神楽舞 うしろの口裂け女


 姿見を前に、くるりと一回転。

 そうして確認する。

 優雅に見える所作ができているかな。

『王子様』にきちんと変身できているかな。

 一つ一つ動作を確かめる。

 昔はあんなに嫌いだった鏡を、こんなにも熱心に見るようになるとは思わなかった。

 人生というのは、どんなふうに転ぶか分からないものだ。

 それもこれも、全てはかなめ君のおかげ。

 要君がいてくれたからこそ、今の私がある。

 中学生以前の私は、自分のことが、嫌いで、嫌いで、しようがなかった。

 私は何もしていないのに、悪意が私に擦り寄ってくる。

 今ならわかるが、何もしていないことが駄目だったのだと思う。でも、無力で無気力な私には、何もできなかった。

 そんな私を、救ってくれたのが要君。

 要君は、私の救世主。

 そんな要君に、今日は会うことができる。

 そう、今日一コマ目の法学概論Ⅱの講義は要君も受講している。

 鏡をのぞき込んで前髪の毛先をいじる。

 髪型は変じゃないかな?

 メイクはきちんとできているかな?

 服は――いつもの白いワイシャツだけれど、要君の隣に座るときだけ、一つボタンを多く置けてみようかな?

 要君は、私を見つめてくれるかな?

