第7話
散
隣家の庭にこの寒空に真っ白な花が咲いているのをみて、斉昭は隣を訪ねた。山茶花という名前は聞いたことがあったが、それが冬のこの時期にこのような花を咲かせるものと知ったのはここに移り住んでからだった。
こうして山茶花の一枝をもらうのは今年が二回目である。
――はて、一昨年ももらったか、これが三度目だったか……。
曖昧な記憶を曖昧なまま、もらってきた山茶花を縁側に座る実千に渡した。
「隣で山茶花が咲いていたのでもらってきた。寒くはないか」
山茶花というものを、実千はみたことがない。枝を手に取ったとき、実千の顔にも満面の笑みが咲いた。妹には、花というものの持つほんとうの美しさがわかるのかもしれない。その美しさ、あるいは素晴らしさは決してみて得るだけではないということを。花の持つ凄味を、兄も妹の笑顔をみて理解する。
ただあるだけで妹を笑顔にする、花とは、自然とはなんと凄まじいものか。
自然に対する畏敬の念は、そこを頂点にあっというまに失せていくのだが。
「ちゃんと断ってきたの? 兄さま、勝手に折ってきたのでないでしょうね」
「滅多なことをいうものではない。安心しろ、ちゃんと隣には断っている。それより、朝からこうしていて寒くはないか? 幾ら陽が当たるとはいえ、もっと火の近くにいねば体を悪くする」
「ご心配には及びません。今日はあたたこうございます。今日のお日様は、まるで春の陽のよう」
斉昭は驚いた。確かに今日は暖かい。最近寒い日が続いていたせいか、なおのこと暖かく思うのかもしれない。しかし、あくまでも暖かい「冬」の一日だ。斉昭にとっては、寒かろうが暖かかろうが、それは冬の太陽だった。
「どれ」
斉昭もみちの隣に腰を下ろした。大きく深呼吸すると、なんだかわかってくる。町中ほどではないが、この辺りはその中心への連絡路として人の通りが切れることはない。人々の足取りが、どことなく軽いように感じる。陽射しのせいだろう。家の横の防風林から、その向こう、隣の家の山茶花や庭木の辺りから鳥たちの声が冬の澄んだ空気に響いていた。じっと座って目を瞑ると。
「暖かい。なるほど、今日の陽は春の陽射しか」
いってみてはたと気づいた。そもそも春の陽射しがどんなものか知らない。
――これが春の陽か。
春の陽射しの暖かさを、冬に知ることになった。
一週間ほど前、斉昭の飯田の家を珍しく実家の番頭が訪ねてきた。珍しいもなにも、その番頭がこの家を訪れるのはこの家に住み始めるとき、家財道具やなにかを入れるのを手伝ってもらって以来二度目だった。古株の番頭で斉昭が小さいときはよく遊んでもらった。お互い気心の知れない同士ではないが、番頭の顔つきがやけに真剣にみえた。
「どうした、しかつめらしい顔をして」
「ちょっと、よろしいですか」
番頭は斉昭を外に連れ出した。後を付いていくと、番頭は別の家の中へと入っていく。わけもわからず斉昭も後に続いた。そこは、斉昭たちの住む家と斜向かいの位置にある。確か、ちょっと前まで人がいたが今は誰も住んでいないはずだ。
「旦那さまから、頼まれごとを預かってきたんです」
塀に隠れて外からみえない位置にまで入ると、番頭は挨拶もせずにいきなり切り出した。
「今日の昼過ぎ、この家に若い女性が越してきます。その女性の面倒を、斉昭さんにみて欲しいんです」
「も少しちゃんと説明してくれんかね」
「すいません。実は、今から越してくる女性というのは、その、目が、みえないのです」
順番が違うだろ、と斉昭は心の内で突っ込んだ。番頭は気に留めた風もなく話を続けた。斉昭の内心を汲み取る余裕もなさそうだった。
これ以上細かいことは話せません。というか、わたしも聞かされてはいないのです。もちろん、必要な分のお金は今までの分に加増します。
「なにぶん急なもので、お金しかご用意している暇がございません」
「要するに、生活するに必要な家財や食料、女性の世話をする人間もわたしに用意しろということか」
「はい」
「随分と信用されたものだな」
