翁伝 たたりばの廃石碑


 はぁ?! お前なんかと結婚するわけないだろ。呼べば飛んでくるし、財布代わりになるし、便利だから遊んでやってただけだ。何、勘違いしてんだよ。気持ち悪っ! 消えろよ!


 ささやかながらボーナスが出た。

 だから奮発してデパ地下でちょっとお高い牛肉を買った。

 そのお肉で彼とすき焼きをしようと思った。

 事前に連絡をしなかったのは、サプライズをしようと思ったからだ。

 彼は喜んでくれるだろうか。きっと喜んでくれるに違いない。

 きっと、とても楽しい時間を過ごせるはずだ。

 そう思っていた。

 彼の部屋のチャイムを鳴らし――出てきた彼の向こうに、ベッドに半身を起こした半裸の女がいて――何かを叫んだのだが、具体的には覚えていない。

 ただ、彼の怒鳴り声と女の嘲笑と、アパートの外廊下に叩きつけられて広がった赤い肉が血の染みのように見えたことだけを記憶している。




『たたりば』には、みだりに足を踏みいれちゃあ、なんねえぞ。

 山の神様は、一つ目、一本足。

 人間如きは、二つ目、二本足。

 哀れに思った神様は人間から目玉と足を、取り上げてしまうからのう。


 多分五歳くらいの頃に祖母から聞いた話。

 数珠を擦り合わせながら、祖母は私の手を両手で包み込んだ。

 義眼の右目はあらぬ方を向き。

 車椅子の膝上にかけられたブランケットの下には左の足だけ。


 山の神に取り上げられてしまった、祖母の目と足。


 これはいいんだあ。

 わし自ら捧げたものだから。

 ええか。山の神は、捧げれば、報いてくれる。

 目と足を奉納すれば、わしらに報いてくれるんじゃ。


 ひひひ。


 ひきつるように笑った、祖母の声。


 目と、足を、捧げれば、報いてもらえる?

 報いとは、なんだろう。

 報い――彼に、あの男に相応の罰を?


 ならば――この目と足など、惜しくはない。


 気が付けば、私は懐かしい森の中に立っていた。

 膝上まで鬱蒼とした雑草が茂り、呼吸するたびに思わずむせてしまいそうなほどの濃い緑の匂い。

 高木群が四方に張った枝が日暮れを前に減少していく日照をさえぎり、広がる薄闇の中にぽっかりと開いた小さな広場。

『たたりば』

 余所の者には絶対に話してはいけないと、子供の頃から村の大人たちに言い含められていた、今はもう、誰も住んでいない廃村の、守り神へ供物を奉納する神聖な場所。

 その広場から山の奥へ向かう、苔むして方々が欠けた岩がかろうじて外枠を縁取る隧道。

 その向こうは――山の神様の領域――禁域だ。


 隧道の入り口の脇に、私の腰まで程の高さの縦長の長方形の石碑が立っている。

 石碑の正面はざらざらとしているが、かろうじて平坦と言えなくもない状態で、祖母の話によると、ここに目と足を捧げる供物――生贄の名前を刻んだのだそうだ。

 そうすると、村の守り神である山の神がやってきて『目と足を取る』

 屈みこんで石碑の正面を指で撫でるが、祖母どころか、誰かの名前が刻まれていた形跡はない。報いられたならば名前を削り取って消すとか、そういうルールがあったのだろうか。

 わからない。

 村には七年住んだが、少なくとも私が物心ついてから供物が捧げられたことはなかった。

 そういえば祖母が、

『おまあの代は『しんこんさん』がいるから、もしかしたら奉納はないかもしれんが、それは幸いなんかのお』

 そんなことを言っていた気がする。

『しんこんさん』――新婚の夫婦がいたら、山の神は目と足を捧げなくとも村を守ってくれる?

 いや、いい、そんなことはどうでもいい。

 ここに私の名前を書いて、目と足を捧げる。

 そして、私を騙し、弄んだ、あの男に、報いを。

 家から持ち出した裁ちばさみを逆手に持って石碑の表面に当てる。

 自分の名前を刻もうとして、私はふと思った。


 ここに、あの男の名前を刻んだらどうなるのだろう?


