第5話
夕立
妙名神社を目指して和田の町を出発した夫婦がいた。蓑里の村に入ると、激しい夕立に襲われた。道すがら、一軒の家の入り口を叩いた。
「妙名神社までいきたいんだが、突然の夕立、申し訳ないが少し休ませてくれませんか」
右頬にあるイボが特徴的な男だった。家の人たちは快く夫婦を家の中に入れた。夕立は一時間ほどで弱くなり、もう三十分もするとすっかり村を抜けた。遠く東の空で太鼓を叩くような音が聞こえていた。
「まっさか助かりました」
急ぎの旅のためにお礼になるようなものをなにも持ち合わせていない。なんのなんの、困ったときはお互い様だ、そんなことは気にせず、道中気をつけて、今からなら夜までには宿につくだんべ。
家の人に深々と頭を下げて、夫婦は水溜まる道を急ぎ足で歩いていった。雨雲は流れ、隙間から、澄んだ群青の肌が覗いていた。見送りに出た若い男が、いつまでも夫婦の後姿を見送っていた。
たつ
淫らな夢をみた……。
内容を、龍雄ははっきりと思い出せる。女の人と寝床を共にしていた。相手の胸に顔を当て己の下半身をあっちの足にこすりつけて……。顔ははっきり思い出せないが、間違いなくあの子だった。それ以外にはありえない。
――俺は、あいつの顔を思い出せなくなっちまったのか。
夢にみる、ということは、あっちも龍雄のことを思っているということだ。
いってやらねばならない。そこできっと泣いている。村に戻りたいと泣いている。会いたいと泣いている。
食われちゃ困る、さればわたしがいきましょう。
いざとなれば、田畑を売り払ってでも……。
半
山の声が聞こえると丈一郎はいった。山で聞こえるともいった。さだが呼んでいるとも。
畑仕事はちゃんとしていた。むしろ前よりちゃんと。雷が鳴り夕立がくると、丈一郎は人が変わるようだった。突然、山や林に向かって走り出した。理由など、余人にわかるはずがない。雷雨の中、なにかを叫びながら、実際には雨と雷のために聞こえはしないが、みるものはみなその目に冷ややかなものを宿した。冷たく笑うもの。かわいそうに。そんなことをいうものもいた。そういうときの丈一郎を、龍雄でさえも持て余した。
「いち、なんでそんなことすんだ、頼むからやめてくれ」
龍雄にも丈一郎が哀れだった。なんでこんなことになってしまったのか。こいつはこれからどこへいくのだろうか……。前途を思い、龍雄の胸はいたたまれない思いで塞がった。
龍雄の悲しみを、丈一郎が感じないわけはない。龍雄や誰がなんといおうとどうしようもない。体がひとりでにそうなってしまうのだから。しかも、気持ち悪くもないのだから。
「聞こえるのだろう」
真面目な顔でそういうものが一人だけいた。
長野半次郎が誰かと話をして笑顔をみせることは年に一度あるかないかだろう。幾らか変わってはいるが傲慢な人間ではない。黙々と畑仕事をこなすが「誰も受け入れない人間」ではなく、近所で蚕上げがあるといえば進んで手伝う、そんな人間だ。
もっとも、他人の半次郎に対する「とっつきずらい」という評は間違いではない。壁はむしろ半次郎の側にある。
――いきたいものは仕方がない。
ばかにしているわけでもなく諦めているわけでもなく。
――自分のことをきちんとわかりきっている人間など、この村にゃおらねぇだんべ。
丈一郎を「かわいそう」などといえる人間は、ここにはいない。自分の心に正直に動ける丈一郎が羨ましくさえあるというのに。
五月に入る。この日も丈一郎は走った。城山の林に突っ込んでいく様をみたものは、いない。
雨が上がり、半次郎が畑の様子をみにいくと、途中、ずぶ濡れた丈一郎が歩いていた。城山のほうから降りてくる。先に口を開いたのは丈一郎だった。目と目が合った瞬間相好が崩れ、一瞬なにかを躊躇ったようだが、大きな声がすぐに聞こえた。
「半次郎!」
小走りで寄ってくる様が少し重そうだ。水を滴らせた丸い大きな「子供」をみて、半次郎も笑ってしまった。
「いち、今日はどこまでいってきた」
今年の笑い納め、ということはない。こいつとだけは別の話だ。