番頭はその皮肉には一言もなくじっと斉昭の顔を見返した。
――これでは頼みではなく命令だ。
番頭になにかいっても仕様がない。あの父からの言を断れるわけがなかった。
「わかったと父に伝えてくれ。ご苦労だった」
諾の返事を受けても番頭の顔から緊張の色が消えていない。余程の大事だと思っていると案の定、番頭が言葉を付け足した。
「このことは決して他言しないようお願いします。娘の素性を探るようなこともしてはいけません。斉昭さんの身分を明かしてもいけません。くれぐれもお願いします」
そこまでいわれると、むしろ興が冷めるようだった。
――あの男が、わたしを信用などするはずはない。
あの父は長男をいったいなんだと思ているのだろう。急ぎ足に離れていく番頭の背中に溜息を一つ当て、家へと戻った。
先ほど聞いた通り、それから二時間ほど経ったころ斜向かいの家に一台の自動車が止まった。と思っていると、玄関に声がした。
「斉昭さん」
黒い着物の男に迎えられ、斉昭はともに家を出た。
みたことのない男だった。ハシモトの人間ではない。鋭い眼光を持ち、表情に余計な感情を一切表さず、伝えるべきことだけを淡々と話した。
実際に家に入ってみると、そこには必要最低限といえる家財が既に入っていた。番頭の弁と食い違っている辺り、本家の周章ぶりが窺える。少し愉快でもある。小さな卓袱台に鍋、薬缶、食事をするに必要な包丁、寝るのに必要な布団など。狭い部屋に不釣合いな大きな箪笥が目を引いた。
それ以上に目を引いたのが、当の娘だった。
「名前はさき。十九です。それ以上はお教えできません。また、くれぐれも本人に聞いたりしないようお願いします」
「要するに、わたしには直接本人と話をするなということか」
「はい」
身許をさぐるな、身許をばらすな。それを二度三度繰り返し、最後に包みを渡して見知らぬ男たちは車に乗って帰っていった。包みには驚くような大金が入っていた。
――さしづめ口止め料ということか、それにしても。
金とは別に、斉昭は小さな紙包みも預かった。薬だという。
「目が治る薬か」
冗談半分期待半分でいってみた。返ってきた答えは予想以上につまらないものだった。
「あの娘、時折頭が痛い気分が悪いということがあります。そのときに飲ませてください」
そういって渡された紙包みと娘を見比べた。娘の顔には、斉昭を惹きつけてやまないものがある。きれいな顔をしていた。美人というのでなく、どちらかといえば妹と似た可憐な印象であるが、今の妹に似ない儚さがより女性の美しさを感じさせた。一目みて「訳あり」だった。
家に戻ると、台所に三次ととりを呼び、くれぐれもみちに聞こえないよう注意しながら話を聞かせた。
「とまぁ、そういう面倒を父から仰せつかった次第だ。養ってもらっている身で断るわけにもいかん。なので、ひとまずとり、面倒をみてくれるか。もしお主らの知り合いに、信用できる女性で娘の世話ができそうなのがいたら紹介してくれ。もう一度念を押しとくが、くれぐれも娘に込み入ったことを聞いてはいかんぞ。こちらのことも話してはいかん。とりや三次のことは話してもかまわんが、わたしたちが」
おほんと一つ咳を払い、声を一段小さくして続ける。
「わしらがハシモト縁の人間だということを決して話してくれるな、わかったか」
三次ととりが息を詰めて聞き入っていた。
「そんなに力むな。返って不自然になる。も少し力を抜いてくれ」
いいながら、二人に小さな包みを渡した。中をみて、二人がさらに顔を引き締めてしまった。
「こんなに……」
もらったものそっくり渡したわけではない。斉昭の分は抜き取ってあるが、二人にとっては娘一人面倒みるに十分過ぎる金だった。
「なに、必要なものがあればそれを使ってくれということだ。手間賃も入っているので二人が好きなものに使ってもよい。足りなくなればいってくれ」
困惑しきりの二人に、斉昭は自分でも白々しいと思える笑顔をみせつつ、またしても声を一段落として顔を近づけた。
