えんきりくん えんゆいさん 参

『久しぶりにかなめと話ができて、とても楽しかったよ。いつでも――真夜中でも、部室に遊びに来てくれていいからね。待ってるよ。あと、おじい様によろしくね』

 さわやか純度の高い設楽したらの微笑みに見送られて、俺とゆかりちゃんは部室を後にした。

 中学時代に設楽は俺と同じようにじい様に師事していた時期があり、じい様をして『筋がいい。後継にと望むものはいくらでもおるじゃろう』と言わしめた。

 ……妬ましい。ああ。いや、俺はそこまで狭量な人間ではない。そのはずだ。

 くそ、もう金輪際関わらないからな。

「あの……さっきのお話なんですけど……」

 ロードスターの助手席に座ったゆかりちゃんは、未だに納得がいかないように首を傾げた。

 ああ、きちんと安心させてあげないと今回の相談は終わりとは言えないな。

『えんきりくん えんゆいさん』はでたらめで、第一文芸部による創作。

 そう説明してもゆかりちゃんは首を傾げたままだ。

「え……でも……」

「設楽も同じ結論だと思う。発端が第一文芸部だとすると、発生源まで辿るのは意味がない」

 ゆかりちゃんを安心させるために設楽の名前を出す。

 文芸部を私欲によって二つに割った設楽。

 当然、第一文芸部はアンチ設楽と化した。

 俺たちと同級で、のちに第一文芸部の部長になった崎島などはその急先鋒だっただろう。

 事あるごとに設楽と対立し、第二文芸部への圧力をかけた。

 圧力と言っても、『第二文芸部ではなく別の名前に変えろ』という、ある意味真っ当な言い分だったのだが、設楽は『オカルト研究は文学的活動である』と愚にもつかない主張ではねのけた。

 今にして思えば、あれは嫌がらせだったのだろう。

『彼らはね、ホラーやミステリは文学じゃないというんだよ! 大衆に消費される雑文に過ぎないと! 間違っていると思わないか、要!』

 主義主張が対立すると和解は難しい。

 俺たちの在学中は第一文芸部と第二文芸部は、いわば冷戦状態であった。

 設楽に何かすればファンクラブが黙っていないから、第一文芸部は第二文芸部に直接的な手出しはしなかった。

 一方で設楽の方も第一文芸部には何もしなかった。というか、無視していた。ホラーやミステリを掲載した部誌を発行したり、文化祭で『ドラえもんの最終回の都市伝説化に関する考察』などの研究発表を第一文芸部の隣の教室で堂々としたりしていた。あまつさえ、第一文芸部の展示会場に自分たちの部誌を紛れ込ませるようなことさえしていた。

 ただ、設楽や崎島が卒業したことで少し状況は変わったようだ。

 第一文芸部は、第二文芸部との和合を求めている。

 部員不足と内申点という、極めて現実的な問題の為に。

 ゆえの『えんきりくん えんゆいさん』だ。

「あの……ちょっと、わからないです……」

 こんな小動物的挙動で、ゆかりちゃんは日々をどう生き抜いているのだろうか。

 ちょっと心配になりつつ、思わず信号停止のタイミングでゆかりちゃんの頭を撫でる。

「あ、その……」

「ああ、ごめんごめん。つい」

「いえ……」

「ゆかりちゃん、多分今の第一文芸部で、オカルトやミステリを嫌ってる人は少ないよね?」

「……嫌ってはいない、と思います。ただ、女子部員が多いので、恋愛小説の方が人気みたいですけれど」

 俺たちの世代の第一文芸部の部員は、万葉集や源氏物語について熱く語っていたものだが――時代は変わった。つまりは、そういうことだ。

 文芸部が二つに分かれている理由はもはやない。

 ただ、だからと言って、これまでの経緯を考えれば、すぐに統合というわけにもいかない。

 だから、第一文芸部は『えんきりくん えんゆいさん』の噂を流した。

 第一文芸部と、第二文芸部の橋渡しとして。

 第二文芸部は学内で流布する『えんきりくん えんゆいさん』の調査に乗り出す、というかもう乗り出しているだろう。

 まだ高校生だった頃、設楽目当てではなくオカルトやホラー小説が好きだという理由で第二文芸部に入部した、いわばオカルト派の下級生たちとは何度か話をしたことがある。高校の七不思議の起源を明らかにしたりと、彼らはフットワークが軽く、調査能力も高かった。