 既に村もない今、村の者でもないあの男はどうなる?

 報い――そうだ、善行には善行を、悪行には悪行を。

 それが、報いというものだ。

 供物となった村の者は厚遇されたそうだけれど、村の外で片目と片足を失ったらどうなる?

 今後まともな生活は望めないだろう。

 それは、なんだかすごくいい思い付きのように感じられた。

 冷静さを欠いているのは自覚していたし、『報い』のニュアンスが微妙に違うことにも気づいていたけれど、今更、吐き出し先を求める私の激情を押しとどめることなどできなくて、私は、あの男の名前を石碑に刻み込んだ。

 漢字にして4文字。

 たったそれだけなのに、刻み終えた私の口からははぁはぁと荒い息が漏れ、心臓は早鐘を鳴らしていた。

 やった! やってやった! ざまあみろ! これであいつは! あは! あはははは!

 心の底からこみ上げてくる笑いに、私は体をくの字に折った。

 私の恨みを思い知るといい!

 あはぁあははははははははははははは!

 狂気を帯びたどす黒い感情が私の口から抜けていく。

 いひぃひひひひひいひひひひひいひひひ!

 こんな常軌を逸した笑い声が自分の声から出てくることに驚きつつも、それでも、私は笑うのをやめない、笑い声を止めることができない。

 そうして、一時して、狂気が抜け切ったとき、私に残ったのは、

「あは、はは、ははは……」

 乾いた笑いだけだった。

 先ほど吐き出された狂笑が、まるで私のすべて、私そのものだったかとでもいうかのように、私は、空っぽ、空虚になっていた。

 ……こんなことに、一体何の意味があるのだろう?

 山の神様? そんなものが本当にいるのだろうか?

 村を出てから、両親が山の神様のことを口にしたという記憶はない。

 村に住んでいた時には『たたりば』には近づいては駄目だと口を酸っぱくして言っていたはずなのに。

 私が祖母から聞いた山の神様の話をしたら『おばあちゃんの作り話だろうねぇ』そう言っていた。

 手のひらを返したように。

 何が真実なのだろう?

 幼い私が、祖母の作り話に、空想を膨らませただけ? 妄想――作られた記憶なのだろうか。

 ただ、いずれにしろ、常識的に考えれば、こんな行為が復讐に結びつくはずがない。

「……」

 肩を落とし、項垂れ、口元に伝うよだれをカーディガンの袖で拭いとった私は、

「……帰ろ……」

 踵を返そうとして、石碑に刻まれた名前に目をやった。

 こんなことは、何の意味もない。こんなことをしたって、あの男が痛い目に遭うわけではないし、私の心に刻まれた傷が癒えるわけでもない。

 けれど、あの名前を消す気にはなれなかった。

 そうだ。いつになるかはわからないが、次にこの場所を訪れる誰かに、『廃村の石碑に自分の名前を刻んだ自己顕示欲の強い底辺YOUTUBERか何か』として名前を覚えてもらおう。

 包丁を持ってあの部屋に舞い戻るほどの度胸は私にはない。でも、このくらいの復讐は、許されていいはずだ。

 全身をだるい徒労感が包んでいたけれど、どこか気分はすっきりしていた。

「……よし、帰ろう」

 そう、顔をあげた瞬間。

 びゅおう

 駆け抜ける強い風が、私の髪をさらっていく。

 ざわざわざわ

 葉ずれの音が、広場を取り囲むようにぐるぐると回る。

 ひゅごぉ

 隧道が、鳴いた。

「ひっ!」

 小さく悲鳴を漏らして、周囲を見回す。

 がささっ

 下生えが揺れる。

 なんだろう。なんだろう……何か、いる?

 がささっ

 今し方こっちが鳴ったと思ったのに、今度は背後で。

 なに? なにか、動物でもいるの?

 がささっ

 次は、右手から。

 がささっ がささっ

 ……まさか、山の神? そんな、馬鹿なこと……

 がさっ

 間近でなったその音が合図であったかのように、私は駆け出していた。本能的に、逃げ出していた。

 はやく、はやくこの森を出ないと……!

