第16話 学区の周縁にして世界の終焉
息苦しくなって、病室から出る。再び、誰もいない廊下。アカネも後から部屋を出て、扉を閉める。
「もう一つ、見てほしいものがあるの。と言っても、目には見えないんだけど……」
アカネがおかしなことを言う。目には見えないものを見てほしい?
「行きましょう」
僕の返答は待たず、彼女の右手が僕の左手をつかみ、引っ張る。細い指の感触。最初はひんやりしていたが、徐々に温かみを帯びてくる。
ある部屋の前で立ち止まる。「 」番号無し。
「ここでいいわ」
迷わず、中に入る。いよいよ『羊飼いの杖(シェパーズ・クルーク)』なる組織の面々がお出ましか、と思ったが、そこは特に変哲のない病室だった。ベッドには誰も寝ていない。部屋の奥には大きな窓。覆うカーテン。
「まぁ、どこでもよかったの。二人きりになりたかっただけ」
「へ?」
間抜けな声が漏れる。
間抜けな僕をしり目に、アカネは手早くドアを閉めてしまい、空いているベッドに緋色のコートを脱ぎ捨てる。メガネもとってしまって、コートの上に置く。コートの下は白の清潔なブラウスに紺のスカート。
「そこで見ていて」
どぎまぎして目をそらそうとする僕に、アカネがくぎを刺す。見ざるを得ない。というか、見ていいのか。
アカネは左袖のボタンを器用に外し、スルスルと袖をまくっていく。『欠落症候群』によって肘から先が失われた左腕。切断面は何事もなかったかのようにつるりと皮膚におおわれている……と、学校では習ったのだが――
「――『ワンド』」
「――なッ」
左腕のあった場所に、黒い炎がともる。彼女が唱えた言葉に呼応するかのように。それは生き物のようにうごめき、かつてそこにあった左手の形を模していく。
「影は己の分身を求めてやってくる。でも、私たちとの間には深い溝があって、多くの場合は『欠落症候群』という形で終わってしまう。でも、こうして部分的に共存することもできるの」
アカネは自分の体の一部であるかのように、それを動かす。五本の黒い指を開いたり閉じたり。
「彼らの呼びかけに応じれば、欠落を補完してくれる。うまくいけば、力を分け与えてくれるの」
暗い焔の向こうで、アカネが僕を見つめている。
「でも、誰でもできるわけではない。どうしたらできるのかもわからない。影との部分的共生に成功できた者は、ごくわずか。私たちは『羊飼い(シェパード)』。これが失われたものを取り戻す唯一の手がかりと信じて、研究を続けているの」
窓は開いていないはずなのに、空気が渦巻く。
一方では影を滅することを目的とした組織があり、もう一方では影と共存することを目的とした組織がある。
影との共存。
そんなことが可能なのか。証拠は今目の前にあるが、しかし。
母が『真影』となった姿を、僕はつい先ほど見たばかりだ。そして、あの夜僕らを襲った影はハルカを連れ去った。あるいは、取り込んだ……?
「私たちの失ったものがどこへ行ってしまうのか、大人たちの身体はどこにあるのか。この子は教えてくれない。というよりも、伝え方を知らないのかもしれない。でも、おおよそ見当はついている」
アカネはかりそめの左腕を撫でる。あくまでそれは代替品であって、かつて僕が見惚れた左手ではない。
「これを見て」
彼女は部屋の反対側へまわり、カーテンを勢いよく開く。
窓の外には何もなかった。真に何もないという状態をはじめて目の当たりにしたものだから、表現に困る。荒野が広がっているわけでも、砂漠になっているわけでも、ぽっかり穴が空いているわけでもなく、本当に何もないのだ。黒いわけでもなく白いわけでもなく、そもそも自分が窓の外を見ているのかどうかも疑わしい。
そこには何もなく、あえて言うなら虚無があった。その場所に目をやると、急に目が見えなくなるようだった。
「なんだ……これ」
「学区の周縁にして世界の終焉。ここが世界の端っこなの。地球は丸くなくって、ここで終わり。あの虚無に飛び込んで帰ってきたものはいない。触れたところはそのまま持っていかれる。つまりあれが、『欠落症候群』の母体のような存在だと想定されているわ」
「こんなことになっていたなんて、知らなかった……」
こんな近くに、得体のしれないものが口を開けているなんて。
「だってこれは、何もないもの。存在しないことを説明するのは難しい。こうして、体感してもらうしかない。そして多くの人にとっては、知る必要のないことだし」
知る必要がない。それはそうか。知ったところでどうしようもない。不安にしかならない。現に僕が、そうなっている。
「おそらくあの中に、大人たちもいる。でも、さっき見てもらった通り、サルベージした大人の肉体は非常に不安定で、魂を欠落している……」
僕たちの生きている世界には限りがあって、学区より外には出られない……? 芳川スイやアララギ騎士団の王も、『学区』という言葉を使用した。
「いやしかし、ハルカは三年前に、都心の私立中学に進学したはずだ。それは学区をまたいだことになるのでは?」
「PTAの許可があれば、あるいは例外があるのかもしれない。それに――」
ふと気が付くと、アカネの左腕は元に戻っていた。というのはつまり、何もない状態に戻っていた、ということだが。
「――彼女が本当のことを言っていたかどうかなんて、わからないわ」
アカネも少し前に、ハルカに気を付けるよう僕に助言をした。ハルカはやはり僕に、何か隠し事をしていたのか?
「二つの塔の向こう側。そこは私たちにとってはまったくの不可視領域(インビジブルエリア)。『羊飼いの杖』の見解では、この不可視領域の先に、『影の国』が存在しているということになっている。二つの塔はこの虚無を監視・研究するために建てられた……」
目に見えない不可視領域。存在のない虚無。それを監視するというのは、大いに矛盾した表現だが、僕は何も知らないので、そうですかとうなずくしかない。
その『影の国』を背景に、アカネは僕を見る。
「私たちといっしょに、『影の国』を調べましょう。これが私のお願い事よ」
どうして……。
「どうしてまた、僕なんだろう。僕がそれに協力したところで、何が変わるというんだい?」
そういうことに向いている人が、他にいくらでもいるだろう。
「勘……かな」
「女の勘……か」
「あのアララギ騎士団の王があなたをねらっている。影の国からサルベージされたあなたのお母さん。そして、あなたの双子の妹が『彷徨える羊』に連れ去られた……。だから、あなたの側にいた方がいいと思うの」
最後の一文だけ切り取れば、随分魅力的な誘いのように思われる。しかし現実には、『アララギ騎士団』という戦闘集団と、『羊飼いの杖』という研究機関から身柄をねらわれているというのが現状だ。
「さぁ――」
鳶アカネの右手。生身の手が差し伸べられる。僕は――
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