Ⅳ.かなどん ⑦



「お二人とも、こっちです。」


久々に栗ご飯を味わった日から五日が経過した、曇り空の月曜日の午前中。俺は一ノ瀬家が入っているアパートの前で車から降りつつ、少し離れた位置に立っているモノクロシスターズの二人に呼びかけていた。車が違う所為で俺だと分からなかったらしい。二人ともびっくりしちゃっているな。


「わ、駒場さんだったんですか? 車、大っきくなってます!」


「おはようございます、駒場さん。……その車はどうしたんですか?」


「新車です。『新車』というか中古車なんですが、昨日やっと納車されまして。軽自動車はリース会社に返却したので、今日からはこの車で送迎することになります。」


投げかけた返答に二人ともきょとんとしているわけだが……つまりまあ、俺の背後にあるのは中古車展示会で出会った白いランドスター220なのだ。一目惚れした中古車を買っちゃったのである。短大の学費の合計よりも高かったので、人生で一番大きな買い物になったな。


あの日にディーラーとの契約を済ませて、二週間かけて諸々の申請や手続きを処理していき、奇しくも俺の誕生日であった昨日ようやく納車と相成ったわけだけど……車検が残っていたのは意外だったぞ。三年落ちだから車検切れのタイミングで売ったのだとばかり思っていたのだが、まさかの車検更新直後の売却だったらしい。二十二万キロという常識外れの走行距離といい、前の持ち主は余程の変わり者なようだ。


とはいえ、メンテナンスはきちんとやっていたらしい。昨日嬉しくて首都高で軽くドライブをしてみたのだが、これといった異常は見受けられなかったぞ。ユーザー車検なのがやや不安だし、まだ乗り始めなので何とも言い切れないけど、少なくとも現時点では良い買い物をしたという心境かな。


それにまあ、次に名古屋に行った時に豊田さんに詳しく診てもらう予定でいる。たった三年で走行距離二十二万キロはかなり珍しいということで、タダでやる代わりに点検シーンを動画にさせて欲しいとお願いされたのだ。プロに無料で診てもらえる上に動画のネタにもなるとなれば、こっちとしては願ったり叶ったりだぞ。正しく役得だな。


色々とラッキーが続いていることに笑みを浮かべていると、朝希さんが小さめのボストンバッグを持ち直しながら口を開く。


「強そうでカッコいいです! これなら他の車とぶつかっても勝てますね。」


「まあ、そうですね。オフロードもいける車なので、前の軽自動車よりは頑丈だと思います。……結局『お揃い案』は却下になりましたか。」


ぶつかったらその時点で負けだぞ。ゴールド免許的に。朝希さんの素っ頓狂な感想に苦笑しつつ話題を変えてみれば、彼女は唇を尖らせて返事をしてきた。持っているバッグを示しながらだ。


「私はそっちが良かったんですけど、小夜ちが違いを際立たせるべきだって言うんです。写真屋さんで着替えられるかもしれないと思って、一応お揃いバージョンの服も持ってきました。」


まあうん、全然違った服装の方がモノクロシスターズっぽいかもしれないな。ひょっとすると今日撮る写真は長く使うことになるかもしれないし、彼女たちらしい格好が一番だろう。小夜さんの選択はそんなに間違っていないと思うぞ。


要するに今日は、夏目さんとモノクロシスターズの二人を連れて美容室と写真スタジオに行く予定なのだ。当然ながら先に美容室に向かい、そこで髪を『完成』させた状態でアーティスト写真を撮ってもらうという計画なのだが……そうなるともう、夜までかかりそうだな。


二人を迎えに来た現在の時刻が十一時ちょっと過ぎで、港区の美容室に着くのが十二時頃。そこで全員軽くカットしてカラーを入れて、朝希さんはちょこっとだけパーマもかけるらしいから……長めに見積もって二時間半から三時間ってところか? もっとかかるかな?


ちなみに毛先のパーマだけであれば、同時施術が可能なことは確認済みだ。それぞれに美容師さんが付いてくれるようだから、まさか四時間だの五時間だのという展開にはならないはずだけど……インナーカラーにかかる時間なんてさっぱり分からんぞ。そこは少しだけ不安だし、美容室に着いたら改めて聞いてみよう。


その後遅めの食事をして、俺の知り合いのカメラマンにアーティスト写真を撮ってもらうわけなのだが……あの人もあの人で凝り性なんだよな。だからこそ良い写真が撮れるんだろうし、雑誌の撮影ほどにはかからないはずだけど、念のため各々一時間ずつの二時間は見ておくべきだろう。となるとどうしたって全てが終わるのは日が落ちた後だ。気合を入れて臨まなければ。


脳内でスケジュールの再確認をしている俺を他所に、薄いグレーのブラウスに黒いロングスカート姿の小夜さんが声を上げる。襟元のリボンは黒で、ロングスカートのフリルは白だ。自分たちのテーマであるモノトーンを意識した服装らしい。落ち着いた雰囲気があってよく似合っているぞ。


