第4話


   咲


 それは、ある早春の一日だった。ひどく空っ風の強い、晴れた日で。

咲たちは電車に乗り込んだ。たくさんの人が見送りにきていた。窓から顔を出した咲に近寄ってきた一人。

「咲ちゃん、毎日みるんべ」

 そういって咲に包みを渡した。ちらっと、一瞬だけ目が合った。

「ありがとう」

 その一言を聞いて、龍雄の横顔が少し綻んだようだ。笑顔を正面からみせることを遂にせず、龍雄は電車から離れていった。そして、ゆっくりと電車が動き出すと、みんなもゆっくり離れていって、ゆっくり小さくなっていった。みえなくなった。

 これでもうみなに会えないということもないだろう。こうして、みんなからどんどん離れていくということが、故郷と完全に別れられずに自分が薄く引き延ばされていくようで不安だった。みんな、いろいろなものをくれた。服だったりお守りだったり、おむすびだったり。そんなものが自分を太く厚くしてくれる。その度、悲しみも一人前に戻っていく。

龍雄がくれた包みを、咲はじっと見つめていた。一度も中を開いていない。

 毎日鏡をみるだろうと、龍雄はいった。何気ない一言だ。龍雄が咲に伝えたかったのはこの包みではなく、包みに隠された思いだ。包みに隠された手鏡でもなく。

咲の心はそこまで届かない。

 とっさに自分の恥ずかしい「癖」が見抜かれていると思った。今まで誰にもいわなかった、ずっと隠していたことを、「誰かに」知られていると直感した。瞬間、顔が硬くなった。血の気が引くのがはっきりわかった。恥ずかしさで、穴があったら入り込みたいほどだった。恥。恥辱。あるいは、「陵辱」にも似た感情が、心の中に突出した。

 ――もう会えない。

 離れゆく電車の中で、咲ははっきり思った。自分の秘密を知っている龍雄とは、もう会えない。既に龍雄の口からみんなにいきわたっているかもしれない。もう、戻ってこれない……。

 そんな思いを胸に溜め込んで、咲は静かに泣いていた。


 咲は生まれ変わったのだろうか?

 故郷を離れた悲しみなどいつまでも抱えていない。それは、思い出すと胸の中がほんのりあったかくなる程度の、灰の下の埋み火のようなもの。鍋の外側についた鍋炭に火が付いていくつも赤く光るときは風が強くなる。家にいるとき、そういって家族で笑いあった。

「ひげん様が猪狩りをしてるなんていったっけ」

 ひげん様、火の神様。ふっとそんなことを思い出した。

 この工場にいるのはほとんどが咲たちのような田舎の娘だった。子供のころどんなことして遊んだか、どんな楽しみがあってどんな苦労があったか。許婚を置いてきたものもいる。懐かしんで涙を流すものもいた。

 が、たいてい笑い話だった。大口を明けて大きな声で笑った。ここでは誰に遠慮する必要もない、誰か文句をいう人間もいない。

「娘っこはそんなことしたらいかん、嫁の貰い手がなくなる」

 そんな言葉まで笑い飛ばした。仕事は楽ではない。それこそ、農作業よりしんどいかもしれない。それでも、村では決して得られないものがここにはあった。

それを「自由」などと呼んではいけない。しかし、彼女たちは確かに「得た」。彼女たちは村にいるときよりも大きな声で笑った。

「近くの川でよく釣りした。山女とか岩魚、鮎、うなぎもとれた」

「へぇ。うちの近くの湖じゃ」

 川、湖、そんな言葉を聞くとさだのことを思い出す。冷たい水の中でもがき苦しんで死んだ小さな命。冷たくて、もしかしたらもがくこともなかったのかも……。そんな悲しみが心を襲った。小さなさだ坊といつも一緒に遊んでいた大きな「坊」の影を、咲はよく思い出した。なんだか無性に家が恋しくなるようなときには特に。

 梅雨の時期になる。工場内の蒸し暑さは筆舌に尽くしがたい。体を壊して仕事を休むもの、ひどい子は実家に送り返された。日が沈む頃、寮は蛙の鳴き声に押し包まれる。郷愁を誘うような彼らの鳴き声にしんみり耳を傾ける余力はなかった。

