第6話


   実


 ある日の夜、酒を飲みながら宗治は初めて言葉を交わしたときの話をした。

「まさか僕の歌を聞かれているとは思わなかった」

 咲もそのときのことを思い返す。不思議だった。目が覚めたとき、耳に聞こえてきたのは妙な「音」であって決して「歌」ではなかった。みんなに迷惑にならないように小さい声で歌っていたつもりだったのに。宗治はいつもそう付け足した。

 なにか「音」が聞こえてくることに対しての恐怖はまるでなかった。大して迷うこともなく「出てみよう」と思った。窓の外が明るかったせいかもしれない。外は、光が溢れていた。人影を見つけ、近づきその人の顔をみたとき、「音」は「歌」になっていた。

 それから、夜中に手鏡をみることはなくなった。その代わり毎朝手鏡をみた。鏡は最早語りかけてこない。鏡に向かって、そこに写る人物に向かって、咲のほうから話しかけた。

 宗治と一緒になることに戸惑いはなかった。女として、宗治は始めての男だった。

 不安も恐怖もない。毎日が明るく楽しかった。

 宗治の父親にも会った。咲の出自を知って少し面を曇らせたが、面と向かってなにか酷いことをいわれることはなかった。

「父のことは気にしなくていい。これは僕と君の問題だから。それに、父だってきっとすぐにわかってくれる。君がどれほど素晴らしい女性であるか」

 はっきり結婚しようといわれたのは十二月に入ってから。もちろんずっと仕事はしていたが、どうも誰にも気づかれていなかったようだ。

 ――わたしはこんなに体が熱いのに。

 宗治に会うたび話をするたび、宗治のことを思うたび、体が熱くなった。気持ちが勝手に浮き立ってわけのわからないことを口走りそうになった。いいかけたこともある。それでも、誰にもいわれたことはない。

 ――これが男の人を好きになるということ。

 一緒に働くみんなに話したのは故郷に戻る直前だった。とてもびっくりしていたが、みんな「おめでとう」といってくれた。

 そして蓑里に戻ってきた。一年にも満たない期間が、そのときは何年にも感じられた。とても懐かしかった。村は全く変わっていなかった。出てきたときと同じ。しかし、そこに住む人たちは変わっていた。咲たち出稼ぎから帰ってきたものをみる村の人たちの目に違和感を感じた。

 ――変わったのは自分たちのほうだ。

 当然だ。寂しい気持ちはあったが、それを受け入れる余裕もあった。大人になったのかもしれない。

 宗治と一緒に村を歩けば何十人という人がついてきた。恥ずかしかったが、女として喜びを感じることでもあった。こんな自分がいたとは、今まで思いもよらなかった。

二間峠で夫婦が死んだそうだ。それは確かに悲しいことではある。なによりも悲しいのは、その二人を丈一郎が殺したという話だった。

「ほんとに? ほんとにいっちゃんが人を殺したの?」

 咲の周りの人間でその問いにきちんと返事を返したものはいなかった。そんなことをするはずない。聞けば丈一郎は警察に捕まったりなどしていないという。村の外に逃亡したわけでも山奥に隠れているわけでもない。事件の直後以来、警察がこの村を訪れた事実は、少なくともその二間峠の事故に関しては二度とないそうだ。咲にはわけがわからなかった。

「丈一郎が犯人だといっていたのは村長の息子の敦矛だんべ」

 誰もがそれを信じるともなく受け入れていた。それは暗に「受け入れない」ことをしなかっただけだが。咲は龍雄を訪れた。

「会いたくない。さきちゃんには会えないなんていってやがる。いったいなにがどうしたのか、わしらにも話してくれねんだよ。もうしわけないねぇ、折角きてくれたんに」

 父親が出てきてそういった。すんなり下がってはきたが、少なからぬ衝撃だった。考えれば考えるほど胸が締まった。龍雄を傷つけたという自覚もなくはない……。

 三郎という男のことも当然聞いた。半次郎とは話などしたことはなかったが、思い切って訪ねてみた。長野の家の男どもは変わりもんばかりだと誰もが噂していた。

明らかに「丈一郎」である大男を「三郎」などと呼んでいる。村のものは誰もがそのことを笑った。咲の印象は少し違った。

 会って、噂が間違いであると確信した。丈一郎を匿ってくれているその家の長男は確かにちょっと変わった男ではあったが、十分信頼するに足る人間だと思った。丈一郎はなにかを知っているようだ。咲は無理にそのことを聞き出す気はない。半次郎も同じだ。男との距離が大いに縮まるのを感じた。

