第12話 大人なんて、とっくにいないの
芳川スイが去って、それとともに夜が明けた。静かな朝だ。朝日とともに影たちは姿を消した。
目を閉じていれば、そのうちに壊れた世界が修復されて、もとの世界に戻ってくれるのではないかと期待したが、ダメだった。LULLケーブルの断線により、僕は完全にネットワークから締め出されてしまった。一糸まとわぬ姿で市中を歩くような不安感。あまりにも無防備。
外界とのつながりを絶ってしまったクレイドルの中は、かえって外界よりも寒く、凍えるような気持ちがした。精神的な不安に物理的な寒さが加わり、耐えられなくなる。ひとまず箱の中から這い出て、加賀美坂上中学の制服に着替える。家にある衣類の中で、これがいちばん温かいものだった。
部屋を出て、ハルカの部屋に入る。一週間だけ双子の妹が使った、元空き部屋。再び空き部屋となった部屋だ。横穴から引き出された彼女のクレイドルが横たわり、壁には女子生徒用の制服がかけてあるだけの、殺風景な部屋。出窓のところに、彼女が図書館から借りてきた本が置いてある。主人公が自分の影を取引する怪しげな本。代わりに僕が返却しに行かねばならないのだろうか、などと呑気な考えがよぎる。
わずかな希望を胸に、彼女のクレイドルに触れてみるが、応答はない。IDが違うので受け付けてくれない。僕のものとは違って、LULLケーブルは無傷である。ハルカはスイの襲撃(本当は救助なのだろうが)に対して、無抵抗で応じたのだろう。なんと無警戒な……とは思うものの、結論から言えばそれが正しかった。
僕もハルカと同じように、すみやかにクレイドルから出て避難していれば、あの影に襲われることもなかったのだろうか?
いや、考えても仕方のないことだ。ふいに浮かぶ考えを打ち消す。
部屋にはかすかな甘い匂いがただよっていた。ハルカの匂いを閉じ込めているのは、壁に掛けられた制服に違いない。そのせいで、彼女の存在が幻ではなかったことを再認識してしまう。
セミロングの髪はまだ着慣れていない制服の肩のあたりから自然にくるくると巻いていて、クリッとした大きな瞳は困ったように何かを探していて、紺のセーターから出た指先は所在無げに胸元のリボンに触れる。
目を閉じると、同じ教室にはじめて入ってきたときのようすが浮かぶ。僕のことを兄さんと呼ぶ、双子の妹。
ハッと目を開ける。客観的に見て、消えてしまった妹の制服を手に取って夢想にふける今この状況が随分気持ち悪いということに気が付いたということもあるが、ずっと引っかかっていたことを思い出したのだ。
「どこに行くんだよ。まだ中に母さんが――」
これは僕の声。
「ハァ? この家には、アンタたち二人しかいないでしょうが――」
芳川スイの声。
この後、僕らはあの影と邂逅したのだ。
母の部屋。
さかのぼることのできる記憶の中で、僕がここを訪れたことはない。それは別段不自然なことではない。クレイドルに入れば心が通い合うわけだから、同じ家だろうと、部屋を行き来する理由がないのだ。
大人は日中ずっとクレイドルの中にいて、子どもが学校から戻ってくると、親はそれを迎える。大人がクレイドルから出るのは子どもたちが寝静まった後。本当の放課後。そこで大人は大人にしかできないことをする。まだ大人になっていない子どもがそこに参入することは許されない。そういう風になっているから、疑ってみたことなどなかった。しかし、昨晩の光景を思い出すと……
「入るよ」
埃をかぶったタンス、机、椅子。他の部屋と同じように、壁には六角形の横穴が空いている。僕が部屋に入ったことでセキュリティシステムが作動するかと、やや警戒していたが、それは杞憂だったようだ。
すぐに理解した。ここに母さんはいない。厚く積もった埃。部屋の隅から黴臭いにおいがただよってくる。そもそも、何らかの生命体がいた形跡が一切ない。十年は誰も入っていない、放置された部屋だ。
横穴から母のクレイドルらしきものを引きずり出し、触れる。先ほどと同様、IDが違うのでもちろん開かない。コツコツと叩いてみる。反応はない。思い切って下から手を入れて持ち上げてみる。あっけなく持ち上がってしまう。大人の人間が入っている重さではない。
家の中は異様に静かだ。
時刻は正午をまわった。
那々生カナタとハルカが学校にいないことに、誰かは気が付いているはずだ。体調不良ということで処理されているだろうか。あるいは担任の名方先生が連絡をくれているだろうか。もちろん僕のクレイドルに通知は届かない。芳川スイという問題児と同様に、サボりと思われているかもしれない。
そうなると、ここでじっとしていても、誰も助けてはくれないことになる。僕には今現在保護者がいないのだ。
とりあえずは学校に行こう。名方先生がいるかどうかはわからないが、誰かしら大人の人に助けを求めよう。大人の人、に。
「大人なんて、とっくにいないの」
芳川スイの言葉を思い出す。たしかに、僕が見たのは、思っていたのとは違う『大人の時間』だった。しかし僕らは、立体映像とはいえ、学校で先生たちの授業を受けているし、クレイドルに入れば母親にも会えるのだ……。
ぐらり。
立ち上がった瞬間、視界が揺れる。情けなく床に倒れる。敵襲かと思ったが、違う。
これは、空腹だ。
普段はクレイドル内で食事を摂ることが多い。顎が弱らないように経口摂取することもできるが、実はあえてそうする必要もない。LULLケーブルを通して微粒子レベルで届けられた栄養を、そのまま皮膚から取り込むこともできるのだ。そこに横たわっていれば、生命維持に必要な栄養は摂取できる。だから空腹を感じることもほとんどない。
スイ、ハルカと屋上でパンを食べたことを思い出す。スイだけは僕の二倍の量を食べていた。彼女は毎晩影と戦っているのだろうか……。だとすると、エネルギー消費が激しいということもあるが、クレイドルからの栄養補給を行っていないから、その分の摂取が必要だったのだ。
空腹って、こんなにつらいのか。手足がしびれているような感じがする。そういえば、昨晩アレに襲われて以降、水すら口に含んでいない。知識としてそれが必要なことはわかっていても、慣れないと忘れてしまうものなのか。
瞼が下がってくる。暗転。
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