「要するにわけありということだ。もし変なことが外に漏れたりすれば」
斉昭が掌で首を切る真似をした。神妙な面持ちで、二人は頭を下げて仕事に戻っていった。和田町の一等地に三階建ての店を構える実家「ハシモト本店」、そこの主である斉昭の父親は単なる繁盛店の一経営者ではない。開発著しい和田の町にあって、躍進の象徴などといわれる商店の主は和田町界隈だけでなく、県内に名を響かす有力者だった。
さきという娘にまつわる今回のこと、よほど気を引き締めてかからなければならないだろう。もし、番頭や黒い男の言いつけをやぶったときは……。さきというあの娘もろとも消されかねない。三次たちにしてみせたことは、決して大げさな脅しなどではないのだ。
――みちを危険な目にあわせるようなことがあってはならない。
斉昭の顔が悲壮ともいれるほどきつく引き締まった。
二日後、三次が女を連れてきた。年は十六だという若い娘で、ぱっちりとした瞳と明るい笑顔が爽やかな娘だった。さきの世話にどうかということだが。
「実はこの娘、言葉が話せません。こちらのいうことはわかるのですが」
斉昭は自分のことに置き換えてみる。もし自分から言葉がなくなれば、妹はまたしても「目」を失うのと同じことだ。
――いいわけがないではないか……。
が、すぐに改めた。考えようによってはこれは好都合だ。話ができないのなら、こちらの素性がさきに知られる心配はない。さきの素性が漏れる心配もない。
「うむ、なるほど。気持ちのよさそうな子を連れてきてくれたな。ご苦労さま。とりあえず、頼もう。少し様子をみてみて、だ。とりも、引き続き頼む。娘の名前は?」
「よしといいます」
その日から、よしに働いてもらうことにした。
斉昭も日に何度か様子をみにいく。さきと話を交わすのはとりだけである。とりがいなくても、みていると、さきとよしは上手くやっているようだった。よしはよく気が付く娘だった。さきにしろよしにしろ、少し他と違う部分のあるほうが、斉昭の目には魅力的に映るようだった。全ては実千の影響だろう。
日はつつがなく過ぎていく。斉昭も自分の家にいることが多くなった。
「兄さま、最近なにかいいことがあったみたい」
あるとき実千にいわれた。思わずはっとなった。その「はっ」までも実千にはみられてしまっただろう。くすくすと、小さく声を出して笑われてしまった。
「最近、斜向かいに人が住み始めた」
「はい。知っています」
「そこに実千と同い年くらいの娘がいるのだが、この子もな、目がみえん」
斉昭は正直に話した。
「まぁ、そうですか」
「実はな、訳ありだ。父上の頼みで、目のみえない娘が一人で暮らさねばならないからいろいろ面倒みてくれといわれた。詳しいことはわからんが断るわけにもいかん。そこで、とりと三次に頼んで娘と年頃の近い娘を一人連れてきてもらったのだ」
「はい」
「その三次が連れてきてくれた娘というのが、口がきけん」
「まぁ、それは……」
実千の顔がさっと曇った。我が身に置き換えてしまったことだろう。この兄が、口がきけなかったとしたら……。
「なにな、とりにも手伝いにいってもらっているから暮らすに問題はないのだが」
「それでときどきとりの足音がそちらでするのですね」
「口がきけないといったがその娘、なかなかどうして、とても気立てのいい娘でな、なんでもよく気がきく。よい娘だ」
「へぇ。兄さまがそんなにいうなんて、とてもよい娘さんなんですね。わたしも会ってみたい」
「そうだな、今度連れてこよう」
「その娘さんのお名前は?」
「よしという。顔かたちは、そうだな」
兄妹の語り合う様はいかにも楽しげだった。斉昭は、妹が怒っているのではないかと思っていた。傷つけてしまったのではないか。妹を笑わせることが、兄ができる罪滅ぼしだった。
「まぁ、のぞいてるなんて、破廉恥です」
「そういうな、父上から預かっている身だ、とりたちに任せきりにもできまいよ。それにしても、足音でとりがいっていることがわかるのか」
