手鏡
カイセ マキ
第1話
春
気持ちのいい風が吹き込んできた。生まれつき体が弱い妹のためにここに移り住んで初めての春だった。
「いい匂い。これはなんの匂い?」
「これは、梅の花だ」
隣の家との間には大人の胸ほどの生垣がある。青々とした緑の垣のその向こう、隣の家の庭に、横に広く笠を張った梅の木が満開の花を咲かせていた。早春の陽に木全体が輝いている。
「へぇ、これが梅の花かぁ。いい匂い。きっときれいな姿をしているんでしょうね」
妹は目がみえない。
「うむ。白い花がたくさん咲いて、きれいに光っている。まさに満開だな」
風に、花びらが一枚二人の足元に落ちた。兄はそれを拾って妹の掌に乗せた。
「これが、はなびら……。暖かい」
「みちの着物も、今日は梅色だ」
触ってみろ、といおうかどうか迷ううちに、妹は着物の襟を小さく握った。
綺麗である、隣に咲く梅が色を失うほどに。そういう言い方を妹は好まないために、兄は言葉を慎んだのだが。苦笑いのようになって顔に浮かんでいた、まるで、妹に「叱ってくれ」というように。
「へえ、わたしは梅の花をまとっているのね」
妹は、あどけない顔に満面の笑みを浮かべた。医者の見立てでは、妹の目が治ることはまずない、という。「白い」とか「満開」とか「きれい」とか、目でみなければわかりえないことを妹に説明することに迷いを感じる時期もあった。兄の話を聞くとき、妹は常に笑顔だった。その笑顔が痛いときもあった。あるとき、妹がいった。
「兄さまのみているものを、わたしもみているの」
それから、兄は妹の目になった。自分の目でみたもの感じたことを妹に話した。妹の笑顔に、いつしか自分の笑顔も重ねていた。
――妹に、わたしも随分救われている。
妹の笑顔に接すると、兄も心が温かくなった。自分の清い心をそこにみていた。まるで。
――鏡をみているかのようだ。
兄は、妹のきれいな黒髪の頭をそっと抱いた。
「この辺りは水も空気もきれいで食べ物は滋味にあふれている。美味しい物をたくさん食べて、元気になれ。体が元気になれば、目もよくなるかもしれない」
兄は、髪を撫で下ろし肩を抱いた。細い、か弱い肩。
「うん」
笑みが小さくなった。妹の顔をみて、兄は視線を上げた。梅の木の向こう、春霞に映る山影をじっとみつめた。まだまだ上手に鳴ききれない鶯の声に、妹がまた、笑った。
芽
咲の家は西秋屋というところにあった。近くにこの地方を治める領主の城があったのだが、徳川の時代、城は隣の和田町に移った。それに合わせて城下町もそっくり和田に移り、直後、このあたりが空(秋)家だらけになったことにその名が由来するという。城跡を囲むように西秋屋、西の東には東秋屋がある。
「関口の家の咲はここいらじゃ一番の器量よし」
そんな風に近所の男どもが言い始めたのは咲が十五になる頃からだった。少女のあどけなさに、女の美しさが芽生え始めていた。
初めはまるで意識していなかった。いわれて嬉しいこともないし、浮かれるようなこともない。視線がときに不快ですらあった。
男の言葉など意識しないが、これは誰にもいっていないことだが、咲は鏡をみるのが好きだった。小さい頃から。日に焼けた黒い肌も気にならない。大きな目、高くない鼻、程よい大きさの口と唇。小さいころは丸かった顔も、そして、成長して少し細くなった輪郭も、咲は好きだった。母親がいないときや忙しく働いているとき、こっそり母の部屋に入って姿見を覗き込んだ。
咲がそんなことをしていると、母が知っていたわけではないだろうが、ある時、母が咲に手鏡をくれた。
「わたしもお母さんからもらったものだから、あんまりきれいじゃないけど」
言葉の通り、お世辞にもきれいとはいえないその手鏡は、もとはもっと明るい色をしていたんだろうなと思わせる、汚れた茶色をしていた。
「ありがと、大事にする」
いかにも年季の入ったその手鏡をもらって、咲は面に満の笑みを浮かべた。作り笑いではなく、本当に嬉しかった。