 あ、グロスより、ルージュの方がいいだろうか。

 ひとつ気になるところが出てくると、色々なものが気になってくる。

 でも、こだわるあまりに遅刻しては本末転倒だ。

 法学概論Ⅱの田崎先生は途中入室を決して認めてくれないから。

 ――よし、行こう。


 もうすっかり自宅より過ごす時間が長くなっている『オカルト研究部』の扉を開けると、

神楽かぐら様、おはようございます!」

「神楽様、おはようございます!」

「神楽様、おはようございます!」

 ――

 8人ほどの女の子――ファンの子たちが私を出迎えてくれる。

「やあ、おはよう、三雲さん。宮村さんも、おはよう――」

 笑顔で、一人一人の名前を呼び、目を見つめながら挨拶を返していく。

 その度に彼女たちは黄色い歓声を上げ、頬を染めてくれる。

 コツは、誰か一人をひいきしないこと、それでいて大切にされている、気にかけられていると思わせてあげること。

 人間嫌いだった私が、いつの間にやら『ひとたらし』のようになってしまった。

 でも、必要なことだったのだ。

 小中学生の頃は他人が怖くてしようがなかった。

 男の人や男の子は私に触りたがるし、女の人や女の子は心無い言葉で私を傷つける。

 こんな容姿で生まれてきたいと望んだわけではない。異性にもてたいと望んだわけではない。

 俯いて生きていた私が、顔を上げることができたのは、要君とおじい様のおかげだ。

 2人は私に教えてくれた。

『怖いもの』は分解して、分析する。

 味方につけられるものは味方にして、味方にできないものは排除する。

『王子様』になれば、その理想を裏切らない限り、女の子は味方になってくれる。そうすると男の子も寄ってこない。

 彼女たちは私を護る矛であり、盾である。


 女の子たちを引き連れて講義棟に向かう道中、

「神楽様、髪型を変えてみたのですけど、どうですか?」

「ああ、勿論気づいていたよ。よく似合っているね」

「神楽様、駅前にできたパン屋さんのベーグル、とても美味しかったんで、おススメです!」

「ああ、あそこ気になっていたんだ。買いに行ってみるよ、ありがとう」

 私の隣を歩く女の子は一言言葉を交わすたび、くるくると目まぐるしく入れ替わっていく。

 そういうルールがあるみたいで、陰で『神楽総回診』と言われていると要君がこの間教えてくれた。

 彼女たちに応対しながら、私は自分がボットになったような錯覚に陥ってしまう。

 私が返すのは、女の子の言葉に対する肯定的定型文。簡素であることが肝要だと心がけている。

 不思議だなあと思うのは、彼氏に対しては『察してほしい』と我がままを言う女の子も、私に対しては率直に自分の希望を言う。

 これは、私に求められているのは『疑似彼氏』であり『高嶺の花』であるからなのだろうと分析して行動しているのだけど、外れていたらどうしよう。

 今はファンクラブの子たちを失うわけにはいかないから、悩みは尽きない。


 階段状の大講義室、要君はいつも壇上から見て左側の中段あたりを定位置にしている。

 要君は、知人はそれなりにいるけれど、友達はいない。中学時代からそう。

 本人は気づいていないみたいだけれど、拒絶オーラがすごい。

『パーソナルスペースへの立ち入りは断固として許さない。立ち入ったらただでは済まさない』という、野生動物じみた鋼鉄の意志。

 だから、要君は今日も1人で座っている。

 すでにそれなりに生徒は集まっているにも関わらず、生協で買わされる参考文献を睨むように読みふけっている要君の周りには誰もいない。

 でも――私はそのパーソナルスペースの中に入ることができる。

「やあやあ、要。今日も私の席の隣に先回りするなんて、私のことが大好きだな!」

「はあ? 寝ぼけてんのか、設楽したら。先に座っていたのは俺だ。お前がどこに座るかなんて、知ったことか」

 目線を上げて、面倒くさそうに要君は言う。

 設楽。ただ名前を呼んでくれたこと、ただそれだけのことが、とても嬉しい。

 高校時代のほぼ三年間、疎遠になっていたことが、嘘みたいで。

「要は素直じゃないな。本当は私を待っていたんだろう?」

 高校時代にすれ違ってしまった要君との関係が改善して以降、同じ講義の時は要君の隣に座るようにしているけど、要君が席を大きく移動したり、私を避ける様子はない。

 一度など、要君が渋滞でちょっと遅れたために私の方が先に講義室についてしまって、平静を装いつつ戦々恐々、待っていたのだけど、要君はこちらを一瞥しただけで私の隣――『いつもの定位置』に腰かけてくれた。

 それが、とっても嬉しかった。

「そんなわけあるか。この辺りの席はいつもすいている。それだけだ」

 それは要君のせいなんだと思うよ?

 私が指示したわけではないけど、暗黙の了解というか、ファンクラブの女の子たちが私たちの前後左右を囲むように展開しているから、今さら要君は逃げられない。

 どうしよう。もうちょっと攻めても大丈夫かな?

「何を読んでいるんだい、要」

 物理的な距離が近くなれば心理的な距離も近くなる――ボッサードの法則が適用されることを期待して、私は要君に肩を寄せる。

 びくりと体を震わせた要君は、物凄く嫌そうな顔で追い払うように手を振るった。

「離れろ。体温が気持ち悪い」

 体温が気持ち悪い! 私の体温はちゃんと要君に伝わっている! これってもう抱きしめあったのと同じじゃないかな!