 けれど……


 広場の出口には、私の行く手を塞ぐように、真っ黒な影が立っていた。


「……ひぃっ!」

 喉を絞るように悲鳴を上げたところで、

「おや。こんなところに若いお嬢さんとは、珍しい」

 影がしゃがれた声を発した。

「……えっ」

 虚を突かれた私はたたらを踏んで、半ばその影に重なるようにしてぶつかりそうになったが、

「おっと、危ない、危ない」

 私を受け止めた影の腕は、しっかりと実体を伴ったものだった。

「こんな黄昏時に、あんたのような若いお嬢さんがこんな森の中をうろついていては、いかんよ。早く家に帰りなさい」

 私が影だと勘違いしたのは、黒衣を纏った老人だった。

 長い白髪をまるで幕末志士のような総髪にし、やはり長い口髭と顎鬚を蓄えた老人は森の中に似つかわしくない真っ黒のスーツ、さらに黒のロングコートをまとっていた。

 影と勘違いしたのは老人が黒づくめだったせいか。

 ほっと胸をなでおろしていると、年の割に、と言ったら失礼だがまっすぐ姿勢よく立つ老人の足の間から真っ黒な犬が顔を出した。

「わふっ」

 そう一声鳴いた、黒い犬――ボーダーコリー?――はすぐに顔を引っ込めて、がさがさと下生えの間を駆け回る。

 ああ、なんだ。いたのは、あの子か。

 安心したところで、不意に疑問がこみ上げてくる。

 このお爺さんはどうしてこんなところにいるのだろう。スーツもコートも仕立てのいいのが手触りでわかるもので、どう考えても、犬の散歩をするのに適した格好ではない。

「ああ、ご、ごめんなさい……」

 お爺さんにしがみついたままなのに気づいて、私は体を離した。

 老人は、ややたれ気味の目を微笑みの形に歪めて、

「気にせんでいい。だが、重ねて言うが、こんなとこにいてはいかんな。ここの森を管轄していた山のヌシは美人に目がないことで知られておったからの。あんたのような美人は、森から出られなくなってしまうかもしれんぞ?」

 ほっほっほっ、と朗らかに冗談っぽく笑う。

 好々爺という言葉がぴったりなその仕草につられて、笑いかけたところで、

「それに、ここはあまり由来のよい場所ではないからの」

 丸眼鏡を鼻に引っ掛けたお爺さんの視線が石碑に向かったことに気づいて、思わず息をとめた。

 石碑を眺めていたお爺さんは薄茶色の瞳で私を見つめた。

 心臓が跳ね上がる。

「そこの道を下ったところにの、小さな村があったんじゃ」

 知っている。私の生まれ育った村だ。

「その村はこの山に住む神を、守り神として祀っておった。一つ目、一本足の神じゃ」

 おばあちゃんが話してくれていたことが、本当なら。

「山というのは信仰の対象になることが多い。その一つが祖霊信仰じゃ。幽世、極楽、地獄、常世――死者が向かうとされる場所は無数にあるが、遠方に行くのではなく、生まれ育った近隣の御山に還り、子孫を見守り、いずれ祖霊神となる。一つ目、一本足の神は祖霊神とは言い難いが、おそらくは元々祖霊信仰とは無関係の山のヌシがそこにおって、そこに祖霊信仰が重なったことで『山の神』が産まれた」

 おばあちゃんがなくなった時、子供心におばあちゃんは遠いところに行ってしまって二度と会えないのだと泣いた記憶がある。大好きだった肉親に側にいてほしいという、そういう感情は理解できる。

「信仰が集まれば、祀られているものが神ではなくとも、いずれは神のように振舞う。村で死んだ者は『山の神』の下に還り、村を見守り、『山の神』は時に加護をもたらす。さっきも言ったことじゃが、ここの山のヌシは美人が大好きでの。闇夜に紛れてその寝所に、しばしば忍び込んだのだそうじゃ。そうして生まれた子供は――目が一つ、足が一本しかない。そういった子は『山の神の子』として、母は『山の神の妻』として、たいそう大事にされた。村に『山の神』の格別な加護がもたらされるからじゃ。人と神との結婚――これを『神婚』と言うんじゃが、あんた知っとるか?」

