Ⅳ.かなどん ⑧
「しかしまあ、カメラマンってのは凄いね。何がどう違うのかは上手く説明できないのに、カメラ好きの素人の写真とはやっぱり違って見えるよ。……この写真、いいじゃないか。」
ああ、それは俺も良いと思った写真だ。カフェの店内でノートパソコンのモニターを指差している香月社長へと、俺は笑顔で同意を飛ばしていた。グレーのパーカーのフードを目深に被って、俯きながらキリッとしている夏目さんの写真。普段と違った雰囲気が何ともカッコいいぞ。
「私も良い写真だと思うんですが、夏目さんはちょっと否定的でしたね。『これはさくどんの雰囲気じゃありません』と言っていました。彼女はむしろ、百三番の写真が気に入ったらしいです。」
「百三? あーっと、百三番となると……なるほど、これか。こっちは正に『さくどん』だね。明るい感じで悪くないと思うよ。」
「なので差し当たりそれをメインにして、他にも何枚か使っていく予定です。」
楽しそうな笑顔で両手を広げている夏目さんの写真を見ながら、香月社長に報告した後でアイスコーヒーを一口飲む。……今日は所属の希望を知らせてきた『アポロンくん』さんと面談するために、毎度お馴染みの幸運のカフェに二人でやって来たのだ。そして彼を待っている間、二日前に撮った夏目さんとモノクロシスターズの写真を改めてチェックしているわけである。
『アーティスト写真』ということでポーズや格好を変えて何百枚も撮りまくって、その中から良さげな写真を発掘する作業を行ったのだが……三人の写真は比較的『当たり』の割合が高い気がするな。コメットの撮影ではピンと来る写真が見つからないケースが多発していたけど、今回は使いたい一枚がありすぎて困っているぞ。
特にモノクロシスターズにその傾向が強いな。対照的な服装でカッコよく背中合わせになっている一枚や、お揃いの服で小夜さんのことを朝希さんが後ろから抱き締めている微笑ましい一枚だったり、服を交換してボーイッシュな小夜さんとお嬢様な朝希さんになっている一枚があったりと悩ましすぎる。二人も懊悩していたっけ。
ちなみにインナーカラーはきちんと入ったし、朝希さんのロングボブの髪の毛先は『ゆるふわのくしゃくしゃ』……これは当日の本人の表現だ。になったし、夏目さんのセミロングの髪は明るめの茶色に変わった。美容室の店長である吉岡さんとしても満足の出来だったようだから、少なくともイメージチェンジには成功したと言えそうだな。
ただし、インナーカラーについては特殊な染め方をしたのでそんなに長く持たないらしい。だからまあ、あくまでソーシャルゲームのスポンサー案件に合わせてってことになりそうだ。髪を染めた経験がない俺には分からない世界だぞ。今は髪へのダメージも少ないようだから、今度やってみようかな?
そうは思えど結局やらないんだろうなと苦笑していると、隣に座っている香月社長がノートパソコンを操作しながら問いを寄越してくる。このノートパソコンは元々由香利さんの私物だったはずなのだが、いつの間にか社用になっているな。大丈夫なんだろうか?