 今回、学内での調査に協力してもらえればよかったのだが、第二文芸部と関わるということは設楽と関わるということなので、在学中に十分な友誼を結ぶことができなかったのだ。

 ともあれ、彼らはいずれは『えんきりくん えんゆいさん』の出所が第一文芸部と知るだろう。第二文芸部オカルト派の彼らは聡い人間が多かったから、すぐにその意図も悟るだろう。

 そうなったら、まあ、後の話は簡単だ。

『第一文芸部もオカルトに興味があったんですね』

『ええ、我々がオカルト嫌いだったのは過去のことです。今後は一緒に活動しませんか』

 俺たちの同級で第一文芸部の部長だった崎島は黒幕として暗躍するタイプではないから、今の第一文芸部の部長か誰かが画策したのだろう。

 第二文芸部の面々がどう反応するかは想像するしかないが、彼らは孤立を恐れはしないが、敢えて好むタイプではなかったように思う。

『えんきりくん えんゆいさん』が、おまじない的に中途半端で稚拙であったこともいい方向に働くはずだ。

 ワイドショーの朝の星座占い並に、それに意味がないことを第二文芸部なら理解できる。

 すべては、偶然だ。それで片づけられる。

『えんきりくん えんゆいさん』がちぐはぐであることにも納得いく。ちぐはぐであることに意味があるというか、『効果があってはならない』のだ。『えんきりくん えんゆいさん』

は、単に学内に広まればよかっただけなのだから。

 あくまで戯言、あくまで妄言。そうでなければならない。

 稚拙な、縁結び。

 そう、一度切られた文芸部の縁を再度結ぶための、切っ掛けみたいなものだ。

 そうなると、ゆかりちゃんが相談してきた件も、偶然ということになるだろう。

 藤沢さんが階段で足を滑らせて転落しただけ。誰かに突き落とされたというのも、窓の外に黒い影を見たというのも、単に精神的に追い詰められていただけ。

 そうでなければ、都合が悪い。

 呆然とした様子のゆかりちゃんの、その唇がわずかに震えている。

「そうですか……私のせいでは……私の軽はずみな行動のせいでは、ないんですね?」

 切実、というか切羽詰まっている様子のゆかりちゃんを安心させるように頷いて見せる。

 自分の行為が誰かに怪我をさせたのではないか、因果が巡り巡って自分に返ってくるのではないか、罪悪感も相まって余計に怯えているのだろう。

 メンタルケアくらいはしてあげよう。これでいつきの俺に対する評価もうなぎのぼりのはずだ。

「心配しなくていい」

「ああ……ありがとうございます」

 安堵の息をついたゆかりちゃんは、本当に恐怖を払拭できたのだろうか、少し口数が多くなった。

「樹ちゃんに相談してよかった……何時も樹ちゃんは言っているんですよ。お爺ちゃんは本当にかっこいいって」

 ん? 俺は?

「要さんのことは……」

 言い淀んでから視線を落とす。

 お、おいおい、まじか。『うざい従兄』とか言われてた日には、『本家』の門前で灯油かぶっちゃうかもしれないぞ。

「冗談です、ごめんなさい……頼りになるって、ほんとのお兄さんみたいに思ってるって、言ってますよ」

 ふふ……ならいいんだ。ふふふ……頼りになるお兄ちゃんか。

 悪くない。悪くないぞ!

 上機嫌でゆかりちゃんを自宅マンションの前まで送り届ける。運転がちょっとあらぶってしまったのはご愛敬だ。

「ありがとうございました」

 そう言って頭を下げたゆかりちゃんに、

「樹のお友達だ。いつでも頼ってくれていいよ」

 愛想のいい笑顔を向ける。

 よし、これでゆかりちゃんは樹に俺の高評価を告げることだろう。そして、第三者からの評価を聞いたことで、樹の俺に対する信頼感はさらに高まるはずだ。設楽ではないが、ウィンザー効果というやつだ。