梅雨が明けた。午後になると夕立がきた。激しい雨と風と雷で工場が壊れるんじゃないかというほどだった。

 夕立がくると続けて三日くる。お爺ちゃんがいっていたのを思い出す。夕立はどこにいてもおっかないものだが、村では夕立の後、干からびかけた草や木が瑞々しさを取り戻した。夕立は村全部に「恵み」を与えた。

 ここでは違う。夕立はひたすらおっかない。激しい雨と風と雷は全てを奪っていきそうで。工場の偉い人たちは「大丈夫だ!」と大きな声でいっていたが、おっかなくって近くの子と手を握り合ったりした。

 そして、娘が一人亡くなった。咲のよく知らない子で、一週間ほど前から体調を崩して入院していた。少し様子が回復したら実家に帰る予定だったという。連絡が遅れたために身内の誰も死に目に会えなかった。亡骸は家族がきて引き取っていったというが、詳しいことは知らされなかった。

 ――こっちにきてから手鏡をみていない。

 そのことには少し前から気がついていた。鏡を全くみていないということではなく、龍雄にもらった手鏡を、こちらにきてからまだ一度もみていない。手拭の包みをあけていなかった。

 ふと夜中に目を覚ました。夜中に目を覚ますこともこちらにきて余りないことだ。部屋には四人の娘が暮らしていた。一人に一つ、小机が割り当てられている。引き出しの付いた小机だった。その夜、咲は引き出しを開けた。その動作がまるで自然だったことを、次の日以降、咲は度々不思議に思った。引き出しの奥に手を入れ、取り出した。包みをそっと開ける。手ぬぐいを一枚一枚めくる、音がする。スッ、スッ。現れた鏡。まるで光を放つかのように、そこに映った己の顔をみて、咲は動かなかった。そこには、色の黒い女の子がいた。子供っぽい、鼻の低い丸顔の女の子。初めて夜中に手鏡を覗いたときの「咲」がそこにいた。一つ瞬いた。自分の顔が映っていた。色の白い、ほっぺたのますます薄い「咲」の顔があった。


 ここにくるちょっと前のこと。咲たちの住む蓑里村は妙名山の南にある。村からみる山に白いものはなかったが、裏側、北の斜面にはまだ雪が残っていた。その冷たい北の斜面を駆け上がり、南に駆け下りてくる北風がすこぶる強い一日。

 裁縫のお師匠さんに、化粧の仕方を教えるから手鏡を持ってこいといわれたので持っていった。よく晴れていたが、北風が体を押しこくるように強く吹いていた。風に耳を塞がれて、ゴーゴーという音だけ聞こえていた。咲は砂利道を一人で帰っていた。あと一月もしないうちに、畑には人が働き始める。この誰もいない畑が、なんだか妙に寂しくみえる。

白川にかかる橋の上で、立ち止まった。欄干に体を預けて、身を乗り出して川をのぞいた。水量は少なく、茶色い川底が簡単に透けてみえる。咲は懐に手を入れて包みを取り出した。化粧は落とさずにきた。この前化粧をしたのは秋の夫婦行列のときだったろうか。あのときはやたらと顔を白く塗っただけだった。今日は違う。さっき先生の家でみたときは、これが本当に自分かとびっくりした。家に帰る前にもう一度みておきたい。鏡をとって手拭を懐にしまう。

「あ」

 風が手拭を運んでいってしまった。が、今口から出た「あ」はそれではない。咲は橋の下をみていた。ぽちゃんと小さく音がした。手鏡を落としてしまった。そのまま固まった。どうしよう。考えるより先に体を動かした。拾いにいくに決まっている。が、次の瞬間、またしても固まってしまった。振り向いた先の橋の袂に男が一人立っていた。目が合った。咲は逆方向に走っていた。

 夜、後悔した。なんで逃げ出したのか。とは思わない。なぜこの日の内に拾いにいかなかったのか。そればかりを何度も思って悔しがった。

翌日、すぐに拾いにいった。が、鏡はなかった。

 ――流されてしまったんだろうか……。

 その日から何日かかけて、川を下流に向かって探した。鏡は見つからない。

 そして出発の日がくる。咲は諦めて電車に乗った。鏡をなくしてしまったこと、誰にもいっていない。お金を稼いで自分で買えばいいと思っていた。そして龍雄に手鏡をもらった。その鏡は、やはり母にもらった鏡とはまるで違うものだった……。