城山の林の中までいったことを、丈一郎は嬉々として話した。この辺りでいう「城山」とは、かつてこの地にあった山城の跡のことである。特に何があるわけでもない。小高い地に木木が茂っている。その城山の二の丸跡の辺りまでいってきたそうだ。二の丸であれば、モミやブナの間を抜けてある程度斜面を登って中まで入り込む必要がある。
「ほお、そりゃがんばったな。怪我なんかは大丈夫か」
相槌を打ち、補足しながら、半次郎も自分の笑顔を控えようともしない。二人をみる奇異な目もまるで気にしない。草陰の水路で蛙が鳴いている。いつの間に、地面に黒い影がさしていた。夕暮れにはまだ間がある。流れる雲の間から青い空と黄色い太陽がのぞいた。
丈一郎の瞳がきらきらと輝いていた。
「寒くはないか」
「大丈夫だよ」
満面に現れた「大丈夫」な笑顔が眩しい。
「そうか。早く着替えんと風邪をひく。そろそろ帰ったほうがいい」
「うん。わかった。でも……」
半次郎は心に暖かいものが動くのを感じた。あからさまに困っている。
「おかあか」
「うん。またおかあに怒られる」
「じゃあ、俺の家に寄ってくか。少し暖まりながら服を乾かすか」
我ながら、他人にこんなことをいう自分がおかしかった。笑ってばかりだ……。
「……、帰る」
「そうか。大丈夫か。怒られるだんべ」
「いつものことだ。遅くなればもっと怒られる」
「そうだな」
じゃあ、と大きな声を残して、丈一郎は急ぎ帰っていった。濡れた泥だらけの山着をみて、もっと早く帰すべきだったかと後悔もしたが、見送る半次郎はやはり笑顔だった。
翌日は五月の寅の日の「お精進の日」に当たっていた。鍬などの道具を使うと風が吹くといわれ、仕事はせずに当番の家に集まり、その内の二人が妙名神社にいってお札をもらってくる。帰ってくると皆でお札を分け、そこから無礼講で酒を飲む。米の飯や煮つけやきんぴらなどを食べて年寄りから話を聞き、皆でわいわい語り合う。集まりは夜まで続く。
夕立がくると続けて三日くるといわれた。この日も午後の四時を過ぎたころ、鳴り出した。妙名の向こうに黒い雲が立ち上がったかと思うとあっという間に頭の上に覆い被さった。生温い風が雲と雨と雷を呼ぶ。今日もまた、激しい雷雨に見舞われた。お札を取りにいったものたちが帰ったのは、雨がやんで一時間ほど経ったころだった。
雷が鳴り始めたとき、半次郎は畑から家に帰る道を急いでいた。「お精進」とて、この男はあまり気にしない。風と空をみて、半ば走るように歩いたが、間に合わなかった。雷鳴が轟き渡る。雨具の無力さを笑いつつ、道を急いだ。
「丈一郎……」
雨の壁を押し返すように、ずんぐりとした丈一郎の影が駆けていった。
「丈一郎!」
大きく叫んだつもりだったが雨と雷の唸りで己の耳にすら届かない。今日は城山ではないようだ。方向としては妙名の登り口に向かっているようだが。
丈一郎を止めたかった。不吉な予感がした。いかせたくなかった。その先にある白川はかなり増水しているだろう。切り崩された斜面が雨で飽和状態になっていれば地滑りが起こるかもしれない。丈一郎にはみえているのか、それともみえていないのか。
半次郎は丈一郎の後を追った。
雨はすぐにやんだ。雷は今ころ和田町上辺りだろうか、それともそれより南に下ったろうか。陽が現れ、村をキラキラと輝かせた。雀やオナガの声も透き通る。足音を聞いて蛙が鳴き声を止めた。ぐるっと周りを見回して、半次郎は天を仰いだ。
雨がやめばじき姿を現すだろう、やつは、太陽と同じく、地面にその影を貼り付けて出てくるだろう。不安なのに不安でないよう装っているのか、それとも不安などないのに敢えて不安がっているのだろうか。己の心の揺らぎが小憎らしい。己にとも丈一郎にともつかない苛立ちを胸に抱えて、半次郎はやる方なく辺りをうろついた。
関口の家はこの辺りでは一番大きい。お屋敷といってもいい。梅や桜や李の木が何本も植わっているが、全体どれほどの広さか知れたものではない。雨が降り止んでいくらもたたない地面に敷いた筵の上に、仰向けに二つの死体が寝ていた。周りを人が囲んでいた。
「夫婦だんべぇか」
「ひでぇ。ここまでひでぇのは久しぶりにみたな」
