『原稿用紙』

頬の下で、原稿用紙が音をたてた。

頭をあげると、既に部屋は真っ暗だった。

原稿とにらめっこしているうちに、机に伏して寝てしまったようだ。

今は何時だろうか。

机上の置時計に目をやると、時計が狂っていた。

それはまさしく狂っていた。

見慣れた置時計そのものだが、その時計の針が増えていた。

長針、短針、秒針が何十本にもなり、ひしめき合いながらバラバラに時を刻んでいる。

その時計が時を刻む音は渦のように反響し、不快な圧力をもって響き渡っていた。

その異様は、私の寝惚けた頭をただちに覚醒させ、心臓に嫌な脈を打たせた。

部屋が暗い。

部屋が暗いのだ。

部屋が暗いと思ったのは、起きた時の視界が暗かったからだ。

しかし、部屋は暗くなかった。

部屋は無く、机の向こうは、何も無かった。

よく見ても、それは夜ではなく、闇ですら無いようだった。

私は身動きひとつできなかった。

異様としか言えない光景に、身体の動きが止まった。

同時に、取り巻く環境を理解しようと、あらゆる感覚が鋭くなるのを感じた。

耳の奥が鋭く鳴りだした。

何も無い空間で自分を支えている椅子。

心もとない気持ちで座面を強く握った。

鋭くなった平衡感覚は、椅子の細かな揺れを感じ取った。

それは今まで感じたことのない不気味な感覚。

床を見ると、そこにはやはり何も無かった。

ただ、椅子の足先は何も無い空間に伸び、見えなくなっていた。

地面から高い位置にあるからなのか、椅子は私を支えながら、小さく揺れているように思えた。

夢ではないことが、現実では直感的に理解できる。

それが初めて分かった。

地面が見えないほど高い位置で、1辺たった数十センチの座面に支えられている姿を想像してしまい、吐き気を催した。

身動きなどとれない。

椅子が揺れることから、地面、地面などあればの話だが、椅子は固定されていないことが感覚で分かる。

それはきっと机も同様だろう。

確かめる気にはなれない。

どこにも体重を掛けられず、ただ息を殺すことに専念した。

この手足が冷たくなって、胃の酸が口に届いてくる不快感。

こんなものは夢であるはずがないのだ。

鋭くなった感覚は、狂った時計の音を顕微鏡で拡大するように、頭に響かせた。

音なんてそれだけだ。

風のようなものも無い。

明かりも無い。

机の原稿用紙。

何か書いてあるように見えた。

自分の置かれている状況に気付いてから、机に触れることすら出来なくなっていた。

原稿用紙。

それを覗くために、ほんの少しだけ体重を移動させなくてはならない。

ゆっくりと、首を。

原稿用紙に見える。

短い文章だった。

それで全て分かった。

居眠りから跳ね起きると、自分が寝ていたんだと瞬間的に悟る。

そうなったんだ。

そうなっただけで、幸せだと思った。

見回すと、確かに部屋があった。

見慣れた、安心できる自室があった。

私はひとつ、思い切り伸びをすると、今の夢を思い出し始めた。

確か、時計が狂っていることに気が付いた。

それからだった。

喉の乾きがあり、立ち上がったために、立ち上がり損ねた。

私は何も無い空間に落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る