第9話 思い出は細部に宿るんですよ
影……物体によって光線の妨げられた暗い部分。
辞書的な意味はこんな感じか。それが人間にもできるなんて、聞いたことがない。それこそおとぎ話の世界だ。何故そんな不必要なものが人間の足元から伸びるというのか。あまりに非論理的で、考えたこともなかった。
帰り道。
ハルカは隣を歩きながら、その本の内容を教えてくれた。彼女は図書館の中でそれを読み終えていた。僕はウロウロと所在無く館内を歩き回っていたが、結局何も読まなかった。ページを繰って文字を追うことに慣れていないから、かえって疲れてしまうのだ。
ハルカが要約してくれたところによると。
主人公は怪しげな男と契約し、自分の影と『幸運の金袋』を交換する(この物語の中では、驚くべきことに人間にも影があるのだ)。金には困らなくなったが、影がないために周囲から非難される。影を奪った悪魔は、影を返してほしければ魂をよこせと言う。主人公は絶望し、『幸運の金袋』も投げ捨ててしまって旅に出る……。
「おとぎ話としては、難解すぎるな。結局どういうことなのか、僕にはよくわからない。元々影がないから、感情移入しがたいのだろうか」
「そうですね……」
「このお話の中では、他の人々はみな、影を持っているということだろう? 何のために?」
「さぁ……」
「影を取られたところで、何も困らないじゃないか。現に影のない僕らは困っていない」
「たしかに……」
そんなやり取りをしている間に、家に帰りつく。
「なんか、元気ないな」
「え?」
ハルカを振り返る。何にでも興味津々な彼女が、あの本を読んでからの帰り道、どうも元気がないような気がした。
「うれしいです、気にかけてもらって。でも、大丈夫ですよ」
にっこり笑って、僕を追い越す。
「それなら、いいんだけどさ」
「ん?」
クレイドルの中。なんだかすっかり疲れてしまったので今日はとっとと寝てしまおう……と思っていたが、あるものを見て頭が一気に覚醒する。僕の個人ミーティングルームに、アクセスがある。承認依頼者は鳶アカネ。ただのクラスメイトであって、彼女とは個人間でクレイドルのミーティングルームを行き来するような間柄ではなかった。初めてのことだ。
つい先ほど、学校で別れたアカネが、何の用だろう? 何か言い忘れたことでもあるのか、それとも、ハルカの前ではできないヒミツの話がある……とか?
「あ、ごめんなさい、急に」
「いや、いいんだ」
平静を装いながら、応答する。クラスメイトの女子がミーティングルームを訪ねてくることなんて、日常茶飯事。何でもないことさ。という雰囲気を出そうと努力する。そんな見栄を張る意味もよくわからないが。
「どうしたの?」
「ちょっと、伝えたいことがあって……」
言いよどむ。急にクラスメイト男子の部屋に押しかけたのが、彼女にとっては初めてのことなのだ。それが伝わってくる。あるいはそれは僕の願望なのかもしれないけれど。
「これは勘……女の勘なんだけど」
「ん?」
どこかで聞いたことのあるような言い回し。
「あの子には気を付けた方がいい」
「ハルカのことだよね?」
「? えぇ」
「今日、別の人からも言われたよ」
「……そっか。先を越されちゃったね」
はにかむアカネ。
「それで、タダモノじゃないって言うんだね?」
「…………」
「ハルカが僕に何らかの危害を加えようとしているとは、思えないんだけど。これは僕が騙されてしまっているのだろうか」
小動物みたいな見た目に騙されているのであって、実は悪魔だとでもいうのだろうか。
「彼女自身が、というよりは、彼女の近くで良くないことが起こりそうな感じ。私も詳しくはわからないけれど」
「そっか……でも、芳川の話よりは具体性があって良いよ」
不意に、アカネの視線が揺れる。
「あぁ、先を越していたのは、やっぱり芳川さんなのね」
「え、あぁ、うん……」
なぜだか少し、空気がおかしくなる。
「まぁ、いいわ。ともかく、ハルカさんのようすには注意してね。彼女自身すらよくわかっていないのかもしれないけれど……」
アカネはそれだけ言い残して、「母を待たせているから」と言って退室した。淡い期待は消えて、さらなる謎が残った。
バチッ。ドアノブに手を触れた途端、電流が走る。
「痛ッ――」
これだから静電気は苦手だ。クレイドルの外は危険がいっぱいだ。
「兄さん……」
もう一度触れることに躊躇していると、向こう側からドアが開けられた。そこに立っていたのはハルカ。なぜか頬を赤らめている。
「どうした? 君も静電気か?」
「え? まぁ……それより兄さん、お出かけですか?」
そういえば僕は、休みの日だと言うのに朝からクレイドルを這い出てどこへ行こうというのか。自問するが明確な答えは自分の中にない。
「出かけてみようか」
こんなセリフがこの僕の口から出ようとは思いもしなかったが、出た。
「はい!」
二つ返事とはこういうもの。二つ返事のお手本のような返事が返ってくる。ハルカは最初からそのつもりでここにいて、僕はまんまと誘き寄せられたのかもしれない。すべては彼女のシナリオ通り……そんな妄想を抱く。
日曜日は全学年休日である。たいていはクレイドルの中でゲームをしたりマンガを読んだり流行りのドラマやアニメを見たりして過ごす。健全な高校生の休日……だが、どうせ中身はあまりないので、一日くらい他のことに使ったところで支障はない。
「さて、しかしどこへ行こうか」
「兄さんと一緒なら、どこでもいいですよ」
「お、おう……」
「ん?」
ナチュラルに恥ずかしいセリフが出るやつだ。前からこんなんだったっけ?