「ふふふ、でも知っているよ、要。私が読んでいるのと同じ本をわざわざ買ってしまうくらい、私のことが実は大好きなんだろう?」

 嬉しすぎてちょっと錯乱してしまった。自分でも何を言っているのか分からないけど、

「これは指定の参考書だろうが。お前の頭蓋骨の中には泥団子が詰まってんのか」

 こんな、たわいもない会話が、楽しくてしようがない。

 中学生の頃とはちょっと方向性が違うけれど、それでも明日が、要君と会える明日が待ち遠しくなる日々が戻ってきたことが嬉しい。

 がらりと講義室のドアがスライドし、先生が入ってきたので要君にちょっかいを出すのは止める。

『王子様』は真面目に講義を受けないといけないし、ファンクラブの皆の前で肩を寄せるのはちょっと攻めすぎだったかも。

 一時、ファンクラブの女の子たちの間で要君の扱いについて議論が行われたことがあったそうだ。

 結果、ファンクラブでの要君の評価は『ヘタレ童貞かつ従妹を溺愛している変態ゆえに無害で、神楽様の友人たりうる童貞』で決着したのだと、女の子の誰かが教えてくれた。

 要君はヘタレではないし、樹ちゃんへの愛情は親族に対するそれを逸脱するものではないけど、それは私だけが知っていればいいことだ。

 要君の魅力は、私だけが知っていればいい。

 でも――なんで童貞を二回も使うんだろう? いや、そもそも要君は本当に童貞なのかな? 要君の『初めて』……

 ああ、ちょっと脱線しちゃった。

 他の男の子と違って、要君は下心をもって私に接しているわけではない、というのがファンクラブの女の子たちの共通理解となったのだけど、それでも一部過激派から男の子を私の周囲より排除すべしという強い主張があったそうだ。

『排除派』と『傍観派』が喧々諤々の議論を交わした結果、『神楽様に手を出さないなら、ファンクラブも手出しをしない』という結論に落ち着いたとか。

 それでも、要君の私に対する『暴言』を理由に排除を主張している子はいるみたい。

 私は気にしていないのに。それどころか、気安く接してもらえている感じがして嬉しいのに。

 ――ファンクラブはいずれどう手仕舞いしようか。まあ――『失踪』してしまうのが一番手っ取り早いかな。

 髪型や化粧を変えてしまえば、誤魔化せないことはないだろうし。

 いっそ昔みたいな『貞子』スタイルに戻ってもいい。

 要君さえ私のものになるのならば、ファンクラブはもう必要ない。

 それどころか、他のものは全て捨ててしまってかまわない。

 要君以外は、何もいらない。


「じゃあな、設楽」

 講義が終わると要君はさっさと立ち上がる。要君の次の講義は第二外国語のドイツ語だ。

 私はフランス語を選択してしまった。なんだか『王子様』っぽかったから。でもドイツ語でもよかったかな。浅い人生経験だと、後悔ばかりだ。

「ああ、また後でね、要」

 私は二コマ目に講義はない。

『神楽様のプライベートな時間は、遠くからお姿を眺めるのみ』というのがファンクラブのルールになっているみたい。だから、一人一人と挨拶を交わしたのち、講義室でファンクラブの子たちは解散した。

 さて。

 私はドイツ語等の外国語の授業が行われる視聴覚教室がある第二講義棟に向かう。

 時折すれ違う女の子たちには、笑顔で軽く手を振ってあげる。

 男の子からの視線は今でも感じるが、ナンパ目的で声をかけられることはなくなった。

 今でも私の後方では、講義がないファンクラブの子らが目を光らせてくれているから。

 色々な視線をかき分けた末に、廊下の先に要君の背中を見つけて、目を細める。

 その背中に――本来、そこにあってはならないものを認めて。


 要君の背後――五メートルくらいのところを、真っ赤なコートを着た女が歩いている。


 私と同じくらい長身で、その腰あたりまである黒髪はぼさぼさだ。

 靴は履いておらず、血のような色合いのコートの裾から覗く足は、不自然なほどに真っ白い。

 顔の半分を覆う大きなマスクをつけ、猫背気味なために上目遣いで要君の背中を虚ろに見つめている。

 廊下の角を曲がってきた男の子が、赤いコートの女に真っ正面からぶつかり――そのまますり抜けた。

 男の子は眉根を寄せて立ち止まり、身震いしながら周囲を見回したあと、首を傾げて歩き出した。

 明らかに不審な赤いコートの女に視線を向けている人はいないし、要君も気づいていない。

 おじい様は凄い霊能力者だけれど、要君は『零』感で、霊などの『怪異』を視ることはできないから。

 人ならざる、赤いコートの女――

 女は――刃の錆びた鎌を両手にぶら下げた赤いコートの女は、足音もなく、要君の後をついていく。


 赤いコートの女の姿を初めて見たのは昨日の朝のことだ。

 最初は、要君とおじい様のところに『厄介事』が持ち込まれて、その影響なのかなと思った。

 でも、それなら私に把握できていないのはおかしい。要君の動向はいつどこで何をしていたか、学内の生協でどのおにぎりを買ったのか、そういうレベルでさえファンクラブの子たちを通して、全て私に集約されている。

 ならば、イレギュラーな事態が起こっていると考えるしかない。

 後をつけていた赤いコートの女は、要君が自宅で昼食をとる為に大学を出ると掻き消えるようにいなくなった。

 そして、午後に要君が大学構内に入ってくると、どこからともなく姿を現した。

 見かける度、徐々に要君に近づいている。

 学内でしか動けない、何かしらの『怪異』?