「わかりますよ、それくらい。とりと三次のはわかりやすいから」
「俺のはわかりずらいか」
実千ははっきりと答えることをせず、「ふふ」と笑いを含んだ。その笑顔のまま、実千がいった。
「兄さま、もう内緒はなしにきてくださいませね」
妹の細い笑顔を、兄はじっと見返した。我が心のか弱さが、そこに映っていた。じんと暖かくなった体の芯を、冷たい風がすぐに冷ました。
――今年の山茶花を、実千に対するご機嫌取りにしてしまったか。
年が明けて一月が過ぎ、二月に入った。昼からの雪が夜になってもやまない。三次ととりも家に残っていた。
「これほどの大雪は滅多にねぇ。何年かぶりだんべぇ。なから積もるだんべぇけど、斜向かいは大丈夫だんべぇか」
とりは昼間から向こうにいっている。斉昭はそれですっかり安心しきっていたのだが、三次の言葉で不安が湧き出した。
「わたしもみにいってこよう」
実千が心配そうな顔を兄にみせた。斉昭に、その心配はわかりずらかった。
雪は凄まじい勢いで落ちてきていた。風はほとんどなかったが、視界はほとんど利かない。さきの家まで、ほんの数間歩くうちに雪だるまのように体に雪が積もってしまった。
「とり、とり!」
入り口の前で大きく呼ばわった。返事はない。
「とり、入るぞ、失礼」
入り口に手をかけると、どうやら鍵は開いているよう、思い切って中に入った。上がり框を跨いで障子を開けた。斉昭の目に飛び込んできたのは、さきの裸体だった。上半身もろ肌脱ぎになったさきが畳に横になっていた。慌ててよしが着物をかけて隠した。瞬間、全身の血がたぎった。その場に立ち尽くした斉昭が理性を戻すと同時、聞きなれた声が鼓膜を叩いた。
「斉昭さん」
とりの姿に、斉昭は救われるようだった。
斉昭たちが心配するようなことはなにもなかったという。
「家がみしみし鳴るのが少し怖かったけど」
さきがそういって笑った。それをみてよしが笑った。斉昭の体の内がまた温かくなった。先のような激しさではない。二人の表情に、胸のうちがぽっとなった。
「さきが裸でいたわけは」
さきはここのところ少し風邪をこじらせて湯につかっていなかった。だからよしに体を拭いてもらったのだが、囲炉裏の側のほうが暖かいからいつもここで拭いてもらっていた。
「まさか男の人が入ってくるとは思わなかった」
さきは誰かが入ってくるのを知って奥に逃げようとしたのだが、慌てたために足が滑ってああいうことになってしまった。そのときは怯えた表情をみせたが、斉昭についてとりから説明を聞いた今は、恥ずかしそうな笑顔を斉昭に向けていた。
「すまなかった」
斉昭はさきとよし、とりにも頭を下げて三人に背中を向けた。
「玄関は、鍵をしめておいたほうが、いい」
気を付けます、というとりの声を聞いて、斉昭は自分の家に戻ってきた。
帰ってきてみちと三次に事情を説明した。三次も実千もほっと表情を和らげた。
「なんで、とりは今日は向こうに泊まりだ。三次もここに泊まるだろう。とても出歩ける状態ではない」
「はい、ありがとうございます」
妹の笑顔に答えるように、兄も笑顔を送った。鏡を合わせたように、重なってみえる笑い顔が作り物であることに、兄は敢えて意識を避けていた。
夜、いつものように妹と一つ布団に入った。
「家が、鳴いています」
妹はそういって兄に体を寄せてきた。兄がしっかりと体を抱いた。妹の寝息が、じきに兄の耳朶を撫でた。
眠れなかった。目を瞑るとくっきり蘇る、さきの眩しい裸体が浮かび上がる。囲炉裏の炎に照らされて、艶かしくゆらめくさきの白い肌。あどけない顔の下の熟しつつある女の体。皮膚の内が今にも沸騰して飛び出しそうだ。
肌に伝う妹の温もり、人肌の温かさ、柔肌の滑らかさ。妹の力では兄を跳ね返すことはできまい。あるいは、受け入れてくれるだろうか、いつもの笑顔で。
「わかっていました」
そういって、愚かな兄を許してくれるだろうか。斉昭は布団を出た。外は寒かった。雪がやんだ気配はない。寒さが血管の震えを静めるようだった。