 それはまるで別物だった。それは、単なる「鏡」であり、「窓」でも「入り口」でもない。

 ――鏡のこと、たっちゃんに話したんだろうか……。

 咲はすぐに否定する。橋の袂にいたのは長野の半次郎という男だ。同級生ではあるが、咲はほとんど話をしたことがない。龍雄や丈一郎などはたまに話をしているようだが、鏡のことは話していないに違いない。もし話を聞いていたのなら、龍雄はああいうやり方をしない。ああいう言い方はしない。咲は鏡を包み、引き出しの奥に戻した。

 その後も、別になにも変わってはいない。変わったと意識することも、意識して変えたようなこともない。ただ、少し楽になったよう気がした。

 こっちにきて、環境の変化に合わせて自分を変えていた。言葉づかいを変えてみたり、たまに化粧をしてみたり。少し手を抜いてみたり。見て見ぬ振りをしてみたり。「楽」をしているはずなのに、それは余計に疲れるみたい。

 夜中、手鏡をみた。翌朝、手鏡をみた。自分と自分でにらめっこ。どうも今まで息をつめすぎていた。「ぷー」と頬を膨らませて、空気が逃げないように口も鼻も閉じていた。がんばり過ぎてた。胸いっぱいの空気を吐き出した。体の力が抜けた。

 ――あなたが先に笑ったわよ。

 一日の始まり。最近重たくて仕方のなかった体が、今日は少し軽くなったみたい。


 咲はなにも変わってない。むしろ戻った。他の女の子たちのように大きな口を開けてばかみたいに笑わなくなった。「笑い転げる」ということもなくなった。ひそひそと誰かの悪口をいうこともない。積極的に発言したり目立つことはなかったが。咲の顔に素朴な笑顔が戻ってきた。浅黒い肌色と頬の厚さこそ戻らないが、それは紛れもなく、蓑里村在の関口咲だった。

 その男の素性を知らないなどと、それこそ咲の「間違い」だ。それはまるで罪にも等しい。

「咲ちゃん知らないの? ここの経営者の息子の宗治さんじゃない」

「まぁ」

 それきり言葉を失った。まさかそんな偉い人だとは知らなかった。工場の中で何度かみたことはある。引き締まった肉体をぴちっとした光沢のあるズボンで包み、上は白のワイシャツにベスト。背筋をピンと伸ばして歩く姿が、村の男たちと比べて、これでも同じ「男」か、という思いがする。一見近寄りがたい雰囲気を持ちながらもすれ違いざま、きちんと会釈を返してくれる。太い眉の下の瞳は常に柔らかく、咲たちに時折かける言葉は決して「経営者の」ではない。それは、ちゃんとした言葉づかいのできない娘たちよりよっぽど丁寧だった。だからだろう、その男の人が偉い人だと思えなかった。

「一番初めにみんなの前で挨拶したんべぇ」

「うーん」

 思い出せなかった。顔なんかよくみえなかった気がする。声なんか、よく聞こえなかった気がする。

 いずれにしても、自分とは縁のない人間だ。咲はここでも留めなかった。


 淫らな夢をみた……。

 咲は布団の上で上半身を起こした。体が少し熱い。なにをどうしたのか、そんなことは覚えていない。覚め切った体に恥ずかしさだけが残っていた。

 声が聞こえた。引き出しを開けて包みを取り出し、被っている手拭の端をつまんだ。

 ――違う……。

 その声は鏡の「中」からではない。耳鳴りがするような静寂に、あたかも闇が囁くかのような微かな音が。

 それは、どうやら外から聞こえてきた。咲は静かに静かに、部屋を出た。

 一瞬、麦畑の真ん中にいるように錯覚した。真昼の麦畑の暑ささえ感じたほどだ。寮から外に出た、目の前が金色に浮かび上がっていた。

それはほんの一瞬だ。風が寝起きの頬をやんわりと撫でる。夜の闇の底は、やはり白く輝いている。声は聞こえなかった。しかし、咲はすぐに見つけた。近づく咲を、その影はじっと見つめているよう。

