第3話


   みち


 実千みちは生まれつき体が弱かった。二歳になる前、悪い風邪を引いてひどい高熱を出し、視力を失った。再びみえるようになる見込みはないという。奇跡でも起きない限り。

 実家は和田の町で主に洋品を扱う「ハシモト本店」というお店だった。すこぶる繁盛しており、三階建てのモダンな洋風建物は活気に溢れる和田の町にあって一際目を引いた。

 昼間は人の流れの切れることなく、夜も遅くまでその日の始末や翌日の準備などで一日中静まり返るということがなかった。実千はそんなことはないとにこにこしながらいうが、兄は、この家にいることがどうしても実千のためにならないと思い、店のことは親と弟に任せて、妹と町の外れに一軒家を借りて二人でそこに住み移った。兄斉昭十九歳、実千十五歳の秋だった。

 初めは戸惑っていたが、実千もすぐその環境に慣れた。朝、雀のさえずりに起こされ、日中、縁側で感じる風も太陽も柔らかく優しい。いつも耳を叩くようだった町の喧騒がそこにはなかった。草花がこれほど強く匂うとは。それらが「生きている」ということを、実千はここにきて初めて感じた。

「今日は暑いわね。でも、もうすぐ夕立がくるかしら。蝉が、少し騒がしい」

 家の北側には防風林として杉の木が数本植わっていた。蝉たちの鳴き声が家を震わすようだ。

「お薬はさっき飲んだわよ」

「いえ、こう暑いんでね、みっちゃんは大丈夫かと思って」

 声は老僕の三次だった。

「いや、夕立がきますかな」

「たぶんね。風も少しぬるいみたい」

「みっちゃんの予言はよくあたるかんな。こりゃ早めに仕事すませねぇと」

「とりさんは? さっきからいないみたいだけど」

 三次ととりの夫婦はこの近所に住んでいる。二人とも六十の半ばだということだが、まだまだ声にも動きにも張りがあった。子供を若くに失ったということもあり、老夫婦はこの妹を本当の子供というより孫のように扱った。とにかく可愛がった。

 兄が以前、

「ちゃんと払うものは払っている。なんでもいいつけなさい」

 などといったことがある。それは実千にとっては不快だった。兄は実千のことをよく気がついてなんでもしてくれるが、ときに三次やとりに対して尊大な態度をとることがあった。

 この家に三次ととりがきてすぐの頃。

「こんな着物持ってきたかな」

 実千の着物をみて兄がいった。

「とりさんが着せてくれたの。娘さんが着ていたものだそう」

「三次たちの娘のもの?」

「大きさもちょうどいいと思うのだけど、どうでしょう?」

 兄の返事はなかった、兄は実千から離れていく、足音を聞けばわかる、実千の嫌いな足音だった。

 実千にあんなものを着せてもらっては困る、早くに亡くなった娘の着物など、そのような験の悪いものを着せてもらっては……。兄の声が、家を小さく震わせた。

 実千にはそういうときの兄や三次夫婦の表情をみることはできない。が、閉じられた瞳には人々の心が映るようだった。つい先ほど出かけた兄より先にトリのことが浮かんだのは、恐らくそういうことも理由のうちだろう。

「ばあさんは野菜もらいいってくるっつってでかけた。追分の妹のとこぃでもいったんだんべから、そのうち帰ってくるだんべ」

「傘かなにか持っていった?」

「いえ。風呂敷しか持ってなかったと思うけど、なに、おおか(たくさん)降られりゃちんちん電車に乗って帰ってくるだんべ」

 実千の顔から三次の言葉が少しそれた。空を見上げたか、少し遠くをみやったか。口では「だんべぇ」なんていってるが、三次はトリのことを心配している。実千はまた嬉しかった。

