第8話 僕ら三人の足元に、影は無い。

 次の日。天気は曇り。授業開始の五分前。何かの気配を感じる。何かが高速でこちらに近づいてくる。

 とっさに左手の窓を開け――

「あら、アンタにしては気が利くじゃない」

 勢いあまって周囲の机椅子をなぎ倒し、今日も芳川スイが窓から教室に入ってくる。

「すごいです! 飛んでいるように見えました」

 右手でハルカが興奮気味に声を上げる。

「跳んできたのよ。前回はクライミングで地味だったから。今日は棒高跳びで登校してみたわ」

 バッサバサに乱れたポニーテールを結びなおす。窓から校庭を見下ろすと、使用されたと思しき竹製のポールが転がっている。

 棒高跳び。噂には聞いたことのあるスポーツだ。ポールのしなりを利用してより高く跳ぶことを目指す。起源は羊飼いが杖を使って川や柵を飛び越えていたことに由来するとかしないとか。

「いったい君は何を目指してるんだ……ていうか、だいたい僕が窓を開けなければどうしてたんだよ?」

「アンタを信頼……してたのよ」

 思わせぶりなウィンク。でもすぐに目をそらす。わざとらしい。

「っていうのは嘘で、ホントは窓を蹴破って入ってくるつもりだったわ。でもよかったわね。アンタたち軟弱だから、ケガしてたかもよ」

「かもよじゃないよ、全く……」

 肩をすくめてみせ、寒いので窓を閉める。

「芳川さんと兄さんは……」

 そこでなにやら思案顔のハルカ。

「とても仲良しなんですね」

 は? 何を言い出すかと思えば。

「なんでだよ」

「なんでよ」

 ほぼ同時。



 芳川スイが二回も連続で遅刻せずに登校するというのは、かなり珍しいことだった。登校の仕方はともかくとして。本人曰く「胸騒ぎがする」ということだったが、どうやらハルカのことが気になっているようだ。

「これは勘……女の勘なんだけど」

「はぁ」

「あの子には気を付けた方がいいわよ」

「あの子って?」

「那々生妹のことに決まってるでしょ」

「ハルカ?」

「そう」

「気を付けるったって、ただの双子の妹だ」

「何か秘密がある。タダモノじゃない」

 そんなことはわかっている。この学校に編入してきた理由を、未だに聞いていない。僕がいちばん不審がっているのだ。

「気を付けるって、具体的にはどうすればいいんだと思う?」

「知らないわよ。自分のことでしょ」

「おぅ……」

 昼休み。校舎の屋上。曇天が続き、景色もさほど良くなく、ただうすら寒いだけのそこに佇んで昼食のパンをかじるのは我々だけである。高台にある学校なので、条件さえそろえば、それなりに綺麗な景色が広がるはずではあるが……。

午前の授業が終わった途端、背後でスイが立ち上がり、そのまま前席の僕の襟首を捕まえ、拉致したのだった。首がしまって助けを呼ぶこともできなかった。一瞬の出来事であった。連れ去られながら購買部で総菜パンを買い、スイの分まで持たされて、ここに至る。

彼女が僕を連れ去った理由は、この女の勘とやらを伝えることだったらしい。それを伝えて何になるのか、それを聞いた僕はどうすればいいのか、それは謎だったが、とりあえずスイは任務を遂行して満足したようだった。

「兄さん、芳川さん、ここにいらしたんですね!」

 当のハルカが屋上にやってきたのは、そのわずか五分後だった。誘拐の途中で購買部に立ち寄ったのが、追跡を阻止できなかった原因である。

とはいえ、それは結局のところ、そこまで含めてスイの計画通りということだったらしい。いかにもか弱そうな妹を連れ去るのは気が引ける……という比較的常識的な考えに至っていたのは褒めてもいいが、結局のところ、兄を捕まえればついてくるであろうという乱暴な思考に行きついてしまったところはあまり褒められたものではない。