「こんばんは」

「……」

「どうしました? 眠れませんか」

「……」

「こんな時間に、外に出てきてはいけませんね」

「……」

「小柳さんに見つかると、またうるさくいわれてしまいます」

「……」

「……」

「……」

「どう、しました?」

「……、歌」

「ああ! これは失礼。僕のへたくそな歌のせいですか。それは申し訳ないことをしてしまった」

 申し訳ないことをしてしまったと、宗治は天を仰いだ。「小柳さんに見つかると」などといっていた割りに、その声はさらに大きい。天に向かって謝った宗治の顔が淡く光っていた。

「まさか聞かれていたとは。みんなぐっすり寝ているとばかり。まことに申し訳ない」

「……」

「まさか、君の部屋の子たちみんな起こしてしまったんじゃ……」

 咲は首を振る。その顔を、宗治が驚いたようにみていたことなど、咲は知らない。

「この通りだ、謝ろう。だからお願いです。今夜のところはこのまま眠ってくれないだろうか、咲さん」

「!」

「蓑里村の、咲さん。間違ってはいないはずだが」

 咲は、走り出していた。「あ!」という男の声を置き去りにして、建物に飛び込んで入り口の扉を閉めた。カチャン、と小さく音が鳴る。胸が大きく波打っている。その場で大きく深呼吸を繰り返す。

 ――こんなに胸が苦しいのは、なんで。

 部屋に戻り横になる。脈打つ鼓動を聞きながら、いつの間にか眠っていた。

 翌。とても眠い一日だった。暑くて暑くて頭がぼっとする。夜のこと、まるで夢のように。夢の続き……。

「咲ちゃん大丈夫? 顔が赤いみたい」

「うん」

 仕事中だというのに、身しみて打ち込めない。淫らな夢の延長か、あたかも宗治に恥ずかしいことをされたかのように。

「こんばんは」

「……」

 二日後の夜だった。夜は闇に染まっている。

「咲さんは、十七だっけ?」

 黙って頷いた。

「兄弟がいるんですか?」

 黙って頷く。

「そっか。弟?」

 この日、宗治は咲の声を聞くことができなかった。さらに三日後の夜。

「そうですか」

 夜空を覆う雲の帳に、光は地上を仄かに照らす。少し間が開いた。強いて間を嫌ったわけではないが、再び宗治が口を動かしかけた、そのとき、頭の上、夜の中で鳥が鳴いた。鳴き声は遠くに飛び去った。

「さぎでもいたのか。この闇で、ちゃんと家まで帰れるのかな」

 闇にサギの白い姿が微かに透けたようだ。

「宗治さんは、何歳ですか」

 会話というには時間が少しずれてはいる。しかし、それは大した問題ではないだろう。

咲はいつまでも俯き気味に男の話を聞いている。このときも、咲はやはり俯いていた。女の輪郭がぼうと浮かぶ。その姿を、男は驚いたように見つめた。女の表情までは、みえない。

「ぼたしは」

 男が改めて、

「わたしは」

 といったところで、クスッ、と隣の女子が笑った。

「すいません、わたしは二十四です。『ぼく』と『わたし』が一緒になってしまった、お恥ずかしい」

 その日もそれ以後、女の声は聞こえなかった。遠くでさきほどのサギが鳴いたようだ。

「そろそろ戻りますか。小柳さんにみつかりそうな気がする」

 女は黙って頷くと、その場から離れていった。彼女の影と彼女が引きずる影を、男はいつまでも眺めていた。彼女の影が語る言葉を、男は必死で聞き取ろうとしていた。

「こんにちは、ご機嫌麗しゅう」

「こんにちは」

 二人はこのころから昼間でも言葉を交わすようになった。

「夜中、寮の前で話をしている人がいるようです。二人、しかも男性と女性です。このようなことは風紀が紊乱する原因となります。今後、見つけた場合はしかるべく処分します。よろしいですか」

 ある朝、小柳さんが朝礼で皆にいった。女子たちがざわざわとなる。ほとんどの人間は知らなかったようだ。咲が宗治をみ、宗治が咲を見つけて、小さく笑った。


「もうすぐ和田に大日本製粉という工場を開く。僕がそっちをみることになって、近々引っ越すことになった。僕と一緒にきてくれないだろうか」

 まるで夢のようなできごとだった。それが本当に自分に向けられた言葉かどうか。考えるまでもない。咲は、このときすでに夢の中にいた。

「はい」

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