死体は男と女だった。年齢は恐らく三十から四十の間。女の方は野犬やなんかにやられたのだろう、所々肉がそげて骨がみえている。服もぼろぼろで所々生身が露になっているが、そんなことはまるで気にならない。男のほうもぼろぼろだったが、その傷は落ちてくるときに石や木に当たってできたものと思われた。発見されたとき、女は地面に転がっていたが男は木に引っかかっていた。
「上から落ちてきたんだんべぇ」
見つかった場所は二間峠の真下だった。峠の道は細く、一方は岩の壁、もう一方は切り立った崖になっている。崖の肌には所々木や草が生えており、下は鬱蒼とした林が茂っている。その林で、二人は別々に見つかった。
「間違いねぇ、こいつらだ。女のほうがわかんねぇが、男のほうには見覚えがある。間違いねぇ、昨日夕立んときにうちに雨宿りしてった二人だ」
男の顔をみていったのは山口繁というものである。顔のイボ、間違いはないだろう。
「妙名神社にいくといってた。これからいくのはやめたほうがいいといったんだが、なんでも急いでいるとかいって結局出てっちまった。まっさかこんなことになるとは」
繁がばつ悪そうに首をかいた。
「息子が、二人が出ていった後をこないだ広げた畑をみてくるつって出ていったいな」
「そういや峠の入り口のすぐ手前ぺたを開いてたな、どこいった、あれは」
「龍雄ならさっき」
雨がやんで晴れ間がのぞいたのはほんの短い時間だった。雲の覆った空は太陽を隠したままいつもより素早く夜の準備を済ませつつある。人垣に背を向けて、暗くなる空に蝙蝠を追いかけているのは丈一郎だった。半次郎の姿はみえない。
そこはいつも通り木々に囲まれた林の中だった。ずぶ濡れた山着が肌にまとまりついて気持ち悪い。膝の下まで泥だらけで葉っぱや草がいっぱいくっついていた。手や足がひりひりする。くる途中であちこち切ったようだ。
「はぁ」
丈一郎は大きなため息をついた。直後にくしゃみが二発続いた。
「二だから憎まれ口だ」
腕で鼻水をぬぐった。ふとみると、木の枝に人が引っかかっている。
「助けなきゃ」
その瞬間、湖で亡くなったさだの俤が心を過ぎった。手が届く高さではないし木を叩いて落とすというわけにもいかない。丈一郎は村に戻った。多くの人を引き連れて戻ってきたのがおよそ一時間後。村からそこまでくる間、地面に転がっているもう一人の女性を見つけた。丈一郎は気づかなかったという。
滑落死というのが大方の見方だった。雨の降った後でもある。道慣れないものが足を踏み外して落ちたと考えて不自然なことはない。野生の猪や猿、山鳥なんかもたまに落ちることがある。人間だって今回が初めてではない。命まで落とすのは人間くらいだが。
身元はすぐにはわからなかった。名前などのわかる持ち物はない。そのうち家族や近しい人から捜索願などでるだろう、警察の人はそういって引き上げた。和田のほうから上がってきた人間ではないか。家に上げて会話などした繁の意見である。
こういった死体は長法寺に預けられる。季節柄、翌日には埋められてしまう。
梅雨入り。事件の記憶や匂いは、地上を濡らし続ける雨と同じく地面を伝いしみ込んでいく。このとき、村から活気がなくなるのは事件のせいでは決してない。紫陽花が静かに村を眺める。身元などはわからないまま梅雨が明けた。
照りつける太陽が夏のそれへと衣を変える。
「あれは事故じゃねぇ。事件だ。人殺しだ」
お供の若い男二、三人を引き連れ、関口の敦矛がそんなことを言い触らし言い触らし歩き出した。鳴きしきる蝉たちの声にかき消されることなく、人々の耳を伝った。
暑さに文句をいっても仕方がない。それでもいわずにいられない。全てを焼き尽くす太陽に。愚痴さえも焼かれ、人々は言葉をなくす。黙々と、汗の滴る音だけが村を埋め尽く
す。蝉たちの命が溢れ、村はさらに熱く燃える。
「二人とも、財布を持っていなかった。あれから妙名神社までいって、恐らく宿をとろうという人間が、そんなことはありえねぇ。殺した人間が持ってったんだんべ」
「おやげねぇ。たぶん、殺したやつは夫婦を別々にやったんだ。だから二人の落ちた位置が違う」
「女を先にやったら男は警戒するだんべぇ。後からつけていって、まずいきなり旦那を突き落とした。女は村のほうに逃げ戻るだんべぇけど、女の足なら楽に追いつける」
