第5章 女当主 50
外に出ると、湖水から立ちのぼる冷気は肺をさすようだった。シェリーは凍える体を奮い立たせて馬に乗ると、振り返らず一気に走りだした。
シェリーが赤いマントをひるがえし、走り去る姿をレオナルドは窓から見つめていた。
彼女は、決して戻ってこない人だとわかっている……
*
雪がまた降り始めていた。
いよいよ寒さが厳しくなると、シェリーは思った。
今度こそ本当に終わったのだ。もう二度と逢うことはかなわない。
もう一度逢って、あんなふうに愛し合ったら別れられなくなるかもしれない。理性を失って恋に溺れるのがが怖い。
ドリスは、レオナルドとの間にあったことに気がついている。ドリスは言いたかったのだろうか。どんなことをしても、レオナルドにはそれなりの高貴な人がふさわしいと。
誰もがそう思うだろう。しょせんレオナルドの愛は戯れにすぎない。もて遊ばれるのがおちだ。付き合う女はそれをわかっていてレオナルドと愛し合う。本気になるのは、愚かなことなのだ。
わかっていたはずなのに……
なのに、胸の奥深くから血がひたたり落ちるような痛みを感じる。
レオナルドはもうすぐ妻を迎える。相手は国王陛下の姪だ。国中から祝福を受ける。
今後、レオナルドと妻が一緒にいる姿を見かけたらどうすればいいのだろうか。その場で苦しんでいるだろう自分の姿を想像すると、さらに辛い。
シェリーは顔を上げた。
もうやめよう。しょせん生きている世界が違いすぎたのだ。私にはやらなくてはならないことが山のようにある。私には守らなくてはならない家族と使用人がいる。
これからが正念場だ。
この雪がやんだら、春の作付けについて具体的に着手する必要がある。やはり借金をする必要があるだろう。銀行がうまく融資してくれればいいのだが。
シェリーはレオナルドを失った痛みをかかえながらも、事務所でアシュビー家の財務について考えこんでいた。
突然、扉が強くノックされて、エディが入ってきた。
「シェリー様、大変なことになりました」
エディの表情は尋常ではなかった。
「どうかしたの?エディ」シェリーは嫌な予感がした。
エディが声を上げた。
「ガーランド商会が不渡り手形を出して、そのまま行方をくらましてしまいました」
シェリーは金づちでたたかれたような衝撃を受けた。
「そんな、まさか……」シェリーの声は震えていた。
椅子から立ち上がったが、めまいがして倒れそうになった。慌てて机に手を置き、体をささえた。
ガーランド商会には、シェリーが当主になってから、アシュビー家のワインの販売のほとんどを任せてあった。
「これまで納品したワインと、その売り上げは?」
シェリーは意識が遠のきそうなのを、なんとかこらえてエディに訊いた。
「持ち逃げされてしまいました。ガーランド商会へ行ってみたら、もぬけの殻でした」
エディはかすんだ幽霊のように茫然としている。
シェリーは立っているのが精一杯だ。
涙さえ出てこない。ただでさえ資金繰りに困っているのに、半年間の売り上げが消えてしまっていた。
もはや考える力も湧いてこない。
「わかった」とだけシェリーは言った。
なんてことだろう。こんなにも簡単に騙されてしまうなんて、甘く見られたのだ。情けない。
シェリーはエリザベスの部屋に入り、ベッドのかたわらに座った。エリザベスは静かに眠っている。その顔を見て、シェリーは涙がこみ上げてきた。
エリザベスが目を開けた。
「シェリー…… どうしたの?」
シェリーは涙をぬぐった。
「なんでもないわ。なんとなく…… 涙が出てきてしまったの」
エリザベスは目を半開きにして、悲しそうな顔をした。
「苦労しているのね」
シェリーは首を強く振った。
「大丈夫、心配しないで」
シェリーはエリザベスの額に手をのせて言った。
「アシュビー家は私が守る。絶対に」
シェリーは部屋を出ると決意した。
エリザベスには相談はできない。今のエリザベスの状態からして、余計な心配をかけるわけにはいかない。
恋にうつつをぬかしている暇はないのだ。
この問題はシェリーひとりで解決していくしかない。もう、泣かない。
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