「はい……もし、また困ったことがあったら、お願いします」

「うん。あ、ところで」

 はにかむゆかりちゃんに、

「そういえば、苗字をきいてなかったね」

「あ、そうでしたね。失礼しました。七原です。ゆかりは平仮名で七原ゆかり、です」

「朝夜の朝に霧雨の霧、要点の要で、朝霧要です。今後ともよろしくね」

 ちょっとの茶目っ気を込めて軽く会釈する。

「はい! じゃあ、さよなら、要さん! 要さんが、設楽様の言う通りの人でよかったです!」

 元気よく頷いて、スカートの裾を翻した七原さんの姿が完全にマンションの中に消えたのを確認して、

「さて……」

 別れ際に設楽から奪い取った青い紙――そこに『朝霧要』『七原ゆかり』の名前をボールペンで縦に書いた。

 様式はないということだったが、一応少しだけ距離をあけて隣り合わせにしておく。

 マンションの入り口付近は石レンガで舗装されており、掘れそうな地面は見当たらない。

 まあ、もとよりマンションの敷地内に埋めるつもりはない。

 七原さんに見つかっても面倒だし、ちょっと離れたところにあった公園の隅っこに自生していたタンポポの根本あたりでいいだろう。

 ちなみに、同様に奪い取った赤い紙には俺と設楽の名前を書き、帰り際トイレに寄ってくると言って七原さんと別れて、部室棟の裏手の地面に埋めた。

『えんきりくん えんゆいさん』はでたらめで、効果がない。

 ほぼ間違いないが、『本家』の娘である樹が関わっている以上、万が一は許されない。

『でたらめの可能性が高い』『でたらめだと思われる』と、『でたらめであることを実際に確認した』の間には看過できない隔絶がある。

 樹が関わった怪談、お呪い――怪異の類は俺に引き寄せる。そこをじい様が叩くというのが俺たちのいつものスタイル――じい様は今、小笠原だが、まあ、なんとかなるだろう。なんとかせざるを得ない。じい様不在時の備えがないわけではないし。

 万が一があって、設楽が死んでも俺の心は痛まない。縁結びで実害が出るとも考えにくいが、例え七原さんが事故に遭ってもかまわない。樹はそれを『えんきりくん えんゆいさん』と結びつけることはないだろう。

『えんきりくん えんゆいさん』はでたらめだったと、俺が解決してくれたと、樹に伝える。

 そこで七原さんの役割は終わりだ。それさえしてくれれば、後は七原さんがどうなろうが、知ったことではない。

 大事なのは樹。『本家』の跡継ぎだ。

 それ以外は俺自身のことも含めて些事に過ぎない。

 大体、愚にもつかないお呪いとは言え、他人を害そうとしておいて、自分だけは安全圏にいようだなんて、考えが甘い。

 因果応報、だ。




 日没を控えたタイミングで雨雲が広範に空を覆ったせいで、町は塗りつぶされていくかのように急速に夜闇に沈もうとしていた。

 これからやるべきことは例の先輩、藤沢さんの現状確認だ。

 路肩にロードスターを停車して、樹にメールで藤沢さんが入院しているという病院の名前がわかるかどうかを尋ねる。

 これは苦渋の決断だった。

 陸上部の面々が樹とカラオケをしているのだから、そっちルートの方が話が早い。早いが樹と佐野とかいう凡骨に話題を与えるという悪手でもある。

 十秒……二十秒……

 樹の奴、佐野の野郎と楽しく話し込んでるんじゃないだろうな。人間と野獣は会話できないことを樹は知るべきだ。

 催促のメッセージを追撃で送ろうとする衝動を、メンヘラではないのだからと自制する。

 一分ちょうどで返信。

『ゆかりちゃんが要にいに感謝してたよ! さすが要にいだね!』

『俺はいつでもどこでも有用有能だ。アフターケアもばっちり。で、病院は?』

『藤沢先輩は今日から自宅療養になったんだって!』

 ……まあ、うん。同じ部活でも先輩後輩には色々あるよな。高校生に遊びを自粛しろというのも酷な話だ。

『だから教えてもらった自宅住所送るね! 悪用しちゃダメだよ、要にい!』

 送られてきたのは住所というか、この住宅街のこの辺の家、という情報だったが、まあ番地まで訊いたならば樹が不審に思われるだろうし、他人の住所を正確に記憶している人間もいないだろう。

『一応の確認に行くだけだ。もう七原さんから聞いたようだが、『えんきりくんえんゆいさん』はでたらめの可能性が高い。縁結びは諦めるんだな』

『ふふふ! そんなことないよ! 効果てき面だよ! 佐野君に声が可愛いって言われちゃった!』

 さ、さ、さ……さのぉぉぉぉぉぉっ! このケダモノがぁっ!