 県立大学には他の学校みたいに、受け継がれている怪談がいくつかある。

『講義棟の地下物置で視線を感じたら、振り向いてはならない。そこで首つり自殺した講師がこちらをじっと見下ろしているから』

『キャンパス北西の端にある『入らずの藪』に踏み入ると、神隠しに遭って帰ってこられなくなる』

『理学棟の北エレベーターを深夜に使うと『1.5階』で止まることがある。すぐに扉を閉めないと顔のただれた男が乗り込んできて硫酸を浴びせかけられる』

 などなどで、その大半は『事件怪談』の範疇に収まる。

『事件怪談』――そこで過去に起こった事件・事故が結びついていつの間にか『怪談』として流布される。私は勝手にそう定義している。

 講義棟の地下物置で過去に自殺者が出たのは本当だし、『入らずの藪』では冬に酔っ払った学生が凍死したことがあって、その死体は春まで見つからなかった。研究室内での痴情のもつれで、薬品を腕に浴びせかけられたという事例もあったみたい。

 でも、インターネットの普及で『事件怪談』のようにルーツを辿れるものではない、『事実無根』――いわゆる創作系の都市伝説・怪談は流行らなくなったように思う。誰もが事実関係を手軽に調べられるから、一度『嘘』のレッテルを貼られてしまうとウェブの海に沈んで浮上できない。以前は『嘘』でも娯楽として語られていたのだろうに。

 信憑性の確認が手軽になった、ということもあるけど、何よりもインターネットの普及で『怪談』が溢れていることがもう一つの要因だと思う。私は今でも都市伝説・怪談系のサイトを巡回しているけど、私が『怖い』と思った話でもそこのサイトの外には広まっていないことが多い。

 都市伝説・怪談が飽和し、娯楽としての価値も落ちた――落ちたというより、他の娯楽が増えすぎてあまり目を向けられなくなったという感じかな?

 今でもネットに『固有名詞』で残っているのは、ネットで様々な怪談の拡散が始まった黎明期と、それより以前にインパクトが強かったものだけのような気がする。

 そして、県立大学の怪談には、『固有名詞』が存在しない。

『トイレの花子さん』すらいない。

 過去の事故と結びついた『事件怪談』しかない。

 でも、あれは明らかに『口裂け女』の派生――


『口裂け女』

 都市伝説界隈では高名な、レジェンド中のレジェンド――

 その発祥は一九七九年の岐阜とされている。

 顔半分を隠すほどの大きなマスクをつけた女が、行き合った人に『私、綺麗?』と尋ねる。目元は美人に見えるのだろう。そもそも、初対面の怪しい人間に『不細工だ』と返す人間もいないだろうけど、『綺麗』と答えると女はマスクを外す。

『これでも?』

 女の口元は耳まで大きく裂けていて――


 岐阜で『口裂け女』が新聞紙面に現れたのが発端で、そこから全国各地に広がった。

『口裂け女』が現れてパトカーが出動するような事態になったこともあったみたい。

『口裂け女』は、今ほどネットが発達していなかったにもかかわらず、一年も経たぬうちに全国に流布し――そして、消えた。

 情報の伝播という題材としては興味深いものだと思う。とある諜報機関の実験だったという説もあるくらいだから。

 でも、県立大学で当時『口裂け女』に類する噂が学内に蔓延し定着したという記録はない。

 学究の徒としての威信――があったのかどうかは知らないし、今でもあるかどうか怪しいけれど――県立大学で『口裂け女』が世間話以上に流行って、残った形跡は見つからない。

 なら、あれは本来学内に『いる』ものじゃない。

 別口――学外から持ち込まれたもの。

『口裂け女』という類型を――『怪異』を模した『呪い』?

