人で頭を下げ、さっさと撤収しようとしたところで、

「ねえ、あなたたちどういう関係なの? その子は高校生だから、同じサークルってわけではないわよね? もしかして……お付き合いしてるの?」

 好奇心を隠そうともしないおばちゃんの言葉に一瞬硬直する。うちの母といい、なんでおばちゃんは噂話に目がないのか。火のないところに煙を立たせて焼け野原にしようとするの、ほんとやめてほしい。

 ともかく、否定するのは簡単だ。だが、先刻のやり取りもあるし、どう返すのが最適解か。

「まだ……です」

 考えているうちに『裾掴み』がか細い声を発していた。同時にポケットのスマホが震える。

 だから、おかしいだろうよ、距離感の詰め方が。まだ、って何なんだよ。

「あらあら! あらあら、まあまあ!」

 顔を真っ赤に染めあげた篠塚さんに、これまで死んだ表情をしていた若手職員2人までもが顔を上げて薄く微笑んだ。

「大丈夫! あなたは美人さんだし、県立と南女はとっても相性がいいのよ! ねえ!」

 こちらをちらちら見ながら言ったおばちゃんは、最後に課長を振り返った。終始難しい顔だった課長は、それまでが嘘だったかの如く頬をほころばせて頷いた。もしかしてOB、OGかよ。ていうかそれは孫に向ける表情だろ。

 ああ、もう破れかぶれだ。

「あはは――そういう話、よく聞きますよ。ところで、さっきこの部屋から出てきた2人はここの職員の方ですか? 外回りの人みたいでしたから、一応、この地蔵の事を知っているか尋ねてみたいんですけど」

 県立と南女のカップルとして印象に残ってしまっただろうから、もう遠慮する必要はない。

「ああ、あの人たちはうちの職員じゃないわ。刑事さんよ」

 とっておきの秘密を明かすように、おばちゃんは声を潜めて言った。

「刑事さん? 何か、事件でもあったんですか?」

 興味津々の態で乗っかると、

「それがねえ。どういう事件の捜査かは教えてもらえなかったんだけど、最近公園内で不審人物を見かけなかったか、そういう情報は寄せられなかったかって、訊かれたのよねえ」

「へえ……それは、心配ですね」

「そうよねえ。通り魔も捕まっていないし、怖いわよねえ」

 課長が大きく咳払いした。はっと我に返ったおばちゃんはバツの悪そうな表情で舌を出す。

「ああ、ごめんなさい。余計なこと、訊いてしまいましたね」

 これ以上の長居は無用と判断した俺は職員の人たちに会釈する。

「色々とお手数おかけしました」

「はぁい。サークル活動、頑張ってね。――あと、あなた、男ならわかってるわよね?」

 わからない。知らない。

「勿論です。男、魅せますよ」

 内心とは反対の言葉で応じて胸を叩き、ほっこり顔の職員たちに見送られて事務室を後にする。

 ――ああ、面倒くさいな。男女の組み合わせを見たら恋愛事と結びつけるのは単純すぎないか。『拳銃』と『弾丸』の組み合わせだってあるだろうに。

 ともあれ、先程スマホを震わせたのが、サノに襲われた樹からのレスキューコールの可能性があるので確認すると、そこには再びの文字化けメール爆撃。

 ほんとなんだこれ? 何の嫌がらせだ。

「あ、それ……」

 こちらのスマホの画面を盗み見ていた――いや、そこまで育ちが悪くはないだろうから、偶然目に入った、という事にしておこう――篠塚さんが、こちらを上目遣いに見てから申し訳なさそうに俯いた。

「ごめんなさい。私のせいかも、知れません」

 篠塚さんのせい?

「私、電化製品と相性が悪いんです」

 相性が、悪い。

「感情が昂ったりしたときに、レンジが急に動き出したり、パソコンの電源が不意に落ちたりするんです」

 ああ、そう。

 嫌な言い方になるが、注目を浴びたいという欲求の強い人間は時に、自分を特別だと思い込む。自分に影響力があると思いたがるのだ。

 じい様と様々な調査に赴いた俺は、職業的詐欺師の他に、霊能力などないのに『視える』振りをしている『えせ霊能力者』を多く見てきた。

 ただ、多分篠塚さんはそういうタイプではないだろう。むしろ注目を嫌っているはずだ。

 ――人間の体には、電気が流れている。

 心電図は心臓で発せられる微弱な電気信号を波形として記録したものだし、脳波だってそうだ。細胞間の電気信号の伝達によって情報の処理が行われる。

 目から得られたリンゴの情報は電気信号として脳で処理され、筋肉への電気信号の伝達によってリンゴは掴まれ、齧られる。

『何もしていないのに壊れた』とのたまう人間の大半は、大体『何か』をしているのだが、 篠塚さんのように、『機械と相性が悪い』という人間はまれにいる。

 それは特異体質とでもいうべきものだ。

「スマホもよく、壊れてしまって。その度に、お姉ちゃんが買いなおしてくれるんです」

 まあ文字化けメールが出現するくらいなら大して害はないと言えるのだが、俺のスマホも壊れたりしないだろうな。

「あ、それは大丈夫です。私が直接触っていないものが壊れたりっていうのは、今までにないので」

 ならいいが。

 っていうか、感情が昂った時って――発情期か。

 ともかく管理事務室では、重要な情報が得られた。

『指切地蔵』は、公園の管理下にない。

 つまり、『指切地蔵』は元々この県立公園にあったものではない。

 ならば、誰かが持ち込んだのだ。

 当然、何らかの目的があって。

『指切地蔵』は――女子高生の指を狩っている。

 ――何のために?