「たぶん、お精進にいってることを知ってたんだんべ。手っ取り早く殺すにゃあそこから落とすのが一番だ」
「落としたあとでゆっくり財布やら金目のもんをとりゃいいんだかんな」
暑さに火照られたか、関口の力に乗せられたか、村人がそんな話をし始める。
「犯人は誰だんべぇ」
「怪しいのは二人だな。いちとたつ。いちが峠へいく道を、雨があがったあとで下ってきたのをみた人間がいる。あいつはアホだからなにも考えねぇで金がただ欲しかった。逆にその道を上がっていったのがたつだ。あいつがあの近くに畑を開いているのはみな知っている。あいつは金が欲しいんだ、なんせあいつは」
集まって話をする影に唾を吐きかける人間がいた。
「くだらねぇ!」
半次郎だった。誰と顔を合わせることなくその場から立ち去った。
証拠はなにもない。みたものもいない。どいつもこいつも、憶測でものをいってるに過ぎない。なぜだ? なぜ、誰もが「犯人」を求めるのか。
「たつじゃねぇだんべ。あいつにゃそんな度胸はねぇ。やったのはいちだ」
「とうとうやりやがった。いつかはやると思ってたんだ。あのアホが」
「なんであいつを野放しにしてやがった。だからとっとと座敷牢にでも放り込んどけっつってたんに」
それは「疑い」ですらない。「思い込み」といえばまだ聞こえがいい。子供たちが丈一郎を「あほいち、ばかいち」といってからかう、それと同じ。大人たちの「からかい」は、より陰湿で残酷だ。丈一郎を同じ「人間」としてみない。大人たちは子供たちの「からかい」を許さない。丈一郎とその家族に話しかけるもの近寄るものはいなくなった。
ただ一人、半次郎を除いて。
蝉の声が遠くなるほどだった昼間の暑さも一段落しようとしている。
「おい、半次郎、おめ、相変わらずいちと話してんな。どうなるかわかってんのか」
これも幻聴か。橙色の太陽が妙名の山に沈みかかる。やっと一日が終わるというのに……。
「聞いてんのか! おめぇも村八分にしてやんべぇか」
「うっせ。いい加減にしねぇと、てめぇも二間峠から突き落とすぞ」
敦矛の太鼓持ちが。立ち尽くす男の影に唾を吐き捨て、半次郎は歩き出す。今夜は八幡様の集会所で寄り合いがある。そこに集まる人間を思い、半次郎は睨みつけた。
――これが「村」か。
半次郎の腸を、ただ怒りのみが焼いた。哀れむような気持ちはひとっかけらもない。
なんの断りも理もなく、一人の人間が「殺人犯」にされている。これがいかに異常なことか、わかっている人間が果たしてどれほど村にいるのか。いたとしても、それをいう人間はいない。結果的に、みんながそれを共有し、認めている。これが「村」だ。
村の人間を「愚かである」と哀れむことこそ愚かだ。哀れなのは丈一郎ただ一人。他の人間は全て愚、唾棄すべき阿呆どもの集まり。
半次郎は遅れて集会所に入った。正面でこちらを向いている敦矛が半次郎を認めて顔を強張らせた。半次郎は一歩を進めた。
「ちょうどよかった。これから本題に入るとこだ」
唾棄すべき。
「いちのことで皆の意見を聞きてぇ。まぁ、みなだいたい同じだろうが。おまえはいちと仲がよいから、みなとは意見が違うかもしれん」
敦矛は半次郎より頭半分大きい。彫りの深い、いい顔立ちをしている。寄ってくるものを取り込み、そうでないものを排除する。半次郎よりもたかだか三つ四つ年上の若造が、皆の意見を聞きたいなどとほざくかよ。
座っている人をかきわけ踏んづけ歩く半次郎の袖を引くものがいた。構わず振りほどく。名を呼ぶもの、鼻をすするもの、咳をするもの、立ち上がって半次郎にすがるもの。構わず、半次郎は敦矛の鼻の穴がみえる位置までたどりついた。
「いったいなにを聞きてぇって? いちをどうするってんだい?」
「あいつは人殺しだ。このまま放っておくわけにはいかん」
敦矛の余裕の表情が無性に触る。これが「村の長」となる人間。
「殺してねぇ。あいつは誰も殺してねぇ! そもそも、死体があるっつって知らせてきたのはいちだんべぇが!」
そのことの違和感を、ここにいる「村人」どもは誰一人持ち合わせていないのか! そんなやつらに、人を「ばか」だの「あほ」だのいう資格があるというのか。あるわけがねぇ!