『怪異』を『呪い』に使えるのかという問いに対する答えは勿論『イエス』だ。

 つい最近、私もやったことだ。

 ――ただ、『口裂け女』そのもの、というわけではないと思う。うん、多分、違う。

 信仰と同じ。『存在すると信じられているものは、影響力を持つ』

 イメージの問題なのだけど、小太りのおじさんよりも、ホッケーマスクを被った怪人の方がチェーンソーを振り回して大量殺戮を行うのには適していると思う人の方が多いはず。

 それと同じ。

 私がやった『呪い』でもそうだった。

 特定の『怪異』を『呪い』の為に使役したわけではない。

『呪い』を行った結果、その目的に応じて分かりやすい『イメージ』として現れるものがある――それが今回は『口裂け女』だった、ということだと思う。

 学内だけなのは『術者』の力量のせい? それとも『そういうルール』なのかも。

『術者』を掴まえないと、それらは分からない。

 ただ、アレの目的を類推するのは簡単だ。


 ――要君を、狙っている。


『問答型』と言われる『怪異』がある。

 有名どころでは『赤い紙 青い紙』かな。

 トイレを舞台とする都市伝説の一つで、生徒が学校のトイレの個室で用をすまそうとする。すると、どこからか声が聞こえてくる。

『赤い紙ほしいか、青い紙ほしいか』

 赤い紙と答えれば、全身から血を吹き出し生徒は死ぬ。

 青い紙と答えれば、全身の血を抜き取られ生徒は死ぬ。

 どっちを選んでも死は免れない。

『黄色い紙』と答えるとか、或いは『答えない』とか、この『怪異』から逃げるにはこうすればいい、そういう情報が都市伝説に付随されることもままあるけれど、それって大抵が後付けだから私はそれに頼ろうなんて毛頭思わない。

 中学時代、要君とおじい様と一緒に、様々な『怪異』を私は見た。

 出会い頭に問答無用で襲いかかって来ないのなら、『怪異』側にそれができない理由がある。でも結局のところ、問答するほどの接触を許したならば、その時点で『詰み』だ。

 両手に持った鎌。

 血痕が散っても目立たない、赤いコート。

 徐々に近づく距離。

 声が届く距離になったら――要君が気づかざるを得ない程に近づいたなら、あの赤いコートの女は背後から要君にこう問いかけるのだろう。


『私、綺麗?』


 そして、要君がどう答えようとも、手に持った鎌で要君に襲い掛かる。


 要君は、まだあの『うしろの口裂け女』に気づいていない。

 さすがにもう少し距離が近づけば要君が気づくかもしれないし、今は屋久島にいるおじい様が戻ってきたら察してくれるかも。

 でも、それは待てない。

『人の身で『怪異』に真っ向から立ち向かうことは愚かなことだ』

 おじい様は、そう言った。

 金言であると思う。

 だから、要君やおじい様は事前の調査を重視する。

 中学生時代、おじい様に師事していた私はそれに従ってきた。

 でも、今回は調査に割く時間はない。猶予はない。

 もう――真っ向から立ち向かうしかない。

 要君を傷つけることは、許さない。絶対に、許さない。


『要君の背後』というルールに厳密に従うのか、要君が視聴覚室に入ると、赤いコートの女は隣の教室の中に消えていった。

 第二外国語の講義はAV機器を使用する関係で座席は指定制になっている。教室後方の要君の指定席の背後五メートルに移動したということだろう。

 この時間、その教室では講義は行われていない。ちょうどいい。見られても誤魔化しようはあるけど、人目を避けられるならそれに越したことはない。そっと扉を開けて滑り込む。