鏡を囲む部分は煤けていたり削れているところがあったりするものの、鏡面にほとんど傷はなく、母もその手鏡を大事に使っていたことがはっきりとわかった。畑で仕事をするときはもちろん、針のお師匠さんに裁縫を習いにいくときも友だちと遊んだりするときも、鏡を持って出ることはない。普段は小机の引き出しに大事にしまっていた。
鏡に映る女の子、それは本当に自分なんだろうか。自分はそんな顔、そんな姿をしているのだろうか。
鏡をみてそんな風に思うようになったのは手鏡をもらってから。
鏡は、窓だ。家の窓のように開かない、あっちの、こちらとは違う世界とつながる、入ることはできない、でも「そこ」にいる、世界。向こうにいるわたしは、ほんとにわたしなんだろうか。もしそれが「わたし」じゃなかったら……。
夜中に鏡をのぞいてはいけないと、母親にいわれていた。姿見をのぞいたことはなかった。ある夜、ふと目が覚めた。季節にしては涼しい夜だった。目を開ける寸前、まぶたの裏にみえた机の中の手鏡。振り払うことはできず、机の引き出しを開けた。部屋の中の異様な静けさも、外の虫の声もなにも気にならない。包んでいる手拭の端を躊躇いなくめくった。鏡面を伏せて置いてある。手にとって、鏡をみた。じっと、どれほど鏡の中の自分の顔をみていたろうか。
――みられている。
思った瞬間、凍りつくように背筋が伸びた。咲は、むしろゆっくりと、いつもより慎重に鏡を包んだ。静かに引き出しをしめ、布団に戻って横になった、そっと、そっと。
恐怖は朝になっても消えなかった。明るい部屋のその小机のさらに小さい引き出しから、部屋に漏れ出す。咲の、目にみえて暗い、肌に触れてまとわりつく。「あっち」の世界の空気が、部屋に少し混じっていた。咲は窓を開けた。
その後も、咲は夜中に目を覚ますたび、手鏡をのぞいた。恐怖は徐々に感じなくなった。感じなくなるくらい、部屋は、「あっちの空気」に満ちていた。
「咲がこのごろ一段と女らしくなった」
男どもは囁きあった。
その年の秋祭り、咲は夫婦行列の「婦」に選ばれた。無事に刈り入れが済んだことを感謝し、また来年の豊作を祈願するため、八幡様から町を一回りして再び八幡様に戻る。十人近い従者、行李の列を従えて、艶やかな着物をまとう咲が行列の先頭を歩いた。白粉の顔に真っ赤な紅をさし、伏目がちに、慎ましく、隣の「夫」と歩を合わせて歩いた。着付けのときにみた自分。綺麗より、恥ずかしかった。
夫婦行列で歩いた夫婦が本当の夫婦になる、そんな噂があった。事実そういうこともあったかもしれないが、咲くらいの年頃の少女にとって、それは事実以上に、おまじないのようであり、憧れのようであり、そして嫉妬ややっかみのようでもあり。
周りがそうやって囃し立てても咲はなんとも思わなかった。男というものに、他の少女よりも思いが小さいようだった。
行列が終わり、咲も化粧を落として普段の自分に戻った。鏡でその姿をみたときほっとした。同時に寂しさもあった。咲は鏡に向かって心の中で呟いた。
――またいつか、そんな私をみせてあげる。
鏡の中の黒い女の子が、はにかんだように笑った。
この年の夫婦行列の「夫」は、村長をつとめる関口の家の長男、敦矛(あつむ)だった。咲と同じ関口性であり、数世代前は本家と分家という関係だったそうだが、今ではほとんどつながりはない。
敦矛は色黒の肌とがっちりとした体格に目鼻の立った彫深く、大きな口に大きな声を持つ男だった。いつも取り巻きを二、三人従えているが、決してやくざ者ではなく、家の仕事はちゃんとこなした。「従えて」というよりはむしろ「慕われて」いた。
「咲、一緒に祭りをみないか」
近所の女子と一緒に夜店をみていた咲たちの前に男が立ち塞がった。大きな男は敦矛だった。珍しく一人のようだ。敦矛は十九歳、咲より三つ歳上である。咲を挟んで立っていた女子がまるで己が声をかけられたかのようにきゃっきゃっと笑い声を立てた。辺りは賑やかだった。八幡様に向かってずらり露店が並ぶ。もうじき境内で奉納の舞も始まる。時間に合わせて、咲たちも境内にいくつもりだった。境内に向かう人の流れに、むしろ敦矛一人が逆らっているようだった。