次ぐ日の夜から、斉昭はちょっと出かけてくるといって時々家を空けるようになった。どこにいくとも誰にもいわなかったが、帰ってくると斉昭は仄かに酒の香をさせることがあった。どこでなにをしていると、斉昭に問いただすものはいなかった。帰ってきた斉昭は、変わらず実千と一つ布団で寝た。最近の斉昭はよく眠れるようだった。
梅の花がかしこで満開になる時期に、季節を逆戻りするような大雪が降った。しんしんと降り続く雪が、既に積もっている雪の上に落ちて微かな音を立てる。微かな音が無数に重なって、他のあらゆる音を食い尽くすようだ。家の中で起こす物音の殆どが雪に食われ、町は異様に静まり返っていた。
三日ほど前の夕方、斉昭は珍しく自らハシモト本店を訪れた。奥には入らず、店のものに番頭を呼び出してもらった。番頭と短い言葉を交わし、斉昭はその場を後にした。
その夜、斉昭は「出かける」といつものようにいって家を出た。この日は柳川町ではなく、とあるお寺の境内へと入っていった。斉昭より先に、闇に浮かんだ影が一つ。それはハシモトの番頭だった。番頭が斉昭に細長い包みを渡す。
「こんなものを、いったいなにに使うんです」
「うむ、なに、最近家の周りが、物取りだ追いはぎだと物騒になってるんでね、これは護身用だ」
闇を通して番頭の視線が斉昭を刺す。
「心配するな。まさか本当に切りつけることなどしない。あくまでもお守りだ、脅し、威嚇、何事もなく追い払うためだ。番頭や父上、ハシモトの店に迷惑をかけやしないよ」
まだ視線を刺してくる番頭を置いて、斉昭はさっさと寺を出てきた。
番頭にもらったのは、父親が「家宝」といって買い求めた短刀である。無論、番頭の一存で持ち出せるわけもなく、父にも承諾を得ての上だろう。家宝などといっているが、ほとんど他人に薦められるままに購入した幾振りかある刀の内の一本だ。少し早い遺産分けと思えばおかしなことでもない。
「なにより、父には断れんさ」
さきの一件、父は斉昭に対してかなりの面倒を押し付けた。その貸しがある。弱みを握っているのはこちらのほうだ。別に恨んでいるわけではない。ただこちらも利用させてもらうだけのこと。
実際に、斉昭にそれをどうしようという確たる考えもなかった。なにかを計画していたわけでもない。ふっと思いついた。己の中に芽生えた、最早己の精神力だけでは打ち消しようのなくなった「たぎり」を短刀によって静めようという思い、期待はあった。
そんなことよりも、ただ単純に心が短刀と呼応しただけだといったほうが的確かもしれない。自分の中の凶悪性の具現化したものとして、短刀はまさに象徴だった。灯りに鈍く光る刀身、反り、刃紋、切っ先。吸い寄せられる。
――切りたい。
それは己の性欲の転化だった。抜き身の刀をみていると、下半身のたぎりは落ち着いていく。切りたい衝動は増していく。なんでもいい。切りたい。己の腕だろうと足だろうと、腹だろうと。
思いを断つように刀身を鞘に戻す。斉昭は大きく息をはく。
このままではいつか妹に手をだしてしまう。それも、それはそんなに遠いことではない。一ヵ月後か、数日後か、明日か、今日か。己の危うさを、斉昭は十分に認識していた。
――妹に手を出せば、己の命はない。
短刀を抜くたびに、斉昭は己にいい聞かせた。自分の腹を割く想像もした。血生臭い想像の隙間に浮かぶ艶かしい裸体を、自らの血で塗り隠していた。
――だいじょぶだ、俺は、だいじょぶだ。
斉昭は、そう自分に言い聞かせた。だいじょぶだ、自分はだいじょぶ。時が経てば、また以前のように、以前のような「兄と妹」に戻ることができる。今の自分が、おかしいだけなのだ……。
午前中から降り始めた雪は午後になってさらに勢いを増した。
「こりゃちょっとやそっとじゃやみそうにねぇな。またなから積もるだんべぇ」
「明日まで降るかね」
空をみて呟いた三次に、背後から斉昭が聞いた。
「たぶん、降るだんべぇね」
「うむ、降るかね」
斉昭は奥へと戻っていった。