「あれはどうする」

 その言葉の意味をとるのに一拍の間が空いた。ふっと思い浮かんだ、風の強い春の日の出来事。それまでまったく頭になかった。

「持っていく。あれは、大事なものだから」

 自らの口から出てきた言葉が意外だった。思いもよらない問いに対する咄嗟の答えだったが、それはそれだけに本心であるようだった。咲自身も意識しない本心。

 手鏡を持って実家に帰ってきた。心が嬉しさで満ち溢れていた。丈一郎のこと、手鏡のこと、その二つの喜びを与えてくれた半次郎という人間と近づいたこと。龍雄から受けた痛みはすっかり飛んでいた。

 村にくるときは他の娘たちと一緒に路面電車できた。

「咲はいいところに住んでいたんだね」

 冬枯れの寂しい景色をみて、宗治が笑顔を含みながら咲にいった。宗治もどこか浮き立っているようにみえた。帰りは宗治の父親などと一緒に、車で和田の町に帰った。宗治と知り合って何度か乗ったが、いつまでも慣れない。がたがたと揺れるしお尻は痛いし、ちんちん電車のほうがよほど楽だ。

 宗治との生活は和田町の南隣佐野町で始まった。平屋で居間と客間と寝所のある簡単な造りの家だった。宗治の任された工場まで自動車で五分とかからない場所である。

「狭い家だが当分我慢してくれ。事業が軌道に乗るまでは」

 申し訳なさそうにいったが、咲にはむしろ住み易い。宗治の実家は大きな屋敷で、初めてみたときはとても驚いた。到底人が暮らす場所には思えなかった。お城だと思った。あんな家で暮らすことになるなら一週間ともたずに逃げ出してしまう。今の借家で暮らすと聞いたとき、どれほどほっとしたかしれない。

 宗治は忙しかった。夜遅かったり、数日帰らないこともあった。一緒にいる時間など、一週間に片手ほどの時間しかない。

 そんな生活に不満を募らせることもない。夜、一人でいるときふと不安に襲われることもあるが、不安はそのまま夜の闇へと溶けていく。瞼の裏に愛しい人の姿が浮かべば、寂しさどころか全身に温もりを感じることもできた。

 それは男も同じだった。

「一緒にいれなくて済まない。まだもう少し我慢してくれ。わたしも寂しいんだ。でも、やらなければならない。お前がこの家にいてくれると思えばこそ、わたしも頑張れる」

 あるとき宗治がそんなことをいった。心の底から嬉しかった。咲は決して一人ぼっちではない。

 ただ、退屈なのには閉口した。働かなくてよいということがこれほど辛いこととは思わなかった。

 とりあえず、家にある着物や洋服などをみて破れていたり綻んでいたりする部分を繕った。補修が目的ではなく、時間をつぶすために。

「おまえがそんなことをする必要はないのだよ。仕立て屋に頼んでしまえばいい。ひどいものは捨ててしまいなさい」

「ありがとうございます。でも、やらせてくださいませんか? こんなに楽をしていては頭が呆けてしまいそう」

 旦那はちょっと困ったような顔をした。そんな顔をすることが不思議だった。

「わかった。おまえがそういうなら、これからも頼む」

 家の中にあるものなどたかが知れている。宗治が工場でいったいどのようなことをしているのか、咲にはまるでわからなかったが、恐らくせわしなく動いているのだろう、裾や袖口がよくほつれたり、なにかに引っかけたような穴が開いていたりした。そんなものをみると嬉しかったするのだが、直し終わってしまえば、あとはなにもしない時間のほうが多かった。