「篠塚さんは、地蔵に対してどういう印象を持ってる?」

 緑陽園に向かうロードスターの助手席、これまで乗せた女子学生と同じように物珍し気に車内を見回していた篠塚さんは、記憶をさらうように斜め上に視線を向けた。

「やっぱり地蔵菩薩ですから……困った人たちを救済してくれる、見守ってくれる、そういう優しいイメージです」

 地蔵菩薩。

 起源はインドのバラモン教における大地・農耕の女神なのだそうだ。

 それが仏教に取り入れられ、地蔵菩薩となった。

 大地を司る女神は洋の東西を問わず、豊穣と母性の神だ。神々の母、祖、根源としている宗教も多い。

 地蔵菩薩は無辺なる慈悲の心で苦悩する衆生の救済を行う、とされている。

 紀元前5世紀頃にインドで仏教がうまれ、中国を経て6世紀に日本に伝わってくる過程で変化したものもある。

 中国では道教の十王思想――地獄において亡者を裁く十の王――と結びついて、地獄の王として信仰を集めたようだ。

 日本に伝来して最も変わった点と言えば、身近になった、という事だろうか。

 道端に祀られている『お地蔵様』を見て、仏教の『地蔵菩薩』を思い浮かべる人間は、おそらくそれほど多くない。

『かさじぞう』は、多分日本人なら聞いたことがあるであろう昔話だ。雪国に貧しい老夫婦がおり、年の瀬におじいさんが傘を売りに行くも全く売れない。帰り道の途中でしんしんと雪に降られるお地蔵様を可哀そうに思い、売れ残った傘をかぶせる。その善行にお地蔵様が報い、食料や財宝を得た老夫婦は満たされた新年を迎えるという報恩譚。

 日本における地蔵は、仏教信仰というよりは民間信仰の色が強いように思う。

 道々にお地蔵様があるのは、境界を守る――疫病などの悪いものの流入を防ぐ道祖神、『塞の神』としての役割を担っているからであり、その起源にある豊穣や、救済を求めてなどというものではない。

 だから、篠塚さんの意見は、間違ってはいるが正しい、多くの日本人が共通して持つイメージだと思う。

 お地蔵様は日々の生活を守ってくれるものなのだ。

「要さんの、言う通りだと思います……」

 こちらを見つめる篠塚さんの瞳に宿る――多分、宿っている――敬意の光。

 まあ、年上というか、こういう『業界』の先輩としての面目躍如といったところだ。

 ともあれ、身近だからこそ卑近な願掛けをお地蔵様に行う、というのはおかしなことではない。

 ないのだが……

「どうして、『指切』が必要なんだと思う?」

「え?」

「どうして、ただ願掛けをするだけじゃダメなのかな?」

「それ、は……」

 赤信号で停車。考え込む篠塚さんのシートベルトが食い込んだ胸の谷間――いや、その横顔を一瞥する。

「差別化……でしょうか。ただお願いをすればいいというのなら、それこそ、道端のお地蔵さまでいいという事になりますし」

「そうだよね」

 ということはつまり、この『指切地蔵』を流布した人間には、そういう意図があったという事になる。

『指切地蔵』に他にはない特徴を持たせ、目立たせたいという目的が。

 だが、どうして『指切』なのか。

「篠塚さんは『指切りげんまん』の意味は知ってる?」

 俺がきくと、篠塚さんはこちらを見上げていた顔を真っ赤にして俯き、ぼそぼそと呟いた。

「あ……え、えと、ゆ、遊女が、お客さんに対して変わらぬ愛情を示すために、指を切り落として渡したことが、由来だって……前にお姉ちゃんから、きいたことが」

 客に変わらぬ愛情、誠意を誓うため、遊女が指を切って見せた。当然、受け取る方にも相応の覚悟が必要になる。

 『指切りげんまん』の『げんまん』とは拳骨1万回のことで、指を切る苦痛あるいは裏切られるようなことがあったらそれほどの苦痛を受ける、ということを示している。『針千本飲ます』は、それをさらに誇張するために付け加えられたのではないかとする俗説がある。

 元々の意味から考えれば、『誓い』――『代償』としての『指切』――指を切って捧げる――が、まずあるはずなのだ。

 だが、『指切地蔵』は願いを叶えた後に指を切りに来る。

 そもそもお地蔵様や地蔵菩薩が、指を求めるというのがおかしい。

 地蔵が関わる怪談もあるにはあるが、それは狐狸が化けたものであったり、無作法を働いた者を懲らしめるという程度のものだ。

 地蔵菩薩に至っては信仰したならば28の功徳と7の利益が得られると地蔵菩薩本願経にあるし。

 どうなってるんだ、これは?

「そうだ、篠塚さん。篠塚怜佳さんに……お姉さんに『指切地蔵』の話はした?」

「あ、はい。調査を開始する前に、方針の相談を電話でしましたから、その時に……その後、お姉ちゃん自身も少し調べたみたいです」

「何か言及してた?」

 別に白旗をあげるというわけではない。先輩の意見を参考にしようというだけだ。

「それが、お姉ちゃんは結構早い段階で『指切地蔵』には興味を失ってしまったみたいで……」

「そうなの?」

「『『歴史のモザイク』には興味ない』って言っていたんですけど、意味は教えてくれませんでした」

『歴史のモザイク』……? なんだか余計わからなくなってきたな。

 まあ、そもそもからして『指切りげんまん、願い事かなえてくれないと針千本のーます』という言い回し自体が、無理やり継ぎ接ぎした印象を拭えないものではあるのだが……

「あ、要さん、次の角を曲がったら、緑陽園です」

 篠塚さんの声に思考を中断してハンドル操作に専念する。

 わかってはいたが……面倒だな。



 緑陽園は、社会福祉法人緑陽会の運営する介護付き有料老人ホームなのだそうだ。

 車椅子であるなど要介護な老人の入居する――ちょっとお金のかかる施設なのだと、応接室に案内してくれた職員の安住さんが教えてくれた。

 外観は小綺麗なマンションという感じだったし、玄関ホールは高そうなソファの並べられた高級シティホテルのラウンジかと見間違いかねない華やかさであったから、確かにお金持ちでないと入居はできなさそうだ。

 俺と篠塚さん、それに応対してくれている安住さんが腰かけているソファも革張りのお高そうなものだ。

「それで、ボランティアで来てくれていた南女の生徒さんに坂本さんがお話ししたことについて、改めて聞きたいってことなのよね?」

「はい。お手数かけて申し訳ないのですけど、同好会の活動の一貫として、お話を伺いたいのです」

 いかにも優等生然とした顔で、流暢に言葉を紡ぐ篠塚さん。うーん、もし聞き取り相手が若い男だったらどうなるのだろう。まあどうでもいいか。

 篠塚さんの言葉に、貫禄ある体格の安住さんは困ったような表情だ。

 調査に何か問題でもあるのかと考えていると、

「坂本さんは、今ちょっと体調が悪くてねえ。安静にしてあげたいのよ」

 ああ、それはしようがない――とは思わない。

『本家』の樹が関わる案件だ。有象無象のジジババの命など考慮する必要はない。

 坂本のばあさんの家族に恨まれ、俺が殺されることになったとしても、だ。

 何より最優先すべきは樹であり、俺を含むそれ以外の人間など、塵芥に過ぎない。

 どうやって坂本のばあさんを引きずりだそうかと考えていると、

「事前にお話を伺っていたし、私も興味があったから、実は坂本さんにお話を聞いていたのよね。それをお話しする、という事でもいいかしら。もし、不明点があるのなら坂本さんの調子がいい時に改めて来てもらう、ということになるけれど」