「あんたがスカートは嫌って言ったんじゃない。そして私はパンツが嫌なの。だったらこうするしかないでしょ。」


「私はもうスカート殆ど穿かないけど、小夜ちはたまにジーンズとか穿くじゃん。合わせてくれてもいいのに。」


「嫌よ。折角綺麗に撮ってもらえるなら、自分が一番好きな格好で写りたいもの。……大体ね、お姉ちゃんもこっちの方が私たちらしくて可愛いって言ってくれたでしょ? つまりこれがベストなのよ。分かったらお揃いバージョンは諦めなさい、ぽんこつ朝希。」


「うー、お揃いも可愛いのに。」


そして朝希さんは丈が長めの黒い長袖のパーカーと、パーカーの裾で半分隠れているグレーのハーフパンツ、パンツと近い色のキャップという格好だ。パッと見だと小夜さんの服と上下の色合いが逆転している感じだが、よく見れば同じグレーや黒でも微妙に異なっているな。拘りが伝わってくるぞ。


それに朝希さんの服はファスナーのスライダーやキャップに付いているアクセサリー、スニーカーの靴紐やソールなどの細かい箇所がカラフルだ。そういう部分に動的な性格がちゃんと表れているし、二人ともイメージにぴったりの服装だと思うぞ。良いアーティスト写真が撮れそうだな。


モノクロシスターズの服のセンスに感心していると、渋い面持ちになっていた朝希さんがパッと顔を上げて車に近付いていく。


「まあ、とにかく行こっか。両方撮ってもらって、後で選べばいいわけでしょ? それよりそれより、早く新しい車に乗ってみようよ。駒場さん、私助手席……あれ?」


くるりと機嫌を回復させた朝希さんが、いつものように助手席に乗り込もうとするものの……残念ながら、そこには先客が居るのだ。ここに来る前に夏目さんを拾いに彼女のマンションに寄った際、何故か姉と一緒に現れた叶さんが。


窓越しの助手席に居る『知らない女の子』を見て目を瞬かせている朝希さんに、ポリポリと首筋を掻きながら説明を送った。


「その人は夏目さんの妹の叶さんです。何でも今日一日の撮影を手伝うために、わざわざ学校を休んで同行してくれるようでして。」


「この子がさくどんさんの妹さんなんですか? 私たちと同じ学年の? ……初めまして、一ノ瀬朝希です!」


俺の言葉を耳にして薄いグレーの瞳をキラキラさせた朝希さんは、ばっちり閉まっている窓越しに叶さんへと挨拶をしているが……そういうことは乗ってからやるべきだぞ。このままだと話し難いだろうに。


小夜さんもそう判断したようで、ぺちりと朝希さんの頭を叩いてから後部座席のドアを開く。


「あんたね、先ず乗りなさい。変なことしてると変な子だと思われるわよ。……おはようございます、さくどんさん。それと初めまして、さくどんさんの妹さん。一ノ瀬小夜です。」


「あっ、待って。私ももう一回……初めまして、一ノ瀬朝希です! よろしくお願いします! さくどんさんもおはようございます!」


「おはようございます、小夜ちゃん、朝希ちゃん。」


「二人とも初めまして、夏目叶です。いつも姉がお世話になってます。」


車内の挨拶合戦を尻目に俺も運転席に乗り込んでみれば、叶さんが猫を被った状態で話しているのが視界に映る。……ちょびっとだけ不吉だな。彼女はどうしてついて来たんだろう? 当人は『カメラ役です』と主張していたし、夏目さんのこともそういう方向で丸め込んだらしいけど、俺は嫌な予感がしてならないぞ。


「撮影の邪魔にならないように気を付けるので、私のことは気にしないでください。家で姉の撮影を手伝うために、カメラの動かし方を駒場さんに教えてもらう予定なんです。」


「なるほど。……ちなみに、私たちと同じ学年なんですよね?」


「はい、十四歳の中学二年生です。モノクロシスターズさんたちの動画はいつも見ています。私は姉と違ってゲームが結構好きなので。」


「嬉しいです! どのシリーズが好きですか? LoD? BG3? WoT? それとも最近始めたマイクラ?」


小夜さんの質問に答えた叶さんに、朝希さんが勢いよく問いを連発しているが……彼女は思わぬ形で夏目さんの妹に会えてテンションが上がっているのだろう。夏頃に存在を知って以降、ずっと会いたいと言っていたもんな。満開ヒマワリモードだ。


しかし、誰もランドスターには大きな興味を示してくれないな。夏目さんも叶さんも『そっか、買ったんだ』という程度の薄い反応だったし、小夜さんもそんなに関心がなさそうだし、唯一気にしてくれていた朝希さんは今や車のことなど眼中にない様子だ。普通に悲しいぞ。やはりそういった話は深雪さんや豊田さんとすべきらしい。紹介したい機能が色々あるのに。


「選ぶとすればLoDの実況動画が好きですね。『エンジョイ勢』ですけど、私もやっているので。」


「なら、今度一緒にやりたいです!」


「やめなさい、朝希。ぐいぐい行くと迷惑でしょ。……さくどんさんはやっぱりパーカーなんですね。それで撮るんですか?」


「あっ、はい。『さくどん』はパーカーのイメージが強いみたいですし、私の場合はおめかししても逆に変になっちゃうかなと思いまして。白とグレーと黒と赤のを持ってきたので、色んなバージョンを撮ってみる予定です。」