ある男の言葉に、考えに違和感を持つことさえ禁じられたものたち、自分で自分に禁じているものたち! 愚か者どもが!
敦矛が半次郎の耳に顔を近づけて囁く。
「こいつにさっきいってくれたみてぇだな」
敦矛の影から覗き見ている顔がある。
「それをここでいっていいんか」
「おめぇも二間峠から突き落としてやろうか!」
半次郎の、滅多に聞かれない大きな声が室内に響いた。力のこもった、いい声だった。力が「沈黙」として半次郎のもとに返ってくる。静寂が、男の胸を叩いた。
「おめぇら!」
振り返る。敦矛の前に立ったまま集会所を、そこにいる人間を見回した。薄暗い中に一際暗い顔がみえた。目が合うと、そいつは目を逸らした。勢いよく足を踏み出し、ダン、畳を鳴らして大きく跳んだ。
「たつ、なんでてめぇは」
龍雄の胸倉をつかんで上に引き上げた。体の内側に湧き上がったのは紛れもなく殺意だった。今この場でこの男を殺してやろうか。そのつもりで男を壁に向かって放った。人に足をとられ、龍雄は人の上に倒れ込んでしまった。
「おんさんだ、おんさんが殺したんだ!、お、おらみた、夫婦もんをこここ、殺したのは、おお、おんさんだ、おんさんがやや、や、やったんだぁ!」
皆の視線が入り口に向いたとき、そこには走り去る丸い背中があった、大きな背中がみるみる小さくなっていった。半次郎はその背中を追いかけた。
「いちを座敷牢に閉じ込めるように。それか村から追い出すか。わかったか。これも村の、みなのためだ」
敦矛の声が集会所のかび臭い室に強く響いた。静かに涙を流す丈一郎の父と兄だった。涙を床に落とさんばかり、二人は膝を正して頭を垂れた。
余計なもの、空気の中に紛れ込んでいるほこりやなんか、みんな空っ風が南へ南へと吹き飛ばしている、そんな春の一日だった。白川で、半次郎は手鏡を拾った。持ち主はわかっている。持ち主は半次郎が冷たい川に膝下までつかって鏡を拾う前に走り去った。まるで逃げるように。
もうじき村を出るということは知っていた。無論、返すつもりはあった。訪ねてくればすぐに返したろう。持ち主はこず。半次郎から返しにいく気にはならなかった。
ふっと我に帰る。半次郎はじっと手鏡を見つめていた。
外はゴオゴオと風が鳴っている。北側の防風林が泣いている。家がきしんで鳴いている。
夜中に鏡をのぞいてはいけないと聞いた。なるほど、背筋が恐怖で縮んだ。
何時くらいなんだろう? 夜明けにはまだ間があるようだ。
それから、鏡を何度かみるうちに、恐怖が徐々に薄らいでいるのに気がついた。持ち主があそこで逃げ出した理由が、なんとなく半次郎にもわかるようだった。
昼の鏡は外見を写す。夜の鏡は内面を写す。
――夜中の鏡に写るものこそ、本来の己。
そんなことを思ってぞくぞくしたものだ。
山で薪を拾っていて、ふと、
――なんのことはない、昼間だろうが夜中だろうが、鏡に映っているのは己だろう。
思ったとき、鏡の呪いから開放されたらしい。見栄えのしない、薄汚れた男が一人映っているだけだった。なんの面白味もない。梅雨に入るころ、半次郎は鏡をみなくなった。
集会から数日、村を一人の若者が訪ねた。
「顔にイボのある男とその妻の二人がこの村に入らなかったろうか」
男は関口の家に迎えられ、敦矛から経緯を聞き、また話した。二人が崖から落ちて亡くなったことを知ると、若い男は長法寺に線香を上げて和田の町へと帰っていった。
男は夫婦に「まとまったお金を渡していた」ことを敦矛に告げたという。死んだことを聞いても男は「金はどうしましたか」などと聞き返すことはなかったという。
「質のいい服を着てやがった。野郎、人の命をなんだと思ってんだ」
淡白だった男の態度に敦矛が腹を立てていたらしい。罪なきものを世間的に村から抹殺するものの言葉ではない。怒りの原因は別のところにある。