「斉昭さんのほうは大丈夫だんべぇか。お兄さんも傘もなにも持たずに出たっけが」

 三次の言葉が実千の顔に帰ってきた。兄こそ大丈夫だろう。この家にきて半日も家を空けたことがない。じきに帰ってくるはずだった。

 実千は三次の顔をみたことがない。三次の心配そうな顔が心に浮かんでいる。

 大丈夫だんべぇ。

 喉まで出かかった。

「もうすぐ帰ってくるわよ。ごめんなさい、仕事の途中だったんでしょ。わたしはもう少しここにいるから、戻ってくださいな。大丈夫、雨が降ればすぐ中に戻るから」

 はい、といって三次は離れていった。だんべぇ。いえなかったことを少し後悔した。いえばきっと三次は喜んでくれただろうに。次は絶対いってやろう、みちは心に誓った。

 蝉の声に混じって、なにか叩くような音が聞こえてきた。なにをやっているのだろう。みちの中には三次がまだそこにいた。トリが荷物を抱えて歩いている。暑いのに大変だけど、もっと急いで。兄が歩いている。いうまでもなく、額に汗して急いでいた。西の空に真っ白な入道雲が大きく立ち上がっている。実千にはもちろんみえていた。

 斉昭はそれから三十分ほどして帰ってきた。すると、まるでそれを見計らっていたかのように雨が落ちてきた。

「やや、降ってきたな」

 大きな雷が幾度か鳴り、間を置かず土砂降りになった。

「いやぁ、危なかった。もう少し遅かったら俺も降られていたな」

 すさまじい降り方だった。桶をひっくり返したように、黒い雨が町に降り注いだ。

「こりゃ、三次たちも暫く動けまい」

 実千は縁側の奥に引っ込んでいる。そこから、じっと心を外に向けていた。兄と入れ替わるようにして三次がとりを迎えにいくといって出ていった。ほどなく、桶がひっくり返った。雨がひどければとりはちんちん電車で帰ってくるといっていたので、恐らく三次はその駅までいったのだろう。駅はここから歩いて五分ほどのところにある。それほど遠くはないが、この雨では駅から出てくることはできまい。

 ガッ! 家の梁が震えるほど、すぐ頭の上で雷鳴が轟いた。

「キャッ」

 実千が思わず体をすくめた。すぐに体を暖かいものが覆った。兄が妹をがっちりと抱きしめた。実千にとって、それこそ兄だった。兄の胸の中に入って、心がすうっと安らいでいく。実千は、身も心も兄に預けた。

 雨は一時間もしないうちにやんだ。家の前の道では早くも水溜りを踏む音が右に左に動いていた。

「お、陽が出てきたな」

 実千は立ち上がった。

「ん?」

「また、縁側に出る」

「ん」

 兄は一度実千から手を離した。その手は、なにかあればすぐに支えられるところにあるということ、実千は知っている。さっきと同じように、縁側に腰掛けた。実千には無論みえないが、雲の隙間から染まり始めた空がのぞき、西に傾いた太陽が顔を出す。気温が上がり、蒸し暑さがぶり返した。雨に洗われた空気に蝉たちの大きな声が、実千を叩くよう。

