『雪の夜』
私は地面に落ちる雪を目の前で見ていた。
冷たい道路に体温がじわじわと奪われていく。
ひどく寒い。
ゆっくりと道路に広がっていく煌めきを眺めていると、それは私の血である事に気付いた。
見えるのはアスファルト、広がる煌めき、雪のため夜でもほの明るい空。
私を轢いた車や運転手の姿はない。
どうやらそのまま走り去ったようだった。
さっきまで感じていた凍えそうな寒さも、だんだんと遠くなっていくようだった。
瞬きさえ億劫になり、閉じた瞼の暗闇の中に、今までの人生が浮かんできた。
父に関する記憶は、酒のにおいと物を壊す音、怒鳴り声。
顔も思い出せないが、ただ漠然とした、しかし塊のような恐怖を私の中に残している。
母は父が消えた後も、酒や薬をやめなかった。
いや、尚のこと歯止めが効かなくなったように思う。
私にとって愛情や幸せとは、テレビ画面の向こう側にしかない、伝説やフィクションや、遠い国の戦争と同じようなものだった。
ボロボロの母と共に国からの援助金でなんとか私が働ける年齢まで生きながらえた。
私は朝から晩まで働きながら、父の残した借金を返し、母と生活していたが、半年前に母は病気で死んだ。
私はまだ眩暈がする程残っている父の借金を返しながら、小さいアパートで暮していた。
雪の降る夜。
工場での仕事の帰り道、轢き逃げにあう今までは。
私は自分の運命を呪った。
何一つ良いことも無い、苦しみだけだった人生。
一体何を憎んだらいいのかさえ分からないまま、惨めに道端で死んでいくのだ。
たったひとりで。
しかし、これでもうこれ以上苦しむことはないのだと、死を悟り思った。
かすかな安心の中、ゆっくりと意識を手放そうとする私は、その時苦しみではないものを捉えた。
それは温かく、初めての感覚であった。
誰かが呼ぶ声、誰かの体温。
目が覚めた私の周りにあったのは、ボロアパートのそれより高く、清潔そうな白い天井。
寝心地のいいベッド。
そして安堵した表情の、見知らぬ男性だった。
話によれば、私はあの時通りかかった彼に助けられた。
病院で治療を受け、一命を取り留めたらしい。
私は何度もお礼を言ったが、伏し目がちな彼は照れくさそうにしていた。
医者の話では、私の容態は一時は危ないところだったそうだ。
検査の結果、後遺症も認められず、回復も順調とのこと。
警察からの事情聴取やリハビリの病院生活。
彼は時たま様子を見に来てくれた。
彼と一緒に居る時間は、今まで生きてきて一番心地のよいものだった。
やがて私は退院した。
その日、改めてお礼もしたいからと彼を食事に誘った。
人との付き合いを避けてきた人生だったが、彼とは何故か上手く話せた。
その後も交流は続き、交際を始めるのに時間はかからなかった。
それからの生活は夢のように幸せだった。
彼と過ごす毎日は、私の幸福とは程遠いそれまでの人生を遠くへ追いやった。
彼は芸術家で、収入は芳しくないものの、私の収入と合わせてなんとか一緒に暮らせる。
お金は無いが、彼と一緒なら公園を歩くだけでも、川沿いを散歩するだけでも、夕飯の献立を考えるのも、全てが充実した時間になった。
やがて結婚し、私は幸せな家庭を手にした。
しかしそんな幸せな生活は長く続かなかった。
彼は不治の病にかかった。
ひどい苦しみを伴う、治療法がない稀有な病気。
目の前には、すっかり痩せてしまった彼が寝ている。
その表情は苦しそうだが、私にできることはたかが知れている。
彼の手を握り、私はまた運命を呪いだした。
私は幸せになれない決まりがあるのだろうか。
たとえそうだとしても、彼は関係ない。
彼が苦しむのは間違っている。
私はひたすらに、理不尽な運命を憎んだ。
雪の降る、あの日のような寒い夜だった。
私と彼だけの部屋の中に、気付くと人がいた。
私は驚かなかったことに内心で驚いたが、あまりにも自然にその存在は、そこにいた。
「あなたは誰……」
「私は、人間には様々な呼び方をされる。
天使、悪魔、はたまた神」
「一体なんの用なの……」
「その男を救ってあげる。
彼を苦しめる病を、無かったことにしてあげる。
ただし条件がある。
あなたの1番大切なものと引き換えです」
「この人を救ってくれるなら、私はなんだってする。
彼が居なければ、私の幸せな生活もなかった。
いえ、彼が居なければあの日私は死んでいた。
彼のいない人生など考えられない。
彼は私の全てです。
私には他に何も無い。
だから、私の命を差しあげます。
それで彼を救ってください」
「本当にいいんだな……」
「はい」
「よかろう。
あなたの命と引き換えに、彼の病気になる運命を変えましょう」
私は地面に落ちる雪を目の前で見ていた。
冷たい道路に体温がじわじわと奪われていく。
ひどく寒い。
私はあの日に戻っていた。
雪の積もる冷たい道路に横たわっていた。
ぼんやりとした意識の中、私は考えた。
私の命と引き換えに、ということは、つまり私がこの日彼に救われないことを意味するのだろう。
私と出会わず、彼は病気にもかからない。
あの存在は願いを叶えてくれたのだ。
しかも記憶が無くなることもなく、彼のことを思って死ねる。
あの日あのまま死ぬより遥かに幸せだ。
私はあの存在に感謝した。
幸福感の中、私は意識を手放した。
あの日、雪の降る夜。
路肩に倒れている女性を発見できたのは奇跡に近かった。
本当にたまたま、車で通りかかっただけなのだ。
車から降りて女性に駆け寄った。
幸いまだ生きていたが、危険な状態であった。
私が勤務している病院が近かったことも、不幸中の幸いであっただろう。
治療の甲斐あり、彼女は一命を取り留めた。
私が主治医となり、入院する彼女を診た。
次第に元気になっていく彼女は、明るく魅力的だった。
私たちは親しくなり、やがて彼女が退院しても交流は続いた。
交際するまでそう時間はかからなかった。
そして何年かの交際を経て、私たちは結婚した。
心機一転して家も買い、幸せな結婚生活がスタートした。
私は幸せの絶頂にいた。
しかし、それはある日唐突に終わった。
私は事故に遭ったのだ。
目が覚めると病院のベッドの上にいた。
ぼんやりした意識の中、声が聞こえた。
ベッドの傍らで、担当医が妻に話をしている。
私は当たりどころが悪く、もう長くもたないらしい。
ショックだった。
話を終えた妻は、ベッドの傍らで私の手を握り、うつむいていた。
悲しんでくれているのだろう。
妻が私を思う気持ちが伝わってきた。
すると、やがてどこからともなく声がした。
声は、妻に私を救えると言った。
しかし、それは妻の大切なものと引き換えであるとも。
妻は今の自分があるのは私のおかげであると言った。
そして、自分の大切なもの、つまり自分の命を差し出すと言い出したのだ。
私は止めようと、声をかけようとしたが、事故による怪我のためか声が出せない。
私のために妻が犠牲になることはない。
しかしまた、妻の私への愛を感じ嬉しかった。
声が聞こえる。
「本当にいいんだな……」
「いつも通りの答えよ。
はい」
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