第2話 その左手の動きを詳細に覚えている

 何か悪い夢を見ていたような気がしたが、クレイドルの優しいアラームに覚醒を促されて、そんなことはものの数秒で忘れてしまう。

「カナタ、そろそろ起きなさい!」

 母の声がする。聞きなれたその声を聞いて安心する。

「起きてるよ」

 クレイドルから出て、制服に着替える。

「シュレミウムランプは持った?」

 再び、母の声。

「うるさいな。持ったよ……」

言いながら、本当は持っていなかったので小さな手のひらサイズのランプを乱暴にポケットに突っ込む。ランプのくせに、もう光りもしない飾りのようなものだ。飾りであって、形見。

「お父さんもいないんだから、あなたに何かあったら心配よ」

 このランプは父が残したものらしい。母が言うので持たされているが、いったい何の意味があるのかはわからない。父は僕が物心つく前に消えた。死んだのか出ていったのか、母は何も教えてくれない。父に関することは聞いても何も答えてくれないが、この形見には謎の執着があるようだ。

 外に出ると、すでにひんやりとした冷気を感じた。クレイドルから出ると、いつだってそうなのだ。二〇〇年ほど前に隕石がこの近くに落ちてから、ずっとこうらしい。歴史の教科書によると、昔は日本にも四季があったということだが、にわかには信じがたい。

 家(ハイブ)の外は雪が降っていた。

「やぁ、カナタ。今日は寒いね」

 H市本町から学校へ向かう坂道の途中で、声をかけられた。東興寺(とうこうじ)ショウ。僕のクラスメイトだ。面白味はないが清潔な印象を与える短い黒髪、淵の細い丸眼鏡。シャツのボタンは一番上まで止めている。品行方正を絵に描いて歩かせたらこうなるのではという少年だ。実家はその名の通り東興寺というお寺である。H市新町の方から登校してくるので、長い坂道の途中でいつも合流することになる。

「どうしてこうも寒いかね」

「二〇〇年前の隕石衝突以来……」

 僕の軽口に、ショウは大まじめに解説を加えようとする。

「その件は先ほど僕の脳内で考察したばかりだ」

「うむ、そうか」

 しばし黙り込んで何かを考えている。この沈黙が、人によっては耐えられない。今時、ネットワークを介してほとんど思考が共有されていると言っても良い。そんな中で彼は必要以上に思慮深く、言葉を発するまでに時間を要する。僕はそんな彼の実直さが嫌いではない。

「我々が肉体を伴って登校するのは、生きていることを忘れないためだ。身体的な負荷が多くかかった方が、理にかなっているのではないだろうか」

「うん、まぁ、そうかもな」

 ショウを相手にすると、不用意に不満を口にすることもできない。彼は何事にも文句というものを言わない。過酷な状況もまた、彼にとっては何かしら有益な意味を持つ。その生き方をまぶしく思うけれども、まぶしすぎてやや近寄りがたいという意見にもうなずける。

 しばらく無言になった。会話の終わり方はぶっきらぼうだったが、不機嫌なわけではない。単純に、坂道が長いので無駄口よりも呼吸自体に意識を持っていきたいというだけだ。

 本町から学校へ行くには、H市旧駅舎の下をくぐってから加賀美(かがみ)坂上(さかうえ)町の急坂を上るか、新町沿いのややゆるやかだが長い坂を通るか、大きく分けて二パターンである。仕事の原理というやつなのか、おそらくどちらにせよ疲労度合いは変わらないのだろうが、僕はいつも長い坂道を選ぶ。こちらを通るとショウといっしょになるということもあるが、それはついでのようなもので、本命は他にあった。



 坂道の終点、加賀美台(かがみだい)方面からいつも同じ時刻にやってくる人物がいる。クラスメイトにして図書委員長の鳶(とび)アカネ。ちなみに東興寺ショウは学級委員長にして生徒会役員だ。そちらはどうでもいいけれど。

「勉強だけは私たちを裏切らないから」

 それが彼女の口癖で、成績は常に学年一位。いや、学年一位というのはやや遠慮の入った言い回しで、本当は高校一年生にして学内一位である。いやいや、これもまた遠慮がちな表現で、彼女は入学当初から学内一位であり続けている。クレイドル内で支給される自宅学習プログラムは、入学前に高等部三年分を修了していると聞く。