家に近づいてくる二つの足音に、実千は耳を留めた。すいと庭に入ってきて玄関を開けた。

「ただいま帰りました」

 三次の声だった。

「お、帰ってきたか。お帰り、大丈夫だったかい」

 いいながら兄が玄関まで出迎えにいく。取って付けたような言い方がおかしかった。

この家にきて、兄はよくしゃべるようになった、と実千は感じている。それが妹を思ってのことだと、無論兄はいわないが。

 着物のことで兄が三次ととりを叱った後、実千は兄にいった。

「あのような兄さまの言い様は、実千は聞きたくありません。三次ととりさんにあのような言い方をなさる兄さまを、実千は好きにはなれまん」

 兄は黙っている。「ふん」と小さく鼻で息を吐いた。なにかを心に決めたとき、兄はよくそうする。

「三次、とり、ちょっときてくれるか」

 兄は三次ととりをその場に呼んだ。

「三次、とり、先ほどはすまなかった」

 実千には声の聞こえ方でわかる、兄は三次ととりにしっかり向き合い、頭を下げたのだ。

「おまえたちにあのような言い方をするなと、実千に叱られた。いや、実千に叱られたから謝っているわけではない。わたしが間違っていた」

 いえいえそんな、とんでもねぇことです。三次ととりの驚いたような声が実千に届いた。実千はくすぐったそうに笑う。

「これからは、これからも、妹を娘とも孫とも思って接して欲しい。着物など着させてやってくれ。これからもよろしく頼む、優しくしてやってくれ」

 とんでもねぇ、こちらこそお願いします。三次ととりの声は、二人の話し方は似ている。二人とも泣いていることが、実千にはすぐにわかった。二人は似ている。

「わたしになにか意地悪されたりしたら、実千にいいつけるといい、実千がわたしを叱ってくれる」

「わたしに叱られるようなこと、もうなさらないでください」

「気を付ける」

 兄は実千にも頭を下げたようだった。

 ――兄さまも、わたしがいないとダメなんだから。

 その後、兄の三次やとりに対する態度が全く改まった、ということはなく。実千はときおり、兄を叱るのだが。

 賑やかな声たちはすぐに家の内側に移る。とりは、うまいこと電車に乗ってずぶ濡れになることを免れたようだが、駅からここまでくるうちに足元が泥だらけになってしまったようだった。頭の上で鳥が鳴いた。鳴き声は近づき、そして離れていく。これはなんという鳥かしら? 

 ――わたしも外を歩きたい。

 歩いてどこか遠くへ……。実千の心は、すぐに家を飛び出し、空を飛んだ。


 斉昭は、実千が愛おしくて仕方がない。小さいときからいつも実千のことを考えていて、自分が異常なのではないかと疑ったこともある。兄の前で、妹はいつも笑顔だった。自分の行いで妹が喜んでいる。自分の行動は、少なくとも妹にとっては間違っていない。実千には自分が必要なんだ。そう思っていた。強く、思い込んでいた。行動に正当性を押しはめることで己の存在と価値観も正当化した。

「ふん、温泉にでもいってみるか」

 実千に告げたのは、ここに移り住んで二度目の春だった。

「はい」

 実千は、飛び切り明るい顔で頷いた。

 ちんちん電車で北へ、一路伊賀保温泉に向かう。青空一面、天気のいい日だったが、この時期にしては少し寒い。

 のどかな景色が広がっていた。人家も並んでいたりするが、電車からみるそれはひっそりとしていた。まるで家自体が生きていて、それが息をのむように、あるいはただ眠っているかのように。

 斉昭もちんちん電車に乗って伊賀保にいくのは初めてだった。実家にいたころは、家の商売が第一で、家族旅行など、まして一泊旅行など一度もいったことがなかった。忙しかったこともあるだろう。しかし、家族の脳裏に「実千」のことがひっかかっていたことも否定はできまい。斉昭自身がそうだった。実千を連れて旅行など、いけるはずがない。

 ――妹が辛い思いをする。

 斉昭の思考は常に実千が中心である。そして今回、実千を連れ出した。決断は容易ではなかったが、実千の笑顔をみたとき、「やはり間違っていない」と自分を励ました。

甘川から伊賀保へ。電車がぐんぐん山をのぼっていく。東に向かって遥かに開いた斜面に畑が広がり、家が建ち、妙名の山がそのまま甘川の町に落ちてその向こう、赤木山が雄大な様で横たわっていた。他の乗客が小さくざわめく。この程度で……。軽い苛立ちを隠した兄に、妹がいった。