 誰にでも! 誰にでもそういうこと! 言うんだよ! 下半身ピンクの性欲モンスターは!

 駄目だ。先にピンクモンスター・サノを討伐だ。少なくとも、樹からは引き離さねばならない。

『家まで送るよ』からの恋愛漫画ムーブは絶対に阻止しなければならない。

『カラオケは何時に終わる? 家まで送るぞ』

『お父さんが迎えに来てくれるから大丈夫。ありがとう要にい。あんまり無理しちゃダメだよ! 今日は大仕事をしたんだからゆっくり休んでね!』

 ……樹は優しいなあ。俺のことを気遣ってくれるなんて。

 うん、叔父さんが迎えに来るなら問題ない。今日樹がどうこうされることはないはずだ。

 ならば、俺がやるべきことは一つだ。

 クラッチを踏んでギアを二速に入れる。『いわく』ゆえに一速発進できないのが難点ではあるが、愛車ロードスターRSは滑らかな動作で走り出した。


 三真坂市の北部側にある隣の市との境に広がる山、というほどでもない丘陵地帯。

 その麓に広がる、最寄りのJR駅から車で15分ほど離れた閑静な住宅街。

 地元ゆえに知ってはいたが――うん、住宅以外に何もないな。最寄り駅の近くにはスーパーやらコンビニやら、飲食店もあったが、駅から離れて山側に進んだら本当に家しかない。まあ、車がなければ生活に支障が出るのは地方都市の宿命だ。

 徐行しつつ、街並みを観察する。

 建売なのが一目でわかる、ニュータウン特有の周囲と外壁の色以外変わり映えしない家が並ぶ。

 二階建てで駐車場付きの四LDKといったところか。

 車の窓を開けると、みそ汁やカレーなど夕餉の匂い――家族の匂いが車内に流れ込んでくる。

 徒歩圏内に商店がないということを除けば、住みやすそうではある。うん、車さえあれば繁華街の喧騒から離れたいいところだ。

そんな住宅街の、一番小高くなっている通りに藤沢さんの家はあるそうだ。

 ロードスターで緩やかな坂道を最奥まで登っていくと、立ち並ぶ家の裏手には竹やぶが広がっている。

 家からは十メートル程度離れてはいるが、虫とか竹の地下茎とか大丈夫だろうか。まあ、対策はしてあるのだろうが。

 ともかく、怪しまれない程度に外から様子をうかがって、今日の『えんきりくん えんゆいさん』の調査は終わりだ。

 明日以降、第一文芸部の誰か――もしかしたら設楽の伝手を利用しなければならないかもしれないのが業腹だが――から情報収集して『えんきりくん えんゆいさん』がでたらめであることを確認し、樹が関わったことで影響が出ていないか経過観察をするだけ。

 そんな風に考えていた。

 考えていたのだが……その家を視界に納めた瞬間、反射的にブレーキを踏んでいた。


 ぞわりと、怖気が背筋を駆け上がる。


 なんだ……あれ……


 もうすでに陽は完全に落ち、いつの間にか小雨が降っていた。

 街灯の煌々とした光を雨滴が反射し、白い光の波が空中をゆらりとうねり、闇の中をイルミネーションのようにほのかに照らす。

 だが、その中にあってさえ、その家は夜より昏い闇に沈んでいた。

 雨粒のような、泡のような、小さな黒い粒子。

 黒い霧、とでもいえばいいのか。

 街灯の光をほぼ反射せず飲み込んでいるがゆえに、その家だけがドーム状に黒く包み込まれている。

 霧はゆらゆらと濃淡をわずかずつ変化させながら、反時計回りに緩慢に流動している。

 小雨の、風に流される挙動とは無関係に。

 その家を、包囲し覆い隠すかのごとく。


 自然現象ではない。

 尋常のものではありえない。


 次の瞬間、黒い霧が反時計回りの流動とは別に、小刻みに左右に揺れた。

 波打つように黒い霧の表面が震え、いったん拡散したかに見えた黒い霧は、砂鉄が磁石に引き寄せられるように複数の個所に黒い塊として収束した。

 広がった黒い霧の合間から見えた家の特徴や、通りからの軒数は藤沢さんの家と一致する。

 どういうことだ、これは……?