 安住さんは確か介護主任という立場だったはずだ。その立場故に、坂本さんが体調不良になった場合を見越していたのか、それともお金持ちの優良顧客を高校生の相手などで煩わせないために事前に聞いていたのか。

「あ、それでも構いません。いえ、むしろ助かります」

 曖昧になりつつある大半のジジババから聞き取り調査を行うのは手間と時間がかかる。

 伝聞の伝聞の、さらに伝聞という形になるから情報の精度は下がることになる。が、少しでも情報が欲しい。

「まず、お話の内容のすり合わせをさせてください。『指切地蔵』というのは、こういう話なのですけど……」

 巷間に流布する『指切地蔵』を篠塚さんが伝えると、少し考えこんだ後、安住さんは小さく頷いた。

「私が坂本さんから聞いた話とおおむね同じだと思うわ」

 篠塚さんを一瞥すると、心得たように、

「おおむね、というとどこか些細な違いがありましたか?」

 伝聞の伝聞――当然仔細は変化していく。そこに本質が含まれていることもある。

 篠塚さんの姉である『現代の魔女』は傍若無人極まりないと聞いているが、さすが職業としているだけあって些細なところまで注意するよう篠塚さんに教育を施したようだ。

「あのね、本当に些細なことなのだけれど、坂本さんから聞いた話には『洞窟』と『赤い前掛け』が登場しないの」

 篠塚さんと顔を見合わせる。

「まあ、坂本さんが忘れてしまっただけなのかもしれないけど……」

 細部が抜け落ちたとも言えるし、細部が追加されたとも言える。

「笹原さんが聞いたという話には『洞窟』と『前掛け』はあった?」

「はい。笹原さんは、『ハイキングコースを少し外れた四つ辻の奥に小さな洞窟があり、その入り口に赤い前掛けをした地蔵が祀られている』」と言っていました」

 これは……こだわるべきか、無視するべきか。

「あら、坂本さんからこのお話を聞いたのは、笹原さんなの?」

 安住さんが微笑んで、

「なら、笹原さんの言っていることの方が正しいと思うわ。笹原さんは、いつも入居者の方々の話に一生懸命に耳を傾けてくれるのよ。今時、あんな真面目でいい子はなかなかいないと思うわ」

 課外活動部が行っているボランティアというのは、入居者の介助をしたりなどの直接的なお世話をするというわけではなく、話を聞いてあげたり、季節ごとのイベントを開いたりと、ともすれば閉鎖的な環境になりがちな施設に外部からの刺激をもたらすのが主な活動なのだそうだ。

「私たちも色々、企画はしているのだけれど、やっぱり見知った顔ばかりだと飽きが来てしまうし、ねえ。笹原さんはとても熱心に活動に取り組んでくれていて、職員の間でもとっても評判がよくて、皆笹原さんのことを評価しているのよ」

 俺は直接笹原さんのことを知らないが、多分、真面目な子なのだろう。まあ、内申点狙いと下卑た見方をすることもできるが。

「そうなんですね。同じ南女の生徒として、とても誇らしく思います。それで、坂本さんはどこで『指切地蔵』を知ったのでしょうか?」

 篠塚さんの言葉に安住さんの瞳は激しく左右に揺れた。逡巡するように黙り込んだあと、

「あのね、これは最初に聞くべきだったことなのだけど、この調査結果はどういう形で公表されるのかしら?」

「……あ、あの……?」

 言われた瞬間こそ戸惑った表情を浮かべた篠塚さんだったが、すぐに安住さんの意図を悟ったようだ。

「今回の調査の主題は『指切地蔵』の発祥と、どのように拡散し、結果としてどのような社会現象が起こったか、ということですから、個人名や施設の名前が公表されることはありません」

「そう、なのね……あ、ごめんなさいね。うちの施設長、色々うるさい人だから」

 ぱたぱたと手を振り、安住さんは苦笑した。

「新庄君という、うちの職員だった男の子に聞いたと坂本さんは言っていたわ」

 安住さんには聞こえないように小さく舌打ちする。

『指切地蔵』は、坂本さんの郷里に伝わるナニか、という可能性も検討していた――『指切地蔵』は坂本さんの郷里から三真坂にやってきた――のだが、それは今ついえた。

「職員だった、というともうお辞めになったんですか?」

「そうなのよ。数日無断欠勤したかと思ったら、ある日突然電話で『辞めます』って言って、そのまま……まあ、辛いことも多い仕事だから、そういう辞め方をする人もいるんだけど、新庄君はそういうタイプには見えなかったから、驚いたわ」

 ここまで順調に来ていたが、手がかりが途切れた。

「新庄さんと連絡を取ることは、出来ないでしょうか?」

「うーん……難しいと思うわ。こちらでも全然連絡取れなかったから。もしかしたら履歴書は残っているかもしれないけれど、あなたたちに連絡先を教えるわけにもいかないし……」

「あの、横から口出しして申し訳ありません。新庄さんのフルネームと年齢はご存じですか?」

 事前に方針を篠塚さんと打ち合わせた際、今回の聞き取りでは俺は口出ししないことにしていたが、この情報は絶対に必要だ。

 怪訝な表情を浮かべる安住さんだったが、

「ああ、うちの学校の卒業生に、新庄という名前の先輩がいたんです。もし、その先輩だとしたら、学校の友人たちのルートから辿れるかもと思いまして」

 俺のでたらめに得心してくれたようで、篠塚さんが気を利かせて差し出した手帳に『新庄一馬』と書き記した。

「新庄一馬君。年齢は25歳。息子と同じ年だから、記憶に残ってるわ」

「ああ、じゃあ残念ですけど、違いますね。失礼しました」

 よし。あとは国家権力の出番だ。悠馬さんにこの情報を伝えて、後は結城家に投げてしまおう。このくらいは手伝ってもらっても罰は当たるまい。

 頷いて見せて、篠塚さんにバトンを戻す。

「新庄さんは都市伝説とか怖い話に興味のある方でしたか?」

「新庄君はうちに3か月しかいなかったから断言はできないけれど……そういう感じではなかったわね。坂本さんも、普段そういう話をしない新庄君から聞かされたから印象に残ったと仰っていたし……」