「ずいぶん登っているみたい。外は、どんな景色なのかしら」

「赤木山が、遠くにみえる」

 それだけいった。

「へぇ」

 実千も窓の外に顔を向けた。きっと、実千の目には赤木山だけがみえているに違いない。

大した景色じゃないといってやりたかった。つまらない、退屈な景色だと。

「周りは木ばかりだ。まるで木に遠慮して頭を低くしながら脇を通してもらっているって体だ」

 実千はくすっと笑った。

「電車ってそういうものなの? わたし、電車っていうのはもっと堂々としたものだと思っていた」

「そんなことはない。特にこの辺りでは、電車なんぞ山のてっぺんまでまっすぐ進めたもんじゃない。林の木木に遠慮しいしいやっとこ走らせてもらってるような風情だ」

「へぇ」

実千は顔を正面に戻した。そしてそこでまた「くすっ」と小さく笑った。

 妹の笑顔が、なによりも斉昭の心を落ち着かせてくれる。見晴らしのいい風景より、温泉なんかより。

 伊賀保に到着すると、斉昭はまず自分たちを受け入れてくれる宿を探さなければならなかった。実千がきちんと温泉に入れるという行き届いた宿をここ伊賀保でみつけるのはさして難しいことでもなかった。

 部屋に入るなり、

「ああ、つかれた」

 実千が大きな声でいった。初めての電車旅は、実千には相当辛かったに違いない。

「うむ、わたしも疲れた。少し休んで、それから温泉にいくか」

 部屋に用意されていたお茶を淹れ、菓子を食べて。二人、ぴたり隣合い、妹は上半身を兄に預け、兄は気持ちを妹に預ける。自分のことをなによりも一番に思ってくれる兄の気持ちを温もりに感じ、妹はうっとりと目を閉じていた。

 夕食までにはまだ時間がある。湯につかる前に、二人は宿の外を歩いた。

 宿に戻ってきて夕食を食べ、二人は温泉に向かう。介助の仲居さんに実千を預け、斉昭も一人湯に入った。

 斉昭には、温泉の他にもう一つ目的があった。というか、むしろそっちが主なのだが。

この伊賀保温泉は妙名山の東にある。山には妙名神社という神社がって、その社の裏にある滝に打たれるか、あるいはその水を飲むとどんな病気でも治ってしまうという話を聞いていた。その神社の場所と「妙名水」の効能について調べるというのが今回の一番の目的だった。妹にそのことはいっていない。

 夕食前、町を散策しているとき、土産物屋の主人に聞いていた。主人の話によると、妙名神社はこの伊賀保とは山を挟んで逆、山の西側にあるということだった。場所については斉昭もだいたいのことは知っている。問題は、そこへの行き方だった。

「そいつは無茶だ。お客さん一人の足なら半日でいくだんべけど、あの妹さんを連れてはいかれなかんべぇね。なんせ足元のわりぃ峠道を歩かなきゃなんねんだから」

 妹さんを途中でぶちゃってぐようなもんだ、やめときな。店主はそう付け加えて、呆れたように斉昭をみた。歩くほかに神社にいく手段はないという。かごを使えばいけるだろうが、妹の体にはそれでも負担が多きいに違いない。

 湯に浸かりながら、さっきの言葉を反芻した。妹を捨てていくなんて、そんなことするわけがない。いわれた瞬間顔面をさっと怒りが刷いたはずだ。その場はなにも買わずに立ち去ったが、今になって思い直せば、あの主人、言葉は悪かったがいったことに間違いはないだろう。さっき仲居にも聞いてみたが、返ってきたのは同じような答えと冷めた笑いだった。

 冴えない思いを抱えたままで温泉につかるものではない。斉昭はのぼせるすんでのところで湯を上がった。すっきりするより、逆に疲れしまったようだ。

部屋には実千が戻っていた。

「ゆっくりでしたね」

「うむ。気持ちよくてな、ついつい長湯した。少し頭がぼーっとする」

 実千は髪をすいていた。黒髪が少し湿っているようだった。頬や首筋が少し上気している。ひどく柔らかそうに。

「寒くはないか。ここは和田よりまだだいぶ寒いようだ」

 斉昭は実千の隣に腰を下ろした。大丈夫、と髪をすきながら答える妹を、兄はしみじみとみつめた。

 まだハシモトにいたころ、忙しい仕事の合間をぬって櫛をかけてくれた母に向かって、

「今日からはわたしが自分でやる」

 といったときのことを、兄は今でもはっきり覚えていた。確か十歳くらいだった妹の中で、母の手を煩わせたくないという気遣いだけでない、「女」としての自覚が芽生えていたことに気づいたのはごく最近のことだ。