三次のいった通り、夜になっても雪はやむ気配をみせない。
「またちょっと様子をみてくるか」
「とりがいっています。兄さまがいく必要はありませんよ」
「とりも少し落ち着いたほうがいいだろう。少し交代してくる」
「いけません、兄さま。いかないでください。実千の側にいてください、兄さま」
「ふん。大丈夫だ。すぐに戻る」
「離れないで、一緒にいてください、兄さま!」
そのやりとりを、三次はただ黙ってみていた。止めようとて、止められるわけがない。実千の声にはいつにない必死さがこもっていた。
いったい、実千にはなにがみえているというのだろう。
ここ最近、妹の顔に影がみえるようになっていた。笑顔さえ曇ってみえることがあった。
――俺のせいだな。
考えるまでもない。だからといってどうしようもなかった。斉昭は、それでも妹を守ろうとした。懸命に、それこそ必死に。己を殺そうと、こんなものまで持ち出した……。
――鏡のようだ。
自分の心を映す鏡があった。世界中どこをさがしても他に類をみない美しく清楚な鏡だった。その鏡が曇ってみえる。紛れもなく、兄の責任だった。
「今日が最後だ」
呟くようにいった。家から出て戸を後ろ手に閉めた。妹の声が聞こえたようだった。
――泣かせてしまったか……。
いぼの男が浮かんだ。それほど悪い人間ではなかった。三次のいうには、近所でも評判のろくでもない夫婦だったそうだが、他の人間とそれほど違いはない。彼らは少し不運だった。鏡と向き合い、そこに移った姿が余りにも「同じ」だった。それに惹かれ、そして苛立ちすれ違った。二人は殺されたに違いない。なんの根拠もありはしない。唐突に、死に際の二人の引きつった顔が目に浮かんだ。
――思えば二人を殺したのも俺だったか。
金は前もって渡したのだ。この期に及んで二人の霊に頭を下げる気にはならなかった。
雪の激しい夜だった。いつかの夜と同じ。家の前に立つと、入り口に手をかける、鍵はしまっていたが、合鍵を差し込むのに微塵の逡巡もない。一言もなく戸を開けた。安普請の家の入り口を無音で開けることなどできない。構わず中に入り、そっと戸を閉めた。
足を抜くでも刺すでもなく音を立てて中に入り障子を開けた。
「斉昭さん」
とりのその声その姿は、やはり斉昭の重心に重みを与える。いきなりで驚きました、呼んだのが全然聞こえなかったか、へぇ、ぜんぜん聞こえなかった、今日も入り口が開いていたぞ、あれまあ、さっきしめたはずだけど、……、そんなことを言い合う。いい風景だった。家族ではない、血のつながらない他人同士が心を通い合わせ、囲炉裏を囲んで和やかに語り合う様子というのは、本物の家族より暖かいかもしれない。斉昭はとりを立たせ、部屋の敷居のところまで呼んだ。
「とり、少し家で休んでこい。お主の好きな郡屋の大福も買ってある」
不思議そうに斉昭の顔を見つめ返し、反抗ではなく善意から申し出を断るとりを、斉昭は無理矢理追い返した。
「一時間もしたら戻ってきてくれ。俺がいつまでもいるわけにはいかんのでな」
自分でもわかるほど柔和な表情を崩さず、斉昭はとりを見送った。家の玄関に内から鍵をかけ、かつつっかえ棒もしめた、斉昭は囲炉裏の部屋に向かって足を進めた。
とりが帰ったようなのを知って少し不安な色をみせる二人の娘に、斉昭は笑顔で声をかけた。
「すまんな、とりをうちで少し借りた。一時間もすれば帰ってくるので、それまではわたしで我慢してくれ」
まるで炎の揺らめきに合わせるような息遣いで話した斉昭の声を聞き、二人もほっと安堵したようだった。
「よし、ちょっときてくれるか。さき、すまんが少しよしを借りる」
「はい」
斉昭はよしを呼び、連れ立って奥の部屋へといった。よしを前に立て、後ろを歩きながら斉昭が細長い包みの紐を解いた。短刀を取り出し、鞘を払う。暗がりに光を放つ刀身と向き合って、斉昭の瞳が青く光った。