賑やかな会話が響く車内で微妙な気分になりつつ、サイドブレーキとシフトレバーを操作して車を発進させた。……深雪さんの車を運転させてもらった時にも思ったことだが、マニュアル車の運転ってのは身体が覚えているものなんだな。自転車の乗り方と同じでそうそう忘れたりはしないらしい。坂道発進だけはちょっと不安だけど。


エンストさせたら驚かせちゃうだろうし、危なそうだと思ったら意地を張らずにサイドブレーキを使おうと心に決めていると、服装の話に移った後部座席の三人を背に叶さんが話しかけてくる。


「コンビニに寄るんですよね?」


「ええ、寄ります。美容室に時間がかかるはずですから、車中でパパッと食べられる物を買ってしまいましょう。……寒いならエアコンをつけても大丈夫ですよ?」


本日の叶さんは薄めの赤いダウンジャケットに姉とお揃いのスキニージーンズという格好なのだが、車に乗り込んだ時からずっとファスナーを顎のすぐ下まで……つまり、マックスまで上げているのだ。俺はまあまあ過ごし易い気温に感じているけど、もしかすると彼女は寒がりな体質なのかもしれない。


そんなわけで気を使って言ってみれば、叶さんは薄く笑いながら顔を寄せて囁きかけてきた。


「優しいですね、駒場さんは。そういうところが好きですよ。」


「……からかわないでください。」


「あれ、嘘だってバレちゃいました? そうです、本当は嫌いです。いちいち気遣ってきて鬱陶しいなと思ってます。」


「……すみません。」


一瞬にして百八十度発言を変えた叶さんは、俺が謝ったのを聞くとクスクス微笑んで座り直す。相変わらずよく分からない子だが、何となくいつもより機嫌が良さそうに見えるな。そこもまた不吉だぞ。


「落ち込まないでくださいよ、それも嘘ですから。別に寒いわけじゃないので、気にしないでください。お姉は寒さに弱くて暑さに強いですけど、私は正反対の体質なんです。……これは本当ですよ?」


「……分かりました。」


実際のところどれが嘘でどれが本当なのかは定かではないけど、とりあえず『好き』は虚偽だと判断して間違いないだろう。そして『嫌い』に関しては……まあ、嘘であって欲しいって感じかな。否定し切れないあたりが恐ろしいぞ。


ともあれ、今日一日の課題に『叶さんの相手』という項目も付け足しておいた方が良さそうだ。今の会話は後部座席まで届かない声量にしていたし、夏目さんとモノクロシスターズが居る前で派手なことをするつもりはないようだけど、警戒だけはきちんとしておかなければ。


───


その後コンビニに寄って菓子パンなどを買い、それを食べつつ美容室に到着した俺たちは、店の前での撮影を終えてカメラを回しながら入店していた。こっちの動画をモノクロシスターズのチャンネルで上げて、写真撮影の様子をさくどんチャンネルで上げる予定だ。この店で撮影できるのはモノクロシスターズのお陰なので、夏目さんが『メインディッシュ』を譲ったって形だな。


「おー、お洒落な感じの店内です。広いし、新しいし、何か良い匂いがします。」


「全体的に空間が……あの、あれね。落ち着いてるわね。天井も高いし、くるくる回ってるプロペラみたいなのもあるわ。」


「わー、良いですね。特にこれ、これが私的にはグッと来ます。美容院ってよく、席が窓際にあるじゃないですか。もちろん人によるとは思うんですけど、私は外から丸見えの席だとちょっと恥ずかしくて。……その点ほら、このお店は絶妙に見えなくなってます。席と席との間もちゃんと区切られてますし、プライベートな空間でリラックスできるのは嬉しいですね。」


うーむ、力量の差がはっきり出てしまっているぞ。朝希さんと小夜さんは若干ふわっとした感想だけど、夏目さんは実用的な部分に着目した具体的なコメントをしているな。立ち回りもしっかりとカメラを意識しているし、やはりこういう動画だと一枚上手なようだ。


ビデオカメラを構えながら黙考していると、奥の方で待機していた店長さんらしき人物が歩み寄ってくる。中々ファンキーな髪型の中肉中背の女性だ。モノクロシスターズのお姉さんの高校の同級生だそうなので、三十手前ということになるな。にしてはやけに若々しく見えるが。エネルギッシュな雰囲気がそう思わせるのかもしれない。


「こんにちは、店長の吉岡です。いらっしゃいませ。」


「こんにちは、吉岡さん!」


「あっ、こんにちは。……えーっと、今日はよろしくお願いします。」


「こちらこそよろしくお願いします。……いやー、二人とも大きくなったね。私のこと、覚えてる? 覚えてないか。二人が二歳だか三歳だった頃、何回か会ったことあるんだけど。」


おっと、フレンドリーだな。『親戚の人』の口調で話しかけてきた吉岡さんに、朝希さんがびっくりしている表情で返答した。


「そうなんですか?」


「家に遊びに行くと、あかりが……あっと、本名はダメか。ごめんごめん。二人のお姉ちゃんが毎回のように妹自慢をしてきてたのよ。あの頃も無茶苦茶可愛かったけど、今も尋常じゃなく可愛いね。」