 妹が櫛を使う、横で兄がその様子を黙って見つめる、いつも通りの光景。実千が櫛をしまったのをみて。

「布団に入るか。ここにきて風邪などひいてはつまらん」

 実千はうんと頷くと、兄に向かって手を出した。兄が手を引いて布団まで連れていく。妹を先に寝かせ、兄も横になった。

「おやすみなさい、兄さま」

「うむ、おやすみ」

 灯りはすでに消えている。二人が一つの布団で寝るのも、いつもと同じだった。いつもと違うことといえば、二人の横に空いた布団があるということ、これだけが違っていた。間を置かず、実千の寝息と斉昭の鼾が部屋に流れた。いつもと同じ夜だった。

帰りは当然電車で戻る。走り出してすぐ、斉昭の心に影がさした。

 ――なぜ、あんな意地悪をいってしまった。

 昨日くるとき、見晴らしのいい場所にさしかかって。

「赤木山が、遠くにみえる」

 としか伝えなかったこと。

 ――実千の目になると誓ったはずではないか。俺が自身の目を眩ませてしまえば、実千はどうなる……。

 自らの目を半分閉じたことも妹のためといえなくもない。しかし、それはやはり実千に対する、己に対する裏切りではないか。

「お、赤木の山がみえてきた。うむ、いい景色だ。青空の下、畑の緑も輝いているな」

「へぇ。畑が輝いて。なんの畑かしら」

「はてな、わからん。すまん。しかし、葉っぱの上を蜂やらなんやら小さい虫たちがたくさん飛んでいる。きっと美味しい食べ物なんだろう」

「それは、美味しそうです」

 実千が笑った。やはりこうでなくてはいかん。実千の気持ちのいい笑顔、それはそのまま斉昭の心の清清しさでもあった。電車はかたかたと、坂を降りていく。

 途中にある甘川の町で少し時間を過ごした。お昼を食べて、町をぶらぶらと歩いた。

「今日は空っ風が強いな。寒くはないか」

「ええ、だいじょぶです」

 ――わたし、歩いている、和田の町じゃない町を、歩いている。

 いつか思ったことがふっと頭に蘇った。旅をしている、家から遠く離れた他所の町を、風に吹かれて歩いているなんて。

「楽しそうだな」

 兄にいわれてしまった。内側から沸いてくる嬉しさを、実千は抑えることができない。笑顔が止まない。

「ごめんさない、兄さま。わたし、変かしら」

「変? そんなわけがあるか。笑っていることは素晴らしいことだ、少しも変なことはない。が、なぜ笑っているのか、理由が知りたい」

 兄のいうとおり、理由もなく笑っていたら、それは変だと思われても仕方がない。

「わたし、こんな風に旅をして、他所の町を歩くなんて、できると思っていなかったから。こうして兄さまと歩いていることがとても嬉しくて、つい笑顔になってしまったんです」

「ほう」

「ありがとう、兄さま」

「やめろ、照れ臭い。わたしまで笑ってしまう」

「あら、いいじゃありませんか、変なことではないのでしょう?」

 実千は思った。目がみえないということも、少しは便利なことがある。素直に色を出せるのだ、周りの「目」を気にすることなく。

 「照れ臭い」といった兄もきっと笑っているに違いない。実千の手を引く兄の掌が、力を増して、硬くなった。

 突然、実千の体が暖かいものにくるまれた。考えるまでもなく、兄の体である。理由もわかっている。実千の周りを風が巻いていた。

「これはたまらん」

 兄の声が遠くに聞こえるほどの強風だ。

「やはりまっすぐ帰るべきであったか」

 実千は黙って首を振る。兄の胸に抱かれて。兄の温もりを、強さを、確かめるように、実千は頬を兄の胸に押し付けた。

 甘川から和田へと戻る。生まれて始めての一泊旅行、初めての「二人きり」の旅は、まだ終わっていない。

 商人風の身なりをした男がいた。初老の男性と、着物を着た若い女性、大きな荷物を背負ったお婆さんに母親と男の子、五歳くらいだろうか。お婆さんは席につくと自分の体とそう大差のない大きな荷物を横に置いた。

