第2話
龍
おんさん山からおってきて、きっこりきっこりないている
なんといってないている、こどもがほしいとないている
こどもはおまえにゃやれないが、かわりにこいつをあげましょう
かわりになにをくれましょう
かわりにだんごをあげましょう
だんごはいらん、こどもがほしい
こどもはやらん、おまんまあげよ
おまんまいらん、こどもがほしい
こどもはやらん
こどもをくれねばおまえのおとさんくってやる、おまえのかかさんくってやる
おとさんおかさんくわれちゃこまる、さればこのこをあげましょう
さればこのこをつれていこう
さればわたしがいきましょう、おとさんおかさんさぁよーなーらー
龍雄が麦を刈っていると、どこからか子供たちの歌う声が聞こえてくる。思い出したように腰を伸ばし、詰めていた息を吐き出した。ほっかむりした手拭をほどいて流れる汗を拭きながら、みると、大麦の穂が夏の暑い陽射しに輝いていた。陽はだいぶん傾いて吾妻山の端にかかる。村にも夕闇が迫りくるが、いっこう気温が下がらない。子供たちの元気さが不思議だった。ちょっと前まで、自分もあんな風に遊んでいたのだ。麦畑に小波が立つ。遅れて、龍雄の顔を風が撫でた。そよ風が、そっと吹き抜けていった。龍雄は麦刈りに戻った。
すぐにまた顔を上げた。さっと子供たちを探す。歌は既に聞こえなかった。代わりに、なにか言い争うような声が聞こえてくる。子供たちを見つけると、龍雄は小豆やモロコシなど次の作物の芽を踏んづけないよう気を配りながら畑を出た。
子供たちが四、五人いる、その中で、頭三つ大きな子供が一人。向かって歩きながら、龍雄は一つ息を溜めた。
「こぉらぁ、またおめたちやぁ、やめねぇか!」
わぁぁぁ、子供たちが喚きながら輪を広げた。一人の大きな子供が輪の真ん中に取り残された。大きな子の喚き声は、他の子供たちの声に決して負けていない。甲高い子供たちの声と一段低い子供の声が夕闇を跳ね回った。
「おら、いい加減にしれ、ひっぱたくぞ!」
ばかいちあほいち、もうお前となんか遊んでやんねかんなぁ、遊んでやんねかんな。
「う、う、う、うるさぁい! あ、あ、遊ばないのは、こ、こ、こっちだ、ば、ばーか」
「やめろ、いっちゃん!」
「ばーかばーか、お、お、お、おめぇらなんかと、も、も、もう遊んでや、やんないかんな」
子供たちはあっという間に小さくなって夕闇に溶けた。「いっちゃん」と呼ばれた男の叫びだけが黄昏の夕闇を震わせた。
「もういった、やめろ。いっちゃん、けぇるべ」
いいながら、龍雄が大きな背中を優しく叩いた。
「うん」
いっちゃんは、素直に龍雄の後についた。
丈一郎という。坊主頭で、さほど大きくない目をいつもいっぱいに開いている。龍雄とは同い年で幼馴染だった。家の仕事ももちろん手伝うが、ときどきこうして子供たちとも遊ぶ。丈一郎は、みなより少し心の成長が遅れているようだった。
体格は龍雄よりも大きい。力もある。働くことを厭うわけではない。長いこと仕事を続けるということができなかった。我侭をいってダダをこねることもあるが、大抵、龍雄や家族の言葉にはこうして素直に従う。まるきり、大きな「子供」だ。
「喧嘩したらだめだっていつもいってんべ。もっと仲良くしなけりゃだめだ」
「だ、だって、さ、さだが、い、い、いつもおれのこと『はなたれあほいち』ってい、いじめんだもん」
龍雄が丈一の手を持って引いている。
「さだがそんなこというんか。そりゃさだがわりぃな。おらがさだにもういうなっていってやっから、あんま喧嘩したらだめだぞ、わかったか」
「うん、わかった」
稚気を多分に残す、頑是ない笑顔なのだ。
「仕事の片付けしてくるからちょっと待ってろ」
この日の仕事はもう終わり、龍雄の家族ももう帰るところだった。頭の上で雲雀が鳴いている。龍雄がちらっと上を見やった。小さな羽ばたきをみることはできなかった。刈った麦束を肩に背負い、父親に丈一郎と一緒に帰ることを告げ、畦を戻った。向こうでは、丈一郎がじっと虚空を眺めている。口をぼんやり開けっ放し。上をみたままの丈一郎がにこっと笑顔になった。
龍雄も見上げる。一生懸命に羽を動かすその姿を、龍雄も見つけた。