「坂本さんは『指切地蔵』の話をいつ頃聞いたのですか?」

「確か、新庄君が来なくなったのが、課外活動部が来てくれた日の前日だったから……1か月半前くらい前かしら」

 通り魔の最初の被害者が出たのは、1か月前だ。時系列的には不自然な点はない。

 その後いくつか質問したが、大した成果は得られず、俺と篠塚さんは安住さんにお礼を述べて緑陽園を辞去した。


『新庄一馬。25歳。1か月半前まで社会福祉法人緑陽会の老人ホーム緑陽園に勤務。現在の情報が知りたいです』

 調査の途中経過は一切告げず、端的なメールを悠馬さんに送付する。

 新庄一馬が『指切地蔵』に関連している可能性は、現時点では否定できない。

 直前に姿を消していること――特に拡散源となった課外活動部が緑陽園に来る前日に坂本さんに『指切地蔵』の話をしていること。

 坂本さんの記憶が鮮明なうちに課外活動部に『指切地蔵』を伝えさせ、やってきた人間を新庄一馬あるいは『指切地蔵』が襲っている、という絵図が書ける。

 ただ、やり方が運任せすぎるし、未だ疑いの段階だから仔細を悠馬さんに伝えることはしない。悠馬さん自身も長々とした報告を求めたりする人ではないし、頭のいい人だから『指切地蔵』の関係者だということは察してくれるはずだ。

 悠馬さんの探偵事務所所長という肩書は決して伊達ではない。本人の調査能力も高いし、国家権力の力も借りることができるから、それほど時間はかからないだろう。

『委細、承知した』

 すぐに返信がある。新庄一馬の方はこれでいいだろう。

 新庄一馬と『指切地蔵』が無関係だった――新庄一馬も『誰かから聞いた』という可能性を潰すため、『指切地蔵』の調査も進めなければならない。

 ただ、篠塚さんに『指切地蔵』と『通り魔』の件を結び付けられるわけにはいかないから、慎重に方針を選ばなければならない。

 赤信号で停車し、篠塚さんの方を見やると、自分の髪を一本、助手席の下に放るところだった。

 ……? 何してんの、この子?

 ……こいつ、あれか。自分の痕跡をロードスターに残そうとしてんのか。いや、出自を考えれば、何かしらの術式の触媒として使おうとしている可能性すらある。

 何してくれてんだ、こいつ。

 ひくつく頬の筋肉を抑えつつ、

「篠塚さん、安住さんの話を聞いてどう思った?」

 まずは、篠塚さんの動向を探ることにする。

 はっと顔を上げてこちらを見た篠塚さんは、ローファーで落とした髪の毛を座席の下の見つかりにくそうな所へ押し込もうとする。だからやめろって。

「……新庄さんという方と連絡が取れないのだとしたら、『指切地蔵』の発祥を探るのは難しい、という事になりますね」

「そうすると、同好会としての調査は終わり?」

「新庄さんの他に『指切地蔵』のルーツを辿れる、別の線があればいいんですが、私の手元にはそういった情報はありませんし……」

 新庄一馬、緑陽園の坂本さん、南女の笹原さん、南女の生徒、三商の生徒、西校の生徒――このラインの遡行の道は篠塚さんにとっては途絶えたという事になる。

「あ、でも、要さんと一緒だったら、他の手掛かりが見つけられそうな気がします」

 何かを期待するように潤んだ瞳でこちらを見上げる。

 勘に過ぎないが、情報の伝播の仕方から見ておそらく他のルートはない。

 辿るなら、新庄一馬か、『指切地蔵』そのものだ。

「篠塚さん、南女の生徒たちが『指切地蔵』にどういう願掛けをしたかはわかる? いや、そもそも何人くらいの生徒が『指切地蔵』と『指切』したのか知ってる?」

「あ、ちょっと待ってください」

 篠塚さんは嬉しそうに微笑んで鞄の中から無骨な黒い革張りの手帳を取り出した。

 ぺらぺらとページをめくっていた篠塚さんは、目的のページに書かれた文字をなぞるように指を動かす。

「ええと、ですね。『指切地蔵』のことを知っているのは、ほぼ全員と言っていいです。女子校は、情報の共有がはやいですから」

 それでも、速いな。

好事こうじ門をでず悪事は千里を行く』という言葉がある様に、噂でも内容によって伝播には速度差がある。

 特に三真坂市は内向きの同調圧力が強いから、このご時世でも流行っている怪談の情報がネット上に現れることはほぼないため、市内の怪談の類の拡散はあまり早くはないはずなのだが。

『指切地蔵』の巷間での知名度の低さから考えれば、南女での流行り方が異常ともいえるか。

「……課外活動部って、結構人数多い?」

「そうですね。南女は部活動の数が少ないですし、課外活動部への所属は学校側から推奨されていますから、生徒の3割くらいでしょうか」

 それは大所帯だ。なるほど、人数の多い部活で拡散したからか。

 怪談の流行は、初期にオカルト好きが飛びつき、その情報が影響力あるいは声の大きい誰かに伝わることで一気に知名度が上がり、いずれ衰退していく、という流れを辿る。無論、初期を乗り越えられずに消えていくものも多いが。

『指切地蔵』は初期を一気に吹っ飛ばして拡散したということか。

「実際に行ったのは?」

「南女で『指切地蔵』を行ったと確認できたのは、今のところ、2人ですね」

「――2人?」

 ほぼ全生徒が知っていて2人。少ないような気がするが、流入が1か月半前と考えれば、様子見が多くてもおかしくはないか。

 いや――2人?