 あるときのこと。買い物で外を歩いていると、近所の男の子がズボンに大きな穴を開けたまま遊んでいた。なんとなく微笑ましく、この辺りの子はズボンなんてはくんだな、など思いながらみていた。はっと思ってその子の後をついていった。子の帰った家は咲の家から十間ほどの近所だった。周りの家との交流はこれまで全くといっていいほどない。

思い切って、咲は扉を開けて一歩を入った。

「ごめんください」

 真っ先に顔を出したのはその男の子である。子どもの後ろから「はい」と声が聞こえた。

「あら、こんにちは」

 母親の親しげな表情をみて、緊張は一気にほぐれた。直接言葉を交わしたことなどなかったが、恐らく咲のことは十分に知っているのだろう。村にいる母親たちのことが頭を過ぎる。夜、五人組の女たちが一つ家に集まってわいわい話をしながら月を眺めるお三夜様を思い出した。女たちがする話はどこも大して変わりはないのだろう。

 その母親に不躾なほどの親しみを覚えて、咲が口を開いた。

「こんにちは。あの、ちょっとお願いがあるんですけど」

「はいはい、なんでしょう」

 咲は先の男の子を目で探した。壁の影から半分だけ顔を出す男の子を、母親が手で追い払う。

「男の子のズボン、直させてもらいたいんです」

 母親がびっくりして咲の顔をみた。そんな表情でさえ、咲には親しみやすかった。

 退屈で退屈で困っているというようなことを話し、半ば強引にズボンを預かってきた。

 ささっと修理してその日の内に返しにいくと、そこでもまた驚いていたが、修理の速さと手のよさをみて、母親は痛く喜んだ。

「他にも、なにかあればやりますけど」

 それから、咲の家には近所の繕い物がたくさん集まるようになった。そういうものは必ず咲が取りにいってまた返しにいった。家まで持ってくるという人もいたが、それでは旦那に迷惑がかかると思ったのでやめてもらった。こんなことをしていると旦那が知ったらいったいどれほど困った顔をされるか。それだけが心配だった。

 その日預かってきたものはその日の内に返してしまうため、旦那に知れることはなかったが、隠し事はやはり気分のいいものではない。それでも、それによって心に多少とも張りが出るため、預かり物を止めることも旦那に打ち明けることもできないままに月日は過ぎた。

 寒い冬が終わるころ、咲は自分の体がおかしいことに気づいた。食べ物の味が変わった。大好きな旦那さまの匂いが変わった。自分が日ごとに変わっていくことが不安だった。

 空を見上げ、霞をまとう妙名山をみるたび、村を思った。やたらと郷愁に駆られた。なぜだろう、兄嫁の俤ばかり追い駆けていた。

 ――ひょっとして……。

「おめでとう、妊娠三ヶ月ですな」

 とうとう、咲は身篭った。

「おお、そうか! 子供か、子供が、できたか、わたしたちの子供が!」

 宗治は真に嬉しそうに、咲を何度も抱きしめた。我が身の内に小さな命を宿した、ということに言い知れぬ不安を抱いていた咲であったが、宗治の、今までみたことがないほどのはしゃぎように触れて大いに安心した。

 それから、相変わらず旦那は忙しかったが、家にいる時間が多少増えた。咲の繕い物の量は少しずつ減っていった。

 近所の人に「お腹に子供ができたから」というと誰も自分のことのように喜んでくれた。とても嬉しかった。

 お腹が大きくなるにつれ、預かり物はどんどん減った。近所を周る時間も少なくなっていったが、今度は周りの女性たちが咲の家にやってきた。お古の着物を持ってきたり、妊娠しているときはああしたほうがいいこうしたほうがいいと話してくれた。