『神婚』――『しんこんさん』がいるから――

 わふっ。コリーが鳴き声を上げながら、藪の中を駆け回っている。

 がさがさ。わふっ。

「ただ『山の神の子』は長生きできんかったようじゃな。10歳まで生きれば長寿じゃったとか。片目――生まれつき片方の目が潰れておる者もおれば、そもそも目が一つ――単眼であった子供もおったようじゃ。さての、では『山の神の子』がいないとき、『山の神』の加護を得るために村人はどうしたと思う?」

 その問いに対する答えを、私は持っている。

 がさがさ。わふっ。

「村人から……生贄を選んで、目と足を捧げた……」

 祖母の……ように。

「うむ。『山の神』は、片目、片足。村の子供――7歳以下の子供を『山の神の子』に模すことで、加護を得ようとした。それは……残念ながら、功を奏していたようじゃな」

 がさがさ。 わふっ。

 祖母が言っていたことは本当だった。

 祖母は子供の頃に『山の神の子』になる為に、片目と片足を捧げたのだ。

「それでも――十数年前に最後の『山の神の子』――本物の『山の神の子』が死んだことを契機に村人は村を離れたそうじゃ。『疑似的な山の神の子』も誰も生き残っておらんかった。さすがに現代ではもう、頑是ない子供の体を捧げるなどという風習は受け入れがたかったんじゃろう」

 もう、あの村は住める場所じゃなくなったから。

 なぜ村から引っ越したのか、という問いに母はそう答えた。

 でも、今なら本当に理由がわかる。

 あの頃、村に七歳以下の子供は、私を含めてもう数人しかいなかった。

 子供を捧げる決断が――私を捧げる決断が――村人には、両親にはできなかったのだ。

『模す』というのだから、『山の神』が目玉と手を取るわけではない。

 目をえぐり、足を切り落としたのは――村の人たち?

 がさがさがさ。    わふっ。わふっ。

「村人の誰が『山の神の子供』になったのかを『山の神』に石碑に名を刻んで示したのが、『たたりば』と呼ばれていたこの広場じゃ。山の神や、1つ目1本足の『怪異』は多くの場合、鍛冶・製鉄に関わるモノとされる。鉱山で働く鍛冶職人は片目で炉をのぞき込むためその目を失い、片足でふいごを踏むゆえ反対の足が萎える。『たたら場』をもじったのじゃろう。あるいは村人も、自らの行為の残虐さを自覚していたが故に『祟り場』と自己弁護したものか。神は祀らねば祟るからの」

 がさっがささっ。       わふわふわふっ。

 不意に気づいた。

 藪の鳴る音と、コリーの鳴き声のする場所が離れている。

 藪の中を移動しているのは、何?

 あの黒いコリーは、何かを……追いかけている?

 ……何を?

「村がなくなり信仰を失ったことが原因であったのかは定かではないが、時期を同じくして『山の神』であったモノは去り、その庇護下にあった祖霊たちも行くべきところへ逝った。じゃが……まだ、山に残っているモノがおる」

 お爺さんは目を細めて揺れる藪と、そして隧道の奥を見つめた。

 きやぁっ。

 石碑の近くの藪が鳴ると同時に、小さな子供の声が広場に響いた。

 口元に手を当て、息を呑む。


 石碑――石碑の裏側から真っ白い、小さな腕が――


「落ち着くんじゃ。取り乱してはいかんぞ」

 その小さな腕は何かを探すように、石碑の表側を這いまわる。

 細い指先が、私が刻んだ名前に触れ、手のひらで名前を包んでいく。

 名前の上をなぞるように手のひらが動いた後――あの男の名前は石碑の上から消えていた。

「この地には祖霊信仰が根付いていた。村に生まれたものは、死ねば山に還る。それは『山の神の子』も例外ではない。道理も理解できぬほど幼くして死んだ『山の神の子』らは、今もそこで『山の神』の――父の帰りを待っておる。『山の神』であったモノに自分たちが捨て置かれたことに気づいておらんのか、それとも認めるのを拒否しておるのか」

 老人の憂いとともに落とされた呟き。

「とある民俗学者は『神が零落したものが妖怪である』と考えたそうじゃ。信仰が失われたこの山にはもう『山の神』も『山の神の子』もおらん。じゃが、山から外に出てくるものではない……そう思っていたんじゃが、あの石碑に名前が刻まれたことがよくなかったようじゃな。『疑似的な山の神の子』を――兄弟姉妹を迎えに来たのじゃろう」