お盆の十六日、半次郎はお寺に先祖を拝みにいった。長法寺にもいった。二間峠から落ちて亡くなった(とされる)二人にも線香を上げた。辺りが暗くなり始めたころ、家の仏壇に供えてあった野菜やうりの馬、花などを大きな葉に包んでイワスゲで縛って、火をつけた線香と一緒に白川に流した。
「家に帰るまで後ろを振り向いたらだめだ、わかったか」
「うん」
半次郎の後を男が付いていく。手拭をほっかむりにして顔を隠すように鼻の下で縛る男が、人よりも大きな体を小さく丸めて、まるで半次郎に隠れるように後ろを歩いた。
「そもそも、なんであいつら、妙名神社いくのに峠からいったんだ。村長んちにきた男の話じゃ、二人とも和田の人間だっつうじゃねぇか。高田のほうまわったほうが安全だし距離だってあんまかわんねだんべ」
高田村は蓑里の西側にある。
「案外自殺かもしんねな」
「心中か。そんでもよ、金もらってたんだべ。どこにあるかわかんねらしいけど」
「じゃああれだ、男が嫁さんを殺そうと思ってたんだ」
「そりゃおめんちだんべ」
そういう話が出始めていた。一方で、丈一郎が犯人にしたてられたことに異を唱えるものはいない。ひそひそと半次郎の家のことをいうだけで。
「ああ、俺もみた。こないだ半次郎と一緒に仕事してた。手拭いかぶってたけど、ありゃ丈一郎だ、間違いねぇ」
「座敷牢に入れられるんが嫌で逃げたちゅう」
「いや、長野と山田の家で話があったげに聞いたぞ」
「よくやんな」
長野の家の男は変わり者が多い、といわれる。半次郎は長男だが、父も祖父も、家の中で半次郎のやることに文句をいうものはいない。
「不思議なもんで、あそこを出ると変わりもんいう話は消える。あの土地がそういう土地なんかもしれん」
「誰も彼もよく働くかんな」
九月を過ぎた。家々の軒下に、山ほど収穫したとうもろこしを四本か六本一まとめにしたものがぶら下がった。
その日、この辺りで十年に一遍といわれるほど雨が降った。直接的な害も大きかったが、水が白川に流れ込み、大きく増水した。
昨日からの雨がやまない。どこの家も不安の中で夜を過ごしていた。
家の中は暖かい匂いで満ちていた。ねぎやじゃがいもなど、時期の野菜をたくさんいれて味噌で煮込んだきりこみの匂いがこもっている。外に出られず、行き場を失っているかのよう。半次郎たちがきりこみを食べていると、雨と風の音に紛れて半鐘が鳴った。
「さぶ、いくぞ!」
長野の家から、激しい雨風の中に半次郎とほっかむりの大きな男が飛び出した。白川の土手に人が集まっている。
「堤が破れそうだ!」
白川と畑などのある地面は一丈ほど高さの差があり、さらに地面から六尺ほどの土手が築かれているが、川の面はすでに土手の半分ほどまで上がっていた。この場所で川が蛇行しており、曲がりの外側に当たるこの箇所には他よりも大きな負担がかかる。そこに、まだ小さい割れ目が入っていた。土手堤が決壊すれば、水は、文字通り堰を切って畑に流れ込む。そうなればどれほどの被害が出るか想像もつかない。既にきたものから土手の補修にかかっていた。
時間が経つほどに、水位は目に見えて上がり、流れは勢いを増している。
「もう無理だ! みな、よくやってくれた! これ以上はみなにも危難が及ぶ! ここらが潮時だ!」
村役人の大きな声が響いた。誰の目にも明らかだった。雨は少し小降りになったようだが、水勢は留まるところを知らない。嵩も増している。誰も手を止めて呆然と川を眺めた。中で、動き続けるものがいる。
「半次郎、もう無理だ。しまいにすべぇ」
近くのものが半次郎に寄っていって声をかけた。半次郎とほっかむりはそれでも手を動かし続ける。
「半次郎、いい加減にしろ。もうじき川が堤を超える。そうなりゃこんなこと自体も無意味だんべ」
「……」
「半次郎!」