七月の終わりのある日、龍雄が午前中だけ農仕事をして帰るところだった。この日は農休みの一日で、大人たちは午前中だけ畑に出、子供たちは家の手伝いもしないで遊ぶ。家の近くまできたとき、龍雄はみた。しょっちゅうみるものではないが、「珍しい」とも思わない。三人の小さい子どもを見下ろすように娘が立っている。娘が背負っているのは兄の子供だろう。見下ろされている子供の他にもう一人、余りにも大きな子供が、他の子供以上に背を丸めて小さくなっていた。大きな子供は丈一郎で、娘は咲だった。咲が厳しい顔つきで子供たちに怒っていた。元がかわいいだけに、怒っている顔は取り付く島がないようにみえた。
怒られている子供の中にさだ坊がいるのをみて、龍雄の頭にあの日のことが蘇った。咲にはそのことを話してある。そのとき咲も龍雄と同じことを丈一郎にいった。嬉しかった。
――まるで夫婦のようだ。
真夏の太陽がじりじりと路傍の夏草を焼いた。焦げる音は、今の龍雄の耳までは届かない。何気なく歩み寄り咲の隣に加わった、その心地よさに思わず笑みがこぼれた。笑みは、心地よさやくすぐったさの表れではない。それは、「父親」の溢れる優しさが表れたものだった。子を背負う妻の隣で子供たちに向かう自分のその視界が、あたかも〝二十代半ばの龍雄〟のものだったことは、脳みそが煮え立つような暑さのせいだったかどうか。
蝉の声すら、聞こえやしなかった。
子供の頃から龍雄は丈一郎とよく遊んだ。「丈一郎にはあまり構うな」という大人もいた。それでも龍雄はいつも一緒だった。そして。
「たっちゃん、いっちゃん、あそぼ」
そういって混ざってくる子がいた。咲だった。三人で鬼ごっこをしたり影踏みををしたり、尻取りをしたり歌を歌ったり。関口咲の家は、龍雄の山口の家と丈一郎の山田の家の間にあった。どこそこの家に鋳掛屋がきたこうもり屋がきたと聞くと、咲は二人の腕を取ってぐんぐん引っ張っていった。ひょろっちくて頼りない龍雄は半ば戸惑い、体の大きな丈一郎はさも嬉しそうに咲の後ろを駆けた。
十か十一のころの、ある冬の日、三人で遊んでいるところにビュッと木枯らしが襲った。顔を伏せてやりすごしたが、運悪く龍雄の目に砂が入った。痛くてぼろぼろ涙を流していると。
「こっち向いて。目開けて」
龍雄はいわれた通り、咲に顔を向けて目を開けた。痛くてかなわなかったが、そのふやけた視界に、咲の顔が迫ってきた。口が開き、舌がみえた。
「とれた?」
龍雄は目を開けたり閉じたりしてみた。砂はないようだった。無言で頷いた。
「よかった」
咲のふくよかな笑顔。龍雄はなにも返せなかった。目に砂や埃が入ったとき、母親は手ぬぐいの端っこを細くよって、それをなめてそっと目に入れてごみをとってくれる。もし手ぬぐいなんかがない場合、舌でごみを取ってくれた。母親以外にそんなことをされたのは初めてだった。
龍雄の体の内側がポッと温かくなった。その温かい思いに名前をつけることができず、しまって後でほじくり返すこともしなかった。心身の成長とともに、その思いは他の感情と区別されるようだったが、やはり名前をつけたりせず、時折持ち出しては持て余した。
秋祭りのとき、咲が敦矛に声をかけられるのを少し離れたところでみていた。
「さきちゃんだ」
走り出そうとする丈一郎を、龍雄は止めた。最初になにかいったきり、敦矛の唇は動かない。そして、咲は敦矛を避けてさっさといってしまった。ほっとして、歩き出した。丈一郎を抑えた腕が緩んだ。丈一郎が小走りに駆け出した。ずんぐりとした後ろ姿が敦矛を追い越したところで咲の名前を呼んだ。振り返った咲は、いつもの笑顔だった。ぽかぽかと温かい中に、なんだか寂しいものがあった。それがなにか、龍雄に名付けることのできるはずがない。龍雄は駆けることをせず、歩く速さを上げた。敦矛の背中が近づく。流れに飛沫きを上げる岩のようだった敦矛が、今は細い小枝のようだった。その横を、難なく通り過ぎた。過ぎ様にみた敦矛の横顔が、悔しそうに笑っていた。先では丈一郎と咲たちがこっちを向いて立ち止まっていた。龍雄は歩みを緩めた。ゆっくり歩いても、そこまでつくのに幾らも時間はかからないだろう。
祭りからの帰り道。友達と別れた咲が龍雄と丈一郎の真ん中で二人の手を引っ張って歩いた。咲の手は温かかった。今まで感じていた以上に。辺りを包んだ薄闇の中で、三つの影が辛うじて浮かびあがっていた。三つの影を、闇が一つにつないでいた。
年が明けた。龍雄は丈一郎を連れて山入りをした。山の中は、汚れた雪がうっすらと林の下草を覆っていた。
小正月に使うヌルデや繭玉を指すボクを刈って帰ってきた。里までおりてきたとき、どこにいたのかさだ坊が駆けてきた。
「ばかいちあほいち、やーいやーい」
「う、うるさーい! ば、ば、ばかっていうな!」