「ありがとうございます!」


「どういたしまして。それにさくどんさんもようこそ。……うわー、本物だ。お客さんとの雑談でたまに話題になりますよ。シャンプーのレビュー動画とか、私も参考にしてますしね。日本だと珍しいやつも扱ってくれるので助かってます。」


いやはや、『店長クラス』の美容師というのは凄いな。一瞬にして距離を縮めてきたぞ。やっぱり話術も重要なのかなと感心している俺を他所に、夏目さんが慌てて応答を返す。


「それはその、嬉しいです。カラーは初めてなので、今日はよろしくお願いします。」


「綺麗な髪だからちょーっと勿体無いけど、傷まないように丁寧に染めるので安心してください。さあさあ、どうぞこちらへ。三人並んだ席の方が撮り易いかなと思って、準備しておきましたから。」


わざわざ仕切りを動かして、並べる席を用意してくれたようだ。そこに三人が近付いていく光景を撮っていると、夏目さんが振り返って声をかけてくる。


「駒場さん、鏡の前に三脚を……じゃないですね。すみません、さくどんチャンネルの動画じゃないのに出しゃばりました。」


「いえ、それで大丈夫です。駒場さん、三脚お願いします。」


「分かりました。」


いつもの癖で指示を出してしまったらしい夏目さんが謝るのに、手を振って『気にしないでください』のジェスチャーをしつつ言ってきた小夜さんへと、一つ首肯してから三脚の設置を始めた。小さめの三脚だし、これなら鏡の前の机に置けるはずだ。……ここは編集で切るだろうから、店長さんに改めて挨拶をしておくか。


「吉岡さん、少しよろしいでしょうか? ……改めまして、マネージャーの駒場です。本日はよろしくお願いいたします。お休みの日に押し掛けてしまって申し訳ございません。」


「どうもどうも、吉岡です。いや、こっちとしては大助かりですよ。かなり無理して店を開いちゃったので、この半年である程度結果を出さないと私は人生バッドエンドでして。宣伝はやれればやれるほど良いですし、動画にしてもらえるのは万々歳なんです。」


『人生バッドエンド』の部分がそこそこ本気の声色だったな。予想通り色々とギャンブルな出店の仕方をしたらしい。それに気圧されながら話を進めていると、やり取りが一段落したタイミングで小夜さんが声を送ってくる。


「あと駒場さん、何て言えばいいのか……『素材』も撮っておいてもらえませんか? 私たち抜きの店内の風景的なやつを。動画にする時に差し込みたいんです。」


「あー、了解です。紹介用の映像ですね? 任せてください。……吉岡さん、向こうの部屋とかも撮らせていただいて大丈夫ですか?」


「どうぞどうぞ、好きに撮っちゃってください。和美ちゃん、あっちの電気点けてくれる? ……ん、ありがと。」


『使用前』の方が綺麗に映せるはずだし、確かにインサート用の風景は先に撮っておくべきだな。店長さんの指示に従って、美容師さんの一人が電気を点けてくれた部屋……というか髪を洗うスペースに入ってみれば、間接照明の空間にシャンプー用の台や椅子が並んでいる光景が目に入ってきた。ここも見事に『お洒落スペース』だ。総額いくらかかったんだろう? これ。


俺が普段行く店との違いをひしひしと感じながら、全体を映したり革張り風のリクライニングチェアにフォーカスしたり、何に使うのかよく分からない機械とかを様々なやり方で手当たり次第に撮影していると……もう一台のカメラを手にした叶さんが、施術スペースの方からひょっこり現れる。


「駒場さん、私も撮った方がいいですか? あっちの部屋はざっと映しておきましたけど。」


「っと、ありがとうございます。こっちもそろそろ撮り終わるので大丈夫です。……向こうを待たせてしまっていますか?」


ここからだと見えないが、カメラを設置しなければ撮影を始められないはず。不安になって問いかけてみれば、叶さんは一度施術スペースを覗き込んだ後でこちらに近寄りつつ応じてきた。薄っすらと笑みを浮かべながらだ。


「モノクロシスターズの二人のお姉さんの話で盛り上がってるみたいですし、急がなくても平気だと思いますよ。……それより、『大事なお知らせ』があるのでカメラを止めてください。」


「大事なお知らせ?」


「これです。」


首を傾げながらカメラを止めると、叶さんはダウンジャケットのファスナーを一気に下ろして……おいおい、こっちの『悪い予感』を一段飛ばしで上回ってきたな。その中にあった上半身を見せてくる。淡いピンクのノンワイヤーブラだけの、半裸の上半身をだ。


「ちょっ、何をしているんですか。隠してください。早く。」


顔を引きつらせながら小声で注意した俺に向けて、叶さんは悪戯げな笑顔でぺろりと舌を出してきた。完璧にイカれているぞ。露出狂の人の行動じゃないか。


「ぁは、やっちゃいました。……うわ、やば。めちゃくちゃゾクゾクします。ちなみにほら、買ったばっかりの首輪もしてきたんですよ? リードもありますから、駒場さんが付けてください。」


