Ⅰ 僕に勝てるとでも?-7

「雨降ってきたわね」


 冷徹の女王の名に恥じない冷静で涼しげな声で、そんな独り言を吐いた。

 否、独り言のように聴こえるが、一応棗に共感を求めるようなニュアンスだった。

 しかし普段、他人へ話しかけることの無い冷徹の女王だから、独り言のように聴こえてしまうのだ。


「……あ、傘忘れた」


 棗はハッと思い出した。

 今朝、「にいにの傘〜」とか言って人の傘をパクった妹の姿を。

(アイツまさかわざとか……?)

 いやまさかな。今日は妹と待ち合わせて、相合傘をする羽目になりそうだ。

 え、抵抗感? ないよ? そんなの。

 棗はスマホを取り出して、妹にLIMEを送った。


「……私の傘に入る?」

「……へ?」


 僕は自分の耳を疑った。

 いや、疑わなければならなかった。相手はこの学校が誇る美女、雲雀美琴様だ。そんなお方が貧民の僕に「私の傘に入る?」なんて聞くはずがないじゃないですか。

 でも僕の耳がその言葉を取り零すはずがなかった。

 なぜなら美琴は僕の耳元で囁いたのだから。

 全身の毛がソワソワとしだし、しまいには身体の芯までムズムズしてきた。

 全細胞が震えているようにも感じる。


「……どうなのよ」

「あ……うん。じゃあお願いするわ」


 え、何言ってんの僕。

 無意識というより、本能的に返答をしていた。強大な幸福の前に、理性などは働かない。ぶち壊れて、本能だけが働く。

 今のはつまりそういうことだね。


「わ、わかったわ」

「ありがとね」


 感謝は忘れずにね。

 親からよーくしつけられたから。謝罪と感謝はしっかりしなさいって。しなかったら誰からもされなくなるよって。そう教えてもらった。

 幼い時は純粋だから、その事が怖くてちゃんとごめんなさいとありがとうは言うようにしていた。

 てことで、妹に訂正と謝罪のLIMEを入れた。

 ごめんなさい。

 

「日直号令ー」

「起立」


 鳥籠の中で過ごす40名程度の生徒が、快い青空と太陽の下で一斉に起立して、一斉に頭を下げる。

 朝の挨拶を皆で口にする。

 ひとつの生命体のような光景だった。



♠♠♠♠♠



「今日は委員会あるからなー、忘れんなよー」


 担任の教師が帰り際に気だるそうに忠告してくる。僕は当然、委員会や係を決める学級活動の時間は寝ていたため、所属していない。

 けど、そういえば……。

 教室を見渡しても美琴の姿はなかった。

 アイツ生徒会あるよな……。

 外を見ると、さっきより酷くなってきた雨が窓ガラスに水玉を作っている。

(濡れて帰るか……)

 僕は傘を諦めて、濡れる決意をしたのだった。


 昇降口で、靴を脱いで頭にタオルを被った。これで少しは雨を凌げるはず。そう信じる!

 靴に履き替えて、かかとを合わせて、昇降口から出る。


「……結構降ってんな」


 風があるせいか、若干横殴りになっている雨。もはや頭にかけたタオルなど役に立ちそうになかった。

 意を決して足を踏み出そうとした--


「ちょっと待って!」


 後ろから声が聴こえた。

 いつも右耳で聴いている、鈴のような声。


「……っ、美琴?」

「ごめんなさい、今日生徒会があって」

「全然大丈夫、帰れるから」

「これ! 使って」

「いいよ、美琴が濡れちゃうから」

「私も大丈夫、ていうか遅れちゃうから! じゃあまた明日」


 駆け足で校舎内へと消えていく美琴の背中に手を伸ばしたが、届かなかった。代わりに僕の手には、黒い美琴の傘があった。

 

「強引すぎだろ……」


 お人好しなのかなんなのか。

 というより、帰ってもいいのだろうか。美琴が濡れてしまう。

 傘を開いてみる。

 さすがお嬢様、32本骨の多骨傘だった。

 そして棗は傘を閉じて--



♠♠♠♠♠



(どうしよう……)

 美琴は困っていた。

 棗に傘を貸したはいいものの、自分が使う傘が無くなってしまった。

(こんなことなら折り畳み傘を常備しておけばよかった……)

 そんなことを後悔しつつ、棗のためになったのなら結果オーライだとポジティブに考えていた。

 そんな時、生徒会室の窓に吹きつけた雨風が音を立てた。

 身体がぶるりと震え上がった。

 無事に帰れるかしら……。


「予算はこんな感じで、あと何か疑問点や意見はあるか?」

「いえ特に」

「そうか、なら解散しよう」


 生徒会長の合図をきっかけに、6名の生徒会役員が自分の荷物を背負って、各々教室から出ていった。

 1番下っ端の美琴は最後まで残り、戸締りを確認して、消灯してから教室を出た。

 先に帰った生徒会のメンバーの声と足音が遠くで反響しているが、それ以外の音は聴こえない。

 美琴は生徒会室の鍵をギュッと握りしめた。手のひらに跡がついた。じんわりと熱を持っている。

(なんだか……寂しいわね……)

 頭を振って寂しさを吹き飛ばし、鍵を持って職員室へと向かった。


「失礼しました」


 鍵を返した後、昇降口へと向かう。

 美琴はバッグの中を漁って、何か雨を凌げるものはないかと探すが、めぼしい物は見つからなかった。

 諦めて、静まり返った昇降口のロッカーに上履きをしまい、靴を取り出す。

 コツコツと爪先を地面に突き、踵を合わせる。

 雨の音だけが鼓膜を震わせていた。


「生徒会お疲れ様」

「……え、あなた……!」


 不意に雨以外の音を感じた。

 そこには美琴の傘を持った棗が立っていた。


「どうして帰らなかったの?」

「いや帰れるかっての、美琴を残して」

「1時間近く待ったんじゃない?」

「1人の時間が好きなので、余裕でした」


 茶化しているが、1時間も1人で待つというのはかなり気が滅入る。

 それなのにこの男は、そんな笑顔を私に向けることができるのか……。


「雨強くなる前に帰ろうぜ」

「……そうね」


 そして2人は今さらになって気づく。

 2人で1つの傘をさして歩くことの、恥ずかしさを。

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