指切地蔵 序

 ごとん…… ごとん……


「はぁっ……はぁっ……」

 息を乱し、駆けながら肩越しに振り返った暗闇の向こう。

 視線の先に延びているのは、人が二人、肩を寄せ合ってやっと通れるかどうかという程度の幅の路地。

 まばらな間隔で壁に設置された裸電球の灯火に照らされて浮かび上がるのは、乱雑に並べられた青いゴミのポリバケツと、積み上げられた黄色いビールケース。

 視界の端でボブカットの毛先が、不規則な呼吸に合わせるように右に跳ねては左に跳ねる。


 ごとん…… ごとん……


 一定周期で鼓膜を揺らす重低音。

 硬質なもの同士をぶつけ合わせるようなその音は、背後の闇の中から響いてきていた。

 墨で塗りつぶしたような一面の黒の奥、その音の源は判然としない。

 けれど、その音は、間違いなく、少しずつ、大きくなってきていた。

 こちらに……近づいてきていた。確実に。


「なん……なのっ……?! なんなのよ、あれっ……?!」


 乾いた喉から喘鳴とともに言葉が漏れた。

 普段あまり運動などしていないせいだろうか、脇腹に鈍い痛みが走った。

 このまま、どれだけ走っていられるのか。酸素不足の脳ではそれを推測することすらおぼつかなかった。


 なんで……なんで、こんなことに……


 刺激のない、退屈で、でも、いつも通りの高校生活を今日も送って、それで、明日を迎えるはずだった。

 あの、日本語を覚えたての外人が発したような、たどたどしい言葉さえ、聞こえてこなければ。


「ユび、オくれ」


 帰宅時間には大半が閉店している寂しい駅前商店街。いつもの通学路。

 そこで聞こえてきた、金属同士を擦り合わせたような、耳障りなしゃがれた細い声。

 思わず振り向いて、人気の全くないアーケード街の真ん中にぽつんと鎮座するアレを見て――何かを考えるよりも先に本能的に駆けだしていた。


 なんなの……なんなの? なんなのっ?!


 近道だからと、いつも使っているアーケード街の途中の小道に飛び込んだのは失敗だった。

 雑居ビルと商店の二階を自宅に使っている人たちが使う裏路地に人影はなかった。元々この時間帯は人通りの少ない道だ。けれど、声を上げれば誰かは気づいてくれるかもしれなかった。

 だが、目下のところ心肺機能は酸素の取入れに集中していて大声を上げる余裕はなかった。

 立ち止まって休憩でもしようものなら……アレに追いつかれる。


 切っ掛けは学内で聞いた、些細な噂だった。

 その地蔵に指切りすれば願いが叶うとかいう、そんな、たわいもない。

 本気なわけじゃ、なかった。

 軽い願掛けだった。遊びの延長だった。

 なんなら、いまから願いを取り消してもいい。

 そう言ったら、アレは納得してくれるだろうか。


「ユび、オくれ」


 それが望み薄であろうというのは、その硬質な声で否応なく痛感した。

 何故なのだろう。分不相応を望んだわけではない。

 ただ、安心が欲しかった。

 毎朝のワイドニュースの占いにあったラッキーアイテムを持ち歩こう、そんな程度の気持ちだったのに。

 どうして、こんなことになったのだろう。

「……っあ?!」

 余計なことを考えて酸素を消費していたせいか、足がもつれ前のめりに転倒した。受け身も取れず顔面からアスファルトに激突し、鼻の奥から後頭部へ、鋭い痛みが突き抜けた。

 衝撃とともに視界に光が弾け、一瞬意識が飛んだ。すぐに意識は戻ったが、生暖かい何かがぬるりと顔を覆っていた。それがおびただしい量の鼻血であると認識しつつ体を起こした時、アレは、いつの間にか、側にいた。


「ユび、オくれ」


 溢れ出た涙で歪む視界。涙が途切れた一瞬に、アレは映り込んだ。

 見覚えがあった。いや、おそらくは誰でもがどこかで見かけたことがあるだろう。

 苔むした頬。赤い前掛け。


「ユび、オくれ。ユび、オくれ。ユび、オくれ。ユび、オくれ。ユび、オくれ。ユび、オくれ。ユび、オくれ。ユび、オくれ」


 機械的に、或いは稚拙に繰り返される同じ言葉。


 指切……地蔵……


 追跡者は地蔵、だった。

 路傍の社に祀られていそうな、ありきたりな。

 誰もが、見慣れていそうな。

 慈愛に満ちた微笑を浮かべているように見える石造りの地蔵。


 どうして、こんなことに……

 これは……もしかして、罰なのだろうか……

 たわいもない遊びをしたことの……


「ユびぃぃぃ、オくれぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」

 腹の底に響くような怒号とともに石に彫り込まれただけのはずの地蔵の口ががぱっと開き、そこからサメのような鋭い歯列と血のように真っ赤な口腔がのぞいた。


 い、いやああぁぁぁぁぁっ!!


 少女のか細い絶叫は、暗夜にぐるりと飲まれて消えた。

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