「とりあえず駅に行ってみるか」
東西を結ぶ鉄道路線はもうずいぶん前に廃線となった。今は南北を結ぶモノレールだけが生き残った公共交通機関だ。
「モノレールに乗るんですか?」
「いや、乗らないけどさ。遠くには行きたくないし」
本当は、乗ったことがない。それどころか、この町から出たこともない。大人の許可もなく遠くへ行って、五時までにクレイドルに帰れなかったら……そう思うと恐ろしい。
ただの散歩。三年ぶりに会った妹を観察ないし監視するための口実。とりあえずの目標地点を設定した方が、歩きやすくはあるだろう。
「わたしもあまり遠くには行きたくないです。この町のことを、もっと思い出したいから」
「思い出すような名物もないけどねぇ」
「思い出は細部に宿るんですよ、兄さん」
僕は生まれてこの方、この町から出たことがないのでわからないが、そうなのかもしれない。
東京と山梨を結ぶ大きな街道沿いに歩いていくと、モノレールの駅が現れる。柱の上でつながれた太いレールが、行きと帰りの二本。曇り空の下、薄っすらと影を落とす。
「そういえば……」
「はい?」
「ハルカは、人間にも大昔は影があったと思うかい?」
レールを咥えた列車がゆっくりと駅にやって来る。列車の影に入って、少し寒さが増す。
「……わかりません。でも、あのお話は、ただのおとぎ話ではないと思います」
ハルカが図書館で借りてきた、影をなくした男の物語。
「本当は、影を切り離してはいけなかったんだと思います」
人間にも影がついて歩いていた……僕には想像もできないことだけれど。
「だって、影をなくしたせいでみんなから嫌われるし、好きな女性とも結ばれなかったし……」
「でも、今仮に影を持ったヒトが現れたら、そっちの方が不気味がられると思うな」
物語の中では、皆が影を持っていた。影があるのが当たり前。だから無い者は不気味がられる。仲間外れだからだ。
「うーん」
ハルカはまじめに思い悩む。僕の浅薄な考察がお気に召さなかったのかもしれない。鳶アカネほどではないかもしれないが、ハルカも昔から頭脳明晰だった。
モノレールを見ても特に何の感慨も得られなかったので、僕らは踵を返して歩き始めていた。珍しく、太陽が雲の隙間からほんの少し顔を見せる昼下がり。
「あ、待ってください。まっすぐ帰りたくはないです!」
「へ? じゃあどうするんだよ。別にやることもないよ」
「寄り道しましょう。寄り道!」
ハルカはそう言って僕の腕を掴み、街道から脇道へ入った。用水路沿いの閑静な道である。静かに揺れる水面を弱弱しい光が照らす。なんだか――
「――懐かしい感じがするな」
漏れたのは自分の声だった。ハルカと二人でこの道を歩くと、ふとそんな気分になった。
「もう忘れちゃったんですか? 小学校への通学路ですよ」
ハルカが僕の方を振り向いて、にっこり微笑む。うっかりこちらも頬が緩む。二人のクラスメイトから気を付けなさいとアドバイスをもらっているのにもかかわらず。
「あぁ、なるほど」
用水路沿いに歩いていくと、H市立冲田(おきた)小学校が見えてくる。加賀美坂上中高ほどではないが、それなりに大きくて立派な校舎がそびえる。しかし日曜なので人気はない。
「覚えてますか? 一年生の頃は、兄さんがわたしの手を引いてここまで歩いてきたんですよ? こうやって――」
不意にハルカは僕の手を取って歩き始める。速度を上げて。
「――って、おい。どうしたんだよ」
誰に見られているわけでもないのに恥ずかしくなって、手を振りほどく。
「ごめんなさい」
「あ、いや、こっちこそごめん……」
当時は見上げていたはずの校門。今は少しだけ小さく感じる。
たしかにはじめは僕の方が先を歩いていた。怖いもの知らずというか、何も知らなかっただけだったのだろう。でもいつのころからか立場は逆転し、ハルカの方が先を行くようになった……。
もうすぐ五時です。ここから先は『大人の時間』です。良い子の皆さんは、速やかにハイブへ帰還し、クレイドルに入りましょう。繰り返します……
さきほどまで顔を見せていた太陽が再び分厚い雲に隠れる。ポツポツと冷たい雨が降り始めた。
「帰りましょうか」
「うん」
特に何の成果もなく、日曜日が終わる。しかし、あまり悪い気はしなかった。
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