僕には注意を促したスイであったが、自分はすぐにハルカと打ち解けてしまう。

「那々生妹、なかなか早かったな。仕方ないから人質は解放しよう」

「そうですか。ありがとうございます」

 僕は人質だったらしい。

「アンタもいっしょに昼飯にしよう。たくさん食べないと、軟弱で貧弱になる。こいつみたいに」

 失礼にも、僕を指さす。

「体を鍛えて何になるっていうんだ。僕はそこに価値を見出さない」

「ほらね、考え方まで貧弱だ」

 スイは言いながら、手元の袋をあさり、二つ目のホットドッグに手を出す。僕なんかは一つで十分だが、よく食べるやつだ。

「芳川さんは、いつもこうやって、兄さんとランチしているのですか?」

「スイでいいよ」

「スイさん……」

「今日はたまたま、ちょっと話があっただけさ」

 ケチャップとマスタードを一息になめとり、パンとソーセージの本体部分は三口ほどで吸収。不思議な食べ方だ。

「なるほど、そうなんですね」

「心配しなくても、アンタの兄さんをとったりしないよ」

「別に、そういうわけでは……」

「まぁ、なんでもいいけどね」

 スイはそう言って、フェンスに手をかけ、どんよりとした街を見下ろす。



 放課後。

 僕とハルカは鳶アカネを先頭にして、図書館へ向かった。

 アカネの背は僕よりほんの少し低いくらい。いつも背筋をピンと伸ばしているので、気を抜くと追い抜かれそうだ。このピンと伸ばしている背を猫のように丸めて、むさぼるように読書へ没頭していたあの日の記憶が、図書館が近づくにつれて戻ってくる。

 ほんのり茶色がかった長髪が二房、視線の先を揺れている。左手を失って、この髪はどうやって結んでいるのだろう。ただ二つにわけて結んであるだけで、編み込んでいるわけでもないのだが、いざ左手のない自分を想像すると、うまくできそうな気がしない。

 教室棟から外付けの渡り廊下に出て、図書館へ。重い扉を開けると古い紙のにおいが漂ってくる。天井は高く、本棚が乱立する。棚に入り切っていない書物があちらこちらの机や椅子、床の上に積まれている。これでも歴代の図書委員たちが整理をしているはずではあるのだが、この作業は無限に続くものと思われる。

「あら、鳶さん。今日はお友達といっしょですか」

 受付ブースにはスーツを着た女性のホログラム。司書教諭の美(み)澤(さわ)ツカサさんだ。職員用の名札にそう書いてある。パリッとしたレディーススーツのせいか、全体的にシャープな印象。あまり図書館司書というやや古臭い職業には似つかわしくない格好のような感じがする。

「社会科の課題で、調べものを」

「そう、熱心ね」

 美澤さんは僕とハルカを一瞥する。それからすぐに目線は図書委員長へ。

「じゃあ、後は任せてもいいかしら?」

「はい。大丈夫です」

 彼女はキュッと立ち上がり、ヒールをカツカツ鳴らしながら、図書館を出ていくそぶり。扉に触れるか触れないかのところで、立体映像が消える。

「さ、行きましょう」

 混沌とした迷路のような図書館だが、アカネは迷いなく本棚の隙間を抜けていく。館内の地図は頭の中にあるようだ。

「歴史関係の本はこのあたり。比較的整理が進んでいる区画ね」

 日本史世界史なんでもござれ。歴史書のエリアだけでもうんざりしてしまう蔵書の数。たかが都立中学校の図書館にしては充実しすぎかもしれない。他を知らないから何とも言えないけれども。

「発表の足しになるものはこのあたりなんだけど、例の本は、まだ整理のできていない奥の方にあるから、ちょっと待ってて」

 夕日の差し込む図書館内を、アカネが一人で行ってしまう。ここで待てということらしい。彼女を待つ間、僕とハルカは歴史書のコーナーを見るともなく見る。どれも読んだことのない本ばかりだ。

「兄さんは、どういう風に歴史を学んだのですか?」

「どうって、普通の公立中学校の授業を受けていただけだ。高等部に上がれないと困るから、それなりに真面目にやりはしたけど」

「そうですか。どこも同じですね」

「私立中だと、もう少し発展的なことを学んだりしたのかな」

「別に変わらないと思いますが。先生はみんなホログラムだし、実力に差があるのかもよくわかりません」

 妹の中学三年間に探りを入れてみようと試みるが、あまり乗り気ではないのが伝わってくる。何となく気まずい空気になりかけたところで、アカネが戻ってくる。

「お待たせ」

戻ってきたアカネの手には小さな文庫本。

「これよ」

「ありがとうございます」

 ハルカの受け取った本を、隣からのぞき込む。

表紙には主人公と思しき男の絵。杖を持って……旅人のようだ。ハルカの小さな手がパラパラとページをめくっていく。挿絵が散りばめられている。どこか懐かしい。

「この小説に、『幸運の金袋』が出てくるのよ」

 アカネがすっと右手を伸ばして、該当のページを指で止める。怪しげな紳士が、ある男の影を鋏で切り取り、クルクルと巻き取っている絵。

「この主人公は、自分の影と『幸運の金袋』を交換するの」

 ハルカはアカネを見上げ、目を丸くする。僕も同じような顔をしていたことだろう。

おとぎ話ということはわかっている。いや、それにしても荒唐無稽というか、前提がおかしい。だって――

「人間に影なんて、あるわけないじゃないか」

 分厚い雲にさえぎられた弱弱しい夕日の差し込む図書館。本棚の影が長くのびる。

 僕ら三人の足元に、影は無い。

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