「好奇心からの質問だが、これを撮る時にカメラマンは『いいよー、その笑顔』とか言っていたのかい?」
「言っていましたね。殆ど被らせずに褒め言葉を連発していました。」
「恐れ入るよ。やはり被写体を『ノセる』のは重要なわけか。」
「頼んだカメラマンさんは知り合いなので前に聞いたことがあるんですが、そういうのは被写体に合わせるらしいですよ。ここぞという時にだけ褒めたり、とにかく褒めまくったり、あるいは冷静に指示を出したり。個性に合わせて探り探りやっているんだそうです。」
時々写真を撮るのが仕事なのか、『煽て』が本業なのか分からなくなると疲れた表情で語っていたぞ。幅が広い仕事だから何をメインにするかでも変わってきそうだけど、人物を撮るカメラマンというのは『サービス業』の側面が強いようだ。
苦労していそうだなと感慨深い気分で話した俺へと、香月社長は疑問げな面持ちで質問を返してきた。
「前もキー局のプロデューサーから意見を貰ってきていたが、君は芸能関係の知り合いが多いのかい?」
「多いというほどではありませんが、付き合いがある人は数名居ますよ。イベントの取り仕切りを行っている業者の社長さんとか、放送作家さんとか、ラジオ局のディレクターさんとかですね。前の仕事で沢山関わりましたから。」
「コメット経由の繋がりというわけか。」
俺が前職で担当していたアイドルグループの名前を出した香月社長に、一つ頷いて返事を送る。
「他のタレントさんも担当していましたし、そっち経由の繋がりもありますが……まあ、殆どはそうですね。コメットは色々と経験してきましたから。昔は事務所の期待も薄かったので、基本的に自分たちでやるしかなかったんです。『ハコ』の確保やイベント開催の手続き、地方ラジオの出演や挨拶回り、グッズの発注やプロモーション。全部メンバーと協力してやっていました。」
「……となればコメットの面々は、君が居なくなって寂しがっていそうだね。連絡したりはしていないのかい?」
「アイドルですからね。連絡は避けるべきですよ。解雇された件を心配してくれていたらしいので、現在のマネージャーさんを通してホワイトノーツに就職したことだけは伝えましたが、今のところそれだけです。」
「堅いね、君は。メールくらい別にいいと思うよ? ファンだって『戦友』たる君とのやり取りは許すだろうさ。」
若干呆れたように意見してきた香月社長へと、首を横に振って返答した。戦友だからこそ絶対に邪魔をしたくないのだ。今は波に乗っているし、このまま武道館ライブまで突き進んでいって欲しいぞ。アーティストとしてはありきたりな目標かもしれないけど、それでも『いつか必ず』と言っていたもんな。
「やめておきます。ずるずると関わられるのは迷惑でしょうし、リーダーの周防さんはそういうことを人一倍気にする性格なんです。一人のファンとして応援していきますよ。」
「君は本当に自己評価が低いね。迷惑どころか、向こうは会いたがっているかもしれないぞ。」
「きっと忙しくて私のことなど忘れていますよ。今や三人ともファッション雑誌との専属契約を結んでいて、民放ではレギュラー番組だらけですからね。テレビで元気に活躍している姿を見る度にホッとしています。」
「何とまあ、まるで親だね。」
さすがに娘とまでは言わないものの、感覚的には『妹』に近いかもしれないな。彼女たちが駆け出しの頃から、マネージャーとして四年以上も担当していたのだ。そりゃあ情は湧いてしまうぞ。
香月社長がやれやれと呟いてくるのに、首筋を掻きながら応答しようとしたところで……っと、来たな。昼下がりの晴れた屋外から、アポロンさんが店に入ってくるのが視界に映る。アロハシャツみたいな柄の謎ジャケットと白いシャツ、黒いスラックス姿だ。めちゃくちゃ目立っているぞ。
ワックスで固めた長めの茶髪、首元のクロムハーツ風の細いネックレス、ロングノーズのお洒落革靴。……うーむ、総じてホストっぽいな。それも最近のホストではなく、一昔前のスタイルだ。出迎えた店員と何か会話しているアポロンさんのことを観察していると、香月社長が彼に呼びかけを放った。