 ひっ。

 喉の奥から小さな悲鳴が漏れる。

 隧道の壁を、藪の中を、暗闇の中から伸びた、何本もの白い腕がうねうねと這いまわっている。

 薄暗い森の中、白い腕が、そこかしこを蛇のように――

 見てはいけない。

 暗がりから姿を現わそうとしているそれを、直視してはいけない――

 分かっているのに、体が動かない――


「よし、逃げるぞ」

 私の肩をつかんだ老人が、硬直し思わずそれを凝視しそうになっていた私をぐるりと百八十度回転させた。

「振り返っちゃいかんぞ。無心で走るんじゃ。よいな?」

 私のお尻をぱんっと叩き、こちらが悲鳴を上げるより先に私の腕を掴んで駈け出した。

 コートのポケットから取り出した小さな懐中電灯で足元を照らしながら私を先導する老人の骨ばった指は思ったよりも力強く、そして暖かかったけれど、

 ざざざざざっ

 追いかけてくる。草を鳴らす音が、私たちの背後を、追いすがってくる。その音が、背筋を凍らせる。

「よいか。追いつかれてはならんぞ。もはや石碑に刻まれた名前なぞ関係ないようじゃ。見境を失っておる。今、この場におるもの――わしら二人もしくはどちらかが捧げられた供物と見做されておる。捕まれば、目をくりぬかれ、足を落とされる。かつて、村人がこの場でやったことを見ていたのじゃろう。そういうモノに成り下がってしまっておる」

 すでに私は息が上がっているというのに、一呼吸も乱さぬ老人の言葉。

 ざざざっ

 葉擦れの音は私たちの背後にぴったりくっついて離れない。

 いや、私のペースが落ちている分、近づいてきている。

 足がもつれそうになったその時、老人が立ち止まり私の体を受け止めた。

「――もはやこれまで、じゃな。残念じゃが、こうするしかなかろう」

 悲しそうに呟いた老人の指笛が、甲高く響いた。

「クニツナ!」

 わふっ!

 鋭い吠え声とともに私たちの足の隙間を、真っ黒な塊――ボーダーコリーが駆け抜けていく。

 そして――

 下生えを揺らしながら近づいてくる『何か』に勢いよく飛び掛かった。

 きぃぃぃぃぃぃぃああああああああああっ

 その刹那、長く甲高い悲鳴が森に響き渡り、二つの黒い塊が宙を舞った。

 陽が落ちかけているせいで、それは――真っ黒な、子供のような小さな上半身と、片足のない下半身の形をした黒い影に見えた。

 わぉぉぉんっ

 勝ち誇るような雄叫びを上げて、コリーは別の藪に飛び込んでいく。

 きぃぃぃぃぃぃぃああああああああああっ

 断続的に、悲鳴が森の中をこだまする。

 そのたびに、薄闇の中を『山の神の子』――だったモノたちの引きちぎられた体が、乱れ飛んだ。

「あ、ああ……」

 へたり込んだ私を、お爺さんが抱き上げてくれる。

「耳を塞いでおくとよい。あまりにも――痛ましい」

 その優しい言葉に甘える以外の選択肢は、私にはなかった。

「……石碑を残しておいたのが仇になったか。朽ちるに任せてやりたかったのじゃが、すまぬな……」

 直前に聞こえてきた、お爺さんの悔しそうな呟き。

 目と耳を塞いで、私はお爺さんに身をゆだねた。




 私の故郷の村近くの国道に出たところに、お爺さんは私を下ろしてくれた。

 どういう鍛え方をしているのか、息も切らしていない。

「孫が教えてくれたんじゃがな」

 村の方を――かつて村があり、今はもう森に沈んだ高台を見上げながらお爺さんは小さく呟いた。

「あの『たたりば』に掲示板の類があり、そこに憎い相手の名前を書けば呪い殺せる、などという不埒な噂が『えすえぬえす』とかいうインターネットで流れているのだそうじゃ。まあ、まだ試した不届き者はおらんという話じゃったが、確認をな」