『えんきりくん えんゆいさん』はでたらめだったはずだ。

 黒い霧は再びノイズが走るような感じで振動した後、拡散し、一拍おいて再度振動し複数個所に朧げに収束する。数秒間隔でそれを繰り返している。

 離合集散を繰り返す、黒い霧――収束した時の黒い霧は曖昧ではあるが人の形をしているように見える。

 収束した一瞬後には弾けるように霧散し、波打ち、やがて人の形をした黒い影を形どる。

 玄関前に一つ、そして、二階の部屋の窓のすぐ外に一つ、屋根の上に一つ――




 それに、信じてもらえるかどうかわからないんですけど……先輩が夜に自分の部屋にいると、かりかりと窓が引っかかれるような音がするようになったそうなんです……

 カーテンを開けても何もない。そんな日が続いたそうなんですが、ある日……カーテンの隙間から窓の外を見たら、目の前に黒い人影がいて、先輩の顔を覗き込んでいたそうなんです……

 先輩の部屋は二階でベランダとかもないし、すぐ外が竹藪に面していて、隣の家の人という可能性もないですし……




 二階の黒い影は、収束するたびに位置を変え、家の裏手側に移動していく。

 かり……

 黒い影の指先が壁をひっかく音が妙に響く。

 そもそも距離があるし、ロードスターのエンジン音にかき消されているはずなのに。

 かり……

 耳の奥に、直截響いているかのように。

 黒い影は、藤沢さんの家を包囲するように、中に入る機会をうかがうように、ぐるぐると家の周りを周回しながら、指先で壁をひっかいている。

 なんでだ……『えんきりくん えんゆいさん』はでたらめだったはずだ……これではまるで……


 ――本物の呪いじゃないか。


 俺には霊能力と呼べるようなものはない。『零』感人間というやつだ。じい様の孫とはいえ、こればかりは生来のものなのでしょうがない。

 じい様に言わせると『霊能力がないわけではない』程度の素養しかないのだそうだ。

 だから、俺には基本的に霊やそれに類するものの姿は視えない。視えない、のだが……

『深く関われば波長が合って視えることもあるじゃろう。じゃが、要に視える怪異なら、それは相当障りのあるものということになる。そういう時はのう、要』

 じい様の声が脳裏によみがえる。

 ざざっと、黒霧にノイズが伝播し、人型が形成される。

 三つのソレの頭と思しき部分が――

 ――蠢く蛇のように、ずるりと首をこちら側に伸ばした。


『逃げるんじゃ』


 ギアを二速に入れて急発進。

 騒音もタイヤ痕も、一切合切を無視。とにかく、逃げるしかない。

 俺はじい様とは違う。

 単身では下準備なしに怪異への対抗手段を持たない。だから、偶発的に遭遇したならば、とにかく逃げるしかない。

『人の身で怪異に真正面からぶつかるのは愚か者のすることだ』

 かつて当代随一の霊能力者といわれ、多くの逸話を業界に残したじい様ですら、常々そう言っているのだ。

 脆弱な一般人以下である俺に、遁走する以外の選択肢はない。

 Uターンできるだけの道幅はない。バックミラーには後続車のヘッドライトの光。

 だから、あの家の前を駆け抜けるしかない。

 じい様から『もしも』の時のためと預かっている自衛手段――護符や式は手元にない。

 頼りは愛車のロードスターだけだ。

 苦し紛れのハイビームに反応したのかどうかは分からないが、黒い影は頭をひっこめた。

 神様、じい様、仏様……神様、じい様、仏様……

 呟きながら『藤沢』の表札を掲げた家の前を通過する。

 三つの影の――鉛筆で雑に塗りつぶしたような黒い顔にぽっかり空いた二つの穴がこちらを見ているのがはっきりと分かった。


 はは……ははは……


 平坦で、無機質な、ノイズ交じりの笑い声。

 それに続く甲高い女性の悲鳴。

 それは幻聴だったかもしれない。

 確かめる術はない。

 この場に留まる覚悟も能力もない。

 逃げるしかない。

 ハンドルを握りしめながら、俺は唇を噛み締めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る