「はい、2人です。何か?」

「いや、続けて」

 悠馬さんからの情報によると、南女の被害者は3人だった。

 ともかく、まずは篠塚さんの話を聞こう。

「2年生の、波多野先輩は南女にはちょっと珍しいタイプの、その、割と派手めな人なんですけど、『指切地蔵』に行って、『意中の男の子と両思いになりたい』と、願ったそうです」

 波多野五月。南女2年。

「それで、結果はどうだったのかな?」

「すぐに彼氏ができたと聞いています」

『指切地蔵』は願いを叶え――そして、代償として指を切った。

 その『事故』が何かを俺は知っているが、無論それを篠塚さんに教えるつもりはない。

「3年生の立花先輩はバレー部の部長で、結構指導方針が厳しい人だそうです。というのも、うちのバレー部は毎年1回戦突破を目標に掲げるような、あまり強くないチームなので、部長としても部の悲願を叶えたかったのだと思います。大会の前日にその願掛けをしたそうです」

 立花恵子。南女3年。

「それで、念願の2回戦進出を果たした、と」

「いえ、残念ながら、例年通り初戦敗退だったそうです」

 そう……よかったね。

 ――ん?

 ……は? 

「……負けた?」

「はい。『指切地蔵』は必ずしも願いを叶えてくれるというわけではないみたいですね。何か、条件があるのでしょうか?」

『指切地蔵』は、願いを叶えていないのに、指を切った?

「負けてしまったことがショックだったのか立花先輩は、最近学校を休んでいるみたいで……何かの事故に巻き込まれてしまったという噂もあるんですけど……」

 その『事故』が何かを俺は知っているが、それを篠塚さんに教えるわけにはいかない。

「あ、そういえば、波多野先輩も最近学校には来ていないって……」

「――藤野洋子っていう生徒は知ってる?」

「あ、波多野先輩と仲がいい人ですけど、どうして知ってるんですか?」

 藤野洋子。南女2年。

 波多野五月とともに『指切地蔵』の下を訪れ、指切をしたか。

 これで南女の被害者は出そろった。

 三商の生徒の情報はまだだが――

 ――それどころではない。


『指切地蔵』は、必ず願いを叶えてくれるわけではない?

 そして――


「篠塚さん。これから県立公園に戻る。お願いしたいことがあるから、ついてきて」

「え? あ、はい、かまいませんけど……」

 篠塚さんの返事を聞くより前に、俺はアクセルを踏み込んでいた。



 夕暮れ時のハイキングコース、その入り口に俺と篠塚さんは立っていた。

 閉園時間が近いせいか、人影はない。

「篠塚さん、『指切地蔵』に案内してもらっていい?」

「それはかまいませんけど……あの、要さん、それは?」

 歩き出した俺のやや斜め後ろについてくる篠塚さんの震え気味な声。肩越しに振り返ると、その困惑気な視線は俺がロードスターのトランクから持ち出した、真っ黒なビニール素材のゴルフバックに向いていた。

 まあ、当然の疑問だろう。自然公園でゴルフなんて罰当たりもいいとこだ。

 だが、ドライバーからパターまでの10本のクラブが中に入っているわけではない。

 大っぴらに持ち歩けないものを隠し持つためのカモフラージュだ。

「ああ、後で教えてあげるよ。だから気にしないで」

 笑顔を向けてそう言ったものの、ゴルフバックを背負って自然公園を歩く男というのも不自然か。今後は別の手段も用意しておくことにしよう。

 ただ、これから『指切地蔵』に対峙しようという今だけは、コレは絶対手元に必要だ。

「あ、はい……わかりました」

 余計なことを言わず素直に頷いた篠塚さんの手を握って、5センチ四方の石畳が敷き詰められた道を進む。

「え! えぇっ?!」

 背後から響く篠塚さんの声は、おそらく耳まで真っ赤に染めているのだろうなと思えるほどの動揺に満ちたものだったが、相手にしない。

 篠塚さんの手を引っ張る様に、まばらな木立と藪に取り囲まれた小広場へ向かう。

 道の左右はまばらな下生えと、幹の細い名も知らぬ木々が林立する。

 陽が落ちてきたせいか周囲はやや薄暗いが、足元が見えないというほどではない。

 小広場に到着し、今朝、樹と篠塚さんが出てきた木立の隙間に目をやる。

「ここだね?」

 まだ足を踏み入れた人数が少ないせいか、知っていないと気づけないな、これは。

「は、はい……」

 こちらが速足過ぎたためかちょっと息が上がっている篠塚さんに微笑みかけた。

「ありがとう。もうちょっと頑張って」

 額に汗を浮かべた篠塚さんは、存外に力強く頷いた。

 藪をかき分け、下生えを踏みつける。踏みしめて、『指切地蔵』の下へ。


「ここ、です……」

 額に汗を浮かべた篠塚さんの案内でたどり着いた『指切り地蔵』は、藪に踏み入れてからあっという間、おおよそ5分程度の場所に何食わぬ顔で立っていた。

『指切地蔵』

 その仔細を観察する。

 篠塚さんに見せてもらった写真の通りだ。

 つるりと剃りあがった頭に、やや色褪せた赤い前掛け、胸の前で両手をあわせ、その右手の小指だけが独立して立てられている。

 地蔵の肌は全体的に白っぽく、黒い小さな斑点が散っている。素材はおそらく御影石だろう。墓石なんかにも使われる奴だ。

 瞼を閉じ、口元にはうっすらと笑みを浮かべている。

 前掛けは篠塚さんが言っていた通り、元々は真紅だったのだろうが見る影もなく淡く色褪せ、ほつれと穴が目立ってみすぼらしいことこの上ない。

 身長は1メートルにやや満たないくらいか。胸の前で合掌し小指だけが立てられた状態だが、俺の知る限り何かの印を結んでいるというわけではなさそうだ。

 お地蔵様は道祖神としての役目もあるものだから、もともと誰が作成したか不詳のものが多い。素人が功徳を積むため或いは趣味のため、専門家・業者が宗教家等の依頼を受けて作成したもの等々、玉石混交だ。

 この『指切地蔵』の造作を見るに、素人の手慰みとは思えない。

 知識を持っている人間が、目的をもって作り上げたものだ。

 つい最近作られたものではなく、別の場所からここに移されてきた、もしくは――移ってきた。

 誰によって、或いは、どういう理由で?