 お爺さんの言葉に息を呑む。

 そんな噂を私は聞いたことがない。けれど、私がやったことは、まさしく『石碑に憎い男の名前を刻んで呪い殺そうとした』のだとみなされても言い訳はできない。いや、実質的にはその通りなのだから言い訳など。

 私は、憎い元カレが酷い目に遭えばいいと、そう願ったのだ。

「確認に来て、正解じゃったな。あんたに怪我がなくてよかったわい」

 多分、お爺さんは私が何のためにあの場所にいたか、わかっているのだろう。けれど、それについて説教くさいことは何も言わない。

 それどころか、私の無事を安堵してくれている。

 もし、あのまま、私が一人でいたとしたら、どうなっていただろうか? 多分、ろくな目に遭わなかった。最悪、私の命はなかったんじゃないかと思う。

 私の命を救ってくれたのに、そのことについて恩着せがましいことも何も言わない。

 口だけうまくて、卑怯で、恥知らずなあの男とは正反対。

「さて、このままお茶でも、と言いたいところじゃが、今のあんたに必要なのは、こんなジジイではなかろうな」

 仔細をお爺さんに説明して同情を引こうとは思わなかった。

 私を罰することができるお爺さんが慈悲によって私を責めないのだから、私自身が、私の軽挙妄動を厳しく責めるほかない。

「あんたは常識を備えた優しい子じゃろうから、くどくどと説教はせんぞ。ただ、人生に浮き沈みはつきものじゃ。底まで沈めばあとは上がるだけじゃが、それもあんた次第じゃぞ」

 お爺さんの言葉に私はぐっと息を呑んだ。涙が出そう。

「……ありがとうございました!」

 多分、これまでの人生で初めて腰の角度を気にしながら頭を下げた私に、

「気にせんでいい。せっかく、心中にたまった悪い澱を吐きだしたんじゃ。この後あんたが幸せに生きてくれれば、このジジイが声をかけた甲斐もあったというものよ」

 相好を崩し、お爺さんは軽く手を振ると、

「ああそうじゃ。今日のことは誰にも内緒、じゃぞ? あと、怪しげなものには今後近づかんようにな」

 悪戯っぽく笑って背をむけた。直立不動で見送る私の視線の先で、コートのポケットから携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかける。

「……カナメか? 例の『えすえぬえす』のインターネットの件じゃがな、もう問題が起こることはないじゃろうから放っておいてかまわんぞ。……火消しじゃと? 何も燃えておらんぞ。……何を言っているかわからんが、まあよい。いいから、さっさと迎えに来んか。今晩はお前の好きな鶏のから揚げにしよう。飯を食いながら顛末を聞くがよい」

 ほっほっほっ、と笑いながら歩いていくお爺さんの足元にいつの間にかまとわりついていたコリーがこちらを振り返り、

「わふっ」

 別れを告げるかのように、舌を出して一声鳴いた。

 小さく手を振り返した私は、お爺さんとは逆方向、駅へと続く方向へと向き直った。

 帰ろう。帰って……どうしよう。気分を変えるために引っ越しでもしようか。ああ、そうだ。あいつの悪行を周りの人たち、特に共通の友人に喧伝しておかなければ。

 よし、帰ろう。

 祖母の事、廃村の事、石碑の事、お爺さんの事……

 私の中で何もかもに折り合いがついたわけではないけれど、でも、まずは日常に帰らなければ何も始まらない。

 そして、私がまた幸せに笑えるようになったら、それはきっとあのお爺さんへの恩返しになるはずだ。

 この日の出来事を私はたぶん、生涯忘れることはないだろう。

「さて……」

 国道とはいえ寂れている類のもので、かつて住んでいた私は知っているが時刻的にもうバスはない。

 ここから最寄り駅までは徒歩だと30分はかかる。来る時はタクシーを使ったが、流しのそれを捕まえるのは難しいだろうし、かつて住んでいた村の近くとはいえ、あんなことがあった場所はさっさと離れたい。

 歩こう。きっとなんとかなる。そんな風に思えて、私は最後に振りかえった。

 そこにもう、お爺さんとコリーの姿はなかったけれど、私は深々と頭を下げ、そして――歩き出した。

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