「いやもう、本当にやめてくださいよ。一体全体何を考えているんですか。」


「興奮することを考えてるんですよ。何なら最近は常時考えてます。……あれ? 付けてくれないんですか? じゃあこのまま外に出て行っちゃいますけど。でも駒場さんが付けてくれるなら、大人しく前を閉じますよ?」


「付けますから。付けますから早く仕舞ってください。」


ダウンジャケットをやけにぴっちり着ていたのは、首元の首輪を隠すためだったのか。叶さんがポケットから出した紐……黒くて細いリードを焦りながら受け取って、それを最速で彼女の首に嵌っているベルト式の赤い首輪に付ける。言われるがままに行動するのはダメかもしれないけど、今はとにかく早く前を閉じてもらわねば。こんなところを誰かに見られたら終わりだぞ。


「最初は裸にする予定だったんですけど、それはさすがに勇気が出ませんでした。……でも、やっぱりそうしておけば良かったって後悔してます。ブラ無しだったらもっと怖くて、もっと恥ずかしくて、もっと興奮してたはずですから。」


「はい、付けました。付けましたから早くファスナーを上げてください。」


「分かりましたよ。……ふふ、駒場さんったら焦りすぎです。もう少し楽しんでください。リードを引っ張って、好きに命令してもいいんですよ? 足を舐めろとか、ブラとズボンも脱げとか、床に転がって服従のポーズをしろとか。今なら何だって従ってあげますけど。」


「しませんし、いいから閉じてください。……何をしているんですか、貴女は。道徳云々以前に、こういう行為は危険ですよ。他の男性にでも見つかったらどうするつもりなんですか?」


ファスナーを上げた叶さんに至極真っ当な苦言を呈してやれば、彼女はからかうような笑みで肩を竦めてきた。


「だって、駒場さんが居るじゃないですか。万が一危険な状況になっても守ってくれるでしょう?」


「そういう問題ではありませんよ。……叶さん、二度とやらないと約束してください。もし何かあったらと思うと心配なんです。私にあれこれしている分には我慢できますが、叶さんの身に危険が及ぶのは許容できません。もし同じようなことを今後もしようと言うなら、私は夏目さんやご両親に全てを打ち明けて然るべき対処をしてもらいます。」


「……ふぅん? こういう時は本気で怒るんですね。今までは何だって許してくれてたのに。」


「当たり前でしょう? これは貴女の安全に関わることなんですから、見過ごすわけにはいきません。今までの悪戯とは訳が違いますよ。……叶さん、約束してください。私には何をしても構いませんが、自分の身は大切にしてもらわないと困るんです。どうかお願いします。」


幾ら何でもこれは看過できないぞ。こういった行為がエスカレートしていけば、良からぬ人に目を付けられる可能性だってあるのだから。両肩を掴んで目を合わせつつ、真剣な表情で頼んでみると……叶さんは僅かにだけ怯んだように視線を逸らしてから、ポツリと呟きを寄越してくる。


「……何それ。まるで自分より私の方が大切みたいな言い草じゃないですか。」


「その通りですし、きちんと約束してくれるまで諦めませんからね。こればかりは譲歩できません。ご両親も、夏目さんも、そして私も貴女が危険な目に遭ったらと思うと怖いんです。こういうことは金輪際やらないでください。」


「駒場さん、バカみたいですよ。ここまで好き放題やられてる癖に、何でそんなに真剣に……はいはい、分かりました。もうしません。約束します。」


「絶対ですね?」


強めの口調で念押しをした俺に、叶さんは随分と小さな声量で答えてきた。……良かった、ギリギリで歯止めをかけられたらしい。自分の家の中で見知った人物相手に『悪戯』をするのと、その格好で外を出歩くのではリスクが段違いだ。ブレーキが壊れれば待っているのは悲劇だけだし、最悪の展開を想像するとゾッとするぞ。転げ落ちていく直前で止められて本当に良かったな。


「しませんってば。絶対もうしません。……ほら、放してください。分かったって言ってるでしょう? いきなりそんな風になられると、調子狂うじゃないですか。」


「……では、一度撮影を抜けてどこかで服を買いましょう。ちゃんと着てもらいますからね。」


「……いいんですか? お姉たちに迷惑かかっちゃいますけど。」


「今は叶さんの方が重要です。戻ってきた後でどうにか挽回します。」


三人には悪いが、この子をこのままの状態にはしておけない。近場の店で服を買って着てもらおう。脳内で適当な言い訳を考えつつ施術スペースに戻ろうとしたところで、叶さんが俺のジャケットを掴んで制止してくる。今まで見たことがない顔付き……ほんのちょびっとだけ、恥ずかしそうな顔付きでだ。


「駒場さん、待って。……一回だけ、一回だけリードを引っ張ってください。ぐいって、こっちに来いって、犬みたいに。じゃないと動きません。」


「……諦めが悪すぎませんか?」


「今この瞬間、駒場さんにどうしてもそうして欲しいんです。後からやるんじゃ意味ありません。……向こうからは見えないところまででいいですから。お願いします。」


「……やったら素直について来て、服を着てくれますね?」


妙にしおらしい態度の叶さんに確認してみれば、彼女は無言でこくんと頷いてきた。……ああもう、仕方がない。それで満足するならやってしまおう。差し出されたリードを諦観の気分で手に取って、軽く引っ張ってやると──