 現時点では新庄一馬が原因、という事になるが……

「あ、あの、やっぱり、何か感じますか……?」

 恐る恐る、という風にこちらを見上げる篠塚さんに、あっさりと首を振って見せた。そういえば篠塚さんには説明していなかったか。

「いや、何も。そもそも俺には霊感なんて、ほぼないから」

「……え?!」

 心底驚いたような声をあげる篠塚さん。

 まあ、そうだろう。樹を知っていて、その従兄となれば霊感があって当然だと期待されても仕方がない。

 だが、今言った通り、俺には霊感などない。じい様によると『ないわけではない』が、樹と比べると『ないも同然』だそうだ。

 うちの一族で生来のシックスセンスがあるのは『本家』の人間だけだ。

『指切地蔵』が何かを類推することはできても、何かを感じることは俺にはできない。

 ――そうだ。一応聞いておかねばなるまい。

「篠塚さんは、霊感ある人?」

 顎に手を当てて思案する俺をじっと見つめていたらしい篠塚さんは、ぱっと目をそらして俯きつつ首を振った。

「お姉ちゃんは見えたり、感じたりしないわけではないらしいですけど……私は全然ダメです」

 まあ、ここでの様子を見る限り、そうだろうな。

 じい様にこの場に来てもらえば、たちまちのうちに問題は解決する。だが、それは言っても詮無い話だ。

 事態は急を要する。

 樹を、大事な『本家』の後継ぎを守るために、俺がどうにかするしかない。

 担いでいたゴルフバックのファスナーを開け、そこに納められていたものをずるりと引きずり取り出すと、一部始終を見ていた篠塚さんが目を丸くした。

「あの、要さん、それは……?」

 声を震わせて篠塚さんは言うが、別にそこまで怯えるようなものでもない。

「これ?」

 俺が篠塚さんに示して見せたのは、4キロの鉄塊を1メートル程のステンレス製の長柄の先端に備えたハンマー――工事現場などでコンクリートを人力で破砕するために使われるもので――俺が1歳の時に亡くなった『本家』のばあ様から俺に相続された。

「スレッジハンマーっていうんだけど、見たことない?」

 じい様の下に寄せられる心霊調査の依頼を手伝うようになった中学の時にこのスレッジハンマーを実際に受け取って、それ以降、愛用している。

 何がいいって――


 ――


「ちょっと、離れてて」

 篠塚さんに下がるよう指示して、

「――ふっ!」

 篠塚さんの答えを待たず、ハンマーヘッドを背中側から半回転するようにして振り上げ、腕力と慣性が複合した勢いでもって『指切地蔵』の眉間に叩きつける。

 がぃんっ

「きゃあっ?!」

 響いた轟音と篠塚さんの悲鳴と同時、インパクトの瞬間緩めた俺の手元にもたらされたのはやけに硬い、手首の骨に響くような――ハンマーが弾き返された感触だった。

『指切地蔵』の頭部には、ヒビ一つ入っていない。

 御影石――花崗岩の別名である石材は、硬く耐久性に優れるとされるが、さすがにハンマーの一撃を無傷で受け止めるほどではない。

『指切地蔵』に背を向け、肩の高さに掲げたハンマーを振り向きざまに水平に叩き付ける。

 だが、重量のあるハンマーヘッドは弾き返されるばかりで地蔵の表面が欠ける気配すらない。

 ならばと、脆弱であろう小指の部分にピンポイントにハンマーを振り下ろすも、びくともしない。

 腕の筋肉と手首関節の痛みに辟易しながら、心中で舌打ちする。

 このハンマーを手にした直後、『性能を試す』と称して様々なものを衝動のままにハンマーで破壊して回ったことがある。

 それが尋常のものなら砕けないものはなかった。ハンマーヘッドに傷すらつかなかった。

 それなのに。

「参ったな……壊れないのかよ」

 ぎろりとにらみつけるが『指切地蔵』はすました表情を浮かべたままだ。

『指切地蔵』は、破壊できない。

 俺は筋骨隆々というわけではないが、それなりに鍛えてはいる。

 その全力でもってスレッジハンマーを振るった結果がこれだ。

「傷一つ、ないですね。どうして……?」

 近くの木陰にずっと避難していた篠塚さんが眼鏡のブリッジを人差指で押し上げながら、『指切地蔵』の側にかがみこんだ。

 答えは明白だ。

』だからだ。

「……ああ。普通は、壊れるはずなんだけどね。頑丈な素材でできているみたいだね」

 世の中そう甘くはないらしい。


『怪異』には幾つかの類型がある。

『問答型』『憑依型』等で、この『指切り地蔵』はおそらく『秩序型』の『怪異』。

 一度関わったならば、特定のルールに則り粛々と進行する『怪異』だ。

 力技でどうこうすることは難しく、そのルールがどれほど理不尽でも、そう易々と逃れることはできない。

 このような『怪異』を相手取る場合、大事なのは何よりもまず『ルール』を把握することだ。

 幸いにも『指切り地蔵』のルールは、類推するに簡単だ。


1,『指切り地蔵』と指切りをする。

2,『指切地蔵』に指を切られる。


 それで『怪異』は終息する。

 被害者が再襲撃に遭ったという話を悠馬さんはしていなかったから、おそらく間違いない。

 憎らしいほどにシンプルだ。

 ゆえに――関係を断つのが難しい。

 願いを叶えてくれるわけではないことを考慮すると理不尽に感じられるが、『トイレの花子さん』の怪談を思い起こせば納得する他ない。

 学校の3階のトイレの、3番目の個室を3回ノックして、『花子さん、遊びましょう』と声をかけて扉を開ける。扉の向こうには赤いスカートを履いたおかっぱ頭の少女がいて、トイレに引きずり込まれる。

