第3話 はじめから何もなかったかのように消える

 欠落症候群(ミッシングシンドローム)。

 その呼称が世界的に発表されたのは一八六六年のことだが、当然それ以前から発症者は出ていたと考えるべきだろう。僕には教科書レベルの知識しかないが、そもそも世界的にも謎の多い症候群である。

 ある日突然、それは起こる。痛みは伴わないし傷も残らない。はじめから何もなかったかのように消える。寝ている間に起こることが多い。発症者は何の前触れもなく体の一部を失う。失う部位は四肢であることが多い。男女ともに同程度の発症率である。発症者の最少年齢は十三歳。それ以下の子どもたちにおいては未だ発症例が見つかっていない。

 原因は全く不明である。発症者が出始めた当初は、ウイルスによる感染の疑いがもたれ、欠落症候群患者が隔離され、迫害された。この厳しい混迷の時代に、かえって技術は急速に進歩し、人々を外界から守るカプセル――『クレイドル』が開発され、人類は人生のほとんどの時間をその中で暮らすことになった。人間関係もまた、クレイドル内で完結する。

近年、欠落症候群はどうやら感染性のものではないらしいということがわかっている。したがって、個々人をパーソナルスペースに隔離する必要性は薄れたわけだが、クレイドルはいまだ廃れない。むしろスペックは改良に改良を重ねられている。したがって、今の生活様式をわざわざ手間のかかる昔のスタイルに戻すことは理にかなっていない。

欠落症候群は無作為に降りかかる。いつ何時わが身に降りかかるかわからない。なにかに一生懸命取り組んだところで、それは簡単に奪われてしまう。例えば熱心にトレーニングを重ねて、人類最速の足を得たとする。しかしそれも次の日には消えてなくなっているかもしれないのだ。したがって、自らの身体について研鑽を重ねることは、ほとんど無意味であり、むしろその後の喪失感を助長してしまう。クレイドルの中で何不自由なく暮らすことが結局のところたった一つの冴えたやり方なのだ。

だから「勉強だけは私たちを裏切らないから」ということになる。欠落症候群によって頭部を欠落したという例はない。今までにないということが、これからもないということの証明にはならないが、ここ二〇〇年近くの間出ていないことは一定の信憑性が得られるだろう。勉強をして、それなりの評価を得られれば、自分のクレイドルをアップデートする権利が与えられる。



鳶アカネは昨晩、左手を失った。目が覚めると、左腕の肘から先がきれいになくなっていたらしい。

アカネは下駄箱で僕らと別れ、保健室へ向かった。欠落の症状が見られた場合、生徒は次の登校日に保健室へ報告することになっている。そこで簡単な検査を受け、学校は発症者のデータをPTAおよび国の研究機関と共有することになっている。感染の恐れもなく、対処法もないので、中高生の症例については病院を介さず、学校内でほぼほぼ完結する仕組みだ。症状の大小によっては、その後登校できなくなる者もいるが、高等学校程度のカリキュラムも自宅のクレイドルの中で消化できるので、大した問題ではない。

都立加賀美(かがみ)坂上(さかうえ)高等教育学校は、隣接する加賀美坂上中等教育学校との中高一貫校だ。とはいえ校舎も中等部と高等部は別なので、ほとんどかかわりはない。校門も別々だ。高等部の保健室は、坂上通側の校門から教室棟に入ってすぐ、職員室の隣にある。

僕とショウは保健室とは反対側、一年C組の教室へ向かった。職員室脇の階段を上がって、手前から三つ目の教室。

ショウの席は教卓目の前。僕の席は窓側一番後ろから二つ目。背後の席に問題児が座るということを除けば、大変良い座席だ。左側は窓で、どこか寂しげな校庭とその向こうの中等部教室棟が眺められる。右隣は千草(ちぐさ)園(えん)トウというクラスメイトの座席だが、今は空席。年度当初はそこにいたような気もするが、不登校になってしまった。とはいえ、特に誰も気にしない……。

「ちょっと那々生(ななお)、開けなさいよ」

 唐突に、僕を呼ぶ声がガラス越しに聞こえた。僕はため息をついて教室の窓を開ける。

「よっと」

 冷たい外気とともに、スカートひらり、少女が二階の窓から教室に華麗なエントリー。

「本来なら、アタシの気配を察知して、声をかけられる前に開けるべきだったわね」

「無茶言うなよ」

 僕の後ろの机へ豪快な着席を決めたのは、芳川(よしかわ)スイ。運動靴のまま机の上に座ることを着席と呼んでよいのかどうか疑わしいところではある。

髪は高めの位置でひとつにまとめ上げて、かわいらしいポニーテールというよりはむしろサムライのようである。そしていったいどこで日焼けしてくるのか、今時珍しい褐色の肌。

 入学以来、彼女はほとんど毎日遅刻してくるという噂だ。今日のようにギリギリではあるが始業時刻に間に合うのは珍しいことである。教室への入室方法に関しては問題ありだと思われるけれども。

我らの担任であり体育教師である名方(なかた)タモツ教諭より生活指導を何度も喰らっているが、本人は「アタシは生きるので忙しいの」の一点張りで意味不明。ところが老師・名方もこの時代に体育を教える変わり者である。なぜか彼女の生きざまに感動してしまい、生活指導にならない。

そんな彼女に話しかけられる僕は、たまたま席が目の前になってしまった哀れな犠牲者というわけである。

「今日は間に合ったね」

「ん? あぁ、なんだか胸騒ぎがしたのよ」

 振り返ると、スイは運動靴を脱ぎ捨てて机の引き出しから取り出した上履きにはきかえるところだった。下駄箱ではなくそこに上履きが収納されているところにはイチイチ突っ込まない。

雪が降っているというのにショートソックスで、筋肉質な太もも、ふくらはぎがあらわになっている。スカートもはだけてしまっているのであわてて目をそらす。

「アンタ元気ないわね。すでに何かあった?」

 スイは椅子の上に仁王立ち。椅子の背に以前からかけてあった制服のブレザーを、バサッと男らしく羽織る。ブラウスの上からパーカーを着ていたので、フードを出すためにややモゾモゾと動く。

「まぁね……」

 僕の表情が暗い理由は、もちろん鳶アカネの失われた左手にある。

「何よ、言ってごらんなさいよ――て、あぁ……」

 ちょうどそこで、当のアカネが教室に入ってきた。始業の一分前。保健室での検査は無事に終わったらしい。

「そういうことね」

 スイはストンと椅子に座る。

「また、守れなかったのね」

 彼女は僕に、というよりは独り言のように言った。

「守るも何も、防ぎようのないことじゃないか。仕方がないよ」

「そう、かもね」

 僕の言葉に納得した様子はなく、スイは小さな声で言った。始業のチャイムにかき消されてしまうような、小さな声で。

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