半次郎と男は止まらない。
「あぶねぇ! もたねぇぞ!」
誰かが叫んだ。更に四人ほどが働き続ける二人に飛びつき、割れ目から十分離れた土手上へと引きずりあげた。次の瞬間、なんともいえない音を立てて堤が割れた。声も出なかった。濁流はあっという間に畑を飲み込んでいく。茫然自失の体で眺めるしかなかった。二人を引っ張り上げた男の隣でなにかが地面に落ちる音がした。みると、半次郎とほっかむりの男が、今まさに沈みつつある畑に向かって土下座をして頭を深々と垂れていた。二人を引き上げた男たちも、立ったままで頭を垂れた。大きな水溜りと変わり果てた畑を見下ろす堤の上に、頭を垂れる男たちがずらり並んでいた。
数日経った昼過ぎ、長野の家を訪れる珍しい者があった。
「畑をやられちまったんでこんなもんしかあげらんねが」
そういって、男は半次郎の父の前に一束の葱を差し出した。父親にはなんのことかわからない。それ以前に、畑がこの前の堤の決壊でやられたのならなおさら、例え葱の一本でももらうわけにはいかない。そういって突き返した。
「あいつは、自分ちの畑でもねぇのに命をかけて堤を守ろうとしてくれた。それが嬉しかったんだ」
長野の畑は破れた堤の反対側にある。堤が破れたとしてもそれによって被害が多きくなる心配はない。集まった人間の半分以上はそんなものたちだ。被害を直接被るものだって早々に諦めた。半次郎たちの働きは、あの場にいたもの全員の胸を打ったのだ。
だからと無理にも葱を置いて男が立ち去りかけた。
「ならば余計にもらえんよ。あいつらが命がけで守ろうとしたものを、俺がもらうわけにはいかねぇ。来年、たくさん採れたらそのときに持ってきてくんない」
結局、男は葱を持って帰っていった。
半次郎とほっかむり男が山口の家の前を通り過ぎた。家は、ひっそりとしていた。先の大雨の始末で誰も彼も出かけている。昼間のこの時間、人の気配もなく静まり返っているのは龍雄の家ばかりではない。
「なあさぶ、ここんとこ龍雄の様子がおかしいとおもわねぇか」
返事はなかった。さぶには、まだ他の人間と話をするなといってある。「さぶ」は三郎である。一応、長野の遠くの親戚ということになっているが、常に手拭いを被っているとはいえ、村のものは誰だってわかっているだろう。さぶは半次郎の言い付け通り誰とも話をしていないようだった。言い付けを守っているのか、あるいは、話をしたくないのか……。
「さぶ、龍雄のこと、なんか知らねぇか?」
龍雄が少し変だということに半次郎が気づいたのはもう随分前である。二間峠で人が死ぬより前のことだ。だから三郎に聞いてみたのだが。
「し、知らね」
「そうか」
それ以上聞くことはしなかった。
「腹減ったなぁ」
「さっきお昼食べたばっかだよ」
すんなり返ってきた三郎の言葉を聞いて、半次郎は空を見上げた。相変わらず、すっきりしない空が広がっている。あんな雨はもうごめんだと、半次郎は心の中で雲に呟いた。
あの夜堤の上に龍雄の姿はなかった。
「長野の家のもんと親しくしたもんも同様村八分にするぞ」
三郎が長野の家にきたころ敦矛がそんなことをいってたと、あるとき近所のものが教えてくれた。
「すまねぇな、ほんと、わしら馬鹿なことをしちまった。あんな馬鹿息子のいうことなんぞ真に受けちまって。堤を守りにきもしねぇで」
そういって頭を下げたのはたったの一人だったが、それは他の皆の気持ちでもあった。初めの頃は確かに避けられていたのだろうが、今では誰もが笑顔で挨拶をしてくれるようになった。
師走に入る。妙名山は既に何度か白い着物を召していた。この冬はまた寒くなりそうだった。
十二月の半ばになると製糸場に出稼ぎにいった娘たちが帰ってきた。みな見違えるようにきれいな着物を着ていた。咲も帰ってきたのだが、彼女だけは他の娘たちと様子が違っていた。関口の狭くてぼろい家に、それこそ村中の人間がきているのではというほど人が集まった。人垣が幾重にもなって家を囲んだ。