 花子さんを呼び出した人間の利得は何もない。

 ルールに従った結果待っているのは、目も当てられない結末だけだ。

 好奇心は猫をも殺す。そういうことだ。

『トイレの花子さんを呼び出したら、花子さんが願いを叶えてくれる』

 誘蛾灯のごとく、獲物を引き寄せるべく改変された、出来の悪い怪異譚が『指切地蔵』なのだ。

 幸いにも、『指切地蔵』は花子さんのようにその場で『2』に移行するわけではなく、時間の猶予がある。

『指切地蔵』は夜陰に紛れてやって来るから、それほど長い猶予というわけはないが。

『本家』の跡取り娘である樹はすでに『指切地蔵』と『指切』をしてしまっている。

 ならば、俺がやるべきことはただ一つだ。いや、元々そのつもりであったのだが。

 こちらの言葉を待つように俺を見上げている篠塚さん。

 コミュ障だが地味美人で巨乳、さらにオカルトも話せる。

 良き『友人』になれるかもしれないと思ったりもする。だが『友人』と『本家の娘』を天秤にかけたなら、どちらに傾くかは自明のことだ。

「篠塚さん、今日は協力ありがとう」

 言いつつ篠塚さんの頭を撫でる。必要以上に撫でる。

「え……あの、要さん?!」

 顔を真っ赤にして頓狂な声をあげるが、地道な好感度稼ぎが功を奏したのか、されるがままの篠塚さんの頭をさらに撫でる。執拗に撫でる。

 撫でる手がお互いの体温で火照りだした頃、

「篠塚さん……いや、雪ちゃん、これから俺がいうことに『はい』と答えてくれるかな?」

 真摯と見えるように作った表情を篠塚さんに向ける。

「……ど、どうしてですか?」

「『指切地蔵』の調査のため、必要なことなんだ。駄目かな?」

 篠塚さんの手をとり、ぎゅっと、その、汗で若干湿った手を握りしめる。相変わらず顔を朱に染めた篠塚さんは上下左右、忙しなく眼球を動かした後、かくんと首をうなだれて、それから何度も頷いた。

「あ、はい……私は、これから、要さんがいうことにすべてに『はい』とこたえます。な、なんでも、言うことをききます……要さんのいいなりです」

 いや、そこまでは望んでない。ほんと、距離感の詰め方が狂ってるな。

「うん、ありがとう」

 内心はともかく笑顔を浮かべ、軽く篠塚さんの頬を撫でる。

「……ひぃんっ?!」

 馬のようにいなないた篠塚さんから、視線を『指切地蔵』に向ける。

 確約は、得た。

 俺は『指切り地蔵』の小指に自分の小指をからめる。そして、

「俺は篠塚雪ちゃんと付き合いたい。指切りげんまん、願い事かなえてくれないと針千本のーます。指切った!」

 そういって『指切り地蔵』と指切りをした。『指切り地蔵』には何の変化もない。いや、俺に見て取れる変化は何もない、と言うべきか。

 俺は血管の破裂が心配になるほど、顔を真っ赤にして硬直している篠塚さんにむきあい、

「俺と付き合って下さい!!」

 子供の頃、母が趣味でよく見ていたテレビの集団見合い番組並の勢いで右手を差し出して頭を下げた。

「え、ええええええっ?!」

 頬に両手をあてぶんぶんと首を振る篠塚さん。

 同時にスマホが狂ったような勢いで振動を始める。また、例の篠塚さんのアレか。

 壊れた扇風機のように首を振っていた篠塚さんだが、俺との約束を思い出したのか、こくりと頷くとか細い声で呟いた。

「は、はい」

 篠塚さんが差し出した震える手を、捕まえるようにして握りしめる。

 これで、俺が『指切地蔵』に懇願した願いは果たされた。まあ、これは単に篠塚さんに、『指切』しただけで『指切地蔵』が指を切りにやってくる、という事を悟らせないための『噂話通り』のパフォーマンスに過ぎないわけだが。

 俺は素早く『指切地蔵』に視線を向ける。が、そこに変化はない。

 ……何故だ。次の『犠牲者』を見つけたはずだろう。どうして何も反応しない。舌舐めずりくらい、して見せろよ。

『零』感である俺は、与える影響も少ないが、与えられる影響も同様に少ない。

 樹にむいた矛先を無理やり俺の方に向けさせる。

 いつものことだ。

 ただ、いつもならば、俺がデコイとなり、じい様が始末をつけるというのが俺たちのセオリーなのだが、じい様は今、老人会の慰安旅行で四国に行っている。

 だから俺単独でどうにかしなければならない。

 一応、もしもの時の為の『避難所』は準備してもらっているから、今夜一晩くらいはなんとかなるだろう。多分。いや、何とかするのだ。樹を守るために。

『分家』の俺の、この命に代えても。



「とりあえず、今日やるつもりだったことは終わったから、帰ろうか」

「え……あ、はい」

 どんな育ちをしたらここまで男に免疫がないコミュ障女子高生に育つのだろうと疑問に思いつつ、駐車場に向かう道中で先程交際を申し込んだのは調査のためだと篠塚さんに説明し、謝罪した。

『指切地蔵』に願いをかなえてもらった後、『指切地蔵』や願掛けをした人間にどういう現象が起こるのか、何も起こらないのか、そういう検証のためという理由をでっちあげたのは、篠塚さんに『指切地蔵』と通り魔を結び付けさせる情報を開示するのは早いと判断したからだ。

「そうです、よね……勘違いしそうになってしまいました……」

 途端に項垂れる篠塚さん。びっくりするくらいの勢いで血の気が引いていく。この子の血管と心臓が大変だ。

 ……この子の心臓、大丈夫かな。若くして不整脈になったりしないんだろうか。

 ちなみに先程の連続振動は文字化けメール60通の爆撃だった。ついでに『通知不可能』が今度は2件。

『電化製品と相性が悪い』という、篠塚さんの特異体質だ。

「わかりました。彼女の振り、ですね……」

 ぼそぼそと呟く篠塚さん。

 こちらの意図をきちんと理解してくれた上で、受け入れてくれた篠塚さんの、その背で揺れる三つ編みを見つめながら俺は思う。

 ああ、よかった。篠塚さんは気づいていない。

 樹に向かうであろう矛先を、今はとりあえず俺に向けた。

 その裏で、俺や樹の代わりに篠塚さんを『指切地蔵』に差し出して時間稼ぎをする算段はないだろうかと思案している俺に、篠塚さんは気づいていない。

 あの場で篠塚さんに無理やり『指切』させる理由がなかったから、仕方なく自分でやったが、この様子だったら力づくでもよかったなと後悔している俺に、篠塚さんは気づいていない。

 それほどに俺の命の天秤は歪んでいることに、篠塚さんは気づいていない。

 俺のスマホがぶるぶると震え、メッセージの着信を知らせた。

 今度は1回だけだから、『篠塚アタック』ではないだろう。

「あ、ちょっとごめんね。メッセージ来たから、確認させて」

 最低限のマナーとして篠塚さんに声をかけ、樹からか!? と心躍らせながらスマホをタップしたのだが、メールの送信主は樹ではなかった。

『篠塚雪です。演技っていうのはわかりましたけど、やっぱりそれなりに恋人っぽく振舞っていないとまずいですよね? だからメール送りました。だって、私、要さんの彼女になったので!』

 一瞬フリーズした後、俯いたまま隣を歩く篠塚さんを見下ろした。

 篠塚さんは俯いたまま、

「……彼女の振り、彼女の振り……」

 何やら不気味に呟いている。

 ……篠塚さんにスマホのメールアドレスは教えてない。教えてないぞ。

 ああ、事前に樹が教えていた可能性もある……か?