「アポロン君、こっちだ。」
「あっ……ども、お疲れっす! お待たせしてさーせんっした! さーせん!」
「約束の時間はまだだし、私たちが早く来すぎたというだけの話さ。座ってくれたまえ。ご馳走するよ。」
「あざっす!」
口調イコール人格ではないし、彼が『善人』だという事実は香月社長から聞かされているので、別にそれで印象が悪くなったりはしないが……いやぁ、分かり易く『チャラい人』だな。アポロンさんもまた、動画そのままのキャラクターらしい。
席に腰掛けてメニュー表を手に取ったアポロンさんの様子に内心で苦笑しつつ、立ち上がって自己紹介を口にする。
「アポロンさん、初めまして。ホワイトノーツでマネジメントを担当しております、駒場瑞稀と申します。」
「これはご丁寧に……えっと、ご丁寧にあざっす! 工藤アポロンです。よろしくおなしゃす!」
「『工藤アポロン』? ……ひょっとして、『アポロン』というのは本名なんですか?」
「うす、そうっす。よくある工藤……工藤静香とか工藤新一の工藤に、太陽って書いてアポロンです。名字だと色んな人と被っちゃうんで、名前の方で呼んでくれるとありがたいっす。」
おおっと、凄い名前だな。最近話題のキラキラネームってやつか? しかし太陽さんはどう見ても二十歳を過ぎているので、名付けは二十年以上前に行われたはず。彼の両親は時代を先取りしたらしい。
ハンドルネームではなかったことに驚いている俺に、太陽さんは苦い笑みでぺこぺこ頭を下げてきた。人生の難易度が一段階上がりそうな名前だけど、芸能の神様の名前を持つライフストリーマーというのは悪くないかもしれない。そういう風にプラスに捉えておこう。
「分かり難くてさーせん。よく『たいよう』って読まれるけど、実は『アポロン』なんすよ。フリスビーで友達を殺した、外国の偉い神様の名前らしいっす。……さーせん、こっちに豆乳アサイースムージーおなしゃす!」
「何故そのマイナーな逸話を抜き出したのかが分からないし、ヒュアキントスの死因は『フリスビー』なんて可愛らしい物ではなく『円盤』だが、何にせよ面白い名前だと思うよ。大抵の人物には一発で覚えてもらえそうだしね。……ちなみに君、年齢はいくつなんだい?」
発言の後半で店員に注文を投げた太陽さんへと、香月社長が愉快そうに飛ばした質問に、彼は見ていたメニュー表をテーブル脇に仕舞いながら答えているが……どうやら『さーせん』が口癖のようだな。この短いやり取りでそこはもう理解できたぞ。
「うっす、今年の夏で二十四になりました。」
「おや、私たちと近いね。駒場君は最近二十六になったばかりだよ。」
「あっ、最近っすか。めでたいっすね。おめでとうございます!」
「ありがとうございます。……ライフストリームを始めたのは今年の春なんですよね?」
嬉しそうな笑顔で祝福してくれた太陽さんに対して、軽く目礼してお礼を言いつつ問いかけてみれば、彼はこくこく首肯しながら応じてくる。……確かに悪い人ではなさそうだし、距離を縮めるのが上手いな。人懐っこい態度と笑みがこちらの警戒を緩める感じだ。天然でやっている気がするぞ。
「そうっすね。今年の冬……二月か三月まではホストやってたんすけど、彼女が嫌だって言うから辞めました。それで今はコンビニでバイトしながらライフストリーマーやってます。」
「彼女さんのために辞めたんですか。」
「はい、愛してるんで。マジで結婚まで考えてるんすけど、今は収入が全然釣り合ってないんすよね。だからライフストリーマーでデカくなって、プロポーズする予定っす。」
おおう、愛していると真面目な顔で断言できるのは凄いな。同じ男として尊敬するぞ。男気を見せた太陽さんに感心していると、香月社長が興味深そうに相槌を打った。……しかし、やはりホストだったのか。髪型や服のセンスはその頃の名残なのかもしれない。
「それで事務所所属を決めたということかい?」
「そうっす。俺、バカなんで。最初はよく分かんなくて迷ってたんすけど、彼女が『太陽はバカだから一人でやってもどうにもならないよ』って言うから、思い切って連絡してみました。マジでバカなんす、俺。中卒ですし。」