 ただしこれらはあくまであちこちから伝え聞いた噂であって、彼女自身は自分の賢さをひけらかしたりはしない。その謙虚さは常にあふれでてくる天然物で、まるで意識してやっているとは思われない。とっくの昔に自分で勉強してしまっていることに対しても積極的に学習し、わからないことなど出て来ようはずもないのに、教師に丁寧な質問をする。知ったような口は聞かず、教師の望む反応を返す。どちらが大人なのかわからないくらいだ。

 その優秀さは隠そうにもあふれ出ていたので、クラスメイトは全員、学級委員長に彼女を推した。ところが彼女はその座を対抗馬のショウに譲り、自分は誰もやりたがらなかった図書委員長に就任した。

 図書委員――なかでもその長たる図書委員長は最も忌み嫌われる役職である。学校には立派な図書館があるが、今や誰も紙に印字された本など読まない。ゆえに、もうずいぶん前から図書館の内部は放置されている。図書委員の仕事はそれを整理することであり、図書委員長の仕事は委員らを統括すること。その仕事は途方もなく、そして意味もない。そのあまりの無意味さに耐えかねて、図書委員は長続きしない。かといって途中で辞めてしまうと評価点に影響するため、そもそも誰も就きたがらないという仕組みだ。

 しかし実のところ、鳶アカネが持ち前の謙虚さでもって図書委員長に就任したわけではないことを、僕は知っている。彼女は自ら志願して積極的に図書委員長となったのだ。

 普通読書といったら、クレイドル内のデータベースにアクセスし、該当の作品をダウンロードして行うものだ。しかしその人のパーソナルレベルによって、アクセス範囲は限定される。与えられた権限以上のものを見るには、課金をするしかない。例外としては、自らの足で図書館へ赴き探すことくらいか。ただし前述の通り、紙の書籍は放置され、きちんと配列・整理がなされていないことがほとんどである。基本的にはだれも見向きもしないものだからだ。

 したがって僕は、人間がどのようにして本のページをめくるものなのか、きちんと理解はしていなかったように思う。



 中学一年生の頃。珍しく太陽が雲間から顔をのぞかせた夕刻のことだった。もう内容は忘れてしまったけれども、担任から何かの雑用を頼まれて、その時はじめて図書館に行ったのだ。

 図書館の丸椅子に、ちょこんと丸まって座り、一心不乱に書物に目を落とす少女がいた。ほんのり茶色がかった長髪を後ろで二つに分けて流す。赤いフレームのボストンメガネの奥で瞳が輝いている。僕が部屋に足を踏み入れたことにより、少しだけ風が入る。それが彼女の髪を少しだけ揺らす。

 彼女は僕を振り返らない。視線は文字を追ったままだ。メガネにかかった自分の横髪をそっと、華奢な左手でかきあげ、耳にかける。

 僕はそれを、なぜだか美しいと思った。自分でも気持ちが悪いと思うから、もちろん誰にも言ったことはないが、その左手の動きを詳細に覚えている。白い五本の指それぞれの配置までしっかりと――



 中等部の三年間は、同じクラスになることもなく、接点は生まれなかった。しばらくは名前も知らなかったくらいだ。高等部に入ってやっと、同じクラスになった。話す機会は何度かあった。でもそれだけだ。

 だからなんとなく、時間を合わせて登校する。今日はショウも一緒だし、自然な感じで鉢合わせをして、おはようと声をかけて、三人で教室まで歩く。それだけでも幸せなことじゃないか。

「あ、鳶さん。おはよう」

 そう、自然な感じで。

「あ、うん」

 対するアカネはやや不自然な感じで……。

「む、どうかしたかな? 鳶くん」

 ショウがそっと彼女の左側に目をやる。彼女はずっと、緋色のコートの上から左腕をかばうようにしていたのだ。

「うん、まぁ……どうせわかることだし、ね」

 アカネは独り言のようにそう言って、コートの左腕に触れてみせた。

「な……」

 というより、左腕があったはずの場所に、何もないことを示してみせた。

「欠落症候群ね。私の左手、なくなっちゃったみたい」

 コートの左袖は不自然にひらひらと揺れていて、あの白く美しい左手はもう失われていた。

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