背中に荷物をかかえているため、丈一郎はさだを追いかけることができなかった。離れずつかず、さだも二人の前をちょろちょろ走り回る。
「こら、いい加減にしねぇか! またおめぇは」
冬の陽射しはあっという間に黄色く変わり、宵が寒さとともに足元を襲う。どこかで犬が鳴いている。
「わぉー」
「わぉわぉー」
「二人ともやめろ。犬の鳴き真似なんざするもんじゃねぇ」
「なんでや」
「なんでや」
「犬が遠吠えすると人が死ぬ。そういう言い伝えがあるだんべ」
「そんなん、迷信だんべ」
「めいしんだんべ」
わぉー、わぉわぉー。龍雄に鳴き真似を止めることができない。さだのいうことまで真似をして。結局、丈一郎はさだのことが好きなのだろう。さだも決して、丈一郎を嫌いではないのだろう。
一月十五日の朝はどんと焼きだった。前の日の夕方、学校や仕事が終わった子供や男が田んぼに竹を組み、中に門松や注連飾りや麦藁などのアンコを入れた櫓を作った。東の空が明けに染まり始める頃、火がついた。
「せっかく作ったんに、もったいねぇもったいねぇ」
子供たちがいいながら火を消そうとする。さだ坊や丈一郎が木の枝でまだ小さい火を叩く。が、火は櫓に移り、じきに煙と炎を上げて大きく燃え上がった。木の枝を燃やして振り回すもの、繭玉やみかんを火であぶるもの。書初めを燃やし、燃えかすが高く上がれば上がるほど字が上手になるといわれた。
「あの一番たけぇのがおれんだべ」
「あっちのがたけぇ、あれはおれんだ」
皆の中に一年積もり積もった塵芥を、どんと焼きの炎が空高く吹き上げた。なくなりはしない。それはいずれまた、一年かけてゆっくりゆっくり村とそこに住む人々の上に降り積もっていく。昔から繰り返し、この先もずっと。
丈一郎が笑っている。丈一郎と楽しそうに話をしているのは、龍雄たちと同い年の半次郎という男の子だった。半次郎は普段無口な男で龍雄などもあまり話をしなかったが、丈一郎を遠ざけない数少ない村人の一人だった。炎がみるものの鬱憤を払い、誰にも笑顔を与えた。人々の鬱憤の量だけ、ひとしきり燃え上がり、そして白いかすとなって地面に横たわる。それ以上、誰に省みられることもない。
それから一週間もしないうちだった。さだ坊が死んだ。凍りついた鳴瀬沼で遊んでいて氷が割れ、水の中に落ちた。水から引き上げられたとき、すでに息をしていなかった。二度と息をすることはなかった。
こういうことは何年かにいっぺんあることだ。この前のときは龍雄より一つ下の男の子が死んだ。そのときより、今回は悲しかった。沼の氷がいつもより薄いという話はあった。防げる事故だった。
隣では丈一郎が声をあげて泣いていた。丈一郎の悲しみの、なんと純粋なことか。
「ごめんなさい、もう犬の鳴き真似しないから、しないから」
その言葉を聞いた瞬間、龍雄の目から涙が溢れ出た。いろんな言葉が心に浮かんでは消え、消えては浮かんだ。鳴き真似をきちんと止めるべきだった。どんと焼きのとき、ちゃんと燃やしておけば、もう一度注意しとけば、きっとこんなことには……。留まることなく消えていった。涙だけが、ただ龍雄の心を軽くした。一生、この思いを抱えていくことを龍雄は密かに覚悟した。咲も泣いていた。半次郎に、涙はなかった。いつもとあまり変わらない、少し沈んだような顔で、それが半次郎の悲しい顔なのだろう。
さだが死んだ翌日、沼には「遊ぶべからず」の立て札が立った。子供たちが沼で遊ぶ姿を、その後みることはなかった。
春がくる。暖かい春。その前に、空っ風とよばれる冷たい乾いた北風が村に吹き荒れる、春。麦穂が風に揺れる。まだお彼岸に入る前、蓑里の村から出ていくものたちがあった。お墓参りを済ませ、梅の花吹雪に見送られ、金子の停車場からひとまず和田の駅に向けて。
ちんちん電車の中には、咲たちのほかに数名の乗客がいた。商人風の男、初老の男性、若い女性は一人で買い物にでもいくのだろうか、洋装の男性はどこから乗ったのだろう、まさか温泉の帰りでもあるまいに。まだ若い男女は、伊賀保温泉に泊まってきたろうか……。
咲のことが、真正面からみれない。周りに目を向けてばかり。咲が窓から顔を出した。
――今しかねぇ。
思い切って、龍雄は包みを手渡した。
「なに?」
「か、か、鏡。咲ちゃん、毎日みるんべ」
黙って手に取った咲の少し寂しげな顔だった。
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