「安心したまえ、ライフストリームに学歴は関係ないさ。オックスフォード卒だろうが『幼卒』だろうが大した違いはないよ。再生数を出せればそれが正義だ。」
何だ『幼卒』って。幼稚園が最終学歴ということか? 義務教育の対義語みたいな造語だな。身も蓋も無い内容を堂々と言い放った香月社長に、太陽さんは自信なさげな面持ちで曖昧に返答する。彼は社長や深雪さんのような自信家ではないらしい。
「だといいんすけど、俺はもう本当にバカなんで……上手くいくかちょっと不安っすね。彼女から『やり過ぎないように管理してもらいなさい』って言われてるんす。そういうのってお願いできますか?」
「管理?」
「俺、前に『口の中で洗濯してみた』って動画を上げようとしたんす。洗剤とハンカチを口に入れて、泡立てるって動画を。……けど、彼女から止められちゃって。『飲んだら危ないし、そういうことやってると炎上するよ』ってマジ切れされちゃいました。冷静にキレるから超怖かったっす。」
「それは……まあ、はい。彼女さんが正解ですね。そういう動画は仮に一時的に話題になったとしても、後に繋がりませんから。長期的な目線で考えればやめるべきですし、健康面で危険だという点もその通りだと思います。」
中々際どいことをやろうとしていたな。そういった『危険チャレンジ』はライフストリーム上でちらほらと目にするけど、あれは所詮一発屋にしかなれない手法だぞ。『奇を衒う』と『危険行為』の境界線を見極めるのは難しいが、洗剤を口の中に入れるのはかなりの割合で後者だろう。
止めてくれて良かったと顔を引きつらせている俺へと、太陽さんは尚も『過去の凶行』を並べ立ててきた。……ただし『激辛チャレンジ』や『ドッキリ系』なんかはグレーゾーンに位置する動画が多いから、線引きのあやふやさにはこの先常に悩まされそうだな。運営側のルールに従うのは大前提として、白とも黒とも言い切れない場面では内側の規範に照らし合わせたり、外側の時勢を鑑みたりしていく必要があるだろう。事務所としては厄介な問題だぞ。
「あとは乾燥剤を『ふりかけ』にしようとしたりとか、公園のデカい滑り台をスケボーで滑ろうとしたりとか、熱湯を一気飲みしようとしたりとか。そういうのも止められたんす。『マジでやめて』ってガチの顔してました。」
「……頼りになる彼女さんですね。」
「俺と違って頭良いんすよ。だけどバカな俺はもう、身体張る企画くらいしか思い付かないんす。それでこのままじゃヤバいってなって、事務所に入って管理してもらおうと思って。」
「なるほど。」
正解だぞ、頗る正解だ。神妙な表情で頷きながら、心中では大変なマネジメントになりそうだと怯んでいる俺に、太陽さんは弱り切った顔付きで話を続けてくる。
「多分俺、迷惑かけちゃいますけど……でも、マジでやろうって気持ちだけはあります。ビッグになって絶対恩返しするんで、面倒見てもらえないっすか? それにあの、全部ちゃんと相談してから決めるつもりっす。彼女にそれだけは怠るなって言われたんで。俺が一人で考えて動画を作ると、死ぬか炎上かのどっちかだからって。」
「……どうですか? 社長。」
「私はオーケーだよ。気に入っちゃったからね。……太陽君、君は学歴云々とは関係なくバカだ。それはもう私も同意しようじゃないか。恐らく大学を出ていたとしてもバカのままだったんじゃないかな。」
えぇ、辛辣だな。『根がバカ』を断定した香月社長は、ピンと人差し指を立てながら言葉を繋げた。
「しかしだね、ことエンターテインメントという視点で見ればバカは魅力の一つなのさ。だから問題は『良いバカ』か『悪いバカ』かなんだよ。迷惑行為で目立とうとするのは悪いバカで、バカバカしいことを大真面目にやって人を笑わせるのが良いバカだ。私たちが君を良いバカの道に誘ってあげよう。」
「マジすか、マジすか! お願いしたいっす! ……俺、自分の動画でみんなをハッピーにしたいんすよ。世の中にはこんなことしてるバカなヤツも居るんだなって思えば、苦労してる人たちもちょっとは気が楽になるかなって。彼女もそれには賛成してくれてました。『太陽はバカだけど、それに救われる人も居るんだよ』って言ってくれたんす。」