昨日の大雪が嘘のような青空が広がっていた。漂う雲は名残の雪雲ではなく、春の暖かさを思わせるふかふかの綿雲だった。あるいは、秋を思う筋雲が、綿雲より高い空に幾つも引いていた。春の日差しに、降り積もった季節外れの雪が音をさせて溶けていく。きらきらと、町全体が輝いていた。
鏡
関口の咲が生まれ故郷蓑里村に帰ってきた。いつかのような賑やかな里帰りではなかった。咲はものいわぬ遺体となって帰ってきた。
咲が殺されているのが発見されたのは、大雪の降った次の日の昼ころだった。いつまで経っても余りにも静かなことに、隣人が不信に思って家を訪ねた。何度呼ばわっても誰も出てこない。物音一つしない。昨日はいた。誰もいないなんてことは考えられなかった。
目のみえない可憐な娘と口のきけない明るい娘の二人暮らしは近所の人の間でも評判だった。なにかにつけて気にしていた。不審に思って家の中に入った隣の女が泡を食って警察に駆け込んだ。
囲炉裏の隣で、咲が死んでいた。その奥の部屋ではよしが死んでいた。二人とも全裸だった。胸や首から血を流していた。殺されたということは一目瞭然だった。
さらに、そこから斜向かいの家でも人が死んでいるのが見つかった。
「仲のいい兄妹が住んでいた。目のみえない妹を、兄がよく世話していた」
死んでいたのはその兄妹ではなく、手伝いとしてきていた老夫婦だった。やはり胸と首から血を流して死んでいた。傷口、殺され方から同一人物の犯行であろうと思われた。
知らせは直後にハシモト本店にも届いた。ハシモトの家の長男斉昭と妹実千の死体はどこにもない。二人の行方は、ようとして知れなかった。
裸で殺されていた娘について、近所のものは誰一人その素性を知らなかった。警察としても、そっちの筋ではお手上げ状態だった。
県で五本の指に入る資産家田中家の長男宗治が、誰にも行き先を告げずに姿をくらましたのは、飯田で起きた殺人事件から三日目の朝だった。警察から身元不明として近くのお寺に預けられていた二人の娘の一人を、顔を確認した上で「わたしの妻です」といって引き取った。
「娘さんの、奥さんのそばに落ちてたそうです」
住職から渡されたのは手鏡だった。目のみえない妻の世話を最後までしてくれたもう一人の娘と一緒に、咲の故郷である蓑里の村に連れてきた。
咲の実父が施主となり、宗治の施しも入れ、村のしきたりに則って立派な葬式が出された。棺桶を墓場まで運ぶとき、二人で運びながら途中で交代するのが習いだが、宗治は最後まで運ばせてくれといって聞かなかった。
「おんさんだ! おんさんがやったんだ! 咲を殺したのは、おんさんだぁぁ!」
墓穴に入れた棺桶に土をかけていた。突然上がった叫び声に驚いて振り向いたのは宗治だけだった。
「おんさん?」
「気にしねぇでくんな。ちょっと、変わったやつなんでさ」
小さく声をかけたのは半次郎だった。
「おんさんだぁぁ!」
「たつ、静かにしろ! 咲ちゃんが、死体でけぇってきたんだぞ。おめぇだって昔は仲よかったんべ。手くれぇ合わせてやれ。どうもすいません」
「おんさんだぁぁ、おんさんだぁぁ!」
宗治はそれ以上気にすることなく、別れを惜しみながら妻の棺桶に土をかけていった。
叫びながら離れていく龍雄の姿を、半次郎と三郎がじっと見送った。
おんさん山からおってきて、きっこりきっこりないている
なんといってないている、こどもがほしいとないている
こどもはおまえにゃやれないが、かわりにこいつをあげましょう
かわりになにをくれましょう
かわりにだんごをあげましょう
だんごはいらん、こどもがほしい
こどもはやらん、おまんまあげよ
おまんまいらん、こどもがほしい
こどもはやらん
こどもをくれねばおまえのおとさんくってやる、おまえのかかさんくってやる
おとさんおかさんくわれちゃこまる、さればこのこをあげましょう
さればこのこをつれていこう
さればわたしがいきましょう、おとさんおかさんさぁよーなーらー
手鏡 カイセ マキ @rghtr148
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