「んっ。……ダメです、もっと強く。」


「……叶さん?」


「あと一回だけでいいですから。強めに一回だけぐいってしてください。それでもう、今日はずっと素直になります。」


何とまあ、しぶといな。心の中でため息を吐きながら、もう一回強く引っ張ってやれば、勢いによろめいた叶さんは何故か真っ赤な顔でか細くオーケーを出してくる。口元が緩みそうになるのを、必死に堪えているかのような表情だ。


「……オッケーです、満足しました。」


「……なら、行きましょう。リードは隠してくださいね。」


「はい。」


うーん、つくづく分からん。どういう感情なんだろう? 叶さんの内心を読めなくて首を捻りつつ、俯きながら静々とついて来る彼女と共に施術スペースに移動して、鏡の前で会話している面々へと声を放った。


「すみません、どうも備品のカメラ用のSDカードの予備を忘れてきてしまったようでして。まだ暫くは撮れますが、この後のことも考えると容量が足りなくなるかもしれないんです。叶さんとコンビニかどこかで買ってくるので、撮影を進めておいてもらえませんか?」


「えっと、SDカードならありますよ。車の中の私のリュックに──」


「ああいえ、実は他にも買う物があるんです。すぐに戻りますから、それまで固定カメラでよろしくお願いします。本当にすみません。」


夏目さんの用意周到さに怯みつつ、即座に追加の言い訳を付け足してやれば……小夜さんが目をパチクリさせて首肯してくる。我ながら嘘が下手だけど、ここは強引に押し切らせてもらおう。


「あの、はい。別に大丈夫ですよ。最初に軽くドライカットするところは、基本固定カメラで撮るつもりでしたから。……駒場さんが忘れ物するのは珍しいですね。初めてじゃないですか?」


「かもしれませんね。うっかりしてしまいました。……それでは、行ってきます。なるべく早く戻るので、気にせず撮影を続けておいてください。」


三脚に二台のカメラをセットしながら苦笑して、そのまま逃げるように叶さんと店の外まで出た後、駐車場の愛車に歩み寄りつつホッと息を吐く。何とかなったな。あとは洋服が売っている店を探すだけだ。


「叶さん、乗ってください。」


呼びかけてから車のロックを解除して、スマートフォンを取り出しつつ運転席に乗り込んでみれば、助手席に乗った叶さんがちらちらと俺の方を見ながら話しかけてきた。仕草もやけに丁寧だし、らしくない雰囲気だな。しゅんとしているというか、おどおどしているというか、もじもじしているというか……こちらの顔色を窺っている感じの態度だ。


「……駒場さん、怒ってますか? 駒場さんの所為みたいになっちゃいましたけど。」


「心配はしましたが、怒ってはいません。……待ってくださいね、近くに店がないかを調べますから。」


「……はい。」


反省している……のかな? 急に大人しくなられるとどうにもやり難いぞ。無表情でシートベルトを締めた叶さんに、検索を続けながらフォローを送る。ひょっとするとキツく言い過ぎちゃったのかもしれない。


「本当に怒ってはいませんよ。『焦った』という表現が一番近いです。厳密に言えば現在進行形で焦っていますが。」


「……私のこと、嫌いじゃないんですか? 随分と困らせたのに、そんな相手を心配するのは変だと思うんですけど。」


「凄く困っていますし、こういう悪戯は本気でやめて欲しいですが、嫌ってはいません。……店が見つかったので出しますね。」


セレクトショップとやらがすぐ近くにあることを発見して、短く断ってからバックで車を出していると、叶さんがジッと俺の顔を見つめながら話を続けてきた。


「どこまで変な人なんですか? 駒場さんは。何でもかんでも許しちゃって、私の要求に付き合って、こんな迷惑までかけられても嫌わないだなんて……変なの。本当に変。」


「……すみません。」


「おまけにほら、すぐ謝る。悪いのは私なのに。そんなんだから付け入られるんですよ。情けなくて苛々します。」


あれ、いつの間にか俺が怒られているぞ。どうしてこうなったんだ。ムスッとした面持ちで文句を投げてくる叶さんに、何と返せばいいのかと迷っていると……彼女はふいと助手席の窓に目を向けて言葉を重ねてくる。


「……けど、今回は謝ります。ごめんなさい。今までは妄想するだけだったんですけど、駒場さんが付き合ってくれるからって調子に乗りすぎました。よく考えたら危ない行為でしたし、止めてくれて良かったのかもしれません。」


「……妄想していたんですか。」


「別にですね、裸を知らない人に見られたいってわけじゃないんですよ? 見られるのが絶対に嫌だからこそ、見られそうになるのに興奮するだけです。……普段は私、結構ガードが固い方なんですから。だけど駒場さん相手だと不思議と嫌悪感が無いから、ちょっと制御できなくなっちゃいました。」


「……あの、もう『実行』するのはやめてくださいね? 妄想するのは自由ですし、個々人の性癖に口を出す気はありませんが、世には良からぬ人が沢山居るんです。それを忘れないようにしてください。」