咲は敦矛とまっすぐ向き合った。同じ姓を持ちながら格が月とすいとんほど違う歳下の咲に対して、その視線は紛れもなく上からのものだったが、かといって組み敷くようではなく、それはまさに「夫」が「妻」に向けるそれのようだった。
咲は、敦矛をよけて歩き出した。残された二人が慌てて追いかける。
「いいの?」
「さきちゃんは、あっちゃん嫌いなの?」
咲は黙って歩き続けた。嫌いなの? 嫌いではない。でも、好きでもない。どっちかといえば、嫌いなのかもしれない。みると、なんとなく避けたくなる。今もそう。見上げて視線を合わせることさえしなかった。
好きの裏返しなのかも。
そう考えたこともある。が、そういうことではなさそうだった。やはり、嫌いなんだ。
敦矛は追ってはこなかった。
その日以来、咲にとって敦矛がかえって身近になった。なんらきっかけを得ることなく、脳みその横んところに敦矛の顔があることがあった。なにをしたいわけでも話をしたいわけでもなく、ただ顔があった。ほんのり笑っている。それを不愉快と思うこともない。道を歩いていて、目の先に敦矛の姿を認めた途端慌てて道を曲がるというようなことはなくなった。こちらから話しかけるようなことはしない。身近になったといっても、幼馴染の龍雄や丈一郎よりは全然遠い。
年が明ける。この冬が、例年よりも雪の少ない冬であろうが、それを決して追い越さないように、春はゆっくりやってくる。陽に体を起こされ、枯葉の下からフキノメが顔を出す。空に訪れる風も冬の渇きを徐々に満たし、蝦塚の梅林が遠くからでも匂い立つほど艶に装うころ。その様を、咲はしみじみとみていた。
――この景色も、もうみれない。
咲はこの村を離れることになった。蓑里から和田を抜けてその先、下中井の村に製糸工場ができ、咲は家を出て工場の寮に入ることになった。
もうみれないといったって、一生みれないということではないだろうに。咲の、膨らみ始めた胸の内は不安でいっぱいだった。
夜、ふっと目を覚ます。風が微かに家を鳴らす。布団から起きだし、小机の引き出しを開けた。きっちりと折り畳まれた布切れをそっと手にとって、開く。その中に、手鏡はない。咲は布をじんと眺めた。布切れに包まれた「鏡」のない手鏡を、咲は暫く見つめていた。赤ん坊の泣くように、外で猫が鳴いていた。
よく晴れた春の一日だった。空っ風のすこぶる強い空で、頭の上がぶんぶん音していた。
下中井までは和田駅から電車でいく。蓑里から和田の駅までは路面電車でいく。金子の停留所は、咲たちを見送る人で普段よりはるかに多く賑わっていた。昼過ぎの黄色い太陽が暖かい光を振り落とす。この日、咲とともに工場へ向かうのは富子と菊江の合わせて三人である。電車に乗った咲の手に、多くの荷物とは別に母親が作ってくれた握り飯の包みがあった。包みはまだ十分に暖かい。その温もりは、きっといつまでも続くだろう。途中お腹の中に入れてしまおうが、工場につこうが。体の中、心の中に、いつまでも残るに違いない。
電車はゆっくりと走り出す。とてもとても近く慣れ親しんだ顔はどれも涙と鼻水を垂れ流し、歪んだ顔でなにかを大声でんでいた。がんばれ、気をつけろ、いつでも帰ってこい。不明瞭な言葉を聞き、薄汚れた顔をみた途端、窓の外は「懐かしいもの」へと姿を変える。離れていく彼彼女らの中にも自分がいた。生まれ故郷との、「蓑里の咲」との別れ。不安と恐れと、寂しさと微かな希望が咲たちの瞳から流れ落ちた。むせるような嗚咽となって徐々に溶け出た。咲は着物の袖を触った。そこには、きれいに洗った紺色の手拭に大事に包んだ手鏡があった。それは、母親からもらったものとはまた別のものだった。妙名の山が、いつまでも咲たちの後をつけていった。
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