 あるとき、宗治がたまたま早く戻ってきてその場に居合わせた。女たちは慌てて帰っていった。

「近所のひとたちと、仲がよいのだな」

 不思議な顔で聞いてきた。

「はい」

 といったきり、やはり正直に話すことはしなかった。

 十月、子供が産まれた。玉のような元気な男の子だった。

「泰助だ。やはり泰助だな。いい名前だろう」

「はい」

「泰助の泰は泰平の泰。安らかという意味だ。加えて『果て』という意味もある。広く世界の果てまで安らかにして欲しい。そんな器の大きな男になって欲しい」

 我が子を眺める夫の横顔は、それは今までみたこともないほど大らかな笑顔であった。

「我らの命が果てるまで、きっと私たちに幸をもたらしてくれるであろう」

 そういって咲にかけた笑みは、子供のように無邪気なものだった。

 絵に描いたような幸せとは、まさしくこういうものだろう。赤ん坊がいて、その赤ん坊を心底喜んで迎える旦那がいて、それを眺める妻がいて。自分が主役で。それは、咲がかつて漠然と描いていた「絵に描いた幸せ」よりも遥かに幸せな絵だった。

 母子ともに健康で、咲と泰助は病院から家に帰ってきた。

「これでいよいよ家を考えなければな。いや、まずは式を挙げるか。工場のほうもなんとかなりそうだし、父とも相談してなるべく早いうちに決めてしまおう。全てがうまくいっている。これもおまえががんばってくれたおかげだ。ありがとう」

 そういって小さく頭を下げた。咲の胸に熱いものが込み上げる。言葉自体も十二分にありがたいものだったが、旦那にこんなことをいってもらえる女など、村では考えられない。自分がどれほど恵まれた生活をしているか、していたか、しみじみと実感した。

 宗治が咲の体を強く抱きしめた。余計に涙が溢れた。流れる涙とともに溶けてしまいそうなほど、宗治の体は温かく、心地よかった。


 泰助が生まれて一月ほどが経った頃。突然の父親の訪問に、咲は嫌な思いを微塵も抱くことなく応対した。父親とは無論宗治の父親である。久しぶりに会った娘にまずみせた苦りきった表情を、義娘は拒絶しなかった。

 赤ん坊を、己の孫を見てさえ微笑一つこぼさない。袴姿の義父の後ろから音もなく現れたのは、紋無しの黒い着物に身を包んだみたこともない二人の男だった。咄嗟に体を捻って泰助を隠した。感情よりも先に体が反応した。

 それは無意味ではなかった。静かに掠め取るつもりだったのだろうが、二人の男の一人が咲の体を抑え一人が泰助を奪い取った。弾みで咲の体が弾け飛び、箪笥に強か頭を打った。大きな物音が外まで鳴った。三人の男は気を失った女を車に乗せると、音を聞きつけて集まったものには目もくれずに走り去った。


 ただただ寒かった。なのかもわからない。体を襲う寒さだけ、今が冬であることを咲に教えてくれていた。

 死のう、とは思わない。そんな感情すら湧いてこない。悲観も楽観も、咲には現状が観えていない。

 泰助を父親に奪い取られた。それはわかっている。病院で激しい苦しみとともに意識を戻した。臭い薬の匂いをかいでいたのはどれほどだろう。頭の痛み、眩暈、気分の悪さがある程度落ち着いたころ、そこからまた不愉快な自動車に乗せられてこの家に連れてこられた。旦那である宗治がここを訪れたことはない。それらもわかっている。考えてみれば、義父の行動は腑に落ちた。

 だからどうしようという気が起きてこない。力が湧いてこない。無気力といって首をくくる気力もない。観えない、なにも。未来も過去も、今の自分さえ。観えない。真っ暗闇に一人ぽつんと座っている。時折痛む頭を触る。怒りも悲しみも湧いてはこなかった。「まだ」なのかもしれない。あるいはもう死んでいるのかもしれない。一切の光ささない暗黒の世界で、一日なにをするでもなく食事を与えられて生きている。暗い地面に這いつくばって、咲は生きている。頭の上から雀が鳴き交わすのが聞こえてきた。それに向かって、つと顔を上げた。咲は文字通り光を失っていた。目がみえなくなっていた。


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