第6話
確かに、名字呼びよりもそっちの方が親近感は湧くかもしれない。
「じゃあ呼んでみて?」
厚彦に言われて梓は「嫌だよ。言いだしっぺからどうぞ」と、言い返した。
正直、男子を下の名前で呼んだことはほとんどない。
名字か、あだ名ばかりだ。
「いいよ。梓」
スラリと言ってのけた厚彦に思わずうつむく梓。
(しまった。下の名前で呼ばれたこともほとんどないんだった)
「顔、真っ赤だけどどうかした?」
厚彦は本気で心配している。
「別に平気」
「じゃあ、次は梓の番」
一度下の名前で呼んでしまったから、もう緊張も消えたのだろう。
厚彦は自然と呼び捨てにしていた。
「えっと……あ、あ、厚彦」
緊張でジットリと手のひらに汗がにじむ。
厚彦の顔を正面から見ることもできずに、ずっとうつむいていた。
「うん。いい感じだな!」
厚彦はニコニコと満足そうに笑っている。
梓は内心ホッと息を吐きだした。
やけに緊張していたことはバレていないようだ。
「で、どうるすつもり?」
梓は気を取り直して厚彦へ聞いた。
「うん。このまま離れられないんじゃちょっと困るもんな。トイレとか、お風呂とか」
厚彦に言われて梓は「あっ」と呟いた。
そうだった。
人に見られたくない場面は沢山ある。
それをすっかり忘れていたのだ。
その上今日は起きてからまだトイレに行っていない。
厚彦がトイレと口走ったことで、急に尿意を感じた。
「ん? 急にモジモジしはじめて、どうしたんだ?」
首をかしげて聞く厚彦。
梓の顔はまた赤く染まり始めていた。
「本当にどうしたんだよ? まさか体調がよくないのか?」
厚彦は心配して梓の額に手を当てる。
ヒヤリとした感触。
それは生きた人間の体温ではなかった。
ハッと息を飲んで身を離す。
「あ、ごめん。つい……」
触れられたことが嫌だったのだと解釈した厚彦が咄嗟に謝る。
「ううん、平気。それより、トイレに行きたくなっちゃった」
梓は一瞬感じた恐怖感をごまかすために言った。
「あ、そっか。それならとりあえず移動しようか」
そう言って2人で部屋を出る。
廊下を歩く時も、階段を降りる時も厚彦は梓の隣にピッタリとくっついている。
狭い空間でも、厚彦の体は梓の体を通り抜けるから平気だった。
(これって体半分が幽霊に被ってる状態なんだよね……)
階段を下りながら、厚彦がいる右側だけスッと寒くなるのを感じていた。
そういえば、昨日厚彦がベッドの下にいたときも冷気を感じたのだと思いだした。
「この辺で待ってて」
梓は階段を下ったところで厚彦へ言った。
この辺にいればトイレの音を聞かれる心配もない。
「わかった」
厚彦は頷き、立ち止まる。
しかし、梓がトイレまで移動したとき、厚彦がすぐ目の前に現れた。
「キャア!?」
「ご、ごめん!」
突然現れた厚彦に、梓はまた尻もちをついてしまった。
「驚かさないでよ」
「そんなつもりじゃなかったんだ。梓が離れた直後にふっと意識が遠のいた気がして、気がついたらすぐそばに立ってたんだよ」
厚彦は困った顔で説明した。
どうやら嘘はついていないみたいだ。
「ってことは、階段からトイレまでの距離を離れるとダメってことか……」
梓は顎に手を当てて呟く。
その距離は約4メートル。
トイレのドアを隔てるくらいの距離なら離れても大丈夫だということだ。
「できるだけ離れて待ってて」
梓は厚彦へ向けてそう言うと、トイレに入ったのだった。
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