深雪さんの『エグい性癖』に関する推理は当たっていたらしいなと眉根を寄せつつ、車を走らせながら恐る恐る警告してみれば、叶さんは僅かな間を置いた後で返答してきた。……そういえば、首輪がどうこうとも言っていたな。凄まじい推理力じゃないか。


「……駒場さんが付き合ってくれるなら、外では絶対にしません。」


「さっきと言っていることが違うじゃないですか。……そういう行為は交際している人とやるべきです。『姉のマネージャー』を相手にするのは変ですし、叶さんのためにも私のためにもなりません。」


「私、言いましたよね? 駒場さんのことが好きだって。だから駒場さんとしたいんです。」


「それは嘘でしょう?」


信号待ちで停車させながら指摘した俺に、叶さんは顔を……ちょっとだけ朱が差した無表情を向けて応答してくる。


「一時間前までは嘘でしたけど、今は少しだけ本当です。……あ、やっぱり嘘です。嫌いでした。大っ嫌いですね。」


「……もう訳が分からないんですが。」


「分からなくていいんですよ。私は駒場さんなんかに理解できるほど、単純な人間じゃないですから。……これの続き、家で二人っきりでやりましょうね。外ではもうしませんし、駒場さん以外にもしません。そこは約束します。」


「私相手にもしないでください。」


ダウンジャケットを指して誘ってきた叶さんに提言してやると、彼女は嗜虐的な笑みで拒否してきた。どうやら調子が戻ってきたらしい。


「嫌です、します。私、無理やりするのも無理やりされるのも好きなんです。だから駒場さんに強制的に強制させることにしました。……そんな深刻な顔しないでくださいよ。問題なんて何もありません。駒場さんはきっと、どんどん私のことを好きになりますから。」


「……叶さんの目当ては夏目さんなんでしょう? そのくらいのことには気付いています。『二人っきり』でやっても意味がないじゃないですか。」


「あれ? ちょっと強気になっちゃって可愛いですね。名探偵の気分ですか? ……でも、残念。私は駒場さんのことを気に入っちゃったんです。お姉抜きでもやりますよ。」


「……それも嘘でしょう?」


そのはずだぞ。少し不安になりながら尋ねた俺に、叶さんはご機嫌にクスクス微笑んで肩を竦めてくる。


「さあ? 教えてあげません。……駒場さんの理性、どこまで持つか見ものですね。ドロドロに甘やかして、ぐちゃぐちゃに虐めて、私以外なんて目に入らないようにしてあげます。」


「叶さん、そうすると私は警察に捕まってしまいます。しかもかなり不名誉な罪で。だからそうはなりません。私は人に誇れるような健全な人生を目指していますし、逮捕されるのは御免ですから。」


「自信満々ですね。そんなこと言われたら壊したくなっちゃうじゃないですか。……大丈夫ですよ、駒場さん。誰にも、お姉にも秘密です。駒場さんが赤ちゃんみたいに甘えても誰にもバレませんし、私のこと無茶苦茶にしても捕まったりしません。なーんでも好きなことしちゃえるんですよ? どうですか? 興奮してきました?」


「しません。……はい、着きましたよ。早く服を買って戻りましょう。」


するわけがないだろうが。リスクに背筋が凍るだけだぞ。店の駐車場に車を入れて促してやれば、叶さんはつまらなさそうに鼻を鳴らして素直に降車した。


「いいですよ、今はそれで。そのうち気が変わります。……だって私、これからは本気でやるつもりですから。スイッチ、入っちゃいました。今までのなんて単なるお遊びです。」


「……行きましょう。」


「あれあれ? 無視しても意味ないですよ? ……ほら、手を繋ぎましょうよ。駒場さん? あんまり無視すると後で後悔しますからね? 私、構ってもらえないといじけるんです。そしていじけると物理的な行動に出ます。精神的に処理できるうちにしておくべきだと思いますけど。」


何だその厄介な『取扱説明』は。悪戯げな笑顔で手を差し出してくる叶さんを頑として無視して、小さめのセレクトショップに入店して服を探す。……何でもいいからさっさと買ってしまおう。とにかく服装の問題だけでも片付けてしまわなければ。


「叶さん、好きな服を選んでください。」


「……買ってくれるんですか?」


「それはそうですよ。何でもいいですから、急いで決め──」


「じゃあ、駒場さんが選んでください。自分で決めたくありません。選んでくれなきゃ嫌です。」


数分前のしおらしさは完全に消滅して、謎の厄介モードに突入してしまったな。これ見よがしにぷいと顔を背けた後、横目でこちらを見つつ笑顔で要求してくる叶さんに半眼を向けてから、所狭しと服が並んでいる店内をざっと見回して……じゃあもうこれにしよう。パッと目に付いた黒いタートルネックのセーターを手に取った。


叶さんの身長は150センチに届かないくらいなので、サイズ的に若干大きい気もするが、こういう店でぴったりを探すのは時間がかかりそうだから……悪いがこれで我慢してもらおう。セーターだったら多少ぶかっとなっても許容範囲なはず。