 いつの間にか陽はすっかり傾いた。幾らか黄色身を帯びた陽光は地に建物の影を押し伸ばしている。陰と陽の狭間を電車とそこにしまわれた人間たちが駆け抜ける。決して急かされているようでなく。明と暗が明滅する。兄妹の日常と非日常が風車のようにくるくる入れ替わる。

 途中、お婆さんと親子が降りた、そして洋装の男性が乗った。斉昭にはそれが妙に納得できた。折り目のついた背広をまとい、髪の毛をピリッとかため、いい匂いを放つ男性。少々場違いかとも思えるその男性の出現は、しかし、間違ってはいない。

「明」と「暗」と、「明」と「滅」と。妹には、いったいなにがみえるだろう。

「寒くはないか?」

 兄が小さな声でいった。

「いいえ。大丈夫」

 妹が体を寄せてきた。彼女の閉じられた瞼の内側に映るもの。あるいはそれこそ、この世のの本質なのかもしれない……。

 甘川と和田のちょうど中間の辺り、電車に三人の娘が乗ってきた。

「なにか、外がにぎやかです」

「うむ。今、この近在の娘さんが三人乗ってきた。その見送りであろう」

「見送り」

「うむ」

 斉昭たちの住む和田の向こう、下中井という場所に今度官製の製糸工場ができるという。

「今度できる製糸工場に出稼ぎにいく娘たちであろう。みなそれぞれ大きな荷物を抱えている。あっちに住み込むことになるだろうからな。ここに帰ってくるのは、次は恐らく正月くらいだろう」

「お正月まで帰ってこれないの……」

 実千は言葉をしまった。出すに憚られるものを感じ取った。

「十七、八だろうか。それくらいの歳の娘でも工場にいけばこの辺りでは考えられないほど金をもらえる。仕送りしておつりがくるほどにな。次に帰ってくるときは、見違えるようにきれいなナリで帰ってくるだろう」

 みな、素朴な格好をしていた。日に焼けた顔に化粧の色などこれっぽちもない。その顔が、誰も悲しみに沈んでみえる。それは、別れの寂しさか、あるいは抜け駆けの申し訳なさか……。

「一度町での暮らしの味を知ると、田舎の生活にはなかなか戻れぬかもしれん。工場にいって体を壊して村に返されるなんて話もある。なにが幸せでなにが不幸かは、誰にもわからんさ」

 実千は、言葉にしなかったことをほっとした。「かわいそう」など、軽々にいっていい言葉ではないのだ。

 斉昭と実千が飯田の駅で降りた。すごく懐かしい瞬間だった。まる一日離れていただけなのに。それは、旅の終わり、夢の目覚めの一足だった。

 それから暫く経った五月のある日、二人の暮らす家を人が訪ねた。三次の話では、この近所に住む関根という家の夫婦だそうだ。「妙名水」の話で斉昭に話があるからと三次にいったらしい。斉昭の前には、ほっぺたに大きなイボを持った野良着のようなかっこをした男が立っていた。

「妙名神社の神水をあたしらが取ってきましょう」

 瞬間、妹の姿が浮かんだ。縁側に座り、外の世界を眺める妹の姿だった。

 二日後、飯田から妙名山へ向かう道を二人が歩いていた。五月にしては暑い日で、

「はあ夏がきちまったんか」

「梅雨もまだだっつんに」

 町の人たちがそんなことをいった。照りつける日ざしの下、陽炎に揺られながら黙々と北上して歩く夫婦の姿があった。

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