咲もびっくりするほどきれいになって帰ってきた。人々を集めたのは咲の姿ではない。咲は、婚約者だという男を連れて帰ってきた。
みたこともないほど立派ななりをした男が、小柄でみすぼらしい咲の父親に深く頭を垂れている姿に、人々は恥もなにもなく驚嘆の声をあげた。
田中宗治という婚約者は正月過ぎまで関口の家に泊まるという。年が明ければ、その大金持ちの親父までくるということだった。それは、村始まって依頼の事件だった。咲と宗治とともに黒山の人だかりが移動した。
ある日の夕方、咲がたった一人で半次郎の家を訪ねてきた。丈一郎のことを聞いて、そして三郎のことを聞いて、一人で抜け出してきたという。
咲の顔をみて三郎が涙を流した。そのときばかりは丈一郎に戻ってしまった。
咲がいなくなってからのことを、丈一郎は息せき切って話した。途中、わかりずらいようなことがあっても、咲は話を止めたりせずに笑顔で頷いていた。
「そ、そんなことがあってから、は半次郎と家の人がよ、よくしてくれる」
丈一郎と咲の笑顔に当てられて、半次郎も笑顔を隠すことはできなかった。
一時間ほどもいたろうか。最後に咲が丈一郎を力一杯抱きしめた。
「ちゃんとここの家の人のいうこと聞くんだよ。もう迷惑かけたらだめだからね。わかった?」
「うん、うん、わかった、わかった」
十分な涙を分かち合って、咲は半次郎の家を出た。
「ありがとう」
裏の勝手口から出たところ、表を通る人からみえないところで咲と半次郎は向かい合った。咲は半次郎に対して深く頭を下げた。半次郎の胸にいくつかの言葉が浮いた。
「いや、別に」
言葉になったのはそれだけだった。まっすぐ半次郎を見つめる女の瞳が優しい。男の気持ちは、幾らかでも伝わったろうか。
「龍雄には」
「いった。でも、会えなかった。会わないといわれた。たっちゃんは……」
「俺にも、わからん」
沈黙が流れた。女の言葉は、半次郎に軽い衝撃だった。
「あれはどうする」
突然の問いかけに咲も一瞬首を捻ったが、すぐに思い至ったようだ。半次郎自身は、もう女には必要ないものだと思っていた。
「持って返る。あれは、大事なものだから」
半次郎はすぐに家の中に戻って「それ」を持ってきて女に手渡した。
「すまねぇ。そんなに大事なものとは知らんで」
「あのときは大事じゃなかった。でも、今はとても大事、な気がする」
もう一度「ありがとう」といって、咲は帰っていった。
その後姿をしみじみ見送った。周りが羨む夢のような人生を手に入れながら、丈一郎など村の人に対する思いを失っていない。直ぐな気持ちが更に外見を磨くようだ。
――いい女になった。
見送りながら、半次郎は自分の中にはっきりとした優越感があるのを感じていた。女はさらにきれいになっていた。そんな女と秘密を共有した。それが優越感だった。村中の男に対する優越感。偉そうな敦矛に対する優越感、そして、かつて女と最も仲がよかったといわれた龍雄に対して、自分が確かに上にいることを、半次郎は感じていた。
咲が事件のこと、龍雄のことを聞こうとすると、やはり三郎は言葉に詰まった。咲は二度まで同じことを繰り返すことをしなかった。実際に咲が龍雄に対して感じることが大きかったからだろう。龍雄は変わってしまった。そして、自分も変わった……。咲は賢い女だった。
女とこのまま別れがたいと思った。その思いは、流石にすぐさま殺した。暖かい家の中に、半次郎も戻った。
三が日を過ごし、咲は村を離れた。村から出ていく自動車を眺める龍雄の姿に気づいたものは誰もいない。
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