『落ち込む侵入者』


庭に誰かいる。

俺が気に入っているベンチに勝手に座っているのだ。

俺の家の敷地は広いので、たまに迷い込む奴がいるが、ここは俺の庭だ。

不届き者に一喝してやらなければ。

そう思って近付くと、そいつは肩を丸めて項垂れていた。

ひどく落ち込んでいるようだ。

なんて情けない姿だろうか。

俺が何か言わなくても、既に世界中から怒られ、けなされ、バカにされてきたような雰囲気がある。

だけどもここは俺の家の敷地だ。

一言声をかけてみるが、奴は気付かないようだ。

空は青く澄んでいるのに、そいつときたら雨に打たれる捨て犬のような哀れさを纏っている。

こちらまで辛気臭い気持ちになってきた。

俺の敷地だが、他に悪さをするような気も感じない。

しばらく休ませておいてやることにした。


家の中で昼寝から目覚めた俺は、辛気臭いあいつを思い出した。

どうなったかと窓から庭を見てみると、果たして奴はまだそこにいた。

それも、また一段と落ち込んでいた。

頭を垂れるなんてものではない。

座っているベンチの下を覗き込んでいるのかと思った。

よく聞くと低く唸っている。

世界中の厄介事を全部押し付けられたような、どうしようもない声だ。

勝手に俺の庭で世界に押しつぶされないでほしい。

そのまま頭から土に潜っていって埋まってしまい、やがて芽が出て奇妙な木でも生えたら困るので、俺は意を決して再び奴の様子を見に行くことにした。


奴は頭を抱えて丸くなっていた。

その姿は頭を守っているようでもあり、爆弾を押し付けられたがどこにも棄てる勇気がなく、途方に暮れているようでもあった。

だが、いい加減にお引き取り願いたい。

このまま陰気な雰囲気を撒かれると、それが俺の快適な暮らしにまでシミのように侵食してくる気がした。


再び奴に声をかける。

今度は少し大きめに。

だが、またも奴には聞こえなかったようだ。

あの低い唸り声で遮られたようだ。

この声に比べたら地獄の責め苦を受ける者でもまだ陽気な声を出すだろう。

仕方ない、実力行使にうつるしかない。

俺は意を決して奴の足に軽くパンチした。


すると、ついに奴は俺に気付いた。

ゆっくりと顔を上げ、俺を見た。

奴の表情は膨らまされたままゆっくり萎んでいった風船のように哀れさが漂っていた。

腐った魚でももう少し活きがいいだろう。

しかし奴はまたゆっくりと地面に潜ろうと頭を垂れ始めたので、もう一度足をパンチしてみた。

それでも奴は地面に狙いを定めたままなので、俺はついに諦めることにした。


俺は家でのんびり過ごし、夜になった。

もう寝ようと思ったとき、奴のことを思い出した。

俺はおそるおそる窓から庭を覗いてみた。

月明かりに照らされるベンチには、なんと誰もいなかった。

俺は開放感から小躍りしたくなったが、ふと奴がついに土に埋まってしまったのかと思い至り、急いで庭に飛び出した。

ベンチの周りを見てみたが、奴が埋まった形跡はなかった。

俺は月明かりの下で小躍りした。


次の日、俺は気持ちのいい朝の中で目覚めた。

小鳥の囀りを聞きながら窓を開けようとすると、俺のお気に入りのベンチと、二度と見たくなかったあの丸い背中が視界に入った。

俺は頭を抱えて天を仰いだ。

奴は今日も落ち込みに落ち込み、落ち込んだまま朽ちて塵になり、風になって消えてゆくかと思われたが、一日中落ち込み、暗くなると消えていた。


そんなことが何日か続いた。

俺は半ば諦めかけたが、お気に入りのベンチと平穏な生活を取り戻すために何度か抗議したり、パンチやキックを繰り返した。

しかし奴は落ち込みから産まれ、落胆を吸って育ち、失望に向かって生きるかのように、ひたむきに後ろ向きに真っ直ぐに丸くなって一心不乱に落ち込んだ。


そしてある日、ぱったりと現れなくなった。

あれは幻だったのだろうか。

それとも俺が悪い白昼夢を見続けたのだろうか。

失望を全うし、土に還ったのだろうか。

俺は狐につままれたような気持ちで、ベンチの周りで小躍りした。


私はふと思い出して立ち止まり、いつかよく通った雑木林を見つめた。

少し前に厄介事が重なり、途方に暮れてかなり落ち込んだ時期があったのだ。

そんなある日、頭を抱えながら散歩していると、この雑木林に迷い込んだ。

歩き回り、気付くと目の前に古びた家屋があった

中は荒れ放題で、もちろん人の気配はない。

その庭先にはこれまた古いベンチがあり、そこに腰掛けさせてもらってしばし休むことにした。

そのベンチには不思議な居心地の良さがあり、時間を忘れて考えに耽ることも、頭を空にしてリラックスすることもできた。

そんなことを毎日続けていた。

そして、そんな私を時たま黒い猫が訪ねてくるのだ。

廃屋を根城にしているのだろうか。

落ち込む私に、一言声をかけてくれたり、

励ますようにそっと足を叩いたりしてくれた。

あの優しい場所と黒猫に、当時の私はどれ程救われたことだろう。

そうしていつしか私は心の整理がつき、前向きに人生に取り組めるようになった。

そして生活も徐々に落ち着きを取り戻し、今では平穏に暮らしている。

あれからあの場所には行っていなかった。

ふとあの場所が恋しくなり、私は雑木林に足を踏み入れた。

あの黒猫にもお礼を言いたい。

しかし歩いても歩いても、あのベンチにも廃墟にも出会えることはなく、ついに雑木林を抜けてしまった。

あの優しい場所は私の見た幻だったのだろうか。

ふと風が吹き、私の足を軽く叩く、あの優しい感触が蘇った。

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