「では、これで。」


「一瞬で決めましたね。適当さが凄いですけど……結構可愛いですし、許してあげますよ。試着室で着てきます。」


案外すんなり受け取ってくれた叶さんは店の奥の試着室へと入っていき、然程時間を使わずにそこから出てくる。……まあ、思っていたよりもぶかぶかだな。どうなんだろう? ファッションの範疇に収まっていればいいんだが。


「……想像より大きいですね。別の服にしますか?」


タートルネックのセーターとジーンズ姿になった叶さんに問いかけてみれば、彼女は手に持っているダウンジャケットを羽織りながら首を横に振ってきた。いいのか。


「駒場さんが選んでくれたんだから、これがいいです。……この服なら首輪もちゃんと隠れますしね。」


「いやいや、首輪は外してくださいよ。」


「そんなに心配しなくても、リード無しならそういうファッションに見えますよ。チョーカー的な。……折角引っ張ってもらったのに、ここで外したくありません。このまま帰ります。」


「……なら、レジに行きましょうか。」


『折角引っ張ってもらった』という発言は理解できないが、何にせよ気に入ったのであれば文句はないぞ。二人でレジまで歩いていって、俺と同世代くらいの女性店員に声をかけて『そのまま着ていきます』と伝えてやれば、彼女は袖口のタグを取った後でレジスターを操作して──


「二万九千四百円になります。」


「……カードの一括で。」


あー……値段、見るべきだったな。精々八千円とかかと思っていたぞ。それでもここで『やっぱりやめます』と言うのは格好が悪すぎるし、もうタグを取ってしまったんだから後戻りは出来ないと自分を説得して、観念してカードで支払いを済ませる。三万円か。まさかの出費になってしまったようだ。洋服というのは何だってこんなに高いんだろう?


「ありがとうございました。」


やっちゃった気分で店員の声を背に店を出た俺に、叶さんが珍しく申し訳なさそうな顔付きで口を開く。彼女にとっても予想外の値段だったらしい。


「……二万八千円でしたね。値段を見てなかったので驚きました。」


「私もです。……まあ、四ヶ月遅れの誕生日プレゼントだとでも思ってください。遅すぎますし、パッと選んでしまいましたし、微妙なサイズですが、値段は気にしないで欲しいという意味で。」


「……ふぅん? 私の誕生日、知ってたんですね。」


「七夕の日でしょう? 夏目さんから聞きました。遅くなりましたが、おめでとうございます。」


ほぼ四ヶ月遅れの今更すぎるお祝いをしつつ車に乗ると、助手席に座った叶さんが応じてくる。素直に嬉しそうな表情でだ。ふとした瞬間にそういう顔をされるとドキッとするぞ。


「誕生日を知っていてくれたのが嬉しいので、遅かったことには目を瞑ってあげますよ。ありがとうございます。……この服、大事にしますね。」


「喜んでもらえたなら何よりです。……それでは、美容室に戻りましょうか。」


「『アリバイ用』の袋を手に入れるためにコンビニにも寄るべきですよ。お姉、そういう時だけは鋭いですから。売ってるコンビニが無くて時間がかかったとか言い訳すれば大丈夫だと思います。」


「……分かりました、そうしましょう。」


さすが夏目さん相手の悪巧みには慣れているなと唸りつつ、エンジンをかけて車を発進させてやれば、自分が着ているセーターを見下ろしながらの叶さんが質問を寄越してきた。


「ちなみに、駒場さんの誕生日はいつなんですか? 一方的に知ってるのはズルいですし、そっちの誕生日も教えてください。」


「……昨日です。」


「……昨日? 何で黙ってたんですか。お姉もそんなこと一言も言ってませんでしたけど。」


「私はその、祝われるのが苦手なんです。なのでこうやってストレートに聞かれた時以外ははぐらかすようにしています。夏目さんやモノクロシスターズの二人には言っていません。」


他人を祝う分にはいいのだが、親しい人から『誕生日おめでとう』と言われるのは気恥ずかしくて嫌なのだ。プレゼントとかも貰うと何だか申し訳なくなるし、自分の誕生日は苦手だぞ。友人に話すと大抵『何それ』と呆れられるんだけど、同じような人は他に居ないんだろうか?


ちょっぴりバツが悪い心境で弁明した俺に、叶さんは……やっぱり呆れられてしまったらしい。見事な『何それ』の面持ちで返事をしてくる。


「意味が分かりませんね。……けど、お姉も知らないって部分は優越感があって高ポイントです。そうですか、昨日が誕生日だったんですか。今度目一杯お祝いしてあげますから楽しみにしておいてください。」


「そういうのが苦手だから極力秘密にしているんですが。」


「苦手なら尚のことやります。駒場さんが嫌がることするの、ゾクゾクしますから。」


ああ、失敗だ。言うんじゃなかった。ぺろりと唇を舐めた叶さんを視界の隅で確認しつつ、内心で小さくため息を吐く。……まあでも、誠心誠意話せば伝わることは分かったぞ。今日はもう精神力が削られすぎて残っていないから、次の機会にきちんと夏目さんに関してを話し合ってみよう。


自分が問題を棚上げしていることを自覚しつつ、それでも今日はもう限界だと運転に集中するのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る