 空き教室の中央あたりに立った赤いコートの女は虚ろな視線を斜め前に落とし、痙攣するように小刻みに震えている。

 正面に立った私に気づいたのか、女が顔を上げようとした。

 でも、もう遅い。

「……誰の手引きか知らないけど、これで終わり……だよ」

 懐から引き抜いた短刀を女の喉に素早く突き立てる。血は噴出さなかった。

 のけぞった女の濁った瞳が見開かれ、こちらを睨み付ける。

 くぐもった唸り声とともに、女が鎌を振り上げた。

「……急々如律令」

 ぱん。柏手を打つ。

 瞬間、短刀の柄に刻まれた、陰陽五行――火を表す赤い五芒星が発光する。

 五芒星から暗血色――紅蓮の炎が吐き出され、蛇のようにうねる炎は一瞬でコートの女の全身を包み込んだ。

 ああ……ああああああ……!

 炎に舐められ即座に燃え尽きたマスクの奥、耳まで裂けた大口を開けて女は苦悶の声をあげる。

 鎌を取り落とし、のどに刺さった短刀を抜こうと身をよじるけれど、それより先に指が黒い灰となって崩れ落ちた。

 ああああ……!

 コートの女は私の方に、炎に焼かれ濁った瞳を向け、肘より先を失った腕を伸ばしてくる――

 でも、私に至ることなく――眼前で崩れ落ちた。

 膝をついたコートの女は、やがて黒い灰の塊となり、渦巻く炎が大きく膨らんだ次の瞬間、諸共に弾け飛んで――消えた。

「これで……終わり……」

 合わせていた手を離す。

 めまいに襲われ、よろめいた挙句、傍らの椅子にすとんと腰が落ちた。

 やっぱり空き教室でよかった。こんな無様な『王子様』の姿はファンの子たちには見せられない。

 木製の柄は燃え尽き、剥き出しの刀身だけとなった短刀を、手を伸ばして床の上から拾い上げる。同じく木製の鞘に差し込んで袱紗で包んで鞄の中へ。

 要君にもおじい様にも内緒の、私の切り札。

 トラブルに巻き込まれてばかりの私に、お母さんが『神楽をきっと護ってくれるから』と譲ってくれた守り刀。

 無銘だけれど母方に代々受け継がれているもので、高祖母が『守り刀が燃えている夢』を見て、念のため親戚の家に泊まらせてもらうことにしたら、その晩隣家からのもらい火で家が全焼したという逸話もあるとかないとか。

 おじい様に師事していた時の経験のおかげで、こんな風にも使えるようになった。

 準備に時間が必要だし、私自身の消耗も大きいのが難点。瞬殺できなければ私に打てる手はもうないし。

 軽く頭を振って立ち上がる。

 でも、これで終わりではない。

 誰が要君を狙ったのか。あのコートの女を消したことで、『呪い』が返って『術者』も何かしらのダメージを受けた可能性が高いから、ファンクラブの子たちにお願いして調べてもらおう。

 ターゲットは『要排除思想のファンクラブの子』で『この時間に様子がおかしくなった子』もしくは『火傷をした子』だ。

 オカルト好きで、第二文芸部に所属している或いはしていた、誰か――私の古巣だから『犯人』の予想はついているけれど、第三者に分かるように確認することは大事。


 要君を害そうとするなら、誰であろうと許さない。


 ああそうだ。『こんなことがあった』というのがそれとなく要君の耳に入るように手配しておかないと。

 律儀な要君は、私にお礼を言いに来てくれると思う。

『そちらの事情に巻き込むな』と『暴言』を吐かれたとしても、それはご褒美。

 どちらにしても人目をはばかる話になるから、二人きりになれる。

 とっても、楽しみ。


 要君は、きっと、すぐに、気づくと思う。

 今のような心霊調査を続けるには、『零』感の自分の身を護る為に私の力が必要だと。

 隣に私がいないとダメだと。

 そうなったら――


 ――要君は、私のものだ。


 要君の生殺与奪は――私の手に握られるのだから。

 要君は、私を愛して、大事にするしかない。


 ああ、その日がとっても待ち遠しい。


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