「君は賢い交際相手に出逢えたようだね。その通りさ、君のバカはきちんと扱えば世の中に幸福を齎せるんだ。」
「うす、頑張ります。地元の中学のツレとか、建設会社時代の先輩たちとか、ホスト時代のお客さんとか同僚とか、今のバイト先の店長とか、アパートの大家さんとか。みんな俺のこと応援してくれてて。俺、どうしてもその期待に応えたいんすよ。動画で沢山の人を幸せにして、金稼いで、いつか世話になった人たちに恩返ししようと思ってます。だから……だから俺のこと、よろしくおなしゃす! バカだけど、やる気だけは誰にも負けないっすから!」
いやはや、そんなことを言われたら突っ撥ねられないぞ。純粋というか誠実というか、人好きのする人柄だな。大きく頭を下げた拍子にテーブルに額をコツンとぶつけた太陽さんへと、負けましたという気分で声をかける。……香月社長の表現はどこまでも的確だったらしい。つまるところ彼は、『良いヤツ』なのだろう。
「分かりました、任せてください。私がマネージャーとして、太陽さんのことを良い方向に導いてみせます。」
「あざす、あざっす! よろしゃす!」
顔を上げた太陽さんが実に嬉しそうな笑みを浮かべたところで、店員が注文した品を持ってきた。するとテーブルに置かれたグラスを見た彼が、スマートフォンを取り出して写真を撮り始める。
「お待たせいたしました、豆乳アサイースムージーです。」
「あっ、ども。あざす。……これ、ツイッターに上げていいっすか? 『アポロンくん』でやってるんすけど。」
「ええ、勿論。SNSも利用しているんですね。」
「うす、やってます。俺がヤバいことやろうとした時、ツイッター経由でリスナーも注意してくれるんす。『非難されるからやめときな』って。だから思い付いた企画とかを呟いたりしてます。」
視聴者まで心配してくれているのか。どうやら太陽さんは色々な人に見守られる形で、これまで致命的な炎上を辛くも避けてきたらしい。彼の性格のなせる業だなと唸っていると、写真を撮り終えた太陽さんが豆乳アサイースムージーとやらを一口飲んで……そして目をパチパチさせながら疑問を寄越してきた。
「うお。……この飲み物、不思議な味っすね。アサイーって何すか?」
「……果物です。果物というか、果実ですね。ブルーベリーに近い見た目の。」
「マジすか、実すか!」
「……君、アサイーを知らなかったのか。それなのによくスムージーだなんて難易度が高めの飲み物を注文できたね。」
香月社長が半笑いで突っ込んでいるが……スムージーって、『難易度が高め』の飲み物なのか。分かるような分からないような表現だな。そんな彼女へと、アサイー初体験中の太陽さんが返事を返す。
「面白そうだと思って頼んだんす。俺、知らない物が山ほどあって。よく彼女からも呆れられるんすよ。だけど知らないままだと勿体無い気がするんで、見かけたら積極的にチャレンジするようにしてます。」
「賢明な行動だよ、それは。世界を広げるのはいつだって好奇心なのさ。……ちなみに豆乳が何かは知っているかい?」
「うっす、それは知ってます。豆しか食わせない牛のミルクっすよね?」
違うぞ。何かそれ、どんぐりだけ食べさせる豚と混じっていないか? 大分間違えている太陽さんに、香月社長が首を横に振って口を開く。悪戯げな笑顔でだ。
「違うよ、太陽君。豆乳は植物性のミルクさ。」
「……植物の牛が居るんすか?」
「そうだよ、光合成をする牛が九州の方で飼われているんだ。豆乳はその牛から絞ったミルクだね。動物愛護の観点から、次世代の家畜として今注目されているんだぞ。動物を殺すのは心が痛むが、植物に同情する人間は少ないだろう?」
「社長、面白がって大嘘を教えないでください。……太陽さん、豆乳の原料は大豆です。物凄くざっくり言えば豆腐の液体バージョンですね。『光合成をする牛』なんてこの世に存在しません。」
そんなものが居たらエネルギー問題がひっくり返るだろうが。滅茶苦茶なことを話している香月社長を制止してやれば、太陽さんが尊敬の目付きで俺を褒めてくる。
「マジすか、豆すか! 駒場さん、物知りなんすね。マジでリスペクトっす。」
「いや……豆乳の原料はその、殆どの人が知っていると思いますよ?」
日本人の九十九パーセント以上が知っていそうだぞ。『たくあんは大根』とか、『地球は公転している』レベルの一般常識じゃないか? まさかのリスペクトを受けて困惑していると、太陽さんはハッと思い出したように企画の話を振ってきた。
「なら、『いなご』って何だか知ってますか? 俺、それ食おうと思ってるんす。何か変な物を食べるチャレンジをしたくて、それでツイッターでリスナーに相談したらいなごの……佃煮? はどうかって言われたんすよ。それも果物っすかね?」
「いなごは虫ですよ。平たく言えばバッタです。」
「えっ。……マジすか? 俺、虫食うんすか? それ、食べたら死にます?」
何だかも知らない物を食べようとしていたのか。何て危うい人なんだ。スーッと勢いを失くした太陽さんに、苦笑いで否定を送る。これはもう、マネージャーとして全力で『監視』しないとダメだな。放っておいたら何を仕出かすか分からないぞ。
「食べられますよ。伝統的……と言うべきなのかは分かりませんが、いなごの佃煮は昔からある食べ物です。私も以前食べたことがあります。子供の頃ですけどね。」
「マジすか、バッタ食ったんすか。……どうでした?」
「ずっと昔なので味はよく覚えていませんが、美味しくないわけではなかった……はずです。瓶の中に大量に入っていて、見た目は完全に『飴色のバッタ』でした。」
小学校低学年くらいの頃、近所の牛乳屋のお婆さんが『ほれ、食ってみろ』と言って食べさせてくれたのだ。今は絶対に食べられないけど、当時の俺は特に恐れずに食べていたな。帰宅した後で母親に話したらドン引きされたっけ。二十六歳になった俺も過去の自分の行動にドン引きだぞ。
どんな味だったかを記憶から掘り起こそうとしている俺へと、香月社長もまたドン引きの表情で質問を投げてきた。透明の太い瓶にこう、詰め込みすぎた虫かごのようにぎゅうぎゅうに入っていたのは覚えているぞ。
「凄いね、君。食べたことがあるのか。山形は食べる地域なのかい?」
「いやまあ、一般的には食べませんよ。どこに売っているのかも不明ですしね。……ただ、文化としては食べていた地域なのかもしれません。高年の方のごく一部が『おやつ』として食べるってイメージです。」
「……結局昆虫食は未来ではなく、過去の物事なんだろうね。人間は食料に困ると虫を食べるようになるわけか。進歩なのか後退なのかが分からなくなってくるよ。単にサイクルしているだけなのかな?」
謎の深い話をし始めた香月社長を他所に、太陽さんが決意の面持ちで声を上げる。
「じゃあ俺、食います。駒場さんが食ったなら、俺もバッタ食うっす。俺が虫食ってる動画、面白いと思いますか?」
「まあ……『普通はやらない』という意味では、興味を惹けるかもしれませんね。」
「いなごの佃煮だけだと弱くないかい? 昆虫食の中だとメジャーな方だし、探せば他にも沢山ありそうだけどね。蜂の子やざざ虫、ゲンゴロウやコオロギ。食用の虫ってのは案外存在しているはずさ。国外も含めれば更に増えると思うよ。」
「マジすか、探します! 『虫食べ比べ企画』やりたいっす!」
やりたいのか。別に個人的に食べたいわけではなく、あくまでライフストリーマーとしてやりたいってことなんだろうけど……虫ね。企画的には悪くないように思えてしまうのが何とも複雑だぞ。太陽さんが身体を張る方向の動画をメインにしている以上、こういう奇妙な悩みが今後は増えそうだな。
とにかく、担当するからにはきっちりフォローしていこう。これまではしっかり者のクリエイターばかりだったから、ちょっと新鮮な気分でマネジメントに臨めそうだ。色々と心配な人だし、丁寧なやり取りを心掛けていかなければ。
憎めない笑顔で『虫食べます宣言』をしている太陽さんを眺めつつ、気苦労が一気に増加することを予感するのだった。
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