『彼女っぽく振舞うために、手をつないで歩くのとかどうでしょう?』

 今度はショートメッセージが届いた。

 ……スマホの番号も、教えてない。いや、これも樹か……?

『指をからめた恋人つなぎとか、憧れてたんです』

 今度はLINE。しかも新グループでのメッセージ。

 うすら寒い何かが、背筋をかけ登っていく。

 教えてない。樹にすら、LINEのIDは教えてない。樹にはLINEはやってないと話している。というか、身内に俺がLINEをやっていることを知っている人間はいない。

 これは……どういうことだ?

『電化製品と相性が悪い』

 そういうレベルじゃない。

 左隣を歩く篠塚さんの左手は鞄を下げていて、右手は不自然な角度で、まるで何かを要求するように遠慮がちに俺の方に差し出されている。

 ざわり、とうなじの産毛が総毛立つ。


 

 篠塚さん、さっきから一度もスマホに触ってない。触ってないぞ……!


 なら、このメッセージはどうやって……という疑問を俺はすぐに脳裏から叩き出した。

 遅延だ。遅延に違いない。そうに違いない。

『彼女と言えばおはようとおやすみの挨拶ですよね! 要さんの就寝と起床の時間を教えてください!』

『カモフラージュのためにデートも必要ですよね! 要さんは、休日どこに出掛けているんですか?』

『私、あまりファッションの知識はないのですけど、要さん好みの女になりたいです! どういう女性が好みなんですか?』

 だが、無情にもスマホは、Eメール、SMS、LINEの順番で大体30秒おきに篠塚さんからのメッセージの着信を告げる。

 なんだこの……ほんと、なんだこの、怒涛のメッセージは?

 ていうか口で言えよ。

 メッセージの着信の合間を縫って樹にメールを送る。

『篠塚さんて、どういう子?』

 さすがにもう映画は終わったのだろう。樹からの返信はすぐにあった。

『雪ちゃんは真面目で一途な子なんだよ! 優しくて美人でスタイルもいいから、よその高校の男子に盗撮されちゃったりして、大変なんだよ!』

 異性経験なさすぎのチョロい女だとはバレていないようだ。

『でもね雪ちゃんの盗撮画像を配ってた男の子は、全裸でスクワットしている恥ずかしい動画が流出しちゃったんだって!』

 ……おい。おい。

『天罰覿面だね! 要にい、雪ちゃんとは仲良くしてあげてね! 怖い話できるお友達がいないみたいだから! あ、私、佐野君たちとファミレスでご飯中だから、じゃあまたね!』

 いやいや、勘弁してくれよ……

 何が『霊感はない』だ。

 霊感以外の『特殊技能』持ちじゃねえか。

 樹が話題に出してくるのだからほぼ間違いない。

 しかもこれまで接した感じ、篠塚さんは一度心を許した男に対する依存度が爆上がりの隠れメンヘラ気質で――こういうタイプは、裏切られたと感じたならば刃物を持ち出してもおかしくない。

 迂闊……!

 迂闊にも地雷を踏んだ。

 穏便に……どうにか穏便にやり過ごして、『指切地蔵』が片付いたら『処理』する他ない。

「……篠塚さん、さっきから、メールくれているのかな?」

 知らず、恐る恐るといった態になった俺の言葉に、

「はい。振りとはいえ……彼女ですから。きちんと、役目を全うしないと」

 小さな声で恥ずかしそうに答える篠塚さんの脳天にスレッジハンマーを振り下ろしたい。

「あ、ご迷惑……でしたか? お姉ちゃんにも、他人との適切な距離感を考えなさいって、言われることがあって」

 分かってんなら矯正しとけよ、魔女め。

「……そう。『偽彼女』を演じるために、そこまでしてくれてありがとう。でも、篠塚さんにあまり迷惑をかけたくないんだ。だから、あまり気にしないでいいし、この『偽彼女』のことは誰にも話さないようにね。あと、この問題が解決したら、全部なかったことにしようね。『偽彼女』だから。それが篠塚さんのためだから」

 早口で、『偽彼女』に強めのイントネーションを置いて言う。篠塚さんの中の入れてはいけないスイッチを刺激する可能性はあったが、ここはきちんと線を引いておかないと、俺の『恥ずかしい動画』がリベンジ拡散されてしまうかもしれない。

 前髪の隙間から上目遣いにこちらを見た篠塚さんは、こくりと小さく頷いた。

「大丈夫です。わきまえてます、から……」

 本当か? 本当だよな?

 胸倉を掴んで脳味噌をシェイクしながら詰問したいところだが、さすがにそれはやめておいた。

 だが、駐車場に着くまでの間、きっちり一分間隔おきにスマホはメッセージの着信を告げたのだった。

 わきまえてねえじゃねえか。



「最寄り駅まで送るよ」

 そう告げた俺は、きっとかなりひきつった表情を浮かべていたはずだが、ロードスターの助手席に乗りこんだ篠塚さんは、それを意に介した様子もなく、頬をうっすら赤く染めつつ微笑んだ。

「ここはもう、『偽彼女』の……私の『指定席』なんですね……!」

 その時感じた空恐ろしさを、なんと表現すればよいのだろうか。

 俺の周りの女は、どうして突如として隠していた本性をさらけ出すのか。

 裏表のない、開放的な樹がどれほど貴重な存在かを